2022年6月30日 (木)

七ヶ岳敗退

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梅雨が思ったよりも早く明けたので、GWに近くを通った際に気になっていた七ヶ岳を登ることにした。最寄り駅は野岩鉄道の七ヶ岳登山口駅だが、特急が止まらない駅なので一つ手前の会津高原尾瀬口駅からスタートということになる。その分、アブローチが長くなり8キロ強あるので自転車で行くことにした。登山口までの道は舗装されていることは、ネットで調べておいたが、コース自体は急に思いついたこともあり、あまり良く調べなかった。

メトロ、東武、野岩鉄道と乗り継いで、会津高原尾瀬口に9時半前に着いた。平日にもかかわらず大勢の登山者が下車したが、みんな尾瀬方面に向かうようで、七ヶ岳に向かうのは私一人だった。途中までは会津田島方面に向かう緩い下りの道だが、七ヶ岳登山口方面に分岐する所から登りとなる。

分岐点の所に看板があって、「七ヶ岳登山道は崩壊のため入山禁止」とあるのでビックリ。ただ今までの経験から、実際に行ってみると大したこともなかったということも何度もあったので、「崩壊」箇所まで行ってみて、通過が難しければ引き返すことにしようと思って前進することにした。

登山口までの登りは1ヶ所急な所があって自転車を降りてしまったが、後はさほどの傾斜もなく登山口に着く。登山口にも入山禁止の看板があるが、無視して前進する。最初のうちは踏み跡やマーキングもあったが、そのうちに人が通った跡は皆無となり、「崩壊」という意味が廃道となっていることだとわかった。ただ、藪も大したことはなく、今まで歩いてきた「難路」と比べると歩きやすい道ではあったので、急な登りを木を掴まりながらよじ登っていった。

二時間ばかり登って昼飯としたが、ここでじっくり検討すると、頂上まではまだ標高差で400メートル近くあり、今のペースだと頂上到着は夕方近くとなってしまい、今日中に帰宅できないことになるので、残念だがここでリタイアすることにした。

下りは登りと比べるとかなり早く降りられ、3時過ぎには舗装道路に着いてしまった。ここからは快適なダウンヒルのはずだったが、途中で数十メートル先を熊が横断しているのに遭遇した。急停車して熊避けスプレーに手をかけようとしたが、熊はチラッとこちらを見ただけで藪の中に入ってしまったので、そのまま自転車を漕いで走り去ることにした。

会津高原尾瀬口駅には4時半前に着いたので、5時半まで営業しているはずの店で早めの夕食を食べようと思ったら、本日の食事はおしまいですと言われてガッカリ。6時過ぎに出発する特急で東京まで乗ってしまうと、夕食はお預けとなってしまうので、特急料金のいらない鬼怒川温泉で途中下車して、食事をしてから帰ることにした。

車内でネットで調べてみると、七ヶ岳は何年か前の風水害で全山が入山禁止となったが、北側のコースが復旧されただけで、私が登った東側のコースは手付かずだそうである。北側のコースはマイカーでないと取り付けないようだし、今回のコースをわざわざ泊まりがけで行く気にもなれない。七ヶ岳は300名山ではあるものの、関東甲信越の300名山は全山登るつもりだが、七ヶ岳は福島県の山だから登らないままでもいいかなと言う気もしている。

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2022年6月21日 (火)

名古屋に戻る

今日は奥の細道の敦賀~大垣のうちの未踏部分である琵琶湖北岸までサイクリングするだけであるが、途中の小谷城と長浜城にも時間があれば立ち寄る予定だ。

 

敦賀駅周辺は新幹線工事の影響で迷路のようになっおり、迷いまくって30分ほど時間をロスする。迷路を抜けると峠を越える登りとなるが、たいしたこともなく峠を越えて琵琶湖北岸に達する。ここからしばらく南下してから進路を西に向けて小谷城を目指す。

 

小谷城は浅井三代の居城であったが、織田信長によって攻め滅ぼされたあと破却されて、建造物は一切残っていないが、お市の方と三姉妹の落城時の逸話は有名で、全国のお城の中でも人気では上位にある。中世特有の山城であるため、登り口で自転車を停めて急な山道をしばらく登ることになる。
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本丸跡まで登って引き返すが、その間にも何人かの観光客とすれ違った。自転車を停めてある所まで降りて、次は長浜城を目指す。こちらは豊臣(当時は羽柴)秀吉の最初の城で、小谷城と違って琵琶湖の水運を活かした平城である。
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長浜城に着いた時は、この後に名古屋での用件を済ますために乗る予定の列車の発車時刻が迫っていたため、道路から写真を撮っただけで列車に乗り込み、一週間に及ぶ旅に終止符を打った。

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敦賀に戻る

バス停での仮眠?は空がしらじんでくると終わり、軽食をかじると四時半には出発することになる。敦賀~福井の走破は数日前に終えているのであるが、海岸線を通らずに内陸コースを取ったのは、奥の細道のコースを辿るためと、妻との芦原温泉宿泊のためには、内陸コースでないと無理があるためであったが、やはり海岸線に沿って進まないと日本列島一周とはならないということで、越前海岸経由での福井~敦賀の再走破となったものである。

 

結果としては越前海岸コースは素晴らしいコースであった。今まで日本各地の海岸線を通ってきたが、その中でも一ニを争そう素晴らしい景観であった。たた60キロも続く海岸線のためにだんだん飽きてくるし、睡眠不足から睡魔にも襲われてなんども休憩することになってしまった。それでも11時前には敦賀に着くことができたのは大成功であった。

 

予定ては、敦賀の西にある半島は未踏であるし、途中には奥の細道で芭蕉が立ち寄った色の浜という景勝地もあるので半島一周で締めくくるつもりであったが、11時現在で既に28度という温度で、熱中症の危険も考えられたので、しばらくは待機して夕方涼しくなってから出かけることにした。

 

ぎりぎりになって予約しようとしたため空室のあるホテルは少なく、辛うじて予約できたホテルは4時半まで入室ができないので、その間は駅の待合室で過ごし(冷房が良く効いていて快適だったが)、4時半にホテルに不要な荷物は預け、軽めの夕食をとって色の浜に向かって出発する。

 

一時間半ほどで色の浜に着くが、釣り人相手の宿が立ち並び芭蕉が愛でた景観は見あたらなかった。ただ少し離れた所には美しい砂浜も残っていたので、当時はこんな景観が広がっていたのかもしれない。集落にある寺には芭蕉の句碑もあったので、芭蕉は景観を求めてわざわざここまで足を伸ばしたのだろう。
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色の浜の奥には原発がたくさん存在するが、観光で来ながら原発の横を素通りするのもそぐわない気がしたので、半島一周はせずにそのまま帰ることにした。

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福井の残務整理

早朝にネットカフェを出てしばらく進むと津幡に着き、ここでルートは倶利伽羅峠方面と羽咋方面に分かれるが、まずは倶利伽羅峠に向かう。

 

線路と並行している間はたいして傾斜もなかったが、線路がトンネルに入るあたりから急登になり、たまらずに自転車を降りて引いていく。地図を見ると、自動車が通れると思われる道はもう少し下から分岐しているようであったが、戻るのも面倒なので直進してしまう。

 

ところが、途中で道が消えてしまい藪に突っ込むことになる。30分くらい藪と格闘していると、頭上に墓地が見えてきたので、あそこまで行けば道があるだろうと考えてなんとか脱出できた。

 

峠は少しの登りで着いたが、早朝のせいか誰もいなかった。倶利伽羅峠は源平の戦いで、木曽義仲が平家の大軍を破ったことで有名だが、牛の角に松明をつけて平家めがけて突進させたという話は史実ではないようだ。
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峠から先は快適なダウンヒルなのだが、平地まで降りても目的地の高岡にはなかなかちかない。距離的には峠までで四分の一しかないのだから、残りが長いのも当然である。駅に着くと次の列車の時間が迫っていたので、慌てて自転車を解体して列車に乗り込んだ。ともあれ、これで奥の細道の日本海ルートは全てクリアすることができた。

 

津幡に戻ると、今度は羽咋に向けてのサイクリングの開始である。距離的には三十キロ程度で高岡までと変わらないが、たいしたアップダウンがないので楽なハズだった。ただ暑さと眠気で楽ではなく、羽咋に着いた時はかなり消耗した。
なお、羽咋まで走破したことにより、本州一周が達成できたことになる。北海道と四国は既に終えているので、後は九州北部の大分から長崎までを残すのみとなった。
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羽咋からは2時半の列車に乗ったが、金沢、福井と乗り継いでえちぜん鉄道を途中下車して、昨日の続きの九頭竜川の河口までの走破を行うことにした。スタートしたのが6時過ぎだったので日没までには着かなかったが、暗くなってから河口を見渡せる橋を渡ることができた。
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盛りだくさんの今日はまだ終わりではない。九頭竜川の河口地点から敦賀を目指してのサイクリングが残っている。といっても敦賀までは80キロ以上あるので、夜中じゅう歩いても無理なため、途中のバス停で一夜を明かすことにした。北国のバス停は風雪対策でけんこな造りのものが多いが、こちらについては、事前にネットで調査済みであった。

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2022年6月17日 (金)

金沢へ足を伸ばす

天橋立~芦原温泉と巡った温泉ツアーの最終日である。妻は名古屋の実家に帰るが、自分は金沢方面へ旅を続ける予定である。だが、その前に東尋坊に寄ってくることにする。東尋坊は過去に二回来たことがあり、そのショボさにがっかりしたものだが、性懲りもせずにまた行くことにしてしまった。

 

一時間半で戻るつもりで出かけたが、きっちり時間どおりに帰ってこれた。何度みてもショボい岩壁である。あんな岩壁は全国にいくらでもあるのに、これほど有名になったのは、よほど宣伝が上手かったのだろうか。
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芦原温泉から金沢までは60キロ強しかないが、真夏を思わせる気温のなかの行動はなかなか大変だった。奥の細道に出てくる芭蕉が泊まった全昌寺や勧進帳で有名な安宅の関といった観光名所巡りもしっかりしてきた。
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金沢には夕方に着いたが、予定では40キロ先の羽咋まで行き輪行(車内に自転車を持ち込んで移動すること)で帰ってくるつもりだった。羽咋まで行けば、その先の能登半島は走破しており、本州一周が完成することになるのだ。ただ、この時間から往復するのは(たとえ片道は輪行であっても)少々きついなと思って、羽咋行きは明日に回そうかとも思ったが、明日は高岡往復(こちらも片道は輪行だが、奥の細道の日本海ルートの最後の未踏部分である)も予定しているので、どうしたものかと考えていたら、一つのことに気づいた。それは両コースとも津幡までは共通なので、津幡までは同じ日に行動して津幡からそれぞれのコースを往復するのが、効率的であるということである。

 

早速ネットで調べたところ、津幡には旅館が二軒あるようだが、いずれも空きはないようであった。さらに調べると、少し手前にインターネットカフェはあるようなので今夜はそこに泊まり、明日津幡まで行ってから両コースを往復することにした。

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2022年6月16日 (木)

九頭竜川下降

あわら湯のまち駅からえちぜん鉄道と福井鉄道を乗り継いで、昨日駐輪したJR武生駅近くの越前武生駅(福井鉄道の終点)まで行き、そこから少し歩いた駐輪場まで歩き、昨日の続きで福井駅を目指す。福井鉄道と北陸本線が並行して走っているので迷うこともあるまいとたかをくくっていたら見事に迷ってしまい、地図と磁石で現在位置を確認してなんとか前進できた。

 

昼前に福井駅に着いたので昼食をとる。ここのところ、昼中は辺鄙な所ばかりいてパンばかり食べていたので、牛丼でもご馳走だった。

 

福井駅からはえちぜん鉄道で終点の勝山まで行き、九頭竜川を河口まで下降する計画を実施するつもりだ(今日は途中までしか行けないが)。何年か前に岐阜県から峠を越えて九頭竜湖に達し九頭竜川の源流を下ったが、途中から九頭竜川を離れて越美北線沿いに福井方面に下ったので、今回は九頭竜源流付近まで達し、そこから九頭竜川を下るつもりであった。
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えちぜん鉄道永平寺線の終点である勝山駅に着いたのは2時となってしまい、源流までの10キロ超に時間をかけるのは(たとえ行きはタクシーを使ったとしても)、ホテルの夕食時間が決まっている以上は無理だと判断して勝山駅から九頭竜川に沿って下降することに決定した。
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えちぜん鉄道は永平寺口の少し先で九頭竜川と離れて西に進路を取って福井方面に向かうが、そのまま九頭竜川沿いに進むと堤防の上が自転車専用道路となっているので快適に進むことができる。

 

河口まで15キロに達したあたりで、えちぜん鉄道と交差しているので、残りは後日に回して今日はここからえちぜん鉄道でホテルまで向かうことができるのだが、えちぜん鉄道は一時間に二本しか運転していないので、かなり長時間待たされることになり、もう少し先まで行ってみることにした。
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川と交差している駅からホテルの最寄り駅までは約17キロだったが、あと8キロとなった時点で、このまま進んだのでは夕食の時間に間に合わないと判断して、電車に乗ることにした。えちぜん鉄道沿いに進むこと自体にはほとんど意味がないのだから

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若狭湾から福井方面へ

日本列島海岸線一周の旅の本州未踏部分の制覇を目指す高岡までのサイクリングは天橋立~敦賀は既に終えているので、敦賀までは輪行で移動する。敦賀からJRは北陸トンネルの長い区間に入るが(上越新幹線の新清水トンネルができるまでは日本一長いトンネルだった)、国道は木ノ芽峠を目指しての長い登りとなる。最初はさほどの勾配でもないが、並行して走る北陸道と分かれてからは次第に勾配がきつくなり、峠が目前に迫ったあたりでようやくトンネルが現れる。ここまで標高差で300メートル以上の登りであった。

 

トンネルは二千メートル弱と長いものの一般道を走る車は少ないため、後続車の接近に神経を使うことも少なくトンネルを抜けると、後は快適なダウンヒルが続く。トンネルからJRが出てきたあたりからは、緩い下りとなり次第にフラットとなる。今日の泊まりの芦原温泉まではまだ40キロ以上あって自転車で行くと夕食の時間に間に合わなくなるので、武生駅の駐輪場に自転車を停めて、後はJRと私鉄を乗り継いでホテルに向かった。

 

 

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2022年6月15日 (水)

天橋立

妻の実家の名古屋に10日余り用事ができたが、間の期間は特に用事はないので、日本列島海岸線走破計画と奥の細道の未踏部分である敦賀から高岡までの部分の走破と妻がまだ行ったことかないという天橋立にも立ち寄ることにした。私自身は天橋立は2回訪れているが、そのうちで天橋立から山陰を目指したときは、丹後半島は一周せずに取付き部分を横断してしまったので、今回はやり残した半島一周をするつもりである。

 

じつは今回は今月始めであった40回目の結婚記念日の旅行も兼ねており、ネットで調べたところでは天橋立は地上の橋立と夜空の天の川が両方見られるために、結婚記念日の隠れたスッポトだそうである。あいにく二晩とも天気が悪くて天の川は眺められなかったが、橋立の方は対岸近くまで往復してきた。ただ当日は映画の撮影が行われていて、普段は車は通れないはずなのに、スタッフの車10台近くに追い抜かれて少々興ざめであった。おまけにベンチで休んでいると邪魔だと追い立てられる始末で、天候とともに来るタイミングが悪かったようである。
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翌日は天橋立の観光を行う妻と別れて、丹後半島一周の
サイクリングに出かける。前半の見所は伊根港の船屋で観光バスも来ていた。ここまでは比較的なだらかだったが、半島先端部に入るとアップダウンが始まり、おまけに午後は雨も止むという天気予報は外れて、雨中の走行を余儀なくされた(走行に支障があるほどの降りではなかったが)。
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半島先端の興ケ岬までは往復30分ほどの山道であった。突端に灯台もあって日本海を広く見渡せる雄大な景色であったが、天気が良くないのが残念であった。岬からの半島後半は基本下りで、4時頃には半島基部を横断する丹後鉄道の網野駅に着き、天橋立までは輪行で戻った。
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その晩はホテルに隣接するレストランで橋立を眺めながら、肉と魚のディナーをそれぞれ注文したものをシェアして食べて、天橋立の結婚記念旅行を終えることとした。
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2022年5月31日 (火)

二王子岳

新発田駅から二王子岳までは15キロ程度だが、真っすぐの道はなく大きな交差点ごとに地図と首っ引きで行き先を確認しなければならないので結構時間がかかる。二王子神社の手前で道が二つに分かれ、山と高原地図では右の急な登りを神社に向かうようになっているが、maps_me では左の道をしばらく行くと川を渡って対岸に渡れるようになっているので、こちらの方が近そうだと左の道を行くことにする。

 

ところが踏跡はすぐに消えて前進が困難になってくる。戻ろうかなと思ったが、飛び石づたいに対岸に渡れそうな地点があったので渡ってしまう。沢沿いに進むよりも尾根を登った方が楽そうなのでしばらくは登ってみるが、このまま登り続けると本来のコースとは離れてしまいそうなので、斜め下に進んで行くと間もなく本来のコースに合流したが、30分程度は時間をロスしてしまったようである。

 

コースを登り始めると、まだ11時だというのに下山してくる人がいるのには驚いた。よほど早く出発したのだろうか。その後も平日だというのにかなりの下山する人とすれ違ったのは、さすがに二百名山だけのことはある。五合目あたりからは雪も現れたが、大勢の登山者に踏み固められた道はしっかりしていたので、持参したアイゼンをつける必要もなかった。

 

2時半頃に八合目付近に着き、頂上の避難小屋も望めるようになった時にスキーをザックに付けたこの日最後の下山者とすれ違う。彼は「今から登るんですか」と咎めるような口調て尋ねるので、少しムッとして「よーし、頂上を往復して彼を追い抜いてやろう」と思ってペースを上げる。

 

頂上に着いたのは3時ちょうどだった。正面には飯豊連峰が屏風のように連なり圧巻の眺めであった。ゆっくりとしていたい気もしたが、先程の登山者を追いかけるためにすくに下山に移る。下山は一度も休まずに早足で下りたつもりだったが、やはり追いつくことはできなかった。
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二王子神社まで下り、maps-meに載っていた道を辿ろうとしたが、辿ることはできず地図の道は間違っていたことを知る。後は新発田駅まで下るだけであった。翌日の予定は信越線沿線の三百名山の米山であるが天気が心配であった。新発田駅に着いた時は翌日の予定はまだ決めていなかったが、天気予報では朝から雨とのことだったので米山登山は中止して新津経由で長岡まで行き、そこから最終の新幹線て一日早く帰京することにした。

 

ところが特急券を買った直後に新津行きの電車は運休になるとの放送があってびっくり、慌てて新潟発の特急券に買いなおして本日中に帰れることにはなった。なお、この運休のために米山の最寄り駅に行くこともできなくなったので、たとえ翌日の天気が良かったとしても米山は元々無理だったのである。

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2022年5月29日 (日)

粟ケ岳と八十里越え

新潟の山登りはまずは粟ケ岳からとなる。10年ほど前に山菜採りと粟ケ岳登山の催しがあっあのだが、天気が崩れて粟ケ岳登山は中止となったので、今回はそのリベンジでもある。

 

粟ケ岳登山だけならば、登山口付近に温泉があるためバスのほんすうも多いので便利だが、今回は登山後に八十里越えも予定しているため、歩くとなると15キロもあるので東三条から往復70キロのサイクリングとなる。

 

八十里越えは古くから越後と会津を結ぶ交通の要衝であり、実際の距離は八里(約30キロ)であるが、あまりの険しさからその10倍の長さに感じるということから名付けられたものである。この峠を有名にしたのは、幕末の戊辰戦争の際に長岡藩の家老河合継之助官軍にも奥羽;列藩同盟にも与せず中立の立場をとることを官軍との会談で表名したが、認められずに戦争が勃発し、長岡藩は善戦するも破れて、河合継之助等は会津方面を目指して八十里越えを敗走していった故事のためである。

 

粟ケ岳の登山口を出発したのは12時過ぎで、下山してくる人もちらほら現れる時刻であった。登りは急登の連続で、8合目あたりが森林限界のため、標高は1200メートルちょっとながら、高山の雰囲気を持った山である。
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明るいうちに下山し、それから夜道を八十里越えの登り口まで向かい、テントを張る。

 

翌日は早朝から八十里越えを目指して出発するが、さすがに八十里越えというだけあって険しさは格別で、四時間かかっても峠の半分以下の七キロ以下しか進めず、雪にも阻まれて断念して引き返す。

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自転車は下り一方で軽快なはずなのだが、真夏のような高温にやられたのか全く不調で、ランニングの人にも抜かれる有り様で、なんとか新発田駅まで辿り着き、ホテルでバタンキューとなる。

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