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2010年11月

2010年11月27日 (土)

秩父巡礼 その2+東京都境制覇達成?

今回の巡礼は6番から9番まで行きましたが、駅から近い順に行ったので最後になった西善寺の紅葉は見事でした。

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前回と違い、各寺はさほど離れていませんでしたので、2時間くらいで巡礼を終え、その後は6月に近くまで行きながら、時間がなくて寄れなかった「さわらびの湯」を目指して妻坂峠を越えの4時間強のハイキングをしました。「さわらびの湯」自体は苦労してわざわざ来るほどのものではありませんでしたが、せっかく来たのだからと800円の入浴料を払うことにしました。

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入浴後、家内は帰宅しましたが、私は東京都境制覇を目指しているうち、未踏の棒ノ嶺~天目山を目指して、暗くなりかけた山を登っていきます。棒ノ嶺に着いた時は下の写真のように真っ暗となっていました。写真ではよくわかりませんが、実際は遠くの方に街の灯がとてもきれに見えています。その晩はそこから数時間歩いたところで仮眠しましたが、寒くてよく眠れませんでした。

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翌朝はゆっくりと行動しましたが、それでも昼前には目的の天目山に着きました。目の前の奥多摩の山々を眺めながら、東京都境制覇達成の喜びに浸りました。

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一応、今回で東京都境制覇は達成したと思って、帰ってから古い地図を調べていたら、今日歩いたところは、若い時に既に歩いていることが判明!

ということは、今年の6月に制覇は達成していたわけでした。そこで、制覇した各コース(赤丸と赤マルの間)に行った順に丸数字を入れてみました。なお点線は自転車、実線は歩き(一部はランニング)の部分です。

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2010年11月25日 (木)

完走ならず

前年25キロ関門でリタイアした大田原のリベンジに挑みましたが、35キロ関門にひっかかってしまいました。
市民マラソンとしては最も厳しい4時間という制限時間(因みに東京マラソンは7時間)も数年前までは完走できて当たり前だったのですが、去年あたりから急速に体力が衰えて今となってはかなり高いハードルとなってしまいました。それでも9月くらいから今大会めざして多少はトレーニングはしていたのですが

電車の遅れ等もあって受付時間に間に合いそうもなくなってヒヤヒヤしましたが、同じように遅れた人達とタクシーに乗り合わせてなんとか受付を済ませてレースには間に合いました。
2日前に自転車でツーリングした疲れが残っていたので心配しましたが、自転車とランでは使う筋肉が違うので、走り出せば特に問題はありませんでした。
前半は今の実力からすればまずまずのペースで終え、中間点のタイムは1時間45分で通過。単純に2倍すれば3時間半となりますが、そうは問屋は卸さないことはわかっていたものの、後半ペースが落ちてもなんとか4時間内で走れるのではないかと期待をいだきました。
ところが中間点を過ぎたあたりで、足に急に疲れがたまって全く足が前に進まなくなり、抜かれっぱなしになってきました。
それでも前半の貯金が効いて、25キロ、30キロの関門はなんとかクリアできましたが、とうとう35キロの関門の制限時間はクリアできず、「打ち切り中止」の無情の合図が・・・

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関門には大勢のランナーが待機させられていて、冷たい風が吹き抜ける中で会場までの搬送バスの到着を待つことになりました。

Photo_2 無念の表情のランナーたち

今回の敗因は、事前のトレーニングでは20キロを越える走り込みがほとんどできなかったことです。以前の体力なら20キロのトレーニングでも42キロのレースに通用していたのですが、今の体力では30~40キロの走り込みを十分行わないといけないようです。
3月の荒川マラソンまでには十分な走り込みを行って再度サブ4に挑戦し、再来年のボストンマラソンの出場資格を得たいと思います。
もう以前のように記録に挑戦することはかなわなくなりましたので、ボストンマラソンを走れれば、それを記念にマラソンからは足を洗ってもいいかなとも思っています。
マラソンの最後の夢を実現するためにも、老骨にムチ打って、もう一頑張りしてみます。

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2010年11月22日 (月)

利根川踏破

利根川河口の銚子から中流の新前橋までを2日間で自転車で行ってきました。
新前橋から上流の矢木沢ダムまでは8月に行っており、さらに源流は30年以上前に登っているので(本谷ではなく水長沢ですが、一応稜線まで行っています)、利根川踏破が達成できました。

今回は利根川踏破の外にも、二人の偉大な先覚者の史跡を訪ねるという目的も兼ねています。
一人目は50歳(現在では70歳くらいに相当か)を過ぎてから、日本全国を測量した伊能忠敬で、彼にゆかりのある千葉県の佐原にある伊能忠敬記念館を訪問しました。
二人目は日本最初の反公害闘争に取り組んだ田中正造で、足尾鉱毒事件に関するいくつかの史跡を巡りました。

今回は途中でテント泊りするので、一日目は夜遅くまで行動しても構わないという気の緩みから寝過ごしてしまう。
予定の電車には乗れなかったものの、自転車を輪行する時には敬遠している快速の乗り継ぎをやむを得ず行ったお陰で、当初の時間どおりに千葉駅に到着する。
早速、銚子行きの電車に乗るべく7番線に移動するが、電車の姿が見あたらない。
ところが、ホームのアナウンスでは「7番線の電車は間もなく発車します」と連呼しており、一瞬狐につままれたような気持ちになる。
その時、はっと気付いて後ろの方を振り返ると、なんとホームの端の方に止まっている電車が発車しようとしているところで、万事休すである。
結局次ぎの電車に乗って行ったが、銚子に着いたのは予定より1時間遅れの11時過ぎであった。

犬吠埼には今年の初日を見に行っているが、銚子港にはまだ行ったことがないので、「河口から源流まで」を目指す以上は銚子港まで往復しないわけにはいかない。

Photo 銚子港

銚子港往復後、利根川を上流に向かう。本来は川沿いに行くべきだが、それだと佐原を通り過ぎてしまって、伊能忠敬記念館を見落とすことになりかねないので、幹線道路を行くことにする。
佐原には3時間くらいで着いたが、記念館の場所がわからず、右往左往してようやく見つける。
記念館の周囲は昔の街並を残していて、映画のセットのようだ。週末のため観光客で賑わっている。

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肝心の記念館の展示の方は、映画「子午線の夢」や忠敬関係の文献で知っていることがほとんどで、目新しいものはなかったが、忠敬の足跡を追って、日本列島の海岸線踏破を目指している者にとっては、記念館は「聖地」のようなもので、一度は訪れておかなければならないところであった。

見学後にコンビニでパンを買い、利根川の流れを見ながら遅い昼食をとってから、堤防の上の道を上流に向かう。
しばらく進むと、太陽は行く手の正面に沈んで行き、夜のとばりが降りてくる。
それまではずっと川の南側を進んでいたが、気が変わって北側に移ったのが大失敗で、分岐している小貝川の方に行ってしまい、時間をロスしてしまう。
そこで今度は南側に戻ったのであるが、サイクリングロードを進んでいたら、知らない間に利根川を離れて、江戸川に出てしまう。
その昔は利根川は江戸川の方に流れていたのを、江戸時代に掘削して今の流れに変えたということを学校で習ったが(実際はもう少し複雑な経緯を辿っているようであるが)、それは兎も角、江戸川は利根川に合流するので、この際は利根川に戻らずに、そのまま江戸川を上流に向かうことにする。
ただ、その時は合流点は近いのだろうと早合点していたが、江戸川と利根川はずっと平行して流れているので、合流点はまだ30キロ以上先の方であった。
辛抱を重ねて合流点まで進み、新幹線と在来線のガードをくぐると、ようやく栃木県に入る。
そこから渡良瀬遊水池近くまでやってきた時にはなんと12時を回っていた。さっそく近くの公園にテントを張り、一人で酒盛りをしてから寝袋に入る。

一眠りしたと思ったら、東武線の始発電車の接近を知らせる踏切の警報で目が覚めてしまう。
すぐにテントを撤収して出発するが、しばらくは利根川を離れて、足尾鉱毒事件の史跡めぐりに出かける。
まずは渡良瀬遊水池である。ここは鉱毒の被害にあった谷中村があったところであるが、鉱毒を沈殿させて下流に被害を及ぼさせないためと、谷中村民の反公害運動を抑えるために、谷中村を廃村化させて、広大な遊水池を作ってしまったところである。
今は観光地となっていて、早朝には写真を取りに来る人が大勢いましたが、彼らのうちの何人が、この遊水池の悲惨な過去を知っているのであろうか

Photo_4 渡良瀬遊水池

田中正造は当初は国会議員として公害問題について政府を追及したが、一向に埒があかないので議員を辞職し、命をかけて天皇直訴にまで及ぶが、結局は強大な権力の前では無力な存在に過ぎず、最後は着の身着のままで行き倒れのような状態で息を引き取ってしまうことになる。
彼の終焉の地と墓を訪ねてから、利根川に戻ることにする。

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利根川の手前に川俣事件記念碑があるので立ち寄ってみる。
鉱毒の被害にあった村民たちが国会に請願に向かう途中で警官隊に襲われた惨事の場所である。
実は、仕事の関係でこの近くに来た時に一度訪れたことはあるのだが、記憶が定かではないので、もう一度訪れることにしたものである。

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利根川に戻ってからは、ほとんどが堤防の上を新前橋目指して進んで行く。途中大勢の自転車に抜かれていくが、マイペースを守っていく。
数時間走って、ようやく前回8月にスタートした地点までたどり着き、しばらくは見ることもないであろう利根川に別れを告げて新前橋の駅に向かう。

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多摩川、荒川に次ぐ3本目の大河の踏破はこうして終わった。
次は信濃川、大井川、富士川、木曽川などを順次踏破していきたい。

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2010年11月14日 (日)

玉川上水

前回の神田川に続いて玉川上水に行ってきました。

玉川上水は江戸時代に神田川だけではまかないきれない江戸市民の飲料水を確保するために多摩川の水を引いて作ったものである。
工事は難関続きで工事の責任者だった玉川兄弟は私財を投げ打ってようやく完成したことを小学校でも習ったので、全国的にも有名なのかと思っていたら、どうも東京地方だけでしか習わないようで、愛知県出身の家内は知らないとのことであった。

玉川上水の片道だけならば、ランニングでも行ける距離だが、昨日は皇居20キロを走って疲れているので、自転車で行くことにする。
行きは青梅街道を通って行ったが、青梅街道自体は山梨の塩山まで何回かにわけてランニングで踏破済みだと思っていたら、田無から箱根ヶ崎までは新青梅街道を通っていたことが判明したので、今回は本来の青梅街道を行くこととする(旧青梅街道というのもあるようだが、横田基地を通っているため通行不可とのこと)。

箱根ヶ崎で新青梅街道に合流してから南に向きを変え、多摩川の羽村取水口に向かう。
取水口に着いたのは家を出てから約3時間後であった。

Photo 取水口

Photo_2 玉川兄弟像

取水口からは玉川上水に沿って下って行くが、途中の拝島駅の手前の日光橋公園で少し遊んでいく。
公園ではおそらく唯一だろうが、クライミング用のボルダーがあることで有名なところである。
さっそく、登ってみるが、運動靴では滑ってしまい登りにくい。
そのうちにパトロールのお巡りさんが何人もやってくる。APECの警備だろうが近くに横田基地があるからであろうか
こんなところでクライミングをしていて、挙動不審の人物とでも疑われたら面倒なので、早々と退散する。

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このまま帰ってしまうと、今日の行程は短か過ぎるので、昭和記念公園に寄り道していく。
公園にはサイクリング専用道路があるので快適である。紅葉の盛りで行楽客で賑わっていた。

Photo_4 日本庭園

Photo_5 銀杏並木

紅葉を楽しんだ後、玉川上水に戻る。ここから三鷹駅までの上水沿いは以前所属していたランニングクラブで往復30キロの練習会でよく走ったものである。
ランニングだと長く感じるが、自転車だと当たり前だが、随分と早く行けてしまう。それでも三鷹駅に着いたときは真っ暗になっていた。
玉川上水は三鷹から先もしばらくは流れがあるが、富士見ヶ丘付近で暗渠に入る。上水の終点である四谷大木戸までは今でも地下を水が流れているそうである。
今日は暗くなってしまったことでもあり、上水の地上部分の終点までは行けたので、これをもってゴールとして帰途に着くことにする。

Photo_6 今日の行程

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2010年11月13日 (土)

街道をゆく

年末近くになると、NHKでは昨年の続きで「坂の上の雲」を放映するそうである。
1年前にやったテレビドラマの内容などは、ほとんどの人が忘れてしまっているだろうに、このような企画をするNHKの神経がわからない。
「国民的作家」である司馬遼太郎の代表作であるからには、当然ビデオ等でとってあるだろうから、それで復習してから見ろとでもいうのであろうか

私は司馬作品はほとんど読んでいない。
それは大学のゼミの指導担当であった中村先生が司馬史観に批判的で、それに関する本も出していることに影響されているのかもしれない。
特に批判の中心となっているのは「坂の上の雲」なのであるが、論点は次の二点である。

1.司馬氏が「この本は事実のみを基にして書かれている」とあえてフィクションでないとしているにもかかわらず、史実に反することが多数盛り込まれている。
2.司馬史観では明治維新後の日露戦争までを肯定的に描き、日露戦争後から太平洋戦争までの日本史を否定的に捉えているが、それは正しい見方ではない。なぜならば日露戦争までの日本の近代化のあり方に内包していた矛盾が、やがて太平洋戦争に突入していった根本原因を成しているからなのだ。

1については、そのとおりかもしれないが、歴史家というプロから見れば、アマに過ぎない歴史好きの作家に対する批判としてはやや酷かなという気がしないでもないが、2については全く同感である。
太平洋戦争とそれに先立つ満州事変という激動の15年間は、その激しい渦の中では歯車を逆回転させることはほとんど不可能であったろうと思う。
やはり、そうなった原因を明治維新に遡って見ていかなければならない。
まず、明治維新そのものが「革命」としては中途半端なものであった。たしかに今までの支配層であった士族階級は没落したが、被支配層の大多数を占めていた農民は解放されなかった。それどころか商品経済の発展によってまずます没落していった農民層は地主・小作関係の体制に深く組み込まれていってしまった。このことによる農民層の困窮が国内購買力の欠乏をもたらし、ひいては海外市場獲得→海外侵略への大きな誘因となったことは間違いない。

江戸時代からも頻発していた農民一揆は明治時代になると自由民権運動と結びついて、秩父事件に代表されるように、全国的に大きなうねりとなり、国会開設請願運動や憲法制定運動といった「下からの改革」を目指すようになったが、それらは山県有朋らによる運動指導者への懐柔も含めた徹底的な弾圧によって根絶やしにされてしまった。
維新の三傑といわれた西郷、大久保、木戸はいずれも比較的若い時に他界してしまったために、その後の明治政府は伊藤博文と山県有朋の二人によって動かされてきたが、帝国憲法を制定して初代総理大臣となった伊藤博文にはまだ「進歩的」な側面が多少なりともあったといえないこともなかったが、山県有朋はまさに反動そのものの人物であった。彼は自由民権運動を弾圧するだけでなく、その後の民主主義の芽も潰すことになる治安維持法を制定しただけでなく、その後の軍部の独走を許すことになる統帥権の独立を認めさせてしまったのである。

明治政府の行った①地主制の温存による国内購買力の疲弊②民主運動の徹底的弾圧③統帥権の独立の三つの誤りが、世界恐慌という大荒しの中で太平洋戦争に必然的に結びついてしまったわけであり、日露戦争までは、その矛盾がほころびていなかったというだけである。
このあたりのことになると、言いたいことは山ほどあってブログには書ききれないが、国民の圧倒的支持を得ている司馬史観という準教科書的なものに対して一石を投じた中村先生にはあらためて敬意を表したい。
ついでに言えば、現在の坂本龍馬ブームも司馬作品によって一般化したといえるが、彼の最大の功績といえる薩長同盟にしても、彼自身の果たした役割はさほど大きなものではなかったという説もあるようである。

司馬遼太郎を散々に言ってしまって、ファンの方には申し訳けなかったですが、唯一、司馬作品の中で愛読しているものがあり、それがタイトルに書いた「街道をゆく」である。
全43巻で日本各地だけでなく、諸外国にも足を向けている。
私がこの書を愛読するのは、単なる紀行文ではなく、その土地々々について、歴史地誌を実に丹念に調べていて、なまじっかなガイドブックを読むよりははるかに役に立つからである。
知らない土地に行く前にこの本を読んでから行くと、地名ひとつにしても深く心に印象に残るという意味から、この本をすすめたい。

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2010年11月11日 (木)

秩父巡礼 その1

ある年代になると巡礼に憧れる人が増えてくるようである。
心の安らぎを求めて、単なる物見遊山・・・etc

かくいう私も今年は大台を超えたこともあり、なにか記念にと巡礼の旅を始めることとしました。
巡礼といえば四国八十八箇所が本場ですが、さすがに遠くて費用も時間もかかってしまうので、比較的手軽に行える秩父三十四箇所から始めることとし、家内も同行することになりました。

手軽といっても通常は5~10日はかかるようなので、細切れで行うこととし、第1回は1番から5番までとしますが、せっかく紅葉時期に行くのだからと長瀞見物を兼ねることにしました(やはり物見遊山気分だな)
。まずは長瀞見物から始めましたが、残念ながら紅葉はまだ盛り前でした。それでも美しい川面を見ながらの散策は楽しいものでした。

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午後からはいよいよ巡礼の旅の始まりです。まずは1番の四萬部寺です。黒谷の駅からはだいぶ距離がありましたが、道自体はいい道でしたので、スムーズに辿り着けました。ここで34番までの巡礼を先日結願したという人に会いました。
我々が結願するのはいつの頃でしょうか。

2番札所までは標高差150メートルくらいを登っていく、なかなかたいへんな道でした。山道ならまだしも急な舗装道路というのはけっこう疲れます。2番の真福寺では大休止となってしまいました。
ここからは急な坂を下って川沿いに降りて、広い道を横切ると3番の常泉寺です。本堂の左の小高い所に観音堂があり、紅葉が見事です。この後の4番と5番は帰りの乗車駅である横瀬駅までの道の途中にありますので、楽に行ってこれました。

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今日のコースはちょうど半日行程ののんびり行けるところでした(家内はだいぶ苦しかったようですが)。次回もこんな調子で行ってみたいと思います。

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2010年11月 8日 (月)

久しぶりのクライミングジム

食あたり(?)で週末はダウンしてしまい珍しく自宅で寝ていたため、ブログの更新もサボっていたが、ようやく治りかけ、通常の生活に戻れるようになった。

今日は午前中は築地のお客さんの所に出かけ、夕方は仕事仲間の勉強会の講師を仰せつかっていたので会場である高田の馬場に出かけたが、勉強会まではしばらく時間があったので、駅近くにあるクライミングジムで時間つぶしをする。

さすがに週明けのこの時間に来るのは、よほどヒマ人のようで、ジムの中は閑散としていた。

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ジムの壁を登るのは久し振りだが、いつも行くジムと比べると、グレードのつけ方が甘めなのか、最近は結構苦労するようになってしまった4級(中級のやや上程度)の課題も、病み上がりにもかかわらず、数回のトライでスムーズにクリアできてしまう。調子に乗って3級の課題にもトライしたが、さすがにこちらの方は全く歯がたたなかった。

そのうちに子供や主婦もやってきて賑やかになってきたが、十分楽しんだのでジムを後にする。仲間と一緒に、ああでもない、こうでもないといいながら登るのも楽しいが、人目を気にせずにクライミングという行為に浸りきれる方が自分としては好きである。もっとも、自分としては難しい課題を登れた時というのは、やはり他人と張り合って登ったときのような気がする。限界ぎりぎりのところで、さらにがんばれるかどうかはメンタルの部分に左右されるところが大きいのであろう。

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2010年11月 4日 (木)

神田川ランニング

以前はマラソンシーズン前の練習というと皇居の周回コースを走ったものだが、体力等の問題で記録を目指せなくなってからは、周回コースは飽きてしまって何周もできなくなってしまったので、長距離を走る場合は観光コース?を走ることにしている。今回は神田川である。

神田川は井の頭池を水源とするものであるが、元々は家康が江戸に移ってから水道水として活用されてきた。当初は水道橋付近から南下して日比谷から海に注いでいたのであるが、江戸の城下町が洪水の被害に遭うのを防ぐために、本郷台地をくり貫いてお茶の水から隅田川へと水路を変えて、今の神田川があるそうである。

神田川は歌の舞台にもしばしば登場する。かぐや姫の「神田川」はあまりにも有名であるが、NSPの「面影橋」(都内唯一の都電の終点の早稲田のひとつ手前の駅)も名曲である。神田川が隅田川と合流する所にかかっている「両国橋」(神田川ではなく隅田川上だが)も由紀さおりと誰かが歌っていたようである。マイナーなところでは、あさみ ちゆきが上流付近を走る「井の頭線」や下流の「聖橋」を歌っているが、押しつけがましい印象で自分の好みではない。

さて本題に戻ると、まずは我が家から井の頭池まで7キロくらいを走り、池のまわりをぐるっと一周して水源を探す。はっきりとした所は確認できなかったが、水源らしき所の写真をとっておく。

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井の頭公園を離れて神田川沿いのランニングを開始する。一部を除き川沿いに遊歩道が完備されているので走りやすいコースである。段々とペースが落ちてきて後半はジョギングになってしまった。高田馬場を通過するあたりから薄暗くなってきたため、飯田橋でリタイアして隅田川まで行くことはあきらめる(あと3キロちょっとなんだけど)。

今日の走った距離は31キロで最近では最長であるが、こんな調子では今月後半のフルマラソンを果たして走れるものかどうか

今日のコースは以下のとおりです。

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