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2011年5月

2011年5月25日 (水)

洞爺湖マラソンと道南サイクリング

荒川マラソン、長野マラソンとエントリーしていた大会のみならず東日本のレースが震災の影響で軒並み中止となり、来年のボストンマラソン出場のための資格取得ができなかったので、急遽、北海道の洞爺湖マラソンに出場することを決め、併せて日本沿岸一周の一環として長万部から苫小牧までのサイクリングも行うことになった。今月は1年のうちの仕事の繁忙期で本当は遊びに行っている暇などないはずなのだが、なんとかスケジュール調整して3日間の休みを作り出す。

3日間の休みを有効に活用するために、前日の最終新幹線で新青森に着き、そこから夜行フェリーで函館に渡り、JRで長万部まで行くことにする。函館には早朝に着くので、列車の待ち時間を利用して立待岬まで往復してくるつもりであったが、生憎の雨のため放射能汚染のこともあり断念して、朝市などを見物して時間を潰す。

函館から北上するにつれて次第に雨もあがり、1月に歩いた懐かしい景色を眺めるうちに長万部に着いてサイクリングを開始する。北海道の道路というと、真っ平らな草原の中を道が真っ直ぐ地平線まで続いているというイメージがあるが、今日の道は急カーブとアップダウンの連続であり、おまけに強い向かい風もあってなかなかたいへんであった。ただ、本州と比べると、広い歩道が整備されている所が多いので(歩行者はほとんどいないのだが)、自転車で走る分には安全性は高いといえる。

国道沿いにずっと進んでいくと、海岸線からはだいぶ離れてしまう気がしたので、途中で海に向かう道に進路を取る。だが、この道は漁港まで行くと、その先は断崖絶壁に阻まれて前進できないことがわかり、また国道に戻る。ここから先は予想もしていなかった高度差にして250メートルもの登りがあり、ヒーヒー言いながら走る。

やがて豊浦を過ぎて前方下に洞爺湖の街並みが見えてくるが、そちらには行かずに左へ曲がって洞爺湖温泉に向かう。洞爺湖温泉まではかなりの登りを覚悟していたが、多くのトンネルがあるため、さほどの登りもなく通過することができた。

洞爺湖沿いを温泉に向かって進んで行くと、ジョギングする人が見えてきたので、レース会場が近づいたことがわかる。最初受付場がわからずにウロウロしていたが、受付を済ませるともらえるゼッケンの入った袋を持った人を目当てに進んでいくと、受付場が見つかる。今回は事前に届いているはずのゼッケン引換証のはがきが届かなかったので、ちょっと心配していたが無事、受付を済ます。

予定ではここから数キロ離れた有料のオートキャンプ場にテントを張るつもりであったが、スタート地点付近の芝生に出場者たちの多くのテントが張ってあったので、自分もここに張ることにする。足湯の後ろが空いていたので、そこに張って足湯に入ったりしていたが、これは失敗であった。なぜかというと、足湯に入っている人たちの話し声が眠りを妨げるからである。それでもなんとかウトウトし始めた頃、外でけたたましい音がするのでテントの外に飛び出す。湖の対岸で打ち上げ花火が始まったのである。最初はレース出場者を歓迎するための花火かと思ったが、毎週末に観光用に行っているそうである。30分くらいで花火も終わって、湖には静寂が戻ってきたので、アルコールの助けも借りて眠りにつく(数年前の記録を狙っていた頃にはレース前夜のアルコールは御法度だったのだが)。

夜中に雨は降ったようだが、朝には止んでいて、曇り空で風もなく、気温も低いというマラソンには絶好のコンディションであった。ただ昼頃には天気が回復することが予想されていたため、袖なしシャツにショートパンツとしてアームウォーマーと膝下までのサポーターという出で立ちで気温の変化にも対応できる形にした。

先ほどから遠くの方でアナウンスがされているのはわかっていたが、聞き取れないので気にしていなかった所、スタート地点付近まで行ってみてアナウンスを聞いてビックリ。なんと今朝ほどの道路崩壊でマラソンは20キロレースに変更されたというではないか。が~んである。これでボストンマラソン出場のための最終チャンスも失われたことになる。だがすぐ気を取り直し、ボストンは1年遅らせればいいことだし、今日は20キロに全力を尽くすことにする。

レースは通常行われる秒読み開始もなく突然に始まる。あまり前の方に位置取りをしなかったために最初の1キロは渋滞で5分30秒を要したが、次の1キロは4分台の前半が出て、このペースで行かれればと思ったが、すぐにキロ5分にペースが落ちる。10キロが49分とここまではなんとかキロ5分を維持していたが、そこから先はだんだんとペースが落ち始めてどんどんと抜かれていく。14キロから先の登りでは足に痙攣が起きそうな前兆もあったため、無理をせずに坂を登り切ることだけを考えて走ることにした。

坂を登り終えると、後は記録などどうでもよいという気持ちになってゴールまでたどり着くことだけを考えて進む。ゴールタイムは1時間45分と冬場に行っていた練習時のタイムよりも悪いものだったが、練習不足のせいでやむをえないものであった。これでは予定どおりマラソンが実施されていてもボストンの出場資格を得るタイム(4時間以内)が出せていたかどうか怪しいものであった。

20キロゴール地点からはバスでスタート地点まで送ってくれるということだったが、リタイアした人を乗せる収容車の5~6台のバスしか確保していないというお粗末な対応だった。第一陣を乗せたバスがスタートしてから次のバスが来るまで長時間待たせられる。20キロといってもスタート地点から反対側に往復7キロ走ってからここまでやってきているので、スタート地点までは13キロ程度であり、普通ならば30分以内には先ほどのバスが戻ってこれるのであるが、おそらくはレース続行中で片道通行なので、こちらに戻るには海側を大回りしなければ行けないために時間がかかっているのであろう。私は多少の防寒対策はしてあったからまだしもであったが、ランシャツ・ランパンの人は寒さを訴えていた。天気が良かったからいいようなもので、雨でも降っていれば不調者も出かねない大会運営の不手際であった。しびれを切らして、スタート地点目指して歩き出したり走り出す人が続出していた。だが自分は自力で戻るつもりは全くなかった。防寒対策のお陰で、耐えられない寒さほどではなかったし、足にも相当きていたので、このまま自力で戻ったら、たとえバスが相当遅れてもバスよりも時間がかかるのがわかっていたからであった。

いやになるほど待ったあげくにバスが列をなして迎えに来た。今度は、バス会社に急遽増発を依頼したためか二階建てバスまでやってくる。ようやくバスに乗り込んで動き出すが、まだ全員は乗り切れずに積み残しが出ている有様である。車窓からは先に自力で戻っていく人が大勢みられ、思わず頑張れのかけ声をかけたくなってくる。彼らはどんな思い出バスを見ているのであろうか。自力で戻っていくことの誇らしさか、バスを待っていられなかったことへの後悔か

スタート地点まで戻ってテントをたたみ洞爺湖を去ることにする。2月に道央を歩いた時に前半でよく見ていた羊蹄山が真正面に見えるが、しばしのお別れである。いつの年か8月の北海道マラソンにでも出場したら、その帰りにでも登ってみよう。

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予定では来た道を海まで戻るつもりであったが、レース途中で仰いだ昭和新山まで行きたくなって急遽コースを変更して、昭和新山経由で海に出ることにした。その部分だけ海から離れてしまい、日本沿岸一周という目的からは多少外れてしまうことになるが、室蘭本線自体は夜行寝台で2度通っていることもあり、この程度の遠回りは許容範囲だろう。道沿いにはまだ桜が咲いており、すっかりいい天気になった空を背景にした昭和新山が見事である。

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昭和新山の麓に着くが、ところどころ煙はあがっており、どうやら登山路はないようである。反対側には有珠山があってロープウェーが動いているので、これに乗ることにする。山頂ロープウェー駅から見上げる有珠山の方も噴煙があがっていて、こちらも登山できないようである。外輪山一周は1時間くらいとのことで、ロープウェーの最終までには間に合いそうではあったが、レース後の疲労や痛みを考えて無理せずに写真だけ撮って、再びロープウェーで降りることにする。

Photo_3 有珠山

Photo_4 有珠山からの洞爺湖と昭和新山

ロープウェーから降りると、海を目指しての気持ちのいいダウンヒルである。伊達の街を過ぎて室蘭に近づく頃に夕方になる。室蘭の入り江を跨ぐ白鳥大橋が夕日のビューポイントだということで期待したが、なんと白鳥大橋は歩行者及び自転車通行禁止であった。

Photo_5 室蘭全景と白鳥大橋

やむをえず東室蘭経由の大回りで室蘭に着いたときには夜8時になっていた。駅前の回転寿司で腹を満たした後、場末のビジネスホテルに宿をとる。

最終日は夜のフライトで帰京するので時間はたっぷりあるため、室蘭の半島を海岸線沿いに忠実に辿り、室蘭八景といわれる景勝地を次々と訪れる。休日ならば混雑するであろう観光道路も車も少なく静かな観光を楽しむことができた。八景のうち、圧巻は地球岬で、なんでも地元の宣伝では北海道の自然では人気No1だそうである。地球岬という変わった命名はここから眺める太平洋の水平線で地球が丸いことを実感できるからだそうである。下の写真で実感できますでしょうか

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室蘭見物で午前中を費やし、一路苫小牧を目指して海岸に沿った気持ちの良い国道を進む。途中、温泉で有名な登別付近でリュックを背負って南下する歩行者を目指す。多分日本縦断を目指している人なのだろう。頑張れよと心の中で応援する。さらには苫小牧が近づいたあたりで、後ろから自転車に抜かれる。小さいザックを背負っているので、多分私と同類なのだろう。若い人のスピードには着いていけないのでマイペースで進んでいると、しばらくして、また同じ人に追い抜かれる。きっとどこかで休んでいたのだろう。また抜かれるのかと思ったらそれっきりであった。

苫小牧市内に入ってから上野行きのカシオペアとすれ違う。震災以来、長らく運休していたと思っていたが、もう運転再開されたことを知る。徐々にではあるが、復旧への足取りは進んでいるようだ。さらには苫小牧の駅には北斗星も泊まっていた。時間があれば千歳空港まで自転車で行くつもりであったが、まだ30キロ近くあり、時間的にはややきつくなるので、ここで自転車行は打ち切ることにする。海岸沿いを自転車で行くことが目的なので、空港までの内陸部は目的外なのである。

JRを利用したので空港では充分時間に余裕があり、まずはチェックインを行ってから荷物を預ける。ところが荷物重量が制限を7キロもオーバーする27キロもあったので、慌ててザックは機内持込に変更したが、自転車のみで20キロでなんとかセーフとなる。どうも工具類を積みすぎたようで、これから飛行機を利用するときは工具類は必要最低限に絞らなければいけないようである。出発までの待ち時間に空港内のレストランでジンギスカンを食して、3日間の慌ただしいマラソン+自転車行の幕を閉じることとなった。

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2011年5月 9日 (月)

ボランティア日記 最終日

最終日の派遣先は偶然にも、昨日うかがったお家のお向かいさんでした。今日の仕事は側溝の泥だしということでしたが、それは後日ということで、庭の整地と家の中の水洗いでした。

作業は早めに終わったので、今回はボランティアとしては行けなかった塩釜地区に寄ってみました。海岸付近ではさすがにオープンしているお店はありませんでしたが、倒壊している家はほとんどなく、海にはヨットが多数繋留されていて、石巻あたりの海岸部の壊滅的な惨状と比べると被害は小さかったようです。これは松島からつながる湾を覆うように島々が多数連なっていて、それが防波堤の役目を果たしたからでしょうか。塩釜のボランティアセンターが早々とボランティアの受入を終了してしまったことが納得できました。でもこれは例外で、他の被災地のほとんどが今後もボランティアを必要としているのでしょう。

最初は2年前に泊まった塩釜のホテルも気になったのですが、これならば心配はいるまいと芭蕉の足跡を追って塩釜神社に向かう。神社はところどころは地震の影響で通行止めとなっているところはありましたが、多くの参拝者で賑わっていました。今回は被災地の写真の掲載は控えておりましたが、被災とは関係ない塩釜桜の写真を掲載します。

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夜は広瀬川沿いをジョギングした後、市内の銭湯で汗を流し、仙台駅近くの飲み屋で時間潰しを兼ねて、地元飲食店へのささやかな貢献により酔いが回っていい気分になってから夜行バスに乗り込みました。GWは多数のボランティアが訪れて、それなりに復旧へのお役立てもできましたが、GW後のボランティア急減が気掛かりです。自分も5月は仕事が忙しいので、現地には出かけられませんが、6月になったらまた行ってみようと思っています。

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2011年5月 7日 (土)

ボランティア日記 第3日目

今日出かけた多賀城は石巻などと比べるとマスコミで紹介されることも少ないためか、ボランティアの数も比較的少なく、震災から2カ月近く経過しているというのに、復旧状況は1月前の石巻に近いようであった。ボランティアにもメジャー指向というのがあるようだ。

多賀城市ボランティアセンタ=は駅から10分ほどの至近距離にあり、これは他のセンターに比べての大きなアドバンテージである。

今日は側溝のドロだしということで、久しぶりのヘドロが楽しみだ?!{変態かぁ~?}。今日一日に予定されていた仕事は午前中に終わり、お昼は依頼者とゆっくり話す。それによると、近くに避難所があったが、出遅れて家で待避していると、水がたちまち浸水してきたが、二階に逃れて難をさけたようである。ところが近所の人は早々と避難所に避難したが、平屋であったため亡くなってしまったそうである。自宅の二階に逃げていれば助かったものを・・・。人間の運命は本当にわからないものであるとつくづくと思った。

午後からは他のグループに合流して大勢で公道の側溝のヘドロだしを行って終了する。その後は芭蕉がらみの史跡を見物してから仙台に戻り、ジムでクライミングを楽しむ。毎晩充実したナイトライフが続いているが、明日はとうとう最終日である。

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ボランティア日記 第2日目

ボランティア2日目は仙台市若林区となる。若林区に行こうとしたのは、もちろん奥の細道を歩いた時に通過した箇所という意味あいもあるが、それよりも震災直後に津波に流された多数の遺体が発見されたが、次の津波の襲来を恐れて収容に行けないというニュースが、日本に実際に起こったこととはすぐには理解できないほどの衝撃を与えたことが強く印象に残っていたからである。

若林区のボランティアセンターはなかなかわかりにくい場所にあり、何度も電話で聞いたりしてやっと着いたのが9時半を過ぎており、今日の仕事にあぶれるのではと心配したが、なんとか4人のグループで、とある家の庭の泥(藁混じりの土)出し作業を割り当てられる。その家からは2キロ強離れた海岸線の松並木が望めるが、多くの松は津波に倒されて{派遣先のまわりにも流されてきた松の木が多数残されていた}、海岸に残っている松はわずかなものとなっていた。あの海岸線近くに多数の遺体が打ち上げられていたのかと思うと、複雑な心境であった。

本日の作業そのものは、昨日と同様に比較的楽な作業であった。時期的な関係であろうが、先月の石巻の時は、被災者の生活復旧に欠かせない作業をしているという実感があったが、今回は最悪期を脱した後の、生活を快適に送るためのお手伝いという感じで、それはそれで被災者に喜んでもらえることには違いないが、なにか物足りなさを感じてしまうのはボランティア側のわがままなのであろうか

終了後は「がんばろう東北、がんばろう仙台」の気持ち込めて、楽天のナイターを見に行く。ところが、楽天応援団の近くに座ってしまったために、熱狂的なファンの中では場違いという感じで、途中からセンターよりの静かな場所に移動する。試合そのものは、7回に楽天が一死満塁のチャンスを活かせず、配色が濃厚となったため、球場を後にする。久しぶりのナイター観戦だったが、東北を応援する気持ちがあったので、それなりには楽しめた。

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2011年5月 6日 (金)

ボランティア日記 第1日目

初日は仙台に直行せず岩沼でボランティアを行う。というのは、2年前に歩いた奥の細道の海岸部分の第一歩である岩沼がどうなったかが気がかりだったからである。

あいプラザに着いたのは9時過ぎだったため、登録受付の行列最後尾となり、果たして派遣先があるかどうか心配になったが、なんとか派遣先が決まる。

今回の作業は石巻の時のようなヘドロとの格闘もなく、比較的楽なものであった。派遣先は比較的規模の大きな農家で、家屋は外見はしっかりしているようであったが、基礎は相当ダメージを受けており、建て替えも検討しなければいけないとか。それよりも、総額数千万円にもなる農機具の大半が使用不能となってしまった打撃が大きいようである。我々ボランティアはその日の仕事が終わればそれですむが、被災者が負っている重荷を感じずにはいられなかった。

今日の仕事が終わった後、2年前に泊まった旅館がどうなったか気になったので立ち寄ってみる。津波にはあわなかったようなので、泊まってみようかなとも思ったが、やはり地震による建物のダメージは大きく、しばらくは休業するとのことであった。励ましの言葉を述べて仙台へ向かう。

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ボランティア前日

連休後半は仙台周辺のボランティアと決めていたが、初日だけは福島で1日遊ぶことにする。

福島駅で下車して、吾妻連峰の登山口である浄土平行きのバス停を捜すが見つからないのでバス会社に電話すると、地震による通行止めのため運休とのこと。そんなことバス会社のホームページには書いてなかったよ!山行が地震の影響を受けたのは3月に小海線の運転見合わせで目的地を変更したのに続き2回目である。

さてどうしよう。では2年前に奥の細道を歩いた時に行き損ねた福島近辺の芭蕉の足跡を辿ってみることにした。まずは義経の忠臣であった佐藤兄弟の墓のある医王寺に行き、そこからは30分ほど歩いて飯坂温泉に向かう。芭蕉の時代には粗末な設備しかなく、芭蕉も酷評していたが、今は東北を代表する温泉地になっており、南相馬市から大勢の人が避難しているとのことである。街を歩いている限りは避難先としての印象ははっきりしないが、多くの旅館の玄関には南相馬市民の皆様の立て札があったので、かなりの方が避難されているのだろう。

日帰り温泉の宿はたくさんあったが、汗もかいてないので、飯坂温泉発祥の地にあった足湯につかった後、福島に戻る。午後は福島東部にある信夫文字擦に足をのばして見る。一般的な観光地ではないので、観光客は皆無で静かな雰囲気を味わえたが、本日は資料館が休館ということで拝観料400円が不要だったのはラッキーだった。予備知識なしで出かけたところであるが、子供の時によくやった百人一首で慣れ親しんでいた「陸奥のしのぶもじずりたれゆえに」という歌はここが舞台になっており、貴族と地元の美女との悲恋の歌であるということを知り、わざわざ来てみてよかったなと思った。

その晩は福島に宿をとり、居酒屋で微々たる散財を行って、地元経済へのささやかな貢献を行うとともに翌日からのボランティアに備えて鋭気を養った。

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2011年5月 2日 (月)

西上州県境尾根縦走

大型連休前半を利用して関東外周踏破計画(以下のリンク参照)の一環として西上州の県境尾根縦走をしてきました。

http://homepage3.nifty.com/vibram/hourou/kantou.htm

万座温泉に着いたのが11時過ぎ。前回は下山後に温泉で汗を流したが、今回は入山前であり、ここで入浴しては歩く気がしなくなるので、身支度を整えてすぐに出発する。万座山に登頂後に稜線沿いに行くことも考えたが、頂上への道がわからなかったので、稜線の下を巻いて行く林道を行く。幸い5月2日までは車両通行禁止となっているので静かな歩きが楽しめ、好天下の大展望を眺めながら進む。それに雪で潜る稜線よりも除雪してある林道の方が格段に楽である。ただ須坂方面への分岐点から先は除雪がなくなり、時々は雪を踏み抜いて潜ったりもした。

ここからは長野県側を行くこととなり、御飯岳の西を大きく巻いて毛無峠に出る。林道は上州側に下っていくので、いよいよ山道に入っていく。破風岳の南を巻いて土鍋山に向かう。土鍋山頂付近はだだっ広くてルートがわかりにくいところであるが、だいぶ以前のスキーのシュプールがあったので、それに助けられて迷わずに進むことができた。シュプールはいくつもあり、その一つを追って下っていく途中でシュプールを見失ってしまう。初日は出発が遅かったので、ライトをつけてでも歩いて距離をかせぐつもりだったが、暗がりでは進路が判然としないためテントを張ることにする。

急な雪の斜面をピッケルで整地してテントを張ろうとして、片方のポールをテントに仮に差し込んでもう片方のポールをテントに差し込んでいる最中に、反対側のポールがテントを抜け出て、急な斜面を滑って落ちていく。ポールを失っては一大事と慌てて追いかけたところ、少し下の斜面でポールが止まってくれてホッとする。テントを張り終えて、次は水を作るための雪集めとなるが、ここではたと思案することとなった。いつもならば、雪の表面には木の葉その他の不純物があるため、少し掘り下げた下の方の雪を使うのであるが、今回は、放射能の汚染があるので、どの部分の雪を使うかが問題である。ネット等で公開されている拡散地図では原発30キロ圏を外れている飯館村や福島市などの汚染が高いのは、震災直後の水素爆発時の風向きが大きく影響しているようであるが、その時の雪の層がどのあたりにあるかはわからないので、あえて表面の雪を使い、余分な不純物はすくってきれいにすることにした。下界の出来事と関係の薄い山の生活も飛んだところで影響を受けているようだ。

翌日は進路確認のため、完全に明るくなってから出発する。地図と磁石で方向を定めながら進んでいくと、やがてシュプールとまた合流する。浦倉山の登りにかかると、まただだっ広い尾根となってシュプールを見失うが、下りと違って登りの場合には高いところを目指していけばよいだけなので、ルートファインディングの苦労は少ない。

浦倉山から四阿山への尾根は前半はつまごいスキー場の上部となっていて、広い稜線にも多くのシュプールが残っている。ただリフトの営業が終了しているこの時期には人影は見られない。四阿山への登りは鎖場などもあって今回のコースで唯一のアルペン的な風貌を見せてくれる。頂上直下と思われる所に標識があって、頂上まで2キロの表示があり、そんなバカなと思ったが、標識の距離表示には×点がつけられていたので、人迷惑な間違った標識なのだろう。頂上に近づくに従って風が強くなり、最後のヤセ尾根ではバランスを崩しかけて少しヒヤリとした。

Azuma_2 

四阿山は標高2345メートルで今回のコースの最高点であり、私にとって70数個目(百名山マニアではないので正確には数えていないため)の百名山である。最近の百名山ブームでどこの百名山も賑わっているが、自粛ムードの影響か、今日の強風を避けたためか、誰もいない静かな山頂であった。

私もこんな強風の山頂に長居はしたくないので、写真を撮ってから下山に移る。頂上には下ろうとしている鳥居峠への道標があり、その方向ははっきりしたトレースのある稜線よりもやや下向きのようにも思えたが、トレースにつられて稜線を行ってしまう。だいぶ降りて右に別れる根子岳との分岐点まで来ると、風も収まってくる。さて左は鳥居峠だろうと思って標識を見ると、菅平とあるではないか。ガーンとして地図をよく見ると、ここから分岐する左の道は鳥居峠に下る尾根よりも1本西の尾根であることがわかった。ただ強風の山頂まで登り返す気にもならなかったので、このまま降りてしまって鳥居峠まで登り返せば、部分的に縦走路から外れても、縦走達成そのものには支障がないのではと思い直した(今までも縦走路を外れたことはたびたびあったことだし)。

ただ下りながら地図をもう一度見てみると、このまま降りてしまっては鳥居峠まではあまりにも遠い。この尾根から正しい尾根に谷を越えて戻れるのではないかと考えて、尾根から谷の方に回り込んで見ることにした。最初に谷に降りようとした所は最後が急な斜面となっていてロープなしには危険なところであった。そこで、尾根に戻らずに谷の底が見えるところをしばらくトラバース(横切ること)していくことにした。すると、しばらくして、やや広めの溝が谷に向かって均一な傾斜で落ちていき、雪が詰まっていて充分降りられるとの確信が持てたので降りることにした。尻セード(お尻を斜面につけて滑り降りること)でも充分降りられそうな傾斜であったが、慎重を期して一歩づつ降りて無事に谷底まで降りることができた。

谷底から見上げる反対側の尾根はあまりにも高く見え登るのは容易でないと思えたので、このまま谷を下ってしまい、悪場でロープなしには下れない箇所が出てきたならば、高巻きするか、いっそ尾根まで登ってしまうかしようと決めて、そのまま谷を降りていくことにした。しばらく谷を降りて休憩をしていると、100メートルちょっと下方に熊がいてこちらに向かって進んでくるのが見える。慌てて笛を吹くが、水の音に消されてしまうのか一向に気がつかずに近づいてくる。これはやばいことになったと、下からよく見える岩の上に立って大声で呼びかけると、ようやく気がついたようで、横の斜面を慌てて逃げていく。

飛んだハプニングであったが、そのまま降りていくと、途中で雪は消えて鳥居峠に繋がる自動車道に出会う。時間は6時だし、鳥居峠まで行くと多分水がないだろうと考え、ここにテントを張ることにする。結果論ではあるが、正しい道を行っていたならば、鳥居峠一帯には水場はおろか雪もないので、窮地に追い込まれていたに違いない。それにしても、放射能の心配なく炊事の準備が出来るというのはありがたいものである。

最終日は長丁場になりそうなので、1時起床、3時出発とする。峠までは小1時間の登りであった。今日の行程は前半は道のないコースなので、峠からの登りには標識がなく正しい道を行っているのか多少は不安であった。2時間以上登ってようやく雪がちらほら現れたが、昨日正しい尾根道を登っていたならば、ここまで登らないと炊事ができないということになっていたはずである。

道はやがて尾根をゆっくりと巻いていき小沢のところで左へゆるく下っていくようになる。小沢に出会うあたりから小沢の上部にかけては赤布等が多数あるが、どうもその付け方が山道のものではなく、林業の仕事用のもののように思えるし、小沢の方角も本来進むべき南に対して西向き過ぎるような気がしたので、左に曲がっている林道をしばらく行ってみるが、途中でさらに左に曲がって北向きに下ってしまうので、これはおかしいとさきほどの小沢のところまで戻る。しばらく思案していたが、とにかく南向きに行くしかないと、道のない雪の斜面をずっと登っていくと、尾根の上に出ると、古ぼけた白いビニールテープが木の枝に結びつけられているのを発見する。また尾根上のテープがある付近にはわずかではあるが、笹ヤブに踏みつけられた跡があることから、ここが尾根上の踏跡に違いないと考える。このあたりは経験してないとわかりづらいところだが、以前によく藪山を登っていた(藪漕ぎという)ことが活きていたといえる。

藪もこの時期はまだ生育が充分でないので、盛夏の頃の藪漕ぎと比べると楽なものである。左手の方に角間山から続くと思われる尾根が見えており、白いビニールテープも時折ではあるが、木の枝に結び付けられているのが確認できたので、まずは正しいコースを進んでいるのであろうと思われた。高度計では1800メートルを越えていることを示していて湯ノ丸山までは標高差300メートルを切っており、うまくいけば1時間ちょっとで行けるので、なんとか目的地の高峰温泉にはバスの時刻までには辿り着けそうであると取らぬ狸の皮算用をする。

ところが小高いピークに着いたところに小さな木の標識があって山名と標高1784メートルが記載されている。朝、峠で高度を確認したときには高度計の高度は正しかったので、標識にある高度は間違っているに違いないとは思ったが、高度計の高度が正しいのであれば、あるべき地図上の地形と実際の地形が全然違うことで頭が混乱してしまう。もし標識の高度が正しいとすれば、その高度にある地図上の地形と実際の地形は似ていないこともない。ここでハッと気付く。低気圧の接近で気圧がどんどん下がってしまったことにより、気圧により測定される高度計の高度が実際よりも高く表示されているに違いないのだ。そこで南側にある山に向かって斜面を深い藪に難渋しながら降りていく。地図の等高線の混み具合ではこんなに降りるはずではないのにと思い、道を完全に踏み外してしまったかという不安を抱えながら進んで行く。そのうちに、右の方から降り過ぎたために、長く降りて行かなければならないと思うようになったのではと考え、左の方に寄りながら進んで行くと、果たして左側には前方の山と繋がっている尾根が見えてきて、その尾根の上まで登ってしばらく行くと、例の白いビニールテープを発見し、ようやく窮地から脱出できたということで安心する。

それから先は雪を踏み抜かないように慎重に歩くだけだが(それでも時々踏み抜いて大いに体力を消耗する)、さきほどの道迷いで大いに時間をロスし、目的地のバス時刻には間に合わないことが確定的になる。手前の地蔵峠にはこの時期はバスはないが、タクシーを呼ぶという手もあると考えて多少は安心する。

地図では尾根はここから一度東に向かって90度曲がって、しばらく先で今度は南に90度曲がるようになっている。最初の屈曲点は尾根通しに行くと自然とそうなるので問題はないが、次の屈曲点は尾根が複雑に分岐した地形のために非常に難しい。適当に判断してこのあたりだろうと決めつけて斜面を登りきると、前方に目標の湯の丸山の全容が初めて見えてくる。100メートル下って300メートルの登りである。

一度下り切った角間峠には立派な東屋があり、そこから上は一般登山路のようで赤布がいっぱいあって今までのように地図と磁石を睨めっこする苦労から解放される。山頂に近づくに従って風が強くなり、とうとうザックカバーも吹き飛ばされてしまう。強風の吹き荒れる山頂にはもちろん誰もおらず、とうとう今回の山行では熊以外には誰にも会わないことになってしまった。地蔵峠に向かってしばらく降りると風も弱くなってきたので、今回歩いてきた山々の写真を撮る。下の写真の真ん中奥に見えるのがスタート地点の万座で、あそこから遙々歩いてきたのである。そこから更に右の方には写真ではよくわからないが、肉眼では雪に覆われた上越の連山が望まれ、あそこからも長い年月をかけて歩き続けてきたのである。

Cimg2018_2

地蔵峠は上から見ると建物がいっぱいあり、車も止まっているので、あそこまで行けば食事にもありつけると期待したのだが、シーズンオフとなったスキー場の横を降りていくと店屋はこの時期はほとんど閉まっており、唯一営業していたソフトクリーム屋のソフトクリームにありつけただけである。温泉が一軒営業していたので、予定外だが今晩はここに泊まってしまおうと入ってみたが、満室であるとのこと。連休の谷間の日だし、自粛ブームで空きが多いと聞いていたのにどうしたことか。自分の汚れた身なりを見て敬遠されたのかもしれない。

さてどうする。まだ四時前だし、地図では少し下の方にも温泉があるとのことなので、そこまで行って、もし満室だったらタクシーを呼んでもらって帰宅すればいいやと考えて、3時以来の12時間歩きっぱなしの疲れた体に鞭打って歩き出す。といっても下り一方だから足を前に出しさへすれば、体は進んで行く。途中で気付いたのだが数百メートルおきに石仏が飾ってあり、その番号が段々減っていくのを楽しみに降りていく。気付いた時の番号が72番だったが、多分88番からあったに違いない。それでも歩くのに飽きてしまい、誰か車に乗せてもらえないかと、ヒッチハイクの合図をするのも照れくさいので、車が近づくと、わざとヨタヨタと歩いてみたりしたが、さっぱり効果がない。地元の車だと結構乗せてくれるものだが、観光の車だと、こんな身なりの人間は乗せたくないのは当たり前か

2時間ばかり歩いてようやく温泉に辿り着いたが、なんと入り口には鍵がかかっている。きっと客がいなかったので、早めに閉めてしまったのだろう。これではタクシーを呼ぶ術もない。こうなったら下の国道まで歩いていくしかない。暮れかけた道をトボトボと歩き続けると、前方に国道を走る車のライトが最初は豆粒ほどしかなかったのが、段々と大きくなって遂に国道まで出ることができた。地蔵峠から小諸駅まで20キロのうち12キロを歩いてしまったことになる。コンビニでタクシーを呼んでもらい、待ち時間の間にビールを買って喉の渇きを癒しているうちにタクシーがやってきたので、小諸駅に向かって乗車し、長い歩きからようやく解放されることとなった。ただ後で地図を見たら、国道から1キロ弱の所に「しなの鉄道」の駅があったので、わざわざ小諸まで行く必要もなかったし、そのくらいの距離ならば歩くこともできたかもしれなかった。済んだことだからどうでもいいことではあるが

久しぶりに探検的な気分を味わえて楽しい山行であった。クライミングよりもこういう山行の方が自分には合っている気がする。関東外周踏破の達成までは先が長いが、ゆっくりとやっていこう。今回歩いたコースは以下の赤線部分である。

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