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2015年4月

2015年4月29日 (水)

坂東三十三観音 鎌倉1,2番

札所巡りは秩父三十四箇所と四国八十八箇所が終了したが、今年からは既に始まっている西国三十三箇所に続いて坂東三十三箇所も新たに始まることとなった。

秩父三十四箇所と同様に坂東三十三箇所も家内同伴である。
鎌倉駅には10時過ぎに着き、1番札所の杉本寺を目指す。30分くらい歩いて杉本寺に着く。このあたりは他の有名な寺も多く、観光客で結構にぎわっている。そのせいかこの寺も拝観料200円をとられてしまった。
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二番札所の岩殿寺は逗子駅の近くにあり、1番札所からだと約4キロもある。四国のお遍路だと札所間には遍路道があって、要所々々には案内表示もあるのでわかりやすいが、坂東三十三箇所は遍路道というものはなく、それぞれの最寄の駅ないしICから歩きないし車で参拝するものらしい。だが携帯のグーグルマップを利用すればナビ機能で目的地に辿り着けるので、駅に戻らずに直行することにした。

かなり歩いて目的地付近まで来たはずなのに、前進する道がなくなってしまう。目の前の小山には観音様が見えるのだが、そこまで行く術がなのである。私一人ならば、強引に山を登ってしまうのだが、家内同伴ではそういうわけにもいかない。ここで目的地の検索対象を住所ではなく、寺の名前を入れると大きく迂回して辿り着けるようになっていることがわかった。キツネにつままれたような気分になったが、1キロほど迂回して無事に岩殿寺に辿り着くことができた。こちらは訪れる人も少ないようで、拝観料もとられずに(ただし、100円の喜捨は行う)参拝することができた。
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参拝後に逗子駅まで歩いて遅めの昼食をとり、3番以降は次回に回して第一回の坂東三十三巡礼を終えた。

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2015年4月28日 (火)

久々のトレラン  塔ノ岳〜焼山

前回、塔ノ岳を登った時は、堀山で足が痙攣して、それからはだましだまし登ったために2時間30分近くかかってしまったので、そのリベンジを行うべく、再度2時間切りにトライすることにした。今回は荷物を軽くし、ストックによる推進力も利用することとし、その代わりにトレランで丹沢を南北に縦走して道志まで足を伸ばすことにした。

大倉を9時にスタートして林道を走り出す。今日は山頂まで走り続けるぞと思ったのも束の間、山道に入ると急ぎ足の歩きに変わってしまった(昔は荷物が軽ければどんな急坂でも走れたんだけどなあ)。トホホである。

見晴茶屋は20キロの荷物を背負って出場したボッカ駅伝(10年以上昔のことだけど)の時より2分遅れだが、前回よりは1分早く通過する。堀山小屋は前回より数分早く通過し、休みを取らずに歩きながらアミノバイタルを飲んでエネルギーを補給するが、今回は足の痙攣の予兆はないので、2時間切りを確信する。花立到着は11時38分で2時間切りまでの余裕時間は22分である。ここから頂上まではまともな状態で登ったことがないので(痙攣状態とか雪道とかで)、後どのくらい時間がかかるかよくわからなかったが、ガイドブックのコースタイムではたしか20分と書いてあった記憶があるので、楽勝だと思って気持ちの緩みが出てしまって、知らないうちにペースが落ちてしまい、山頂到達はジャスト2時間となってしまい、わずかのところで2時間切りはならなかったが、マッターホルン隊のリーダーとしてはなんとか合格点だろう。今回は途中で休みも取らなかったし、傾斜の緩い所は走ってこの記録なので、これ以上頑張っても数分程度は短縮できたとしても、大幅な記録短縮は難しいだろう。現役のトレランランナーだった頃は、コースタイムの半分以下の時間で走っていたので、このコースも多分1時間30分くらいで登れたんだろうけど、あの頃とは脚力が全然違うので全く参考にならない。

頂上で一休みしてから、丹沢山に向けてお楽しみの?トレランの開始である。延々と続く歩きにくい階段の下りを、宿題を果たした気安さからマイペースで下っていたら、階段を跳ねるようにして降りてくる現役のトレランランナーに追い越される。自分も昔はあんな降りかたができたのだろうが、今は怖くて一歩一歩慎重に降りていく。それでも一般登山者よりは早く、何人かを追い越す。もっとも途中で何度か仕事の電話がかかってきて、その度に立ち止まって対応していたので、結局また抜き返されてしまったが。それにしても電話がかかってきたのが、大倉尾根のタイムトライアルの時でなくてよかった!

丹沢山から蛭ケ岳まではなだらかな尾根が続き、トレランには絶好のロケーションである。ここで調子に乗ったせいか、太ももに痙攣が走り、しばらく立ち止まることを余儀なくされる。痙攣が頻発するようになったのも加齢のなせる業か

蛭ケ岳からは主脈を離れて北方の姫次に向かう。トレランをやっていた頃はこのまま主脈を縦走して山中湖までワンデイで走ったこともあるが、今となっては過去の栄光である。

姫次への道はこの時間帯では誰にも会わないが、道自体はよい道なので結構歩かれてはいるのだろう。姫次までは距離の割には時間がかかり、今日初めてイライラしてしまう。

姫次から焼山の間はアップダウンが少なく快適な縦走路である。焼山からは急な下りの連続でバス停に降り立つ。
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頑張ったお蔭で最終バスまでは一時間近く時間があったので、近くの酒屋でビールとつまみを買って無事縦走できたことを喜び一人で祝杯をあげる。

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2015年4月26日 (日)

畑仕事再開

畑仕事再開 今年は少し出遅れてしまったが、1週間ほど前の苦土石灰に続いて、今日は堆肥を撒いて野菜づくりの準備をしてきた。種蒔きは連休後くらいかな。今度は何を栽培しようか。連作障害のことも考えなくちゃならないけども、あまり神経質に考えずにやってみよう。今年は孫と一緒に収穫を楽しめるものもいいかな。例えば、ミニトマトとかサツマイモなどはどうだろう。

 

農作業の後は、少し先にあるクライミングで軽く登ってきた。ここは、だいぶ前に何度か来たことがあるのだが、家の近くにもジムができたことや、今までは平日も比較的自由に外出できたので、わざわざ遠くのジムまで足を伸ばす必要もないということで足が遠のいてしまった。ところが風向きが変わって、平日は不要不急な場合以外は外出を控えざるをえなくなる見込みで、農作業もジム通いも土日中心になりそうなので、このジムは実に好都合な場所にあるといえる。これからはちょくちょく来ることになりそうだ。

 

10日ほど前に別のジムで登ったときは、骨折した肋骨の回復が十分でなくて激しい動作をすると痛むため、5級の課題を登るのも苦労したが、今日は4級までは登れるようになったので順調に回復しているようだ。まだ患部に強い力がかかると多少は違和感があるので無理をせずにボチボチとやっていこう。

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2015年4月21日 (火)

高野山

高野山
いよいよ旅も最終日である。橋本に戻って高野山行きの電車に乗り換える。終点からほとんどの人はケーブルカーに乗り継ぐが、たいした距離でもないので遍路路を登ることにする。1時間くらいの歩きで女人堂に着くと、そこからは自動車となり、間もなく両側に土産物屋が立ち並ぶようになる。

まずは高野山の象徴とも言える金剛峯寺を目指す。昨年の四国八十八ヶ所お遍路をその開創1200年の記念すべき年に結願を果たしたことの報告を、今年の開創1200年の高野山でできたことを嬉しく思った。
次に奥の院を目指すが、その間はおびただしい墓の間を通って行く。徳川御三家や浅野家などの有力大名家の墓も多い。

奥の院には弘法大師の廟があり、そこをお参りして今回の旅も終わりとする。世界遺産に指定されている高野山への参詣道や熊野本宮と結ぶ小辺路の一部だけでも歩いてみたかったが、時間がなかったので全て割愛した。帰路も歩くのが面倒となったのでバスとケーブルカーを利用することとした。

帰りは南海電鉄を経由して新大阪から新幹線で帰るのが早いのだが、JRの未乗車路線である桜井線、奈良線を経由して京都から新幹線を利用して帰ることとした。

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西国三十三ケ所  奈良〜和歌山

西国三十三ケ所奈良〜和歌山
山で早起きの習慣がついてしまったようで、旅館に泊まった今朝も3時過ぎに目が覚めてしまう。朝食は7時でそれまでは時間がありすぎるので、ブログを書いたり荷物を整理したりして時間を潰す。

朝食後に始発バスに乗って下市口駅に向かう。下山口が変わって近鉄線までの移動時間が短くなったため、今日の予定を組み直すことにした。当初は開創1200年を迎える高野山を参拝するまでの繋ぎとして西国三十三ケ所のうち、奈良〜和歌山県内にある札所3ヶ所を参拝するつもりだったが、時間に余裕が生まれたので、8番札所の長谷寺を加えることにした。

長谷寺駅から長谷寺までは1キロ以上あるが、荷物もあることだしとタクシーで行くつもりだった。ところが駅前のタクシー乗り場にはタクシーの姿はなく、電話してみると15分以上待っ必要があるといわれた。そんなに待つならば歩いても変わらないと歩き始める。昨日まで、連日の強行軍だったにもかかわらず、それほど体のダメージを感じることなく歩くことができたが、それでも20分以上かかってしまった。

長谷寺は八重桜がまだ残っていて、何回目かの花見も楽しめた。今日参拝した他の札所でもそうだったが、500円程度の拝観料を徴収された。秩父三十四ヶ所や本場である四国八十八ヶ所では拝観料を払った記憶がないので、これは京都奈良の有名寺社が観光客から拝観料を徴収する慣習が影響しているのかもしれない。

次の電車の予定もあって滞在時間に余裕がなかったことと、帰りも歩くのはしんどかったためタクシーを呼ぶ。今度はすぐに来てくれたので長谷寺駅には早めに着き、予定していたのよりも一本前の電車に乗ることができた。

橿原神宮前ではバスに乗り換えるために下車したついでに名物の柿ノ葉寿司を買ってバス停に向かう。こちらでも予定していたバスの1時間前のバスにギリギリで乗り込むことができた。ラッキーと思ったのはここまでで、運転手に七番札所の岡寺のバス停について訪ねると、このバスは岡寺駅には行くが、岡寺までは歩いて行かなければならないと言われる。このバスに乗ってしまったために、このような目に会ってしまったのか、予定していたバスに乗っても同じ結果になったのかはわからなかったが、とにかく岡寺駅で下車することにした。そこから岡寺までは三キロの表示があった。タクシーを利用することも考えたが、意地になって歩くことにした。

道は緩い登り坂が続くが気合いを入れているので、かなりのペースで歩き続くことができる。このペースならば、仮に当初予定の1時間後のバスが岡寺前まで行くとしても、それよりも早く着くことができそうだ。

道は途中から明日香に入り、石舞台や高松塚の案内表示が現れる。石舞台は若い頃に行ったことはあるが、高松塚はまだ行ったことがなかったので、1日くらいゆっくりしたいものだが、どうもこの貧乏性は治りそうにもないようだ。

町名表示が岡に変わり、岡寺が近いことを知る。間もなくして岡寺前のバス停に着く。帰りのバスの時刻を確認しようとするが、橿原神宮前駅行きと飛鳥駅行きのコミュニティバスの時刻表と奈良交通の路線図があるが、どれに乗ったらよいのかさっぱりわからない。

道はここからは急になり、あえぎながら登ってようやく山門に辿り着く。入り口で係の人に次の六番札所の壷阪寺まではどのバスに乗ればよいかを尋ねる。係の女性が調べてくれて、飛鳥駅行きのコミュニティバスに乗り、電車で壷阪山駅に移動して、そこからバスで往復すればよいことがわかった。

参拝もそこそこにバス停に戻り、待ち時間があったので、さきほど買った柿ノ葉寿司を食べる。寿司を包んでいる柿ノ葉ごと食べられるのかと思ったが、柿ノ葉は見た目と香りを楽しむためのもののようだ。

ここからは教えられた通りの経路で壷阪寺に到着する。最終バスの発車時間まで40分くらいしかなかったので、岡寺のようにバス停から遠かったら慌ただしいなあと心配したが、バス停の目の前だったので、そこそこ余裕を持って参拝することができた。

最後は三番札所の粉河寺である。そもそも今回粉河寺を初めとした西国三十三ヶ所の札所めぐりをすることにしたのは、当初予定していた高野山の宿坊が全て空きがなかったからである。4月から5月までは開創1200年の特別期間だそうで、宿坊はおろか麓の橋本あたりのホテルまで全て空き室なしの状態が続いている状態である。和歌山寄りの粉河辺りまでくれば、空き室もあったが、粉河と言えば、2月に南紀をサイクリングしたした際に参拝しと西国三十三ヶ所の一番二番に続く三番札所の粉河寺が駅近くにあるではないか粉河寺だけだと時間が余ってしまうので、6〜8番の札所参拝も併せ行う今回のスケジュールができた。

粉河のホテルはネット対応ではなかったので、近くのマクドナルドで食事をしながら携帯ではできない添付ファイル付のメールの確認を行う。その後に粉河寺に向かうが、あたりはだんだんと暗くなってくる。もっとも判を押してもらうわけでもないので、遅くなってもかまわないし、今までの参拝でもそんなことが何度もあった。なかには門に鍵をかけてしまって入れなくしてある寺もないわけではなかったが、粉河寺はそんなことはなく、本堂には明かりがついていて昼間と同様に参拝することができた。これで今日の予定は全て終え、明日の高野山を残すのみとなった。

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2015年4月20日 (月)

大峰奥駈最終目

大峰奥駈最終目
夜明け前に目覚めると、予想に反して雨は降ってなかった。出発の準備に取りかかろうとすると先客はもう小屋を出ていくところであった。しばらく遅れて6時20分に小屋を出ると同時にパラパラと雨が降ってきた。6時ー12時は雨という予報は間違っていなかったのだと苦笑した。

昨日がんばったせいで、今日は多少は余裕を持てるのはよいのだが、疲労が抜けておらず体にどうも力が入らない。歩き始めはセーブしながら進んで行く。なアップダウンを繰り返しながら進み、聖宝ノ宿跡から弥山までは標高差300メートルの登りである。この頃になると雨も上がり、時々薄日もさすようになる。

弥山の登りは所々雪が残っていたが、歩行に差し障るほどではなかった。水が乏しくなってきたこともあるが、弥山の小屋ではビールを飲めることを楽しみにしていた。ところが小屋まで登ってみると、小屋は閉まっており登山者は誰もいない。百名山の山で日曜日だというのにどうなっているのだ。先日トレーニングで登った丹沢の塔ケ岳の山頂の小屋は水曜日でも営業していたというのに

これからどうしたものかと思案する。当初の予定ではさらに南下して大日岳から前鬼を経由して下山するつもりだったのだが、そうなると行程の遅れからもう1日必要となる。食料は十分あるのだが、明日はまた天候が悪化して大荒れになるらしいので、大峰最高峰の八経ケ岳を登れば一応目標を達成したことになるということで、今日中に下山することにしよう。

川合に下山するには八経ケ岳に登頂してから明星ケ岳を経由するのが効率的であるが、水の残りが乏しくなり、今日中に川合まで降りられなくなり、テントを張らなければならなくなった時に、水をくんでおかないとピンチとなるため、多少は遠回りとなっても、狼平で水を補給してから尾根道に合流した方が得策であると判断した。

狼平は広々とした気持ちのよい所である。水を補給しながら休憩していると、ようやく今日中に下山できるめどもついたとのんびりした気分になる。

明星ケ岳からの尾根道に上がる手前が少し登りとなっているが大したことはない。道はよく踏まれていたのだが、尾根を左から巻く手前の所で、下の谷間を指している案内板があり、さらにその先にはテープまである。思わず誘いこまれてしまったが、その先にはなにもマーキングがなく踏み跡もない。GPSで確認すると、道は尾根上を通っているようなので、尾根まで上がってみると立派な踏み跡があり、テープもたくさんついている。それにしても何故あんな謝った表示がしてあったのだろうか

さきほど休憩した狼平から最後の分岐点である栃尾辻までは、ガイドブックのコースタイムは1時間半とあるのに実際は2時間半もかかってしまった。途中でコース表示の誤りによる道迷いで多少のタイムロスがあったというにせよ、これほど遅れてしまった理由はわからず終いであった。ただはっきりしているのは、栃尾辻で6時だから川合に降り立つのは8時頃となってしまい、3日連続でヘツデン着用の夜間行動を余儀なくされることだけだ。

川合までの標高差や800メートル近い一本道の下りは途中までは小さいアップダウンを繰り返して一向に高度が下がらずにイライラする。ヘツデンを着けた頃から急降下を始めたが、遠くに見える町の灯りと時計の高度計表示に救われて8時少し過ぎには川合に降り立つことができたが、今日も14時間以上の行動時間となってしまった。

最初は町外れにテントを張るつもりだったが、予定外の所に降りてしまったためにバスの始発時間を確認したかったのと、できれば酒屋、さもなければ自販機のある所までは行きたかったので町の中心部(といってもたいした町ではないが)まで足を延ばしてみる。始発バスの時間は確認できたが、酒屋は閉まっていたし、自販機も見つけることができなかった。その代わりというか、バス停の近くの旅館に明かりがついているのを発見し、聞いてみると、夕食なしでよいなら泊まれるいう。早速温泉に入って疲れを取り、ビールで山行が無事に終わったことの祝杯をあげた。

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大峰奥駈二日目

昨日のコース誤りによるタイムロスを取り戻そうと3時に起きて5時過ぎに出発する。今日1日は快晴が約束されているので目一杯歩くつもりだ。

水が足りなかったので大天井ケ岳は頂上に向かわず、トラバースして水場で水を補給する。しばらく行くとこれより先は女人禁制となる女人結界の門をくぐる。その後に山上ケ岳に向かう間に何人かの登山者に出会うが、さすがに女性登山者はいなかった。

山上ケ岳は大峰を代表する名山だから、土曜日の今日は賑わっているだろうと思ってたら、暗に反して、山頂近くで前後して歩いた四人パーティーがいただけだった。
大峰奥駈二日目

山上ケ岳の山頂からは雲一つない快晴の下で360度の展望が楽しめる。ところがここから南に向かうものを奥駈というが、山頂からはその道が見あたらない。山頂直下の宿坊が立ち並ぶ広場の端に指導標があり、奥駈と思われる方向には柏木とある。地図を見ると奥駈道の途中から柏木に下って行く道があるので、こちらの道が正しいことがわかる。それにしても奥駈の表示がないのは、奥駈自体が一般的ではないと言うことか

柏木への分岐点は女人禁制が解かれる女人結界の門の外にあった。ここから先は奥駈の標識がちらほら現れるようになる。今朝、携帯で確認したところでは、好天は今日限りで明日は朝から雨とのことだったので、濡れたテントを撤収して担ぐのはいやなため、小屋泊まりにするつもりだった。ちょうど折よく小屋のある場所に出た。中を覗くと無人だが清潔で一瞬心が揺れたが、まだ2時過ぎだしここで泊まってしまうと明日の行程が苦しくなる。次の小屋までは随分と遠く、今日中に辿り着けるか危ぶまれるが、とにかく前進するしかない。

大普賢岳を過ぎたあたりから夕暮れとなり、西の連山に日が沈んで行く。一般縦走路にしては、不明瞭な所も多いだけに夜間の通過には不安はあったが、案の定、暗闇になると何度も道に迷い、時間をロスしてしまう。

最新の天気予報で明日の悪天になる時間が遅れるようならば途中でテントを張ってもいいやと思ったが、携帯が圏外のため確認ができないので前進するしかない。

9時近くに行者還岳まで0.5キロの石標のある地点に達し、小屋まであと一足である。行者還岳は主稜線から外れた所にあるので、近くに分岐点の標識があるはずだと探すが見つからないため、行者還岳を経由しても行けるのかと思って行者還岳に向かうことにした。

バテバテになって山頂に着くが、そこから先に行く道はない。やむをえず、石標まで戻ってよく探してみると主稜線上の弥山を示している小さな標識があったのでそちらに進むことにするが、その道はしばらくすると、稜線を離れて右の谷の方にどんどんと下って行く。最初は水場へ向かう道かなとも思ったが、他には道がないので、やむを得ずその道を進む。やがて「小屋まで200メートル」の表示が現れてホッとする。

時間は10時半で、今日は実に17時間以上の行動となってしまった。避難小屋にしては立派過ぎる小屋だったが、どうせ誰も泊まっていないだろうと扉をあけると案に反して先客数人が睡眠中であった(この時間では当たり前だが)。疲労困憊で食欲もなくなってしまったこともあるが、炊事の物音で先客を起こしてしまっては悪いので、酒とつまみを夕食代わりにしてバタンキューとなってしまった。長い1日だった。

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2015年4月17日 (金)

大峰奥駈初日

鹿島槍東尾根が中止になったので、GWに予定していた大峰奥駈を前倒しで行うことにした。

大峰奥駈初日

登山口の吉野は上の方はまだ桜が見られるとあって観光客でいっぱいである。それも女人結界(これより上は女人禁制)までで、そこから先は観光客はおろか登山者もいなかった。
大峰奥駈初日
四寸岩山に着いたのが2時半で、山上ケ岳までは無理かなと思いつつ前進したが、そろそろ現れてくるはずの水場が一向に出てこない。変だなと思ってコンパスで確認すると、南に向かってるはずが、東に向かっているではないか。四寸岩山から東に伸びる尾根にまぎれこんでしまったようだ。途中に標識はなかったが、赤テープはベタベタあったので、主稜線を進んでいるものと信じて疑わなかったのだ。

四寸岩山に戻った時は暗くなってしまったのでテントを張ることにする。この行程の遅れがどうなるかが問題だが、とりあえず百名山の八経ケ岳まで行き、そこから先はその時点で考えることにしよう。

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2015年4月12日 (日)

入間川



久し振りの好天だったので前から気になっていた入間川にサイクリングしてきた。入間川は荒川支流のなかでは最大で64キロあるらしい。

まずは荒川との分岐点までいかなければならない。家からは最短距離だと40キロ弱らしいが、何度も道を間違えて思いの外、時間がかかってしまった。
入間川

手前が入間川、奥が荒川

分岐点を11時半に出発する。しばらく行くと、サイクリング専用道路がでてきたので快調に進む。後ろからは次々と追い抜かされるがマイペースで行くからいいのだ。

サイクリング専用道路なので鉄道や自動車道の下をくぐる構造になっていてスムーズに通行できるのだが、一ヶ所だけは下をくぐらずに直接に道路と交わっているところがあった。しかも多くのチャリダーは道路を突っ切らずに橋を渡っていくではないか。その時は深く考えずに道路を突っ切って専用道路をそのまま進んだが、少し先にある鉄道をどうしても越えられないのだ。試行錯誤の末、なんとか鉄道は越えたが、その先がまるで迷路のようになっているのにはまいった。右往左往して迷路からは脱出したが、ここで初めて気がついた。さっきみんなが橋を渡っていたのは橋の向こう側に自転車専用道路があるからなのではないか。そこで次の橋を渡ってみると、案の定、専用道路はあった。やっと専用道路に戻れたと思ったのもつかの間、じきに専用道路は終わってしまったのは残念だった。
飯能まではさほど時間はかからなかったが、飯能から名郷までは長かった。名郷でバス道路からわかれるとすこしづつ傾斜がでてくる。ゴールの入間川基点の石碑のある位置がわからなかったので、精神的には疲れた。だんだん傾斜がましてきて自転車からおりてしばらく行くとその石碑はあった(17時)。沢の水量はまだまだ多く、最初の一滴の地まではまだまだ時間がかかりそうなのでここで引き返すことにした(ここから上は以前歩いたこともあることだし)。
入間川

飯能に戻る道はほとんどが下りで楽だったが、夕方になって気温もさがり、体がすっかり冷え込んでしまった。飯能駅前で食べた担々麺が冷えきった体を内側から温めてくれたのはなによりだった。

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2015年4月10日 (金)

上毛電気鉄道

18切符の利用期間の最終日である今日は最初は、木曽川が中山道と別れる所かわ河口までを目指してサイクリングするために中央線を乗り継いで行くつもりであった。ところが、雨降りが続くという予報のために予定を変更せざるをえなくなった。さあて、どこに行こうか。近場で行きたいところは残ってないしと思ったが、ひとつだけ穴場があった。日本全国のJRと並んで関東地方の私鉄全線乗車も目指しているのだが、群馬県南部を東西に横断している上毛電気鉄道が未乗車だったのだ。

小山で両毛線に乗り換えて桐生に向かい、桐生駅から10分ほど歩いた西桐生から上毛電気鉄道に乗車する。京王井の頭線とよく似た電車である。ひょっとしたら下取りかな?電車の前面の色は様々である。今回乗ったのはピンクである。車内には桜が満開の枝が網だなからぶら下げられ、窓の外も桜が満開と桜づくしである。2両編成の車両は途中駅では前降りとなっているため、乗客はほとんど先頭車両に乗っており、後部車両はがら空きである。そのためか、後部車両には自転車をそのまま持ち込めるようになっていた。
上毛電気鉄道

電車は赤城山の麓の菜の花畑の中をのんびりと進み、1時間弱で終点の中央前橋に到着する。そこから15分ほど歩いてJR前橋駅についてもまだ12時半で帰るにはまだ早すぎる時間である。さあて、これからどうしたものかと考えていたら、世界遺産である富岡製糸場が近くにあることを思い出した。そこで昼食を摂ってから高崎に向かい、高崎駅で上信電鉄に乗り換える。

上信電鉄は関東国境尾根縦走の一環として西上州の山を登りに行ってた頃によく利用したものだが、また乗車しに来るとは思わなかった。当時は富岡製糸場が世界遺産に登録する前の頃なので、富岡に立ち寄ろうなどとは考えもしなかったが、仮に登録されていたとしても、目一杯のスケジュールで動いていたので、製糸場の会場時間内に立ち寄るなどということは到底できなかったであろう。

富岡製糸場は駅から10分強歩いた所にあり、平日にもかかわらず大勢の観光客で賑わっていた。倉庫跡には写真による説明とビデオによる解説が行われていた。繰糸場に当時の作業設備が一堂に並んでいる様は壮観であった。
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学生時代に近代日本経済史を専攻していた自分は、この日本の工業化の原点ともいうべきこの地をもっと早く訪れるべきだったのかもしれない。経済史的な視点に立てば、およそ一国が工業化を目指してテイクオフを果たそうとする時に、繊維分野から入っていくのは、世界共通のパターンであるが、戦前の日本は最後までこの経済構造を脱することはできず、重工業は軍事関連の分野でかろうじて存在したに過ぎず、民生分野での工業化の花が開くのは戦後の高度成長期まで待たなければならなかった。このような脆弱な経済構造であったがゆえに、アメリカに端を発した世界恐慌の荒波をまともに受けて、従来の体制では成り立つことができずに大陸進出に活路を見出ださざるをえなかったという意味で、富岡製糸場は戦前日本の光と影を象徴するものであったが、光の部分のみが強調されていることには不満が残った。

製糸場見学の後は高崎に戻ったが、そのまま帰宅せずに秩父線の未乗車区間を乗るべく八高線経由で熊谷を回って帰宅した。

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歴史認識(変革の主体)

引き続き歴史認識の問題を取り上げるが、前回のような政治的な問題ではなく、学問的なことである。

歴史ブームなのかどうかは知らないが、テレビでは英雄を取り上げた番組が多数見られる。それもあまり知られてない事実を掘り下げたものが多い。歴史好きな自分としては毎回興味深く見ているが、なにか違うんではないかなと言う気持ちも否めない。

学生時代にマルクス史観の影響を受けたため、生産力に規定された人民の活動により歴史は作られるという考え方から抜けきれず、英雄が歴史を作るという考え方には違和感を覚えてしまう。たとえば明治維新について言えば、西郷隆盛や坂本龍馬といった英雄の行動に着目するのではなく、商品経済の発展に伴い発生した矛盾(肥料代の増大による生活の困窮)が引き起こした農民一揆が明治維新の根底にあるという考え方で、これを民衆史という次元にまで高めたのが、色川大吉先生である。余談になるが、色川先生の業績の中で最大のものは、いわゆる五日市憲法の発見である。自由民権運動の影響を受けた五日市の地で民衆の手による明治憲法の草案が作られ、その精神は地下水のように脈々と引き継がれて現行憲法に繋がっているというもので、改憲論者が主張する現行憲法は押し付けられたものという主張は皮相的な見方に過ぎないとするものである。

それはさておき、歴史を動かすのは一握りの英雄たちであるか、それとも無名の民衆かという問題はなかなか答えを見いだし難いように思われる。実際のところは、両者の相乗作用によっており、ある時は前者が、またある時は後者が主体となって歴史を動かしてきたというのが真実に近いのではないだろうか

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2015年4月 9日 (木)

歴史認識

昨夜のプライムニュースで右翼の論客の西部あまねと石原慎太郎が歴史認識を巡って、戦前の日本が歩んだ道は、個々の局面では行き過ぎもあったかもしれないが、全体をみれば欧米列強に対する自立のためのものであり、太平洋戦争を侵略戦争とみるのは間違っているという暴論を述べていたが、それこそ全体を見ずに個々の自分たちの意見に都合の良い部分しか取り上げていない議論であると言わざるをえない。

仮に百歩譲って、日露戦争・朝鮮併合までは列強(特に南下するロシア)に対する自立のための側面があったとしても、それらの圧力が弱まったのを幸いとして火事場の泥棒的に大陸への進出を強め、ついには傀儡国家である満州国をでっち上げて、中国の正統政府と全面対決に至る過程は侵略戦争と呼ばずになんと呼べよう。そして軍部が主導権を握っていく下では、 アメリカを中心としたいわゆるABCD包囲網が圧力を強めていくのに対しては日本の選択が極めて限られてしまったのも事実である。そうなる前に日本として取りうる選択がなかったのかが重要である。その場合に一番問題となるのは明治における日本という国家の作り方である。経済的には地主小作制度を温存し(天皇家が最大の地主であった!)、国内の購買力が乏しいがゆえの体外進出を容認する国民的合意が形成されてしまったことである。一方、政治的には山県有朋の後世に対する二大大罪ともいうべき、統帥権の独立と治安維持法の制定で、軍部の独走と民主主義の弾圧が行われる下地
を作ってしまったことがあげられる。日露戦争までの日本という国家のありようは、けっして司馬遼太郎のいうような明るい時代ではなく、後の暗黒時代を作り出す爆弾を抱えてしまった時代だといえる。そのような認識にたてば、ルーズベルトは日本の開戦を待ち望んでいたなどと、あたかも戦争の責任はアメリカにあったかのごとき議論は、木を見て森を見ないね皮相に見方としか言えない。
肝心なのは過去を反省して、将来同じような過ちをしないことにあるが、過去を反省しようとしないものが主流となってしまった国はいつの日か、大きな苦難を国民にしわ寄せすることになるであろう。

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2015年4月 4日 (土)

JR東日本乗り残し消化の旅2日目

最終日の今日は会津側が未乗車となっている只見線の完乗を目指す旅である。越後側を乗車したのは、だいぶ以前のことで、一年に一度くらいしか山登りをしていない時期に、たまたま浅草岳から鬼ケ面を縦走した時に乗車したものである。その後、会津側を乗車する機会がないままに時が過ぎたが、数年前から自然災害で一部区間が不通となったと聞いていたので、復旧したら乗車しようかと思っていた。しかし、一向にの復旧する気配がなく、JR東日本はこのまま廃線にしてしまうつもりではないかという疑いもあるので、この際は代行バスを利用しても会津側の未乗車区間を乗車しておこうという気になった。

代行バスは本数が限られているので、午前中は新潟側で時間待ちをしなければならない。どうしたものかと思ったが、長岡に立ち寄ることを思いついた。長岡には仕事ではなんどか来たことがあるが、観光は初めてである。そして長岡といえば、河井継之助である。長岡にはその記念館もあるようなので時間潰しもできるし、その後に行く只見は長岡での新政府軍との戦いに敗れた河井継之助が会津に落ち延びて行く際に見附から八十里越えをしてたどり着いた地でもある。今日の行程は河井継之助を忍ぶ旅とも言えるもので、歴史好きでもある自分にとってはたまらないものである。そういえば、昨晩、新潟のホテルで見た英雄列伝という番組ではタイムリーに河井継之助が主人公となっていたのもなにかの因縁である。

記念館は駅から至近距離ではあるが、三日前の稚内まで歩いた時に悪化させた足の豆が痛むので結構つらいものであった。記念館はこじんまりとしたものであるが、展示物は結構豊富であった。それでもざーと見るには30分もあれば十分で時間が余ってしまった。そこで、近くにある山本五十六記念館にも立ち寄ってみた。奇しくも今日は山本五十六の130何回目の誕生日だそうで、そのためかどうかはわからないが、団体客が二組も入館していて大にぎわいであった。五十六は河井継之助とともに戦った長岡藩家老の山本家に養子に入ったそうで、見えない所で河井継之助とも繋がっているのが興味深かかった。この二人に共通するのは、高い志を持ちながらも、それが十分に生かされることなく、志半ばで命を落とさざるを得なかったことか
JR東日本乗り残し消化の旅2日目

駅への帰り道は歩いても大した距離ではないが、バスに乗っていく。こんな短い距離でバスに乗ることは通常ではないのだが、足の豆が痛かったこともあるが、当初乗る予定の電車は小出での乗り継ぎ時間が3分しかなくて慌ただしいため、観光も早めに終わったことでもあるし、一本前の電車に乗るためには早めに駅に戻る必要があるからである。

一本前の電車には十分間に合う時間に駅に着き、ホームに降りてみると、一本前の電車というのは越Sukula号という酔っぱらいのためのイベント電車で、指定席券が必要なことはともかくとして、途中から飯山線に入ってしまい、只見線の乗り換え駅である小出には行かないことがわかった。やむをえない。またダッシュをするか

長岡駅で車掌に小出駅での乗り換え位置を聞いておいたので、スムーズに只見線に乗り換えられた。ここまでは順調だったのだが、代行バスが出る予定の只見までは、雪崩で被害が出る恐れがあるため行くことができず大白川で折り返しとなること、また大白川から先は道路が決壊しているため代行バスもないことを知る。ガーンである。しかも折り返しの列車は夕方までないということである。
JR東日本乗り残し消化の旅2日目
ここまで来る途中でも斜面の雪がいつ落ちてもおかしくない状態だったのでやむをえまい。まあ今回は諦めることにしよう。幸いにも天気に恵まれて越後駒を始めとする山々の展望が見事なので、のんびりと景色を眺めて過ごし、只見線の会津側の乗車は他日を期すこととしよう。

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2015年4月 3日 (金)

JR東日本乗り残し消化の旅1日目

急行はまなすの指定席はちらほら空席もある状態だたが、隣席の人も知らないうちに空席に移動したようでゆったりと過ごすことができた。おかげで目が覚めた時には青函トンネルは通過して本州に上陸していた。青森までノンストップなのだが、時間調整のためか蟹田駅でしばらく停車していた。ちょうどここは太宰治の小説「津軽」の舞台となったところで、若い時に読んで以来、いつか旅してみたいと思いつつも、いつも通過するのみで未だに果たしていない。

列車は定刻どおりに青森に到着する。といっても通常ならば5時半頃に到着するのだが、4月からしばらくは青函トンネルの新幹線開業に向けての工事のため到着が6時過ぎに変更されてしまったようである。到着時間の変更は指定席券を買う時に初めて知り、少なからず慌ててしまった。というのは、未乗車の陸羽東線を経由して18切符で当日中に帰宅するために乗車予定であった電車の発車時間に間に合わなくなってしまうからである。そこで急遽、旅行の日程をもう一日延長して、他の未乗車区間も乗車する計画に変更することとした。

青森駅では乗り継ぎ時間に余裕ができることとなったため、これが見納めとなるであろう急行はまなすの写真をとってから八戸に向かう。青森駅まで新幹線が延長された時に第三セクターに移管された路線であるが、18切符でも乗車できることになっているらしい。
八戸で下車して立ち食いそばを食べてから盛岡に向かおうとしたら、電光掲示板に表示されている盛岡行きの電車の横には「18切符では乗車できません」とある。そうかIGRいわて銀河鉄道は昨年の北海道の帰りに18切符で花輪線経由で帰った時も好摩〜盛岡は料金を払ったことを思い出した。やむをえず切符を買おうと自販機の料金表を見ると3040円とそこそこの値段である。途中の目時までは青い森鉄道だから、そこで下車して次の電車に乗り継げば多少安くなるかもしれないが、後の行程が狂ってしまう。逆に新幹線を利用しても1200円ばかり高くなるだけだから、後の行程が楽になるのであればいいかなと調べてみると、盛岡からの各駅停車は同じ電車になることがわかった。そこで素直に切符を買うことにしたが、青森〜盛岡は旧国鉄やJR時代には乗車してるものの、第三セクターになってから乗車するのもいいかなと思い直した。

青い森鉄道からIGRいわて銀河鉄道に変わる目時駅は何の変鉄もない小さな駅であった。この駅で運営主体が変わっているのは多分このあたりで青森県から岩手県に変わるからであろう。新幹線も止まる二戸駅で長時間停車しているのでどうしたのかと思ったらJRの貨物に追い抜かれるのを待っていたのだ。安くない料金を払っているのだから貨物よりは優先して走らせろと文句のひとつも言いたくなった。

盛岡に到着してJRに乗り継ぐために一度改札を出てJRの改札に向かうのだが、その遠いことったらありゃしない。元々繋がっていた路線なのだからもっと近くに改札を作れただろうに何を考えていたんだろう。また、連絡通路をまっすぐ来ると、正面には新幹線の改札口しか見えず、間近まで行って初めて右に曲がると在来線の改札口が見えて来るのも困ったものだ。事情を知らない旅行者を新幹線に誘い込もうという魂胆かと勘ぐってしまう。

盛岡から一ノ関までは奥の細道を歩いた際に行き帰りによく乗った路線なので懐かしい。一ノ関駅では乗り継ぎ時間が11分あるので売店で昼飯代わりのものが買えるかと期待したが、ホーム上には売店がなかったのであきらめる。次の小牛田では乗り継ぎ時間が3分しかないので買い物は無理で、その次の鳴子温泉となると乗り継ぎ時間は20分ちょっとあるが、3時過ぎとなってしまうので、昨日のビールのつまみの残りでとりあえずは空腹をまぎらわす。

小牛田での乗り継ぎがうまくいくかどうかが今日の行程の成否を左右するので、電車が小牛田駅に近づくとすぐに出発できるようにはスタンバイする。1分遅れでホームに電車は入ったので乗り継ぎ時間は2分しかない計算だ。跨線橋を渡って行く隣のホームには上下線ともに列車がが停まっている。どっちの列車が鳴子温泉行きだ?足の痛みにもかかわらず、階段を走って滑り込む。後の方から来る人も乗れたようなので、それほど焦る必要もなかったのかもしれないが、今日一番のスリルを味わった。
JR東日本乗り残し消化の旅1日目

鳴子温泉駅では乗り継ぎ時間が十分あったので、サンドイッチを買い求めて遅い昼食を摂る。ここで新庄行きに乗り換えて終点に着くと、今日の第一目標の陸羽東線を完乗したことなる。新庄からは奥羽本線に乗り換えて山形に向かう。雨はかなり強くなってきたが、今日は外は歩かないので全く支障はない(今晩泊まる新潟のホテルも駅前だし)。山形駅で米沢行きに乗り換えていよいよ大詰め間近となる。

米沢では快速べにばな号にいよいよ今日最後の乗り換えを行って新潟に向かう。実に本日九回目の乗り換えである。米坂線は学生時代に山を登り始めた頃に向かった飯豊連峰で行きは新潟県側から入って越後下関駅から登りだしたが、山の上で集中豪雨にあって縦走を断念して山形県側にほうほうのていで下山して小国駅から米沢経由で帰京したものである。未乗車区間の距離は10キロ程度なのだが、奥深いところだけになかなか行く機会がなかったものである。飯豊連峰自体はその後再訪して、飯豊本山までの縦走を行ったが、山形側から入って会津側に抜けたので、未乗車区間はそのままであった。

米沢駅での乗り換え時間は8分あるので楽勝かと思ったが、米坂線のホームに着いても肝心の列車の姿が見えない。変だなあと思ったが、出発までまだ数分あったので、買い物するために改札を出かかった。だがすぐに思い直して米坂線のホームに戻ってはるか前方を見ると、今にも列車が走りだそうとしているではないか。猛然とスパートして辛うじて滑り込みセーフとなったが、危ういところで今までの苦労が水の泡となるとこだった。

天気が良くて明るい時間であれば、途中からは北側には朝日連峰、南側には飯豊連峰が車窓から眺められるはずであるが、暗闇の中ではただただ乗車することだけが目的の旅とならざるをえない。3時間弱という乗車時間は今日の青森以南では最長となるが、ひたすら我慢の子である。

座席もさほどこんではなかったので、ほとんど長椅子に横になっていたが、小国〜越後下関の間だけは未乗車区間なので起き上がって車窓を眺めていた(と言っても暗闇で何も見えないが)。米坂線の間は各駅停車だったが、坂町で羽越線に合流すると、本来の快速運転となり俄然スピードも上がってくる。こうして忍従の末にようやく今日の最終目的地の新潟駅に到着した。

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各駅停車で北海道縦断


各駅停車で北海道縦断
課題だった北海道の歩き残しはクリアできたので、後は気楽な鉄道の旅である。まずは日本最北端の駅であるの稚内駅から18切符を使って各駅停車で南下していくことにした。
各駅停車で北海道縦断

6時4分発の宗谷本線始発に乗り込む。日本海に浮かぶ利尻岳が朝日を浴びる姿を見たかったのだが、あいにく雲に覆われて姿を見ることはできなかった。まあ昨日で堪能したということにしておこう。

音威子府駅では特急への接続と反対方向の通過待ち合わせで1時間半もの停車があった。さすがに北海道である。次の駅は以前にテレビで秘境駅として紹介され、果たして乗降客がいるかどうかかレポートされていたが、本当に駅の回りには見渡す限りでは人家は一軒もなかった。

名寄で乗り換えて旭川に向かう。今回の行程では一番雪の多い地域っあるが、木々にはもう雪はなく、北の大地も確実に春に向かっているようだ。

旭川から先は岩見沢、白石と乗り継いで、苫小牧に到着した。列車は20分ほど遅れたが、元々乗り継ぎ時間が十分あったので、後の行程に影響が出なかったのはラッキーだった。苫小牧では街に出て夕食を摂る。
駅近くの居酒屋を検索すると駅近くにはなく、30分ほど歩いた国道近辺には数軒あるようだが、足も痛いし乗り継ぎ時間も限られているので、そんなに遠くまで行くわけにはいかないということで、駅近くの居酒屋っぽい食堂でおでんを肴に熱燗で改めて課題クリアの祝杯をあげる。

各駅停車で今日行ける一番南端は長万部であるが、苫小牧から長万部まで直行しても比較的早い時間についてしまい、その後に乗る予定の夜行の急行までの待ち合わせ時間が長くなるだけなので、東室蘭で乗り換えて室蘭まで足を延ばす。室蘭本線の列車はほとんどが東室蘭から室蘭には立ち寄らないので短い区間ではあるが、未乗車のままとなっていたため、この際に空き時間を利用して室蘭に寄ることにした。といっても室蘭に着いた列車がすぐに折り返して長万部に向かうので一度ホームに下車しただけの短い滞在時間である。この時に財布を車内に置き忘れてしまって一瞬焦るが、すぐに気が付いたので事なきをえた。室蘭自体は以前に洞爺湖マラソンの帰りに自転車で工場地帯を通過して街外れに一泊し、地球岬などの観光もしたことはあるので、ただJRで行くことだけが、今回の目的であった。

長万部で各駅停車の旅は一旦中断し、来春の北海道新幹線開業時に廃止が確実視されている夜行急行はまなすで青森に向かう。この急行にも何度かお世話になったが、おそらく今回が最後となるであろう。時の流れとは言え寂しい限りである。

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2015年4月 2日 (木)

北海道歩き残し消化の旅2日目

今日の行程は35キロ程度とさほどでもないのだが、足の調子が今一つで難渋も予想されるため、ホテルの朝食はパスして、昨日買っておいたコンビニ弁当を早朝から部屋で食べて始発バスで豊富に向かう。がら空きだった車内もいつしか通学する高校生で満員となったが、高校生が下車するとまたがら空きとなって終点の豊富に着く。

豊富の街外れから稚内近郊までの30数キロの間にはお店はおろか自動販売機すらなく、人家に出会うことすら稀とのことだったので豊富駅前で行動食を買ってから出発する。雪解けの始まった広大なサロベツ原野は昨日の日本海沿いを行く旅とは違った意味で北海道らしい風景で退屈することなく歩くことができた。おまけに日本海に浮かぶ利尻の端正な山容が間近に望まれて写真を撮りまくった。ちょうど樹木の切り開きがある地点まで来た時に下り列車が通りかかったので慌ててカメラを取り出したが、撮影チャンスを逃してしまった。絶好の撮影ポイントなので、それでは今度は上り列車を撮影しようと時刻を調べてみると、1日数本しか運行されないのに、後20分くらいで通過することがわかった。そこで少し早めの朝食昼食をとりながら列車を待っ。予想していた時刻に列車の警笛が聞こえてきた。カメラを構えて中央上部に利尻岳、その下に1両編成の列車という構図を思い浮かべていたが、シャッターを押すのが若干遅れて、列車全体を写しきれなかったものの、まずまずの写真が撮れた。
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そのうちに景色にも飽きてくると、たいした重さもない荷物が重く感じられるようになり、がっくりとペースが落ちてきた。そこで改めて計算しなおしてみると、今のペースのまま歩き続けると、ゴール地点から稚内駅までの最終バスに間に合わなくなる恐れがでてきた。そこで時速4キロまでスビードを上げることとし、15分ごとに1キロ前進したかどうかをチェックしながらの歩くことにした。これで気が紛れたようで、疲れもさほど感じなくなり、2時間ほどは時速4キロのベースにを維持することができた。

ゴールまで8キロの地点には6時頃に到着したが、最終バスまでは3時間以上あったので、歩みさへ止めなければ、間に合うことを確信した。安心して気の緩みが出たことと、夜道で足下が見えにくくなったことが重なってまたペースはおちていったが、確実にゴールは近づいてきた。最後にちょっとした峠を越えると眼下に稚内の街の灯りが広がり、やっと辿り着いたかという思いであった。

市街地に入り、国道が稚内方面と宗谷岬方面に分かれるところに出る。稚内から宗谷岬までは既に歩いているので、ここを今回のゴールと決めてあったので、近くにあるはずのバス停に向かう。

夕方バス会社に確認したバス時刻では最終の1本前にも十分な間に合うはずなのだが、肝心の潮見4丁目というバス停が見当たらない。だいぶ歩いてバス停があるにはあったが、停留所の名前は潮見3丁目となっており、表示されている行き先も時刻も事前に確認したものとは異なっている。頭が混乱してきたが、とりあえず最終の1本前のバスを待っ。ところが時刻をいくら待ってもバスは現れない。このままでは最終バスにも乗れなくなるのではと少々焦りだす。その時ふときづいたのは、今いる国道の裏手にもう1本の通りの少ない道路があることだった。4丁目のバス停はそちらにあるのではないかと裏通りに出て少し戻ると、そこに4丁目のバス停はあった。バス会社に電話した時に4丁目のバス停の場所も確認したのだが、もう少し親切に教えてくれればこんな苦労はしなくてすんだのにと文句を言いたくなった。とまれ、これでようやく歩くことから解放されて、あとは文明の利器の力を借りてホテルまで直行するだけだ。

ホテルでは腹ごしらえをした後、最上階の温泉に冷えきった体を浴し、疲れた体をリフレッシュしてから部屋に戻ってビールで無事目標達成を祝った。北海道で歩き残した箇所があることが、ずっと気にかかっていたので、今回それをクリアできたことは素直にうれしく思っている。

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