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2015年8月

2015年8月30日 (日)

国会包囲十万人集会

国会包囲十万人集会
安倍政権が目論んでいる9月11日頃の安保法案の参院通過を前の最後の大がかりな反対運動である国会包囲十万人集会に参加してきた。あいにくの雨模様にもかかわらず、今回の一連の運動のなかでは最大の参加者のようであった(主催者発表では12万人)。

まあいくら反対しようが、強行採決でもなんでもしてむりやり成立させてしまうのだろうが、結果よりも自分の意思を表現することが大事なのだと思う。それに法律ができたからといってすぐに日本が戦争をする国になってしまうわけでもあるまいし、次の選挙で自民党を政権の座から引きずり下ろして、この法律を廃止すればいいだけの話だ。アベノミックスの化けの皮は剥がれかかっているし、安倍政権の反動性も明らかになってきていて、その客観的条件はできつつあるように思う。

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2015年8月25日 (火)

思い出のアルパインルート   海外編

海外のアルパインルートとしては、アルプス、ヒマラヤの外にフリークライミングのメッカとされるヨセミテや東洋のヨセミテと呼ばれる韓国のインスボンのクラックのマルチルートも登っており、その中での困難性の高いものとしては八千メートルを無酸素で登ったガッシャーブルムⅡ峰や高度差800メートルの5級の大岩壁であるモンブランドタキュルのジェルバズッチ稜があげられるが、前者はシェルパが同行したものであるし、後者はガイド山行であるので、それらよりもスケールでは劣るものの、自力で苦労して登ったエギュードミディ南壁をあげたい。

前年のアンデス6千メートル峰速攻に成功後、次の目標としてアルプスの大岩壁が浮かび上がってきた。最初はどうせ行くなら目標は大きくということで、以前から山行をともにしていた友人と互いに身の程も知らずにグランドジョラス北壁のウォーカー稜を狙うことになった。ところが、そのトレーニングとして予定していた冬の滝谷や一ノ倉が諸事情で登れず、12月の小同心、3月の権現東稜、5月の屏風雲稜くらいしか登れなかったので、ミックス壁のトレーニングが絶対的に不足しているということで、フラットソールだけで登れるところとしてグランカピュサン東壁とミディ南壁が候補に上がった。ただ出発直前は天候不順が続き、外岩がほとんど登れない週末が続いたので、やむをえず比較的お手軽な(と、その時は思っていた)ミディ南壁に最終的に決定したので、かなりモチベーションが下がってしまったのは事実だ。

シャモニ到着後はアルプスの岩に慣れるためと天候待ちを兼ねて赤い針峰群等を登った後に、ミディ南壁に向かう。6時のミディ行きの始発のロープウェーを待つため1時間前に駅に着くと、既に先客がいて、その後も続々と人が集まってくる。この時間帯はまだ観光客がおらず登山者ばかりだが、いずれも縦走者のようでクライマーはいないようだった。6時過ぎにロープウェーに乗り込み、途中1回乗り換えて一気に3800メートルの頂上に向かう。頂上の建物の出口で運動靴にアイゼンを付けて歩き出そうとしたが、その道はプランの方に向かう縦走路のようで南壁に行けるかどうか確信が持てない。そこでまたアイゼンを外して展望台の方に行ってみると、やはり先ほどの道から途中で右に別れる道があるに違いないと思われ、戻って歩き出す。案の定、途中から道が別れてモンブラン方面に向けてミディを巻いていく道があった。しばらく行くと圧倒的なスケール(といっても200メートル程度だが)の南壁が現れてくる。
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取り付きまでの踏跡はかなり古いもので、やはりここしばらくは誰も取り付いていないことがわかる。我々はレビュファールートを行く予定だったが、相棒はトポを見ながらずっと左の方まで行ってしまう。私はレビュファーの本の概念図からみてもっと右の方だと主張して戻ると、取り付きと思われるところに着くことができた。

 レビュファールートはトポだと1ピッチ目はIV、2ピッチ目がVI、それからはV+が続いた跡、後半はVからIVと易しくなってくるとあり、一方、インターネットの情報ではオールフリーでVIIとある。いずれにしても我々はアブミを持参しておりオールフリーで登るつもりなど最初からなかった。取り付きまでの雪の斜面にステップをつけてからクライミングシューズに履き替えて8時に相棒が登りだすが、私がフォローするとなかなか登り甲斐があり、とてもIVとは思えない。

前夜、シャモニのスポーツ店でレビュファールートの支点の状況を確認したところ、支点が豊富でカムは不要だという情報を真に受けてしまい、中型のカム2個とナッツ1ダースを持参しただけとったが、どうもそれは昔のことのようで、現状はほとんど支点が見あたらない。

 2ピッチ目のⅥはほんのワンムーブでそれほど難しくもなく、そこから先は横に走るクラック沿いにトラバースをしていくが、ナッツが良く決まり安心して登れる。

2ピッチ目の終了点に着くと後続パーティーが追いついてきたが、彼らは我々よりも右の方のルートに向かう。

 3ピッチ目はオーバーハングの左の急なクラックを行くV+のピッチだ。相棒はナッツを決めるとアブミを取り出す。フリーで行くと充分10台はあると思われるところで、エイリアンを持ってこなかった我々としてはやむをえないところだ。相棒は人工にはあまり慣れていないと見えて、えらい時間をかけて登っている。その間に隣のルートに行ってしまった後続パーティーが結局はあきらめて取り付きに降りてしまった。代わって別パーティーのトップが1ピッチ目のビレー点まで登ってくる。相棒は相変わらず苦戦していて、たてつづけに2回もアブミを落とすので、思わず「何をやってるんだ!」と声を荒げてしまった。いずれも私がキャッチできたので、振り分けたザイルを降ろして回収してもらい人工を続けてなんとかこのピッチを終えたが、なんと1時間以上も時間をかけてしまいました。フォローの私はそんなに時間をかけるわけにはいかないので、A0で登り、ナッツはテンションをかけながら回収して登っていく。後続パーティーがそろそろ来るかなと思って下を見ても姿を見せないので、2ピッチ目で難渋しているのかもしれないと考えたが、後続パーティーに追い上げられないのは、精神的にはいいものだ。

 4ピッチ目は左上するV+のピッチで、ここを終えれば難しいところはあらかた終えたことになると思い、気合いを入れて登り出す。最初の数歩がデリケートな登りで、その後、ナッツで人工で登って行くのだが、ここでナッツが外れて数メートル墜落。幸いケガはなかったが、ナッツはやはりこわい。下を見ると後続パーティーは取り付きまで降りてしまっている。時間的に見て他のパーティーが来ることも考えられないので、壁は我々の貸し切り状態となった。順番待ちも珍しくないというレビュファールートでこんな状態になるというのは、コンディション不良を懸念して、みな取り付くのを控えたからだろうか。

ルートは易しいランペを登っていくが、カンテ気味のところを回り込むところがバランスを要して踏ん切りがつかない。ナッツがなかなか決まらず、ボルトははるか右下で大きくランナウトしており、ここで落ちたら振られて相当な墜落距離になると思うと、どうしても体が先に進まない。エイリアンでもあれば固め取りして突っ込んだかもしれないが、あきらめてランペの下まで戻る。ここから直上するワイド気味のクラックを見上げると途中に1本の古いクサビが残置してある。手持ちのカムでも奥の方にセットすれば使えるのではないかと考え、下で使ったカムを回収しながら登るという方法でなんとか手持ちのカムだけで登り切る(もちろん人工だが)。相棒にフォローしてもらうが、出だしでいきなりショックがかかる。墜落した際に小指の靱帯を切ったみたいで、小指が曲がらなくなってしまったといってくる。相棒が降りたいと言い出すのではないかとヒヤヒヤしながらも、小指を使わずに登ってくるように指示する。このピッチはなんとか登り切ってもらったが、もうリードはできそうもないというので、私がリードを続けることにする。

 レビュファールートだったら、そろそろ易しくなってくるはずだが、この直上するルートは人工はいやらしいところが多いし、フリーも非常に難しいものだ。必死で登っていたのでピッチ数がわからなくなってしまったが、相棒の話だと3ピッチあったそうだ。被り気味の深いコーナーに不安定な体勢でカムをセットするピッチでは非常に疲れたし、あるピッチでは途中でギアを使い果たしてしまい、きわどいバランスで下まで降りてビレーするなどの大奮闘で手の甲はキズだらけとなって血が吹き出し、ギアや服にも血のりがべっとりついてしまった。

 ようやくテラスに着き上部を見上げると、傾斜も少し落ちて終了も間近という感じとなった。時刻は7時過ぎだが、まだ充分明るい。振り返れば憧れのグランドジョラス北壁が夕日に照らされて眼前に眺められる。ウォーカー稜にはべったりと雪がついていて、とても我々の力では登れる状態とは思えなかった。

 ずっとリードを続けてきて精神的にも相当疲れたので、相棒にリードをお願いすることにした。ここからはやさしいだろうと思ったにもかかわらず、相棒はものすごい時間をかけて登っていく。9時を過ぎてあたりは暗くなってきたが、すぐに満月が現れたのでライトを着けなくても登れるほどだった。このピッチのフォローを終えると、また私がリードする。雪まじりの壁を登っていくが、途中のトラバースするところでバランスを崩してこの日2回目の墜落をしてしまう。こんなところで落ちるはずはないのだが、肉体的にも精神的にも相当消耗してしまったようだ。カムはしっかり効いていたので事なきを得たので、登り返すよりも左にトラバースする方に活路を求めることにしたが、その結果、ザイルが激しく屈曲する形となって、えらい苦労することになる。トラバースすると残置があり、そこからやや登ったところに小さい足場があったので、ピッチを切ることにしたが、ここでザイルが極端に重くなってしまった。墜落を止めてくれたカムのところで大きく屈曲していること、新品のザイルでキンクしやすいこと、二本とも同じカラビナを通していることのザイル同士の摩擦が重なって、ザイルの引き上げだけでもクタクタになってしまった。下からは相棒にガミガミ文句を言われるし、時間だけが空費していく。相棒がビレー点まで上がってきた時にはなんと零時を回っていた。

 このピッチのザイルの引き上げで精魂を使い果たしたので、ここでビバークして朝を迎えることにした。ビレー点の岩と隣の岩との間がチムニーのようになっていて風も当たらないように思えたので、その雪のつまった割れ目がビバークに適しているのではないかと話すと、相棒は整地してくると言って下へおりていく。相棒が整地している間、半ば放心状態で下の一般登山路脇のテント場を見ていると、いっせいに明かりがついて、モンブラン目指して列をなして登っていくのが見える。富士山で御来光を拝むように、モンブラン頂上で日の出を迎えようとしているのだろうか。

 整地をしていた相棒から声があり、足元に大きな穴があって、そこから風が吹き込んでくるのでビバークには適してないし、その穴から垂れ下がった私のザイルがどこかにひっかかってしまい回収できないと言う。相棒はビレー点でビバークするというので、交代で私が下に降りる。下でザックを降ろして中身を取り出しているときに、セーターとペットボトルが例の不思議な穴に吸い込まれて消えてしまった。朝から飲まず食わずに近い状態だったので、ショックは大きかったが、朝になってから少し頑張ればいいんだと思い直すと、少しは気楽になった。どうも疲れと脱水状態が加わって高度障害にかかったみたいで何度も吐き気をもよおすが、何も食べてないのでもどすものもないようだ。明るくなるまでの間、自分のザイルをなんとか回収しようと努めるが、ひっかかってしまたザイルはビクともしない。やむをえず、自分のザイルは放置して、残りのピッチはシングルザイルで行くことにした。

 まんじりともせず立ったまま胴ぶるいを続けていたが、明けない夜はない。やがて明るくなってきたので相棒のリードで出発することになった。暗闇の中では遠くに見えたヘッドウォールも明るくなってみると、すぐ真上だ。もうルートも困難なところはない。相棒のところまで達して、多分これが最終ピッチになるだろうと期待しながら私のリードに代わる。簡単な人工を登ってフリーに移るとどんどん傾斜が落ちて絶頂が見える。右手には展望台の観光客がこちらに手を振ったり写真をとったりしている。実働17時間でなんとか完登することができた。スタイルはどうであれ今回の目的をとにかく達成できたという喜びがジワっと湧いてくる。

 頂上から展望台へは途中の何カ所かの支点を利用して斜めに懸垂で降りるのが正解なのだが、なにも考えずに真っ直ぐ降りてしまったので、展望台よりもずっと下の方に降りてしまい、岩を利用しながら雪の斜面を這い上がるという無駄な努力をしてしまった。

展望台でガチャの整理を済ませてからロープウェーに乗ってシャモニに戻り、駅前のレストランで例によってビールで乾杯したが、食欲旺盛な相棒に対して私はほとんど食べられず、ただ脱水状態だったのでビールだけは3杯も飲んでしまった。早くテントに戻って横になりたかったが、相棒が帰りのバスを確認するために駅まで行くというので、しかたなくトボトボと後をついていく。結局、駅までいっても何も情報を得られず無駄足に終わった。相棒が明日の朝、駅にまた確認しに行ってくれるというので、その日はキャンプ場に戻り、バタンキューで寝てしまった。

 この登はんの後にグランドジョラス北壁ウォーカーバットレスへの憧れは増すばかりで、同行してくれるパートナーを求めたりしたが、結局はガイド山行となって2度チャレンジしたが、1回目は大量の降雪のため、2回目は逆に高温によって下山路の氷河の状態悪化のために断念せざるをえなくなり、その憧れは墓場まで持っていかざるをえなくなってしまった。

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思い出のアルパインルート  国内編

アルパインクライミングを止めることにしたのを機会に今まで登ってきたルートの中から思い出に残るルートについて書いてみることにした。国内編と海外編の2回に分け、今回は国内編である。 数多く登ったルートからこれ1本に絞ることは至難の業なので3本のルートをあげることとした。

1.屏風東稜冬季登攀

二十代後半になり、冬壁も八ヶ岳西壁や宝剣岳東壁を経験して、もっと本格的な冬壁を登ってみたいと思っていた頃、たまたま知りあった人から冬の屏風東壁に誘われて躊躇することなく話しに飛びついた。 大きな冬壁は初めてなので、それなりの準備をして本番に臨むこととした。当初は雲稜ルートを目指していたので11月下旬に偵察を兼ねて同ルートを登りに行った。核心部自体はそれほど苦労もなく終えたが、傾斜が落ちて雪のない時ならば易しくなるはずの上部の東壁ルンゼの部分が氷雪にまとわれて極端に悪くなっていて、そこを突破するのに消耗してしまい、終了点に辿り着いた時は疲労困憊状態となってしまった。その結果、さらに条件が厳しいことが予想される正月頃に登るには雲稜よりも東稜の方が現実的だろうとルートを変更することにした。

東稜は人工中心なので、同じく人工主体の大同心の雲稜ルートを本番を想定した装備で登ることにした。あいにくあまり雪がついておらず、冬壁トレーニングとしてはやや物足りなかったが、重い荷物を背負いながら、最後は夜間登はんとなってしまい、それなりに苦労して登りきることができ、いよいよ本番を迎えることとなった。

当時は冬場は沢渡までしか車が入らず、徳沢までは丸一日の歩きを余儀なくされた。パートナーの都合で正月明けの出発となってしまったため、行き交う人もなく静かな入山となった。 翌朝、徳沢でパートナーと合流するが、今回は彼の仲間も同行して3人バーディーで登ることとなった。横尾を経由して1ルンゼを雪崩を警戒しながら詰めていき、T4尾根の取り付きからローブをつけていく。
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今回は3人なのでオーダーは固定し、雲稜の時の相棒がトップ、私がセカンド、もう1人がラストとなる。 傾斜の緩いT4尾根には雪がベッタリとついていて11月の時以上に難渋し、結局T4まで到達することができずに雪稜でビバークすることとなる。翌朝、T4まで登ってみると正月に掘ったと見られる雪洞を発見する。中に入って休んでいると、あまりにも快適なため気持ちが緩んでしまい安易な方向に引きずられてしまう。行程が遅れていることもあり、慶応尾根経由で下山することはあきらめ、荷物はこの雪洞にデポし、身軽な装備で明日、1日で東稜をラッシュし、懸垂で戻ってくるというものであった。

東稜の取り付きまでは不安定なトラバースが続くので、ザイルをフィックスしてから雪洞に戻り、明日の登はんに備えて鋭気を養う。  翌日は薄暗いうちから行動開始、ザイルをフィックスしたおかげでスピーディーに東稜取り付きに達する。ここから本格的な登はんが開始する。するとリスが現れて我々が登ろうとするルートをササット駆け登っていく。「あんな風に登れたらいいのに」と笑いあう。T4尾根と違い、アブミの懸け代えだけなので順調にピッチを稼ぐ。だが3人のうち1人しか行動できないため、やはり時間がかかる。私は自分が登っている以外はトップかラストの確保のため寒風にたたきつけられても身動きすることもできず、つらいものがあった。

最終ピッチ前の左上にトラバースするピッチでラストをグリップビレーで確保していると、激しくザイルが流れグリップでかろうじてとめる。1個所フリーに移っていやらしいところがあったので多分そこで落ちたのだと思われる。けがはしていないようであるが、振られて空中にぶらさがっていているようである。そこで、プルージックでザイルを固定し、ラストにはアブミ用と腰用のプルージックをセットしてもらってボルトの地点まで自己脱出をしてもらう。ボルトの地点でセルフビレーをとってもらい、プルージックを外した上で再び登ってきてもらう。一連の作業は夢中だったのでわからなかったが、思ったより時間がかかってしまい、ラストを迎えたときには夕方となっていた。後1ピッチ、終了点の立木がすぐ頭上に見えるのだが、明るいうちに往復するのは無理と判断し、ようやく腰をかけられるだけの狭いテラスであるが、ここでビバークして翌日に終了点に到達後、懸垂で下降しようということになった。アイゼンや靴をつけたまま、かろうじて座っている状態でツェルトを被って一晩を耐え忍ぶことになったが、足が凍傷にやられないよう足の指は一晩中動かし続けた。夜半から天気は悪くなって降った雪が背中の後ろに積り、体を前に押しだそうとするのをこらえた。ツエルト1枚の外は確実に死の世界であることを感じた。日帰りの予定であったため、ろくな食料がなかったので、下界へ降りたら、天ぷらを食いたい、寿司を食いたい、ステーキを食いたいと食べ物の話で退屈を紛らわした。

朝になっても天候は回復せず、このまま登はんを続けることは論外であった。直ちに懸垂にとりかかる。途中、ハング下に支点があるところでは、空中懸垂のままハング下の支点まで振り子をしなければならず、少々苦労した。数ピッチの懸垂でT4まで降り、そこで荷物を回収してからさらに懸垂を続けて、下のルンゼにようやく降りることができた。これでやっと生還できたのだという実感が湧いてきた。上高地までの道のりはこの時期では通る人も少なく、場所によってはラッセルが必要となるところもあった。上高地を過ぎたあたりから我々と抜きつ抜かれつする一人の登山者がいた。真剣な顔つきで歩ているようであったが、特に気にとめることもなかった。我々の方が先に沢渡に着き、茶店でさっそくビールで乾杯しようとしているまさにそのときに、さきほどの登山者が入ってきて奥にいた街の服装をしている人たちに向かって「申し訳けありません」と言って深々と頭をさげた。遭難事故だったのである。それまで談笑していた我々もシュンとなってしまった。松本についてからは、美食に飢えていた我々3人はステーキ、天ぷらと店をはしごしたが、さすがに寿司まで食べる胃袋は持ち合わせていなかった。そのときはすべてに満足しきって幸せであったが、最後の1ピッチが登れなかった悔しさがこみあげてきたのはしばらくたってからのことである。

東稜は最後の1ピッチを残してしまったが、その数年後に別のメンバーと中央壁のダイレクトを登りに行った際に、途中でルートを間違えて東稜の取り付きであるT2にでてしまった。正しいルートに戻るのも面倒だし、相棒は東稜を登ったことがなく、自分も最終ピッチを登り残していたので東稜を登ったが、3時間もかからずに完登してしまい、冬登った時に苦労したこととの違いに驚いてしまった。以来、夏の東稜はイージールートであるとの印象が焼きつけられてしまったが、まさか後年にここで事故を起こし、ここが最後のアルパインルートになるなどとは知るよしもなかった。

なお、冬の東稜で終始トップを頑張った相棒とは、その後も、甲斐駒や屏風の継続とか冬の滝谷等にも出かけたが、いずれも尻切れトンボに終わってしまい、また冬壁自体も、より困難を求めて滝谷や一ノ倉にも何度か通ったが、たいした成果はあげられず、いずれも屏風東稜を超えることができなかったという点で、思い出のルートの一番に挙げるべきものと考えている。

2.幽ノ沢中央壁左フェース

30歳目前のその年は谷川岳の雪が遅く、11月中旬というのにまだクライミングができそうであった。一ノ倉のめぼしいルートは登ってしまい、残された大物というと滝沢第三スラブくらいしかないが(三スラはその年も2回挑戦したが、雨で登れず、翌々年にようやく登れた)、同行する会の後輩(年齢も会の在籍年数も私より上だが、経験が浅いという意味で後輩と記す)には荷が重いと考え、私がまだ足を踏み入れてない幽ノ沢を登ることにした。幽ノ沢はフリー主体のルートが多いのでバランスクライミングが比較的得意な後輩ならば、かなりのルートまで登れるであろうと考えて中央壁の初登ルートである左フェイスを登ることとする。同行者の実力、初めての岩場であることを考えれば、せめて正面フェースぐらいまでにグレードを落とすべきであったのだが。

紅葉の名残りのカールボーデンを経て左フェースに取り付く。下部を登って核心部のZピッチに入る。Zピッチの特長は頭にたたき込んでいたはずなのに、右にトラバースするラインをみつけられず、そのまま左上し続けてしまった。
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赤線はルート、黒線はZピッチでルートを間違えた部分

壁の傾斜は増し、ホールドは細かくなっていく。ルートを誤ったことに気づいたが、降りることもかなわず絶望的な登攀を続けた。後で知ったのであるが、初登者の名クライマー古川純一さんもこのピッチで最初は左上を続けたが、登れないので引き返してきたと、その著書で書いてあった、そのピッチを私はそのまま登り続けてしまったのである。今のデシマルでどのくらいのグレードかはわからないが、対実力比では間違いなく「生涯、最悪のピッチ」であった。おまけに20メートル以上もランナウト(途中で支点がとれなく、落ちれば大墜落となる箇所のこと)し、ザイルいっぱいとなったところでピッチをきったが、不安定な場所でハーケンも気休めに打った程度なので後輩がスリップすれば引きずりこまれる可能性が高かった。後輩も決して岩登りが下手ではないが、このピッチは完全に実力オーバーであり、さりとて直上するルートではないので強くザイルを張るわけにもいかず、後輩の一挙手一投足に合わせてザイルを微妙に引き上げていった。ザイルを通じて一心同体になるとはまさにこのときの状態であった。結局、後輩は一度もスリップせずにこのピッチを登りきったが、今もって何故後輩がこのような難しいピッチを登り切れたのかがわからない。  

そこから上部は今までと比べれば格段にやさしく、数ピッチでリッジに出た。中芝新道を下降したが、途中で真っ暗となってしまった。二度とやりたくない山行であった。

このルートは10数年前にZピッチの部分が崩壊して登れなくなったらしいが、最近は崩壊部分を避けてまた登られるようになったと聞いている。ひょっとして、私が登ったところを登っているのかもしれない。

3.明星南壁マニフェスト

体力技術ともにベストであった50代前半に、当時は最難ではないにしても、第1級の呼び声高かったこのルートを自分の究極の目標として挑戦したルートである。
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赤線はマニフェスト、黒線はフリースピリッツ
実線は登った部分、破線は未登部分

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左はフリースピリッツ、右はマニフェストルート(「日本のクラシックルート」より転載)

1ピッチ目はさほど難しくはないはずなのだが、ルートを間違えてしまいパワー全開となってしまう。2ピッチ目からもⅥを超えるピッチが連続して緊張が続く。やがて核心部の上部城塞に達する。グレード的にはここの10bよりも鷹ノ巣ハングの10dの方が難しいが、あちらは支点はたくさんあるようなのでフリーにさへこだわらなければさほど難しくはないようだ。それに対してこちらは10メートルほどランナウトしても次の支点が見当たらない。一度登ったことがあって支点の位置がわかっていれば、必死になってそこまで登るのであるが、どこまで登ればいいのかわからない状態でジリジリと伸びていくランナウトの恐怖にはついに勝てずに悔しいがクライムダウンを余儀なくされる。

後になって思えば、エイリアンをいくつか持っていたので、クラックに固め取りすれば、上部の支点まで行けたのではないかという気もするが、ランナウトするものだという思い込みがあったためにエイリアンを使うということに思いが至らなかった。 翌日は隣のフリースピリッツを登ったが、ワングレード違うだけで格段に易しく感じた(マニフェストは攻めまくるルート、フリースピリッツは逃げまくるルートとも呼ばれている)。その時のパートナーとはどういうかわけか一緒に登らなくなってしまったので、その後はマニフェストを登れるだけのパートナーを得られずに再チャレンジを行わないままに終わってしまった。

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2015年8月23日 (日)

さらばアルパイン

今年65歳になるのを機会に今年いっぱいでアルパインから足を洗うことを決めていたが、今回の事故でようやく足を洗うふんぎりがついたといってよい。

若い時と通算すると、アルパインをやっていた時期は25年間と四分の1世紀にもなる。その間には家族や関係者に心配や迷惑をかけ続けてきたことを深くお詫びをしたい。それと同時に長い間よく無事に登ってきたものだと思うとともに、その間に経験した喜び、辛さなどすべてのものが、自分にとっては珠玉のように大事なものとなっているし、自分の人生に計り知れない影響を与えてきたといってよいだろう。

自分が登ってきたルートの数を数えたことなどないが、100を優に越えていることは間違いない。そのうち、ガイドとともに登った数本を除くと、おおよそ3分の1は自分と力量がほぼ同等のものと、残りは自分より経験の浅い人と登ったことになると思うが、いずれの場合も1度もパートナーを死なせることなく、アルパイン人生を終えられたことをまずは喜びたい。このことは、全く幸運の賜物としか思えないが、自分としてはある意味で誇りに思っている。どんな素晴らしいルートを登ろうが、死んでまってはなんにもならない。パーティーが無事生還してこそ、なんぼであることを今回の事故を通して痛感した。

これからしばらくは年寄の繰りごとだが、今まで行ってきたアルパインの思い出に浸りたいので、よろしかったらお付き合いください。

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2015年8月22日 (土)

NGOに会員登録

難民支援等を行っているNGOの説明会に参加し、会員登録をしてきた。とりあえずは会報の発送作業に参加するつもりだが、無理のない範囲で活動範囲を広げていきたい。

今月65歳になったのを機にボランティア活動に参加することを決めて、適当なものがないか探していたが、まずは参加してみないことには話が先に進まないので、初めの一歩を踏み出すことにした。

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2015年8月15日 (土)

天皇制反対のデモ見物

終戦記念日の今日は、昼過ぎまでは終戦記念番組を見た後、夕方に靖国神社周辺で開かれる天皇制反対のデモを見に行く。天皇制をめぐる自分の立場は基本的には反対であるが、戦前の天皇制は海外侵略と人権抑圧を産み出した元凶と否定されるべきものであるが、戦後の象徴天皇制は日本人の精神構造に関する部分は別として、政治的な影響力もないし、平成天皇の人柄もあって、目くじらを立てるほどのこともないかなという感じで、積極的にデモに参加するつもりもなかったが、右翼による妨害が激しいと聞いていたので、一体どんなものか見てみたいという好奇心もあって出掛けてみた。

飯田橋に集合とのことであったが、一向にその姿がない。遠く靖国神社方面に警察の車が並んで見えたので、そちらに行ってみる。近づいてみると、そこから靖国神社までは右翼及びその同調者がびっしりと並んでいてまさに右翼の牙城という感がある。
遠くの方に隊列が見えたのでデモ隊が来たのかなと思ったが、そうではなくて戦没者慰霊の行進であったが、みな日の丸を掲げていたので、広い意味での右翼なのだろう。
天皇制反対のデモ見物
いつもこういう場所に身を置いたことがないので、居心地が悪くなり、デモ隊がやってくるであろう方向に進んでみる。

沿道にはカメラを構えた群衆が一杯で、道路の端には警官が切れ目なく立っていて、まるでなにかの記念パレードが始まるかのようであった。

やがてデモ隊がやってくるが、その数は数百人といった程度である。沿道から右翼が飛び出してデモ隊を妨害しようとするが、その度に機動隊にしっかりとガードされる。自分の若い頃は、ジグザグデモをしたりして機動隊と小競り合いをしたりしたものだが、今は機動隊がデモ隊のガードマンになってしまったかのようである。
天皇制反対のデモ見物

デモ隊が通り過ぎたので帰ることにしたが、その時ふと思ったのは、デモの際中は機動隊に守られているからいいが、解散後にプラカードやゼッケンというデモ参加者であることがわかる姿で右翼が群がる中に置かれてしまうのは怖いものがあるなということである。今なお厳然としてタブー視される天皇制反対を掲げて、右翼の牙城の靖国神社に終戦記念日を選んで乗り込むとは勇気のある連中だなあと妙に感心してしまった。

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あの戦争は避けられなかったのか

「あの戦争は避けられなかったのか」これは自分にとって永遠のテーマであり、十年来考え続けてきたが、いまだに明確な答えは出ていないものの、現時点での自分の考えを明らかにしてみたい。

「あの戦争は自衛のための戦争だった。」という意見が保守層にあるが、ABCD包囲網による経済的締め付けと、ハルノートによる当時の軍部にとっては絶対に呑めない条件の呈示という事実からは10年以内の短いスパンで考えると、全く否定しきってしまうわけにもいかないようにも思える。たしかに満州事変後の日本を巡る国内外の状況ではあの戦争の回避は困難であったと言わざるをえない。国内状況としては、治安維持法等による日本共産党から穏健な自由主義者までの徹底的な弾圧で戦争反対勢力を一掃してしまっていたし、国際的には満州事変に対するリットン調査団から始まって、中国人民の抵抗と欧米諸国の軍事支援による中国戦線の泥沼化そして既述のABCD包囲網といった一連の流れの中で、軍に自制を求めることはきわめて困難であったと言わざるをえない。この点はナチスドイツの周辺国への侵略に対して当初は英仏両国が黙認していたのとは対照的である。

やはりあの戦争はその根本的原因は近代日本の形成を行った明治維新そのものに求めるべきであろう。明治維新は政治構造としては従来の支配階級であった武士階級を消滅させてしまったという点においては革命の名に値しよう。しかしながら、経済構造としては 土地問題には手をつけず、地主小作関係を温存させてしまった点においては革命としてはきわめて不徹底なものといえよう。その結果として、その後の発展する資本主義に対応して生産力は増大するにも関わらず国内市場は狭く、必然的にその需給ギャップの解決の糸口を近隣諸国の侵略に求めるという体質を本質的に持っていたといえよう。これを打破する力は明治政府内部にはあり得ず(なにしろ、天皇家自身が日本最大の地主だったのだから)、秩父事件に代表されるような農民運動と結びついた自由民権運動に求められるべきであろう。

自由民権運動が挫折に終わった原因としては、運動自体の問題もあるだろうが、明治政府による徹底的な弾圧と幹部の懐柔が行われたためであろう。明治政府は成立当初は五ヶ条の御誓文にある「万機公論に決すべし」のような進歩的側面(この場合の公論とはもちろん国民の意見という意味ではないが)も有していたが、支配権を握った薩長出身者たちはいわゆる藩閥政治を行って、自己に反対する者は徹底的に弾圧を行った。坂本龍馬がもし生きていれば、藩閥政治が避けられたかどうかはわからないが、明治政府がもうすこし、自由民権運動に柔軟な姿勢を示し、運動側も農民運動と全国的な連携を持つことが出来れば、地主小作関係も大きな変化があったと考えられる。そして近隣諸国との関係も最も望ましい方向としては互恵的な関係で、列強の侵略に対抗していくという真の意味での大東亜共栄圏を成立させることもあながち夢ではなかったように思われる。 司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」で日露戦争後に日本という国家が変質してしまったと述べているようだが、現象的にはそのように見えても、本質的には日本という国家は明治維新以来、軍国主義の道を突き進んで来たというのが正しいのである。

最初に結論を述べてしまったが、その後においても軍国主義化を阻止する可能性がなかったかについても検討してみよう。 明治政府において、維新の三傑亡きあとは伊藤博文と山県有朋が権力を握り、伊藤は明治憲法の制定を行ったように立憲君主国家を目指していたが、山県は統帥権を内閣から独立させて、軍部を天皇直轄とさせたように専制君主国家を目指していたとされている。 伊藤は日露戦争後にハルピンで暗殺されてしまうが、山県はその後も元老として院政をしき、治安維持法を始め、かずかずのその後の暗黒時代を招く制度を直接または間接的に作り、日本の軍国主義化を招いた張本人とされ、伊藤が暗殺されずに山県の暴走にブレーキをかけていれば、日本の軍国主義化は避けられだのではないかという意見もある。たしかに統帥権の独立と治安維持法は日本の軍国主義化を考える場合の大きな要素ではあるが、仮に山県がそれらを作らなくても、その後の為政者は必要に応じて類似のものを作り、多少のスピードの遅さはあったとしても、軍国主義化の流れに変わりはなかったであろう。つまり、歴史の大きな流れは一人の人間の行動によって左右されるものではなく、経済構造とその上部構造である政治構造によって決定されるものなのだ。N HKでやっている「英雄たちの選択」のように一人の人間の選択が歴史を動かすなどということは、娯楽番組として見る限りは楽しいが、歴史観としては絶対に受け入れられないものである(もちろん、個々の局面で人間の選択が歴史に影響を与えることは否定しないが、それも経済構造によって許された範囲内でのことである)。

時代は下り、大正時代になって仇花のように咲いた大正デモクラシーの運動に軍国主義化を防ぐ可能性がなかったかどうかについて検討してみる。大正デモクラシーの成果は普通選挙の実施となって結実したが、決してそれ以上のものではなく、世界恐慌の襲来とともに沈静化し、国家総動員体制の中に組み込まれてしまったことが、大正デモクラシーの限界を表している。大正デモクラシーの理論的支柱ともいうべき吉野作造にしても、日本の海外侵略に対しては容認する立場をとっており、軍国主義化に対する批判者にはなりえなかったというのが現実である。その中にあって、東洋経済の誌上で論陣を張った石橋湛山(戦後は一時首相)と高橋亀吉(日本のケインジアンともいうべき人物で、金解禁に反対し、戦後は池田内閣の所得倍増政策に協力)だけは例外的に海外植民地の放棄を主張していたが、彼らにしても30年代に入ると、石橋は沈黙を守り、再び発言するのは戦後に政治家として登場するのを待たなければならなかったし、高橋は国家総動員体制の積極的協力者となってしまった。

日本の軍国主義化の原因を明治維新が地主小作制度を温存したことに求めたが、だからといって、個々の局面での人間の営みが無意味であるというわけではない。軍部特に陸軍がもう少し合理的な思考をもっていたならば、あるいは昭和天皇が戦争がもたらす惨禍についての洞察力をもっていたならば(開戦に際して昭和天皇の頭にあったのは勝利の可能性があるかどうかだったし、戦争末期の近衛上奏文を受け入れなかったことにより戦禍の拡大を招いた)、戦争は避けられないとしてもあのような破滅的な結末にはならずにソフトランディングすることも可能であったことは間違いない。

以上で戦前の軍国主義化に関する考察を終えるが、安部政権登場以来の特定秘密保護法、安保法制化の流れを見ると、再び戦争の足音が近づいてくる危険を感じずにはいられない。今のところは日本が独自で他国を侵略する客観的な条件は乏しいが、集団的自衛権の容認によって、アメリカの戦争に巻き込まれるリスクは確実に高まってしまう。このようなことは断じて許してはならない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

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2015年8月14日 (金)

「戦後70年東アジアフォーラム」に参加して

「戦後70年東アジアフォーラム」に参加して
終戦記念日を翌日に控えて開催された「戦後70年  東アジアフォーラム」に参加してきた。終戦記念日はアメリカとの太平洋戦争に敗れた日としてだけでなく、アジアとりわけ中国との15年戦争に敗れた日でもあるとの認識が不可欠であるということを前提に、東アジアにおいて日本が今後取るべき道を探ろうというフォーラムである。

基調報告の後、各分科会に別れてシンポジウムが開かれたが、「積極的平和主義」のシンポジウムに参加して安保法制の問題点の理解を深めてきた。いろいろと議論はでたが、一番強調されたのは、力によっては問題は解決されないということである。武力の行使は憎しみの連鎖を生み、平和に繋がらないことは、アフガンでしかり、イラクでしかりである。大事なことは外交その他の平和的手段を最大限に活用することである。と思ったら、テレビでの安倍晋三も70年談話で同じことを言っているではないか。安保法制でやろうとしていることと反対のことをヌケヌケとしゃべっている。どうも談話では国民の批判をかわすために、本心をオブラートでつつんで話しているようだ。

フォーラムの後、国会前での学生主体のSEALDSの集会に行ってみた。自民党の若手議員が彼らのことを自分たちが戦争に行きたくないから反対している利己主義者だととんちんかんな批判していたグループだ。

今まで参加してきた集会には若者が少なく寂しい思いをしてきたが、さすがに今回は私のようなオジンは参加が憚れると思ったら、なんと参加者は中高年が多いではないか。若者よどうした!

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2015年8月 9日 (日)

義務としての旅長崎編

義務としての旅長崎編
広島の時と違い、目的地からはさほど遠くない所に泊まったことと、被爆時間との関係で広島より式典開始時間が遅いこともあって、今日はゆっくりと出発することができた。昨日は駅からホテルまでだいぶ歩いたが、ホテルの近くに長崎行きのバス停があることに気づいたので、発車時間少し前にバス停に到着しておいた。

 

式典の場所を調べ忘れたので、車内でそれらしき人に目星をつけて、長崎市内に入って彼らが下車した時に一緒に降りて彼らの後をついていったが、どうも様子がおかしい。やけに小さい集会場のような所に向かって行くのである。その集会場は共産党系の集会がおこなわれるようであった。とんだ失敗をしてしまったので、携帯で式典までのルートを調べて、なんとか会場にたどり着くことができたが、会場前には長蛇の列ができている。広島でははなから会場に入ることは諦めていたが、今日は式典開始までしばらく時間があり、会場に入れる可能性があるように思えたので列に並ぶことにした。

 

列は牛歩ペースで進んだが、もうちょっとというところで、満席の表示が出てしまい、あとは退出者分だけ入場させるということなので、しばらくは入場できないだろう。広島の時と違い時間が遅いので、照りつける太陽の下で立ったままでいるのはつらいものである。被爆者の苦しみを思えば、これしきのことは大したことではないと思って耐えるしかない。

 

やがて式典が始まり、途中退出する人の分だけ入口に近づいていく。広島では市長からは安保法制への言及はなかったが、長崎市長からは危惧の念が表明され、被爆者代表からは明確に反対の表明があって、会場からは拍手喝采が起きる(もちろん自分もだが)。来賓の安倍晋三がどんな顔をして聞いていたか興味があったが、残念ながらまだ入場できないので顔を見ることはできなかった。式も後半になってようやく入場することができたが、入場できた途端に、来賓挨拶で安部のスビーチが始まったのには驚いた。安部の話しなどは聞きたくもないので、安部の顔を見なくてすむように後ろ向きになったが、さすがにそんなことをしているのは私だけだった。

 

式場を後にして、資料館に立ち寄って、今回の主要な目標は終えることができ、長年の懸案を果たしてホッとすることができた。できれば自分の子供が小さい頃に連れてきたかったが、あいにく機会がなかったので、孫が小学生になったらぜひ連れてきて、非核の思いを伝えていきたい。

 

その後、長崎を後にして島原に向かい、フェリーで熊本に渡り、孫のために「モノマネしてしゃべるクマモン」を買ってから、豊後竹田に向かった。

 

最後になるが、原爆投下の責任問題に言及してみたい。原爆投下が戦争終結を速め、多くの人命(特に米軍兵士)が失われることを回避させたという説がある。この説はアメリカの年配者には圧倒的に支持されているようで、私が3年前に自転車でロッキー横断をやった時も、crossing rockiesの上にNo more Fukushimaに続けてNo more Hiroshimaと書いたゼッケンをつけて走ることにした時は、現地で反発されるのではないかと心配したものである。実際はゼッケンは全く無視されて、反発云々は杞憂に終わったのだが。それはともかくして、この説の誤りは当時の日本の情勢を全く無視している点にある。すなわち、原爆投下直前の日本には戦争遂行能力は全く失われており、政府中枢はポツダム宣言受託はやむを得なしとの考えになっていたが、それに踏み切れなかったのは軍部の急進派が暴走することを恐れていたからである。

 

3月の東京大空襲で10万人の民間人の死者がでても戦争継続をやめようとしなかった軍部(とくに急進派)にとって、原爆による死者の増大はなんら戦争継続方針の支障にはならなかったことは明白である。しかしながら彼らにとって、唯一の戦争継続意思をくじけさせたかもしれないことは、アメリカが原爆を実用化させたという事実である。

 

日本においても仁科研究所等で一発逆転の最終兵器として原爆開発の研究がおこなわれたものの、原料のウランが調達できずに実験段階までにも至らなかったのだが、研究所の中では原爆研究の先進国である米独を含めて、その実用化は今回の戦争中は困難であるということは定説になっており、当然、それは軍部にも伝えられていただろうから、アメリカが原爆を実用化したということは、軍部に計り知れない衝撃を与えたことは想像に難くない。このことを強調すると、核兵器の戦争抑止論にもつながりかねないので、気をつけなければいけないが、もしアメリカが原爆投下による戦争の早期終結を望んでいたというならば、日本近海の無人島か北海道の無人に近い原野に投下しても、その目的は果たせたはずで、人口密集地に投下して多数の無実な人々を虐殺した行為は人類に対する犯罪として糾弾されなければならない。

 

結局、アメリカが原爆投下した真の理由は、よく言われているように戦後に予想されるソ連との対立を睨んで、アメリカの力を見せつけるためにおこなったものと言わざるをえない。またその投下計画はドイツとの交戦中であるにもかかわらず、一貫して日本だけを対象として行われており、これはアジア人蔑視からでたものに間違いない。

 

以上のようなアメリカの戦争犯罪の責任は国際司法裁判所その他の場で裁かれてしかるべきだが、自民党政権下では無理なのはともかくとして、民主党政権下でもそのような議論さへおこなわれなかったことは不思議でならない。

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2015年8月 8日 (土)

日本最西端の鉄道の旅

日本最西端の鉄道の旅 日本最西端の鉄道の旅 日本最西端の鉄道の旅
博多を早朝に出て、地下鉄空港線を経由してJR筑肥線で伊万里に向かう。筑肥線は途中の唐津で西唐津までの1駅区間だけの支線を分岐しているが、そちらを経由しても伊万里に到着する時刻は変わらないので寄り道をしておく。伊万里には9時半前に到着するが、松浦鉄道の次の発車時間までは30分くらいあったので、近くのスーパーでサンドイッチを買って遅い朝食を摂る。どうも今回の旅行ではろくな物を食べていない気がする。毎度のことではあるが。

 

松浦鉄道は日本最西端の鉄道として知られ、途中のたびら平戸駅は日本最西端の駅でもある。佐世保までの運賃よりも1日乗車券を買った方が若干安いようなので、途中下車の予定はないが、そちらを買う。1週間くらい後ならば65歳以上の特典で半額料金となるとのことで惜しいことをした。

 

たびら平戸駅は最西端の駅の看板がかかっているだけで何の変鉄もない駅である(最西端の駅の資料館はあるようだが)。次の電車までは1時間半近くの待ち時間があるようなので、最西端の駅の看板の写真を撮っただけで下車せずに素通りする。最北端の駅である宗谷駅は何回か利用しているので、あとは最東端の根室駅と最南端の西大山駅にも近いうちに行ってみよう。もっとも経度としては那覇空港駅の方が西にあるようだが、あちらはモノレールなので、鉄道の概念をはずれてしまうのかな。まあ那覇空港駅も利用したことはあるので、どちらが最西端の駅になってもよいのだが、因みにJRに限定すれば、最西端の駅は佐世保駅になるのかな?後で調べておこう。

 

佐世保駅では乗り換え時間が45分あるので、なにか名物でも食べようと佐世保のグルメを携帯で検索してみる。1位は佐世保バーガーだったが、これはもう全国版ということで外す。2位はチャンポンということで駅前の店もでていたが、長崎が本場だろうと、これも外す。その次にはハウステンボスにあるお店の名物料理がいくつかでていたが、これは問題外である。下位には佐世保ラーメンが載っており、その中にカラスミを使った黒いラーメンといのがあったので、これは面白そうだとグーグルマップで店を検索すると、駅からちょっと遠くてお店の滞在時間が30分以下となってしまうので、どうしたものかと思っていたところ、終点の2つ手前の駅で降りた方が店まで近いことがわかり、これならば比較的余裕をもって食事ができるだろうと、手前の駅で降りてそのお店に向かう。ところがグーグルマップには載っているのに、現地にはそのお店はないのである。狐につままれたような気分になってあたりを探してみるが、ないものはないのである。やむをえず、近くにあった別のラー
メン屋にはいる。まあ佐世保ラーメンには違いないだろうからいいかということで、その店での人気ラーメンを注文する。味は可もなし不可もなしといったところである。

 

佐世保からは再びJRで今日の目的地の諫早を目指す。途中の早岐の駅でホームの反対側に話題のななつぼしが停車しているのに出会い、なにやら得した気分になった。いつか、ななつぼしに乗る機会があるだろうか?

 

諫早で下車してホテルの場所を確認しようとしたら、どうもおかしい。駅近くのホテルは満室だったので、隣の西諫早の駅からはかなり遠くてインター近くのホテルに辛うじて空き室があったので、そこを予約したことを忘れていたのだ。

 

まだ日差しの強い時間帯を汗を流しながらホテルまでの長い道のりを歩く。3時過ぎにホテルに着くなどということは自分としては珍しいことだ。昨日は立ち寄り湯に入り損ねたが、今日のホテルには浴場があるので、久しぶりに浴槽に体を浸すことができた。コインランドリーもあったので、汗ばんだ衣類はすべて洗濯してさっぱりした気分になった。今日はもう外出せず、食事もすべてホテル内で済ませるつもりだ。こんな日がたまにあってもいいだろう。

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2015年8月 6日 (木)

義務としての旅 広島編

義務としての旅広島編
義務としての旅広島編
義務としての旅広島編
太平洋戦争において国内で最も被害を受けた地域としてあげたら、広島、長崎そして沖縄であることに異論はないであろう(死傷者の数としては東京大空襲も大きなものであるが、歴史的な意味も含めると、同列には論じられないだろう)。この三ヶ所については、仕事や観光では何度も訪れたことがあるが、戦争にまつわる施設等は訪問したことがなかった。潜在意識として怖いものは避けたいという気持ちがあったのかもしれないが、同時にそれらを訪れていないことに後ろめたさも感じ続けていた。今年は戦後70年であり、自分にとっても65歳という立派に老人の年齢に差し掛かる節目の年なので、今年行かずしていつ行くのかと言うことで広島、長崎の原爆式典に参加することにした。

この旅を思いついたときは、広島長崎ともに市内近郊でネットで予約できるホテルはすべて満室となっていたので、だいぶ手前の三原に宿を取らざるを得なかった。最初は広島長崎の間は自転車で行くつもりだったが、最短距離でも450キロもあって3日間で走破するには長すぎるし、この猛暑の中を行くのは体への負担が重すぎる。おまけに山で痛めた肩にとっても、長時間の走行による振動はよくないだろうと考え電車で移動することに変更した。その代わりに、できるだけJRの未乗車区間をつないで行くこととし、昨日も相生で新幹線と離れて赤穂線経由で来たし、今朝も広島までは呉線で行くことにした。

そんなわけでホテルを5時前に出て始発電車に乗る。広島駅に着いたのは式典の始まる10分ちょっと前でタクシーで原爆ドームに向かう。ドーム前には戦争法案反対や原発反対を訴えるグループが集会を開いていたが、式場近くは警戒が厳しくて近づけないのだろう。会場内は7時過ぎには満席となるそうなので、当然会場の外で立ったまま参加することになる。式典のスタート時間には間に合わなかったが、黙祷には間に合ってよかった。続いて広島市長のあいさつがあった。その後何人かの挨拶の後、安倍晋三がぬけぬけと出てきた。核武装も視野に入れた戦時体制の構築を着々と進めている人間が核兵器廃絶を願う場に来ること自体が笑止千万で野次ってやりたかったが、さすがにその勇気は出なかった。安倍ヒットラーの話しなと聞いてもしょうがないので、資料館に入ってしまう。自分と同じ気持ちかどうかはしらないが、資料館のほうも満員であった。特に目についたのは外人の姿であった。タクシーの運転手も今年は外人が多いと言ってたが、円安という背景もあるのだろうが、7
0年という節目の年のせいもあるだろう。
資料館自体は初めてであるものの、展示されている内容はテレビや新聞で何度も見たり聞いたりしたことばかりなので、特別の衝撃はなかったが、子供の頃に見た原爆被害を描いた映画「生きていて良かった」には大きな衝撃を受けたように、予備知識なしにこの資料館の展示を見れば衝撃を受けるだろう。このような体験は自分の子や孫に引き継いで行かなければならないとあらためて思った。

広島駅には予定よりも1時間くらい早く戻れたので、スケジュールを多少早められるかなと思ったが、岩国で乗り換えるローカル線の岩徳線は2時間に1本しかないので結局は同じ電車になってしまい、岩国駅では乗り換え時間が1時間くらいできてしまった。観光名所の錦帯橋はタクシーを使えば行ってこれそうだったが、くそ暑い時に駆け足で行ってもしょうがないので、少し早めの昼飯を食べて時間を潰す。

さらに宇部線、日田彦山線と未乗車線を乗り継いで大分県の日田駅に到着し、予約してあったホテルに泊まって、今日1日の長い行程を終えた。

今日はほぼ1日電車に乗りっぱなしだったので考える時間も十分あり、今までの来しかたからこれからの生き方までについて思いを巡らすことができた。

学生、サラリーマンといった本分を忘れて山登りにのめりこんでいった二十代、独立して仕事と家族に対する責任を果たすことに全力を注いだ三十代、四十代、子育てと親の介護から解放されてクライミングとマラソンに没頭することとなった五十代、特にその前半は自己の能力限界に挑戦できたという意味で、自分にとっては黄金の日々であった。そして六十代の前半は体力等の衰えを自覚しながらも、過去にとらわれて自分の目標を見つけられずに過去を引きずって生きてきてしまったと言える。

広島長崎の原爆の日は人類全体にとって、過去の過ちを懺悔する日であるが、自分にとっても、今回の被爆地巡礼は過去と決別し、新しい生き方を探す旅になる予感がしてならない。まだ具体的なものは見えてこないが、今までのように家族を含めて自分のために生きるのではなく、これからの残りの人生は世のため人のために生きていきたいと願っている。

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