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2015年8月 9日 (日)

義務としての旅長崎編

義務としての旅長崎編
広島の時と違い、目的地からはさほど遠くない所に泊まったことと、被爆時間との関係で広島より式典開始時間が遅いこともあって、今日はゆっくりと出発することができた。昨日は駅からホテルまでだいぶ歩いたが、ホテルの近くに長崎行きのバス停があることに気づいたので、発車時間少し前にバス停に到着しておいた。

 

式典の場所を調べ忘れたので、車内でそれらしき人に目星をつけて、長崎市内に入って彼らが下車した時に一緒に降りて彼らの後をついていったが、どうも様子がおかしい。やけに小さい集会場のような所に向かって行くのである。その集会場は共産党系の集会がおこなわれるようであった。とんだ失敗をしてしまったので、携帯で式典までのルートを調べて、なんとか会場にたどり着くことができたが、会場前には長蛇の列ができている。広島でははなから会場に入ることは諦めていたが、今日は式典開始までしばらく時間があり、会場に入れる可能性があるように思えたので列に並ぶことにした。

 

列は牛歩ペースで進んだが、もうちょっとというところで、満席の表示が出てしまい、あとは退出者分だけ入場させるということなので、しばらくは入場できないだろう。広島の時と違い時間が遅いので、照りつける太陽の下で立ったままでいるのはつらいものである。被爆者の苦しみを思えば、これしきのことは大したことではないと思って耐えるしかない。

 

やがて式典が始まり、途中退出する人の分だけ入口に近づいていく。広島では市長からは安保法制への言及はなかったが、長崎市長からは危惧の念が表明され、被爆者代表からは明確に反対の表明があって、会場からは拍手喝采が起きる(もちろん自分もだが)。来賓の安倍晋三がどんな顔をして聞いていたか興味があったが、残念ながらまだ入場できないので顔を見ることはできなかった。式も後半になってようやく入場することができたが、入場できた途端に、来賓挨拶で安部のスビーチが始まったのには驚いた。安部の話しなどは聞きたくもないので、安部の顔を見なくてすむように後ろ向きになったが、さすがにそんなことをしているのは私だけだった。

 

式場を後にして、資料館に立ち寄って、今回の主要な目標は終えることができ、長年の懸案を果たしてホッとすることができた。できれば自分の子供が小さい頃に連れてきたかったが、あいにく機会がなかったので、孫が小学生になったらぜひ連れてきて、非核の思いを伝えていきたい。

 

その後、長崎を後にして島原に向かい、フェリーで熊本に渡り、孫のために「モノマネしてしゃべるクマモン」を買ってから、豊後竹田に向かった。

 

最後になるが、原爆投下の責任問題に言及してみたい。原爆投下が戦争終結を速め、多くの人命(特に米軍兵士)が失われることを回避させたという説がある。この説はアメリカの年配者には圧倒的に支持されているようで、私が3年前に自転車でロッキー横断をやった時も、crossing rockiesの上にNo more Fukushimaに続けてNo more Hiroshimaと書いたゼッケンをつけて走ることにした時は、現地で反発されるのではないかと心配したものである。実際はゼッケンは全く無視されて、反発云々は杞憂に終わったのだが。それはともかくして、この説の誤りは当時の日本の情勢を全く無視している点にある。すなわち、原爆投下直前の日本には戦争遂行能力は全く失われており、政府中枢はポツダム宣言受託はやむを得なしとの考えになっていたが、それに踏み切れなかったのは軍部の急進派が暴走することを恐れていたからである。

 

3月の東京大空襲で10万人の民間人の死者がでても戦争継続をやめようとしなかった軍部(とくに急進派)にとって、原爆による死者の増大はなんら戦争継続方針の支障にはならなかったことは明白である。しかしながら彼らにとって、唯一の戦争継続意思をくじけさせたかもしれないことは、アメリカが原爆を実用化させたという事実である。

 

日本においても仁科研究所等で一発逆転の最終兵器として原爆開発の研究がおこなわれたものの、原料のウランが調達できずに実験段階までにも至らなかったのだが、研究所の中では原爆研究の先進国である米独を含めて、その実用化は今回の戦争中は困難であるということは定説になっており、当然、それは軍部にも伝えられていただろうから、アメリカが原爆を実用化したということは、軍部に計り知れない衝撃を与えたことは想像に難くない。このことを強調すると、核兵器の戦争抑止論にもつながりかねないので、気をつけなければいけないが、もしアメリカが原爆投下による戦争の早期終結を望んでいたというならば、日本近海の無人島か北海道の無人に近い原野に投下しても、その目的は果たせたはずで、人口密集地に投下して多数の無実な人々を虐殺した行為は人類に対する犯罪として糾弾されなければならない。

 

結局、アメリカが原爆投下した真の理由は、よく言われているように戦後に予想されるソ連との対立を睨んで、アメリカの力を見せつけるためにおこなったものと言わざるをえない。またその投下計画はドイツとの交戦中であるにもかかわらず、一貫して日本だけを対象として行われており、これはアジア人蔑視からでたものに間違いない。

 

以上のようなアメリカの戦争犯罪の責任は国際司法裁判所その他の場で裁かれてしかるべきだが、自民党政権下では無理なのはともかくとして、民主党政権下でもそのような議論さへおこなわれなかったことは不思議でならない。

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