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2015年8月15日 (土)

あの戦争は避けられなかったのか

「あの戦争は避けられなかったのか」これは自分にとって永遠のテーマであり、十年来考え続けてきたが、いまだに明確な答えは出ていないものの、現時点での自分の考えを明らかにしてみたい。

「あの戦争は自衛のための戦争だった。」という意見が保守層にあるが、ABCD包囲網による経済的締め付けと、ハルノートによる当時の軍部にとっては絶対に呑めない条件の呈示という事実からは10年以内の短いスパンで考えると、全く否定しきってしまうわけにもいかないようにも思える。たしかに満州事変後の日本を巡る国内外の状況ではあの戦争の回避は困難であったと言わざるをえない。国内状況としては、治安維持法等による日本共産党から穏健な自由主義者までの徹底的な弾圧で戦争反対勢力を一掃してしまっていたし、国際的には満州事変に対するリットン調査団から始まって、中国人民の抵抗と欧米諸国の軍事支援による中国戦線の泥沼化そして既述のABCD包囲網といった一連の流れの中で、軍に自制を求めることはきわめて困難であったと言わざるをえない。この点はナチスドイツの周辺国への侵略に対して当初は英仏両国が黙認していたのとは対照的である。

やはりあの戦争はその根本的原因は近代日本の形成を行った明治維新そのものに求めるべきであろう。明治維新は政治構造としては従来の支配階級であった武士階級を消滅させてしまったという点においては革命の名に値しよう。しかしながら、経済構造としては 土地問題には手をつけず、地主小作関係を温存させてしまった点においては革命としてはきわめて不徹底なものといえよう。その結果として、その後の発展する資本主義に対応して生産力は増大するにも関わらず国内市場は狭く、必然的にその需給ギャップの解決の糸口を近隣諸国の侵略に求めるという体質を本質的に持っていたといえよう。これを打破する力は明治政府内部にはあり得ず(なにしろ、天皇家自身が日本最大の地主だったのだから)、秩父事件に代表されるような農民運動と結びついた自由民権運動に求められるべきであろう。

自由民権運動が挫折に終わった原因としては、運動自体の問題もあるだろうが、明治政府による徹底的な弾圧と幹部の懐柔が行われたためであろう。明治政府は成立当初は五ヶ条の御誓文にある「万機公論に決すべし」のような進歩的側面(この場合の公論とはもちろん国民の意見という意味ではないが)も有していたが、支配権を握った薩長出身者たちはいわゆる藩閥政治を行って、自己に反対する者は徹底的に弾圧を行った。坂本龍馬がもし生きていれば、藩閥政治が避けられたかどうかはわからないが、明治政府がもうすこし、自由民権運動に柔軟な姿勢を示し、運動側も農民運動と全国的な連携を持つことが出来れば、地主小作関係も大きな変化があったと考えられる。そして近隣諸国との関係も最も望ましい方向としては互恵的な関係で、列強の侵略に対抗していくという真の意味での大東亜共栄圏を成立させることもあながち夢ではなかったように思われる。 司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」で日露戦争後に日本という国家が変質してしまったと述べているようだが、現象的にはそのように見えても、本質的には日本という国家は明治維新以来、軍国主義の道を突き進んで来たというのが正しいのである。

最初に結論を述べてしまったが、その後においても軍国主義化を阻止する可能性がなかったかについても検討してみよう。 明治政府において、維新の三傑亡きあとは伊藤博文と山県有朋が権力を握り、伊藤は明治憲法の制定を行ったように立憲君主国家を目指していたが、山県は統帥権を内閣から独立させて、軍部を天皇直轄とさせたように専制君主国家を目指していたとされている。 伊藤は日露戦争後にハルピンで暗殺されてしまうが、山県はその後も元老として院政をしき、治安維持法を始め、かずかずのその後の暗黒時代を招く制度を直接または間接的に作り、日本の軍国主義化を招いた張本人とされ、伊藤が暗殺されずに山県の暴走にブレーキをかけていれば、日本の軍国主義化は避けられだのではないかという意見もある。たしかに統帥権の独立と治安維持法は日本の軍国主義化を考える場合の大きな要素ではあるが、仮に山県がそれらを作らなくても、その後の為政者は必要に応じて類似のものを作り、多少のスピードの遅さはあったとしても、軍国主義化の流れに変わりはなかったであろう。つまり、歴史の大きな流れは一人の人間の行動によって左右されるものではなく、経済構造とその上部構造である政治構造によって決定されるものなのだ。N HKでやっている「英雄たちの選択」のように一人の人間の選択が歴史を動かすなどということは、娯楽番組として見る限りは楽しいが、歴史観としては絶対に受け入れられないものである(もちろん、個々の局面で人間の選択が歴史に影響を与えることは否定しないが、それも経済構造によって許された範囲内でのことである)。

時代は下り、大正時代になって仇花のように咲いた大正デモクラシーの運動に軍国主義化を防ぐ可能性がなかったかどうかについて検討してみる。大正デモクラシーの成果は普通選挙の実施となって結実したが、決してそれ以上のものではなく、世界恐慌の襲来とともに沈静化し、国家総動員体制の中に組み込まれてしまったことが、大正デモクラシーの限界を表している。大正デモクラシーの理論的支柱ともいうべき吉野作造にしても、日本の海外侵略に対しては容認する立場をとっており、軍国主義化に対する批判者にはなりえなかったというのが現実である。その中にあって、東洋経済の誌上で論陣を張った石橋湛山(戦後は一時首相)と高橋亀吉(日本のケインジアンともいうべき人物で、金解禁に反対し、戦後は池田内閣の所得倍増政策に協力)だけは例外的に海外植民地の放棄を主張していたが、彼らにしても30年代に入ると、石橋は沈黙を守り、再び発言するのは戦後に政治家として登場するのを待たなければならなかったし、高橋は国家総動員体制の積極的協力者となってしまった。

日本の軍国主義化の原因を明治維新が地主小作制度を温存したことに求めたが、だからといって、個々の局面での人間の営みが無意味であるというわけではない。軍部特に陸軍がもう少し合理的な思考をもっていたならば、あるいは昭和天皇が戦争がもたらす惨禍についての洞察力をもっていたならば(開戦に際して昭和天皇の頭にあったのは勝利の可能性があるかどうかだったし、戦争末期の近衛上奏文を受け入れなかったことにより戦禍の拡大を招いた)、戦争は避けられないとしてもあのような破滅的な結末にはならずにソフトランディングすることも可能であったことは間違いない。

以上で戦前の軍国主義化に関する考察を終えるが、安部政権登場以来の特定秘密保護法、安保法制化の流れを見ると、再び戦争の足音が近づいてくる危険を感じずにはいられない。今のところは日本が独自で他国を侵略する客観的な条件は乏しいが、集団的自衛権の容認によって、アメリカの戦争に巻き込まれるリスクは確実に高まってしまう。このようなことは断じて許してはならない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

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