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2015年8月25日 (火)

思い出のアルパインルート  国内編

アルパインクライミングを止めることにしたのを機会に今まで登ってきたルートの中から思い出に残るルートについて書いてみることにした。国内編と海外編の2回に分け、今回は国内編である。 数多く登ったルートからこれ1本に絞ることは至難の業なので3本のルートをあげることとした。

1.屏風東稜冬季登攀

二十代後半になり、冬壁も八ヶ岳西壁や宝剣岳東壁を経験して、もっと本格的な冬壁を登ってみたいと思っていた頃、たまたま知りあった人から冬の屏風東壁に誘われて躊躇することなく話しに飛びついた。 大きな冬壁は初めてなので、それなりの準備をして本番に臨むこととした。当初は雲稜ルートを目指していたので11月下旬に偵察を兼ねて同ルートを登りに行った。核心部自体はそれほど苦労もなく終えたが、傾斜が落ちて雪のない時ならば易しくなるはずの上部の東壁ルンゼの部分が氷雪にまとわれて極端に悪くなっていて、そこを突破するのに消耗してしまい、終了点に辿り着いた時は疲労困憊状態となってしまった。その結果、さらに条件が厳しいことが予想される正月頃に登るには雲稜よりも東稜の方が現実的だろうとルートを変更することにした。

東稜は人工中心なので、同じく人工主体の大同心の雲稜ルートを本番を想定した装備で登ることにした。あいにくあまり雪がついておらず、冬壁トレーニングとしてはやや物足りなかったが、重い荷物を背負いながら、最後は夜間登はんとなってしまい、それなりに苦労して登りきることができ、いよいよ本番を迎えることとなった。

当時は冬場は沢渡までしか車が入らず、徳沢までは丸一日の歩きを余儀なくされた。パートナーの都合で正月明けの出発となってしまったため、行き交う人もなく静かな入山となった。 翌朝、徳沢でパートナーと合流するが、今回は彼の仲間も同行して3人バーディーで登ることとなった。横尾を経由して1ルンゼを雪崩を警戒しながら詰めていき、T4尾根の取り付きからローブをつけていく。
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今回は3人なのでオーダーは固定し、雲稜の時の相棒がトップ、私がセカンド、もう1人がラストとなる。 傾斜の緩いT4尾根には雪がベッタリとついていて11月の時以上に難渋し、結局T4まで到達することができずに雪稜でビバークすることとなる。翌朝、T4まで登ってみると正月に掘ったと見られる雪洞を発見する。中に入って休んでいると、あまりにも快適なため気持ちが緩んでしまい安易な方向に引きずられてしまう。行程が遅れていることもあり、慶応尾根経由で下山することはあきらめ、荷物はこの雪洞にデポし、身軽な装備で明日、1日で東稜をラッシュし、懸垂で戻ってくるというものであった。

東稜の取り付きまでは不安定なトラバースが続くので、ザイルをフィックスしてから雪洞に戻り、明日の登はんに備えて鋭気を養う。  翌日は薄暗いうちから行動開始、ザイルをフィックスしたおかげでスピーディーに東稜取り付きに達する。ここから本格的な登はんが開始する。するとリスが現れて我々が登ろうとするルートをササット駆け登っていく。「あんな風に登れたらいいのに」と笑いあう。T4尾根と違い、アブミの懸け代えだけなので順調にピッチを稼ぐ。だが3人のうち1人しか行動できないため、やはり時間がかかる。私は自分が登っている以外はトップかラストの確保のため寒風にたたきつけられても身動きすることもできず、つらいものがあった。

最終ピッチ前の左上にトラバースするピッチでラストをグリップビレーで確保していると、激しくザイルが流れグリップでかろうじてとめる。1個所フリーに移っていやらしいところがあったので多分そこで落ちたのだと思われる。けがはしていないようであるが、振られて空中にぶらさがっていているようである。そこで、プルージックでザイルを固定し、ラストにはアブミ用と腰用のプルージックをセットしてもらってボルトの地点まで自己脱出をしてもらう。ボルトの地点でセルフビレーをとってもらい、プルージックを外した上で再び登ってきてもらう。一連の作業は夢中だったのでわからなかったが、思ったより時間がかかってしまい、ラストを迎えたときには夕方となっていた。後1ピッチ、終了点の立木がすぐ頭上に見えるのだが、明るいうちに往復するのは無理と判断し、ようやく腰をかけられるだけの狭いテラスであるが、ここでビバークして翌日に終了点に到達後、懸垂で下降しようということになった。アイゼンや靴をつけたまま、かろうじて座っている状態でツェルトを被って一晩を耐え忍ぶことになったが、足が凍傷にやられないよう足の指は一晩中動かし続けた。夜半から天気は悪くなって降った雪が背中の後ろに積り、体を前に押しだそうとするのをこらえた。ツエルト1枚の外は確実に死の世界であることを感じた。日帰りの予定であったため、ろくな食料がなかったので、下界へ降りたら、天ぷらを食いたい、寿司を食いたい、ステーキを食いたいと食べ物の話で退屈を紛らわした。

朝になっても天候は回復せず、このまま登はんを続けることは論外であった。直ちに懸垂にとりかかる。途中、ハング下に支点があるところでは、空中懸垂のままハング下の支点まで振り子をしなければならず、少々苦労した。数ピッチの懸垂でT4まで降り、そこで荷物を回収してからさらに懸垂を続けて、下のルンゼにようやく降りることができた。これでやっと生還できたのだという実感が湧いてきた。上高地までの道のりはこの時期では通る人も少なく、場所によってはラッセルが必要となるところもあった。上高地を過ぎたあたりから我々と抜きつ抜かれつする一人の登山者がいた。真剣な顔つきで歩ているようであったが、特に気にとめることもなかった。我々の方が先に沢渡に着き、茶店でさっそくビールで乾杯しようとしているまさにそのときに、さきほどの登山者が入ってきて奥にいた街の服装をしている人たちに向かって「申し訳けありません」と言って深々と頭をさげた。遭難事故だったのである。それまで談笑していた我々もシュンとなってしまった。松本についてからは、美食に飢えていた我々3人はステーキ、天ぷらと店をはしごしたが、さすがに寿司まで食べる胃袋は持ち合わせていなかった。そのときはすべてに満足しきって幸せであったが、最後の1ピッチが登れなかった悔しさがこみあげてきたのはしばらくたってからのことである。

東稜は最後の1ピッチを残してしまったが、その数年後に別のメンバーと中央壁のダイレクトを登りに行った際に、途中でルートを間違えて東稜の取り付きであるT2にでてしまった。正しいルートに戻るのも面倒だし、相棒は東稜を登ったことがなく、自分も最終ピッチを登り残していたので東稜を登ったが、3時間もかからずに完登してしまい、冬登った時に苦労したこととの違いに驚いてしまった。以来、夏の東稜はイージールートであるとの印象が焼きつけられてしまったが、まさか後年にここで事故を起こし、ここが最後のアルパインルートになるなどとは知るよしもなかった。

なお、冬の東稜で終始トップを頑張った相棒とは、その後も、甲斐駒や屏風の継続とか冬の滝谷等にも出かけたが、いずれも尻切れトンボに終わってしまい、また冬壁自体も、より困難を求めて滝谷や一ノ倉にも何度か通ったが、たいした成果はあげられず、いずれも屏風東稜を超えることができなかったという点で、思い出のルートの一番に挙げるべきものと考えている。

2.幽ノ沢中央壁左フェース

30歳目前のその年は谷川岳の雪が遅く、11月中旬というのにまだクライミングができそうであった。一ノ倉のめぼしいルートは登ってしまい、残された大物というと滝沢第三スラブくらいしかないが(三スラはその年も2回挑戦したが、雨で登れず、翌々年にようやく登れた)、同行する会の後輩(年齢も会の在籍年数も私より上だが、経験が浅いという意味で後輩と記す)には荷が重いと考え、私がまだ足を踏み入れてない幽ノ沢を登ることにした。幽ノ沢はフリー主体のルートが多いのでバランスクライミングが比較的得意な後輩ならば、かなりのルートまで登れるであろうと考えて中央壁の初登ルートである左フェイスを登ることとする。同行者の実力、初めての岩場であることを考えれば、せめて正面フェースぐらいまでにグレードを落とすべきであったのだが。

紅葉の名残りのカールボーデンを経て左フェースに取り付く。下部を登って核心部のZピッチに入る。Zピッチの特長は頭にたたき込んでいたはずなのに、右にトラバースするラインをみつけられず、そのまま左上し続けてしまった。
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赤線はルート、黒線はZピッチでルートを間違えた部分

壁の傾斜は増し、ホールドは細かくなっていく。ルートを誤ったことに気づいたが、降りることもかなわず絶望的な登攀を続けた。後で知ったのであるが、初登者の名クライマー古川純一さんもこのピッチで最初は左上を続けたが、登れないので引き返してきたと、その著書で書いてあった、そのピッチを私はそのまま登り続けてしまったのである。今のデシマルでどのくらいのグレードかはわからないが、対実力比では間違いなく「生涯、最悪のピッチ」であった。おまけに20メートル以上もランナウト(途中で支点がとれなく、落ちれば大墜落となる箇所のこと)し、ザイルいっぱいとなったところでピッチをきったが、不安定な場所でハーケンも気休めに打った程度なので後輩がスリップすれば引きずりこまれる可能性が高かった。後輩も決して岩登りが下手ではないが、このピッチは完全に実力オーバーであり、さりとて直上するルートではないので強くザイルを張るわけにもいかず、後輩の一挙手一投足に合わせてザイルを微妙に引き上げていった。ザイルを通じて一心同体になるとはまさにこのときの状態であった。結局、後輩は一度もスリップせずにこのピッチを登りきったが、今もって何故後輩がこのような難しいピッチを登り切れたのかがわからない。  

そこから上部は今までと比べれば格段にやさしく、数ピッチでリッジに出た。中芝新道を下降したが、途中で真っ暗となってしまった。二度とやりたくない山行であった。

このルートは10数年前にZピッチの部分が崩壊して登れなくなったらしいが、最近は崩壊部分を避けてまた登られるようになったと聞いている。ひょっとして、私が登ったところを登っているのかもしれない。

3.明星南壁マニフェスト

体力技術ともにベストであった50代前半に、当時は最難ではないにしても、第1級の呼び声高かったこのルートを自分の究極の目標として挑戦したルートである。
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赤線はマニフェスト、黒線はフリースピリッツ
実線は登った部分、破線は未登部分

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左はフリースピリッツ、右はマニフェストルート(「日本のクラシックルート」より転載)

1ピッチ目はさほど難しくはないはずなのだが、ルートを間違えてしまいパワー全開となってしまう。2ピッチ目からもⅥを超えるピッチが連続して緊張が続く。やがて核心部の上部城塞に達する。グレード的にはここの10bよりも鷹ノ巣ハングの10dの方が難しいが、あちらは支点はたくさんあるようなのでフリーにさへこだわらなければさほど難しくはないようだ。それに対してこちらは10メートルほどランナウトしても次の支点が見当たらない。一度登ったことがあって支点の位置がわかっていれば、必死になってそこまで登るのであるが、どこまで登ればいいのかわからない状態でジリジリと伸びていくランナウトの恐怖にはついに勝てずに悔しいがクライムダウンを余儀なくされる。

後になって思えば、エイリアンをいくつか持っていたので、クラックに固め取りすれば、上部の支点まで行けたのではないかという気もするが、ランナウトするものだという思い込みがあったためにエイリアンを使うということに思いが至らなかった。 翌日は隣のフリースピリッツを登ったが、ワングレード違うだけで格段に易しく感じた(マニフェストは攻めまくるルート、フリースピリッツは逃げまくるルートとも呼ばれている)。その時のパートナーとはどういうかわけか一緒に登らなくなってしまったので、その後はマニフェストを登れるだけのパートナーを得られずに再チャレンジを行わないままに終わってしまった。

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コメント

お久しぶりです。
思い出のルートにご一緒したルートがあるのは光栄です。屏風の件は心配しておりました。私はその後仕事に専念しつつフリーの維持だけは怠っていないので(当時より1グレード向上)機会があれば行けるのではないかと思います。

投稿: tatu500 | 2016年4月18日 (月) 21時04分

tatu500さん、おひさしぶりです。
屏風ではご心配をおかけしました。
ある段階で顛末報告をしなければいけませんが、まだ公表するには機が熟してないと思われますので、ご希望があれば個人的に報告することは可能です。

クライミングからは足を洗い、せいぜいボルダリングジムでプラスチックとたまに戯れるくらいですが、他にやりたいことはいっぱいあるし、市民運動やボランティアにも手を出しているので、それはそれで充実しています。

投稿: vibram | 2016年4月19日 (火) 09時57分

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