« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年12月

2015年12月31日 (木)

千葉北部札所巡り

豊橋から乗ったムーンライトながらが5時過ぎに東京駅につくとすぐに千葉駅に直行する。というのは一ヶ月後の指定席の予約を行う必要があり、通常は1ヶ月前の10時から予約受付となるのだが、多くの駅では6時から仮受付をしてくれるので、そちらの方が早く手続きがされるため人気切符をゲットできる確率が高いのだ。もっとも駅ネットを利用すればさらに1週間前に仮受付をしてくれるので、こちらの方がゲットの確率が高まるため、最近は早朝に並ぶということもなくなってしまっていた。ところが、今回予約しようとしている切符は例外的に駅ネットでは取り扱わない切符だったため、千葉駅に6時に着くようにしたのだ。

ところが、千葉駅のみどりの窓口に行くと、びっくりぽんというか、じぇじぇというか、10時までは受付ないし、仮受付もしないというではないか。やみをえず、時間的にはキツイが木更津郊外の札所を参拝してから10時までに千葉駅に戻ってくることにした。

札所巡りの順番は無視して30番の高蔵寺を目指して木更津駅を出発する。10キロ以下の距離なので、自転車組立とお参りの時間を加えても1時間見ておけば十分かと思ったが、登り坂に手こずったのとGPSでの進路確認のためにたびたび立ち止まったために走行時間だけても1時間近くかかってしまった。最後は急坂となっていたが、徒歩参拝者用近道と書いてある急な階段の所で自転車を乗り捨てて階段を駈け登る。

境内では初詣の準備にとりかかっていたが、さすがに大晦日に参拝に来ている人はいなかった。帰りは道もわかっているし、下り一方なのでスイスイと下れたが、千葉に10時までに戻れるかが気がかりでかなり焦っていた。Iモードで時刻は検索できるのだが、その時間も惜しんで前進した。駅に着くやいなや電光石火の早業で自転車を解体して、改札口に急いだが、しばらく千葉行きはなく、10時までには千葉には着けないことがわかった。一瞬は落胆したが、木更津駅でも申し込めるのではと思い直してみどりの窓口に出向くと、受付番号一番の予約票がもらえて10時になると目当ての指定券もゲットできて1件落着となった。

その後は銚子近辺の札所二ヶ所に向かうが、いずれも最寄り駅から歩いて行ける距離の所にあるため気楽な札所巡りということでのんびりした気分となってしまった。

銚子駅でホームに降りるとホームの先に銚子電鉄が停まっており、後5分ほどで発車だという。だが時間は13時でハラも減ってきたし、ここで食べておかないと食べる機会を逸するかもしれないので、次の銚子電鉄まで昼食をとることとし、駅前に出てみた。残念ながら食べられそうな店は皆無だったので、売店で鯖すしを買ってホームに戻る。

ホームで銚子電鉄の時刻表を見るとなんと1時間に1本しか本数がないのである。銚子電鉄は何度か乗ったことがあるが、そんなに超ローカルな電車だったっけ!そんなに長い間待っていられないので、自転車で行くことにしようと、携帯のグーグルマップで札所までの距離を調べてみる。するとたった1.5キロしかないではないか。これでは歩いて行ける距離だと思い直して寿司を食べ終わったら出発することにした。

札所に向けて最初は歩いていたのであるが、歩きながら銚子電鉄の時刻を調べていたら、頑張れば札所からの帰りは最寄りの駅を銚子駅に向かう電車に乗れるかもしれないということで俄然元気が出て駆け足となる。

まもなく派手な原色の第27番 飯沼観音が見えてくる。このまま最寄りの駅に直行すれば銚子行きの電車に間に合いそうだが、それではなんのために来たのかわからないので、帰りも歩く(走る?)こととしてゆっくりと参拝することにした。
千葉北部札所巡り

来るときは焦っていて裏口から入ってしまったので、帰りは表から境内を出ることにした。門前にはお店が立ち並び、明日はさぞかし賑わうことだろう。ここで銚子駅の時刻を調べてみると、次の電車には急げば間に合うかもしれないが、それを逃すと1時間待ちとなることがわかった。

酒の町なら酒を試飲して時間を潰すこともできるが、醤油の試飲と言うわけにはいかないので頑張って歩く(走る?)。そのお陰でギリギリセーフで電車に飛び乗る。今日の後半はノンビリのはずだったのに何でこうなってしまうのだろう?

本日最後の札所の第28番 滑河観音も駅から1.5キロ程度の距離で次の電車までは1時間以上あるので、正真正銘のノンビリ巡礼をすることができた。
千葉北部札所巡り
午前中は曇っていた空も見事に晴れ渡り、一年かけて行ってきた札所巡りにごくろうさんとねぎらってくれているようだった。帰り道のコンビニに立ち寄り、今回の旅が予定どおり終わったことを祝って、酒とつまみを買って車内で静かに祝杯をあげた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月30日 (水)

東海道海岸線沿いの旅二日目

熟睡はできなかったが、まずまずのビバークであった。半ば非合法的なやり方で泊まったので見つからないように暗いうちから出発する。伊良湖岬の手前で夜明けとなったので海が良く見えるサイクリングロードに移る。散歩している地元の人が、こんなに素晴らしい日の出は年に数回しかないといってたからラッキーだった。
東海道海岸線沿いの旅二日目
伊良湖岬も灯台あり、島崎藤村の「椰子の実」に歌われた美しい風景ありと隣の知多半島の先端の師崎よりは見るべきものが多い。日の出も含めて昨夜に伊良湖岬を通過してしまわなくてよかった。

昨日は渥美半島の南側を通ってきたので、今日は北側を行く。これから向かう蒲郡方面が良く見える。蒲郡までの道は産業道路を通っていくので横断歩道が少なく歩道橋や地下通路が多いため、自転車は何度も階段の登り降りをさせられて大変だった。

蒲郡まで行けば渥美半島一周は終わりであるが、知多半島を一周したときのゴールである高浜までもうひとがんばりをしてきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月29日 (火)

東海道海岸線沿いの旅一日目

東海道を歩いたのは6年前にもなるが、五街道としての東海道が海岸線近くを通っているのは驚くほど短い区間しかない。その後に何度か東海道海岸線沿いのコースを行ったが、美保の松原〜御前崎に行った際に、安倍川河口から焼津までの海岸線沿いの道が通行止めとなっていて迂回したため、まずはそのコースから手をつけることにした。

今日から正月休みとなるところが多いので、湘南新宿ラインは空いているだろうと思いきや、結構混んでいて臨海線の乗換駅である大崎でようやく座ることができた。平塚、熱海と乗り換えて10時過ぎに静岡駅で下車する。

ここから安倍川河口までは安倍川源流域からの下降の仕上げも兼ねるものであり、さらには親不知から日本アルブス主脈経由の太平洋までという日本列島横断コースの総仕上げを兼ねるものでもあった。

安倍川河口に行く途中に登呂遺跡があるので立ち寄る。今はあちこちから遺跡が発見されているが、自分が子供の頃はここが国内では唯一の遺跡だったように記憶している。奥の方に博物館もあったが、年末でお休みだった。
東海道海岸線沿いの旅一日目

安倍川を渡って焼津に向かう道に入ると、焼津方面通行止めの標識があり以前のままだ。1年以上も通行止めが続いているとは信じられない。前回はここで引き返したのだが、自分の目で確認しないと信用できないので前進する。

かなりの登りとなってぐんぐん高度を上げていく。振り返ると駿河湾と静岡市内の街並みの背後に富士山が望まれて素晴らしい眺めである。

峠まで登りつめるて、そこから先は焼津市でゆるやかに下っていく。ひょっとして通行止めはなくなったのかなという淡い期待も抱かせたが、それもすぐに打ち砕かれた。前方に厳重に封鎖されたトンネルが現れたからである。これで諦めもつき、またしても引き返すこととなった。それにしても長期間にわたって通行止めが解除されないというのが不可解である。一見したところでは最近工事が行われた形跡も見られなかったので、予算等の関係で工事がストップしたままなのかもしれない。山を越えた所には国道が走っており、通行止めのままでも大きな障害はないのだろう。

来た道を用宗駅まで戻り、これからの方針を検討する。もう少し戻って国道に出れば焼津まで行けるのであるが、途中にあるトンネルが自転車は通れないという情報もあり、また引き返すのはいやなので、さきほど焼津市内にわずかとはいえ足を踏み入れたこともあり、このまま電車に乗ってしまい、焼津は素通りしてしまうことにした。、

舞阪で下車して渥美半島の先端の伊良湖岬を目指す。国道1号線から伊良湖岬に分岐する道がわかりにくく、時間を浪費してしまう。予定では今夜中に伊良湖岬を回って田原に至り、電車で豊橋まで戻れば泊まる所はいくらでもあるだろうという楽観的な計画であった。ところが行程の遅れから、伊良湖岬経由で田原に廻っても、豊橋行きの最終には間に合わないことが確実視されるようになった。最初はその場合には田原駅で仮眠して翌日は田原駅から行程を進めるつもりであったが、せっかく伊良湖岬まで来ながら真っ暗の中を通過してしまうのは勿体無いという気がしたのと、明日の行程は比較的余裕があるので、無理して今日中に田原まで行く必要もないと思い直して、泊まれるところがあったら泊まってしまおうと民宿に連絡してみたが、断られてしまった。よく考えてみれば当たり前で、一番の稼ぎ時に予約なしで泊まれると考えた方が間違っていた。

さあてどうするかと思っていたところ、伊良湖岬の手前10キロくらいにさしかかった時に、バス停の横に立派な待合室の小屋があるのを発見した。今日は北風が吹いているが出口は南向きなので風も防ぐことができるし、持ってきた衣類を全て着込めば、上等なビバークもできる。途中のコンビニで酒もつまみも十分仕込んできたので、申し分のないビバークである。ではお休みなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月23日 (水)

年賀状作戦・お友達作戦

今年後半は戦争法反対をきっかけとして市民運動に明け暮れてしまったが、達成感というものは全くなく、無力感だけが残ってしまった。それでも何かやらねばと言う気持ちだけは募るばかりである。自分でもできることは何かと考えた末に思いついたのが、時節柄でもあり、年賀状作戦である。

年賀状は儀礼的なものであり、本心ではやめたいと思っていたが、せっかく出すのであれば有効活用しない手はないと考えて、今回の年賀状は戦争法や原発その他についての自分の考えを「新年の願い」として書いたものにすることにした。
新年早々にこんなものを読まされて気分を害する方もいらっしゃると思い、お詫びの文言も書き加えてはおいたが、それでも許してもらえずに今後の私との関係に悪影響が出ることがあるとしたら、それはそれで仕方のないことだと考えている。また中には明らかに右寄りの考え方をしていて、私の考えに同調してもらえないことがわかっている人にも同じ内容で送ろうと思っている。その人の交遊関係の中にはこういう考えの人もいるのだということを知ってもらうだけでも意味はあると思うからである。

この年賀状を出した直後に総がかり実行委員会が進めている戦争法に反対する2000万人署名運動の署名用紙を送りつけようと思っている。見ず知らずの人からではなく、「お友達」から送られてきたものであれば、そう邪険に扱われないのではという希望的観測もしている。またこの用紙がいきなり私から送られると気でも違ったのかと思われかねないが、年賀状での私の考えを読んでもらった後ならば多少は抵抗感が薄らぐのではないかと期待している。

手間と費用をかけて送っても果たして何人の方が署名してもらえるかわからないし、仮に2000万人署名が達成できたとしても、安倍政権は無視するか、捏造されたものだとして存在を否定して、政策に影響を及ぼす可能性は低いといえよう。ただそのことはマスコミには取り上げられるだろうし、その結果として来年の参院選における選挙民の意識に多少の影響を与えることは期待できるだろう。それはともかくとして、このブログを読んでいただいている方にも私から年賀状や署名用紙が届くかもしれませんが、その節はよろしくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

只見線「全線」乗車

新潟県の小出から福島県の会津若松までをつないでいる只見線はかなり昔、浅草岳を登るために新潟側から入って、只見駅の1つ手前の今は廃止となってしまった田子倉駅までは乗ったことがあるが、福島県内はほとんどが未乗車のままであった。その後、2011年の豪雨で只見〜会津川口が不通となって代行バスが運行されているが、赤字路線のため、鉄道自体の復旧の可能性はほとんどないまま現在に至っている。今春、北海道からの帰りに乗車を試みたが、只見のひとつ手前の大白川まで行ったところ、雪崩の危険性のために只見までは不通となっていて行かれず、今回はそのリベンジとなる。

只見発の代行バスは午後は一本だけで、これに乗るためにはさほど早く家を出る必要はないのだが、今回はもうひとつ目的をがあって早朝に家を出た。それは太平洋と日本海をつなぐ日本列島横断を行うために土樽から越後湯沢までの約10キロを走ることにしているからである。日本列島横断は親不知から静岡までの日本アルプス稜線は歩いて(山脈間は走って) 繋げたし、奥秩父中央の甲武信岳の東面を水源とする荒川はほとんどを走って踏破し、西面を水源とする信濃川はほとんどを自転車で走破しているのだが(いずれも山頂付近は歩き)、今回は太平洋側は水上までは利根川沿いに自転車で走破しており、そこから先は走りと歩きで国境尾根を越えて土樽までは達している。一方、土樽から北は、すでに自転車で走破している信濃川との合流点である越後川口までは60キロ弱なので、自転車で走破することは困難ではない。ただし、今回は代行バスを利用するので、持ち込みができるかどうかがわからない自転車を使うわけにはいかない。また以前に巻機山を登る
際に始発電車に間に合わせるために越後湯沢から石打まで走ったことがあるので、せっかく走った距離を生かすためにも、土樽から越後湯沢までは走らざるをえないのだ。

高崎、水上と乗り継いで土樽には10時過ぎに着く。山の中の人家もない駅である。越後湯沢までは10キロ弱だが、2時間ちょっとの時間があるので、急ぎ足で歩いても間に合うし、走力の衰えた自分でも余裕で行けそうだ。

走り出して30分ほどした頃にGPSで現在地を確認すると、ナビの経路よりも少しずれている。GPSの誤差の範囲内だろうときにしなかったが、しばらくすると舗装道路は終わっており、細い踏みあとが続いているだけであった。GPSの地図を拡大してみると、予定していた道と平行している小道の上にいることがわかったが、予定していた道との間には川があり、膝くらいまでの徒渉をしないと渡れそうもないように思えた。山ならばいざ知らず、徒渉は論外なので道を戻ることも考えたが、かなり戻らなければならす、予定していた電車に間に合わなくなる可能性も出てくるので少々焦ってくる。そこで拡大した地図の小道の先を追ってみると、予定していた道がしばらく先で川を越えて今進んでいる小道と合流することがわかりホッとする。

越後湯沢には予定していた電車の発車時間の20分前には着き、食事する時間も取ることができた(と言っても立ち食いソバだが)

越後湯沢を出発すると間もなく右手に雪をいただいた越後三山が見えてくる。景色を飽かずに眺めていると小出駅に着き、只見線に乗り換える。前回は乗車してすぐに代行バスがない旨のアナウンスがあり、大慌てとなったが、今日は「只見線と代行バスは冬季は遅れて時刻表どおりには運行しない」とのアナウンスがあった。今回は18切符を利用した各駅停車の旅で、最終近くに帰京予定なので、間に合わなくなる可能性もあるかなと少し心配になったが、その時は新幹線に乗って帰ればいいだけの話だ。

只見駅には予定時刻に到着し、代行バスに乗り換える。
Dsc_0299
マイクロバスは八割方の乗車率であるが、ほとんどが18切符の利用者のようだ。運転手は女性であるが、えらく愛想の良い人で、行き交う人には通行人、ダンプの運転手、工事現場の作業員と誰かを問わず会釈して手を振っていた。こんな人は初めてみた。

代行バスがは只見線に沿って走るが、しばらくは外見上は線路に損傷は見られず、なぜ不通になっているのかと思われたが、会津川口が近づくと、鉄橋の橋桁が落ちている所が何ヵ所か見られ、復旧費用に見合うだけの経済効果をJRは見いだしてないのだろうなと思われた。
Dsc_0298_3

会津川口からは再び只見線に乗車する。ここまでは予定時刻どおり来ており、沿線にも雪はほとんどないので、ダイヤの遅れはないのかなと思ったが、先週末から3月いっぱいはスピードを落として運行するので会津若松には20分近く遅れて到着するとのことで、そんなに杓子定規にやらなくてもと気がしないこともなかったが、元々会津若松では乗り換え時間を十分にとってあったので、行程には特に支障は生じない見込みである。

結局、会津若松には15分遅れで到着したため乗り換え時間もさほど短くはならずに済んだが、ゆっくり食事するほどの時間はなかったので弁当と酒を買い込んで磐越西線に乗り込み、只見線全線乗車の旅は終わった。後は退屈な各駅停車の旅を続けて帰宅するだけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月20日 (日)

茨城北部札所巡り

今日12月19日は戦争法が強行採決されてから3か月目にあたる。前2回の19日は平日にもかかわらず、4千5百人が国会前に集まったので、土曜日となる今回は久しぶりに万単位の人が集まるだろうと期待していたら、なんたることか、今回は国会前ではやらずに屋内で講演会を行うとのことである。全国的には多数の集会が開かれるというのに、お膝元の東京中心部で開かれないとは・・・
そこでやむをえず、やり残している茨城北部の札所巡りを行うことにしたが、列車移動期間中は、自転車を収容している袋にメッセージを書いた紙をぶら下げ、自転車走行中は(あまり、人には会わないだろうけど)、背中のザックに「アベ政治を許さない」のメッセージを張り付けて抗議の意思表示を行うことにした。
茨城北部札所巡り

今回最初に行く21番札所の日輪寺は福島との県境にある茨城県の最高峰の八溝山の中腹にある。八溝山に以前に自転車で出かけた時にすぐ近くを通ったので立ち寄ればよかったのだが、その時は札所巡りをするなどということは考えてもなかったので、立ち寄らずに通り過ぎてしまい惜しいことをしてしまった。この札所は最寄りの水郡線から距離にして20キロ以上、標高差にして800メートル近くあるという坂東三十三札所の中では屈指の難所である。もっとも、途中まではバスがあり、自転車の持ち込みも可能であることは確認済みなので、片道だけ利用させてもらうことにより時間短縮を図り、できればあと二つの札所も巡って、茨城県の札所はすべてクリアしたいと思っている。

水戸を4分遅れで出発したので、常陸大子でバス乗換時間が5分しかないことから少々心配したが、途中遅れは取り戻したようで、ほぼ定刻どおりに着き、バスにもなんとか乗り込むことができた。バスで輪行するのは国内では初めてである。

バスを降りて急いで自転車を組み立てる。水郡線に降りてからの電車の時刻の関係で大急ぎで済ませたため10分余りで終わり、すぐに出発するが、まもなく急な登りとなり、たまらず降りて歩きだす。それからも傾斜の緩い所以外は歩いたため結構時間がかかり、予定していた電車に乗るのは難しくなってくる。

携帯のGPSは圏外となって使えなくなるし、タブレットのGPSもスリープ状態にしてあったせいかメモリー不足できかなくなり、再起動するのも煩わしいため現在位置がわからないまま登っていると、傾斜が緩くなったなと思ったら左に日輪寺に向かう道が分岐していた。

日輪寺は結構賑わっていたが、みなさん車で来ていらっしゃるようだ。車で来れば全く楽な札所になってしまう。なお本日の北限となるので放射線量を測ってみると、時間あたり230マイクロシーベルであった。年間の安全基準が1ミリシーベルだから、1時間あたりにすると約110マイクロシーベルとなるのに対して倍以上の数値だ。短時間いる分には全く問題はないのだが、福島県内だけでなく隣接県においても居住するとなると健康面の心配をせざるをえないのだろう。原発の被害の深刻さを思わずにはいられない。
茨城北部札所巡り

予定していた電車には乗れそうもないので1時間半後の電車に乗ることにしたのでのんびりと下り始める。こんな所を登って来たのかと思うほどの急な坂でブレーキをかけっぱなしで降りていく。登りは汗をかいた道も下りはこの冬一番の寒気を含んだ風に吹かれるとたちまち体が冷え込んでくる。傾斜が緩くなってきたあたりで陽もさしてきたので、少しは寒さもやわらいできた。

水郡線まで降りてきたところで、次の22番札所の佐竹寺までの行き方を考える。このまま自転車で佐竹寺まで直行しても、駅で30分くらい待って常陸太田までまわっていっても、時間は大差ないのである。すっかり冷えきってしまい自転車で行くのはしんどい気がしたので電車で行くことにした。

上菅谷で30分ほど待ち合わせてから常陸太田に向かう。この路線は水郡線の盲腸のような支線で、以前にわざわざ遠回りして乗りにきたことがあったが、今回来ることがわかっていれば来ることもなかったわけだ。

常陸太田駅から佐竹寺までは往復で約5キロの半端な距離である。自転車の組立と収納の時間を考えると走った方が早いように思うし、次の電車までは50分あるのでじゅうぶん間に合うと判断して、短い間だからと自転車は袋に入れたまま駅に放置して札所に向けてダッシュするつもりであった。ところが、終点の二つ前の駅を出て橋を渡っている時に窓の下の方にちらりと人影が見えた。こんな所に人がいるわけないし見間違いだろうと思ったら電車が急停車する。最後尾車両の車掌室の所に人が集まっているので覗いて見ると、なんと鉄橋の線路の横の保守用の側道に人がいるではないか。早く引き上げて発車すればいいのにと思うのだがなぜかモタモタしている。その時だった。自転車が引き上げられたのでビックリした。なんとあの狭い側道を自転車で渡っていたのだ。多分、近道をしようと鉄橋の側道を渡っていたのだが、途中で怖くなって立ち往生してしまったのだろう。線路内に人が立ち入ったということはよくアナウンスされるが、自殺未遂だとばかり思っていたら、こんなケー
スもあるんだ。それにしてもはた迷惑な人だ。

終点には13分遅れで着いたので、札所を往復するのは時間的に厳しいと思われるため、最後の札所のある笠間までは電車でなく自転車で行くことにした。40キロくらいあり、夜間でスピードは出せないが、なんとか最終には間に合いそうである。

札所までの道はわかりづらく、何度も迷ってしまったので、走らなくてよかったと思った。笠間までの道はわかりやすい道で迷うことはなかったが、とにかく長かった。笠間市街地に入ったので、札所を探さなければならないが、なかなか難しい。地図では神社の奥の方に位置しているが、神社の裏の方にまわっても、崖になっていて道はない。もういいやという気分になって、代わりに神社に参拝して終わりにするつもりであった。ところが、駅の方に向かって進んでいると、左に曲がる道がある。もしやと思ってそちらに曲がると果たして札所はあった。ただ本堂は長い階段を登った先のようであり、そこまで行ったら最終には乗り遅れるかもしれないということで階段の下からお参りするという横着をする。まあ隣の神社に寺の代りをしてもらってお参りするよりはマシだろう。

これで曲がりなりにも目的を果たせたので、笠間駅に向かう。夕食をとっていなかったので、途中のコンビニで買い物をしたかったのだが、気が急いていたので駅に直行する。時間的には多少余裕をもって駅に着いたが、駅前には店屋はなくガッカリする。乗り換える小山駅の乗り換え時間もわずかなので、今日中の夕食にはありつけないことになった。

笠間駅の最終には間に合ったが、小山駅での最終の上野行きの乗り換え時間が4分しかないのが心配だ。不安が的中して、最終電車は始発駅を4分遅れて出発とのアナウンスがある。それでも途中で遅れをとりもどしたようなので、ホッとしたのも束の間、小山の少し手前で単線のためすれ違う電車が遅れたのを待ったため、結局、小山には4分遅れで着く。隣のホームには上野行きがすでに到着している。最終なんだから遅れた水戸線の乗客は待ってくれるだろうとは思いつつ、回りが皆走るので、自転車を担いでホームと階段を必死で走る。年金を貰っている人のやることではないなと思いつつも頑張ったお陰でなんとか乗り込むことができた。ハラハラしどおしの1日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月16日 (水)

海難1890

1890

海難1890を見てきた。トルコの軍艦エルトゥール号が串本沖で難破したのを地元民が必死で救出したことがトルコの教科書にも載っていて、トルコ人なら知らない人はいないくらいに日本人に対する親近感をもっていることが、イランイラク戦争に際してのトルコ航空による日本人救出につながったことを描いた映画である。

実はこの映画でとりあげられている題材は自分にとってはたいへん身近に感じられるものである。というのは映画の後半のテーマである日本人救出があった年の2年前にイラン首都のテヘランに駐在していた兄の所に母を遊びに連れていくということで、トルコのイスタンブール経由でテヘランにいったことがあるからである。因みに兄は2年後の緊迫時になんとか帰国できた。

この時は、イスタンブールに2泊したが、トルコ人が親日的であるのは日露戦争で勝ったからだと思っていて、エルトゥール号のことを知ったのは後年である。イスタンブールからテヘランまではトルコ航空を利用したが、ずいぶんボロい飛行機を使っているなと思っただけで、この飛行機が後で日本人を救出してくれるとは思ってもなかったし、テヘランもまだ戦争の影はほとんど見られず、そんな緊迫する事態が来るとは想像もできなかった。救出劇についてはリアルタイムで知っていたし、その後のドキュメンタリーでパイロットが撃墜される危険を承知で飛来し、空港の管制からは着陸許可が降りないという困難の中で任務を遂行したことは知ったが、空港でトルコ人たちが、自分らの搭乗は諦めて日本人を優先的に搭乗させてくれたことは、この映画で初めて知った。

今年、紀伊半島を自転車で一周した時に、串本でエルトゥール号の遭難碑に立ち寄ろうかと思ったが、潮岬で日没を見たかったので、断念してしまった。結局、潮岬では雲で日没が見られなかったのだから、やはり、遭難碑に立ち寄るべきだったなと悔いている。

余談となるが、この映画が今夏に上映されなくてよかった。なぜならば、自衛隊が救援できない理由として国会の承認が必要なことがあげられていたが、そのことが戦争法の必要理由として取り上げられかねなかったからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月15日 (火)

沖縄の基地問題の知られざる真実

マスコミが絶対に報じない沖縄の基地問題の知られざる真実について書いてみる。

 

最初は基地負担過重の問題だ。国土面積の0.6%しかない沖縄に日本にある全基地の74%が存在するという事実は、正確な数字は別としても多くの方はご存知のことと思うが、これが差別でなくてなんでしょう。

 

これを差別と思わない人へ>心の通わないエイリアンだ。とっととうせろ!

 

このあとも読んでいただいている方のうち、99%の方がご存知ないだろうと思われる真実をお知らせする。ほとんどの方は沖縄の今の基地は元々沖縄にあったのだと思っていらっしゃるでしょうが、かなりの部分は本土にあった基地が主として1950年代以降に本土で反基地闘争が激化する中で、日米安保体制を維持するために、政府が沖縄に押し付けてきたというのが真相なのだ。だから今、沖縄では、押し付けられた基地を本土に引き取ってもらおうという意見が高まっている。沖縄県民の思いとしては当然のことではあるが、そのことの当否は別としても、本土の人間としては今まで説明してきた沖縄の基地の経緯を知る必要がある。そのことによって初めて沖縄の基地問題を他人事ではなく、自分たちの問題として安全保障の問題とともに考えることができるのだろう。

 

次は海兵隊の問題である。現在、沖縄にある基地の半分以上を使用しているのが海兵隊なのだが、海兵隊というのは陸海空の三軍とは別の組織で敵国への上陸作戦を担当するもので、古くは朝鮮戦争の際に朝鮮半島への上陸作戦を実施したし、最近ではアフガン戦争やイラク戦争でも「活躍」してきた。この部隊はアメリカの元国防長官が「沖縄にある海兵隊は日本の防衛のためにいるのではない」と明言しているように、アメリカの世界戦略を遂行するために沖縄に駐留しているもので、今問題になっている普天間や辺野古はまさに海兵隊のための基地なのだ。

 

安保条約に対する意見は様々であるが、仮にこれを容認するという立場に立った場合には沖縄にある嘉手納基地は日本を侵略しようとする国の侵略意図に対しては一定の抑止力はあるといえる。つまり、侵略しようとする国は嘉手納基地からの強力な反撃を恐れて侵略を思いとどまるからである。これに対して海兵隊にはそのような反撃力はないので、侵略を思いとどめさせる力は乏しいということになる。海兵隊に抑止力がないことは軍事専門家の間では常識になっており、防衛省もその抑止力の説明に窮して、「陸海空軍と一体として考えると抑止力が認められる」などという訳のわからない理屈で誤魔化している有り様だ。そして中国の脅威を声高に主張することにより、海兵隊を含めたすべての基地に抑止力があるかのような思いこみをさせているのが安部政権なのである。海兵隊に抑止力がないということは、マスコミでは完全にタブーとなっているようで、商業新聞の中では比較的良心的である東京新聞でさへほとんど報じていないのである。

 

最後に基地の経済効果についての誤った認識についても正したい。一般的な認識としては、沖縄経済は基地に依存しており、沖縄県民がいかに基地撤去を願っても、基地なしでは沖縄経済が成り立たないのだから、沖縄から基地を撤去するということなど到底不可能だというものである。これは全く事実に反するもので、基地からの収入の沖縄の所得に占める割合は5%程度であり、基地の跡地を有効活用した場合の経済効果にははかりしれないものがあるとのことである。つまり、基地は沖縄経済にとって大きな阻害要因になっているというのが真実なのだ。また沖縄が国から手厚い支援を受けていると誤解されている向きもあるようだが、単純に県民1人当たりの国庫支出金ベースでみると、全国第6位であり、比較的多いのは事実であるが、飛び抜けて多いわけでもないのだ。

 

結論としては、沖縄県民が辺野古に海兵隊の新基地は作らせないという選択が最近の沖縄県内での国及び地方の選挙のいずれにおいても行なわれた現在、その選択に対する障害は軍国主義化と対米従属を強める安倍政権の存在を除いては、政治的・軍事的にも経済的にも一切存在しないということであり、であるならば、長年にわたって沖縄に基地の過重負担という差別を押し付けてきた本土の人間は沖縄県民のこの選択の実現に協力する義務があるということである。

 

ここまで読まれてしまったあなた!あなたにとって辺野古埋立阻止行動に参加する以外の選択肢はありません。いつ参加するって。そりゃ今でしょ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月14日 (月)

沖縄を去る

名護のホテルを暗いうちから出るが、6時のバスにはタッチの差で間に合わず6時半となってしまった。これが致命傷となろうとはその時は思いもしなかった。
バスは7時前に資材搬入ゲート前に近づくが、あたりは騒然としている。今日は夜明け前の搬入がおこなわれようとしているのだ。次の停留所で降りて、急いで戻って座り込みに加わろうとするが、車道を機動隊員ががっちりブロックしていて、ゲートには近づけない。警備のスキをついて車道に飛び出すが、途中で機動隊員につかまって、歩道に戻される。やむをえず反対側で抗議の声をあげるとともに、機動隊が非暴力の市民に対して行う暴力の実態を広く知ってもらうために事実を見届けようと思った。警視庁から機動隊が応援に来るようになってから、市民の怪我人が急増しているとのことで、私はゲートの向かい側の崖の上に登って攻防の一部始終を見ていたが、私の見る限りでは、市民は非暴力に徹していたにもかかわらず、二人の市民が怪我をし、うち一人は救急車で搬送されることになってしまった。
P1040515

憲法で保証された表現の自由に基づく行動に対して暴力をふるって抑え込もうとする警察国家の到来を絶対に許してはならない。

今日は資材搬入の阻止はできなかったが、1時間近くは作業を遅らせることはできた。あと倍くらい人がいれば作業自体を阻止できたかもしれない。

土曜日は午前中に2度の搬入があったので、この後もまた搬入があるかもしれないということで警戒をおこたらなかったが、緊張ばかりしていると疲れるということで歌を歌ったりしていると、JR北海道の沖縄平和ツアーの若い人たちがやってきて、しばらく意見交換をして帰っていった

時間はお昼近くとなって、午前中の搬入はもうないだろうということで、私も帰り支度を始めた。辺野古に来たのはたかだか先週の金曜日なんだけど、ずっと前からいるような気になってしまう。来月も可能であれば、また来てみよう。

帰る途中には、当初はひめゆりの搭に立ち寄るつもりだった。というのは10数年前に那覇マラソンを走った際に、その横を通ったものの心の中で祈るだけで立ち寄ることができなかったことがずっと心の中にひっかかっていたからである。ところが調べてみると、意外と時間がかかりそうで、半日では無理なようなので、今回は諦めることにし、代わりに米軍の極東戦略の要となっている嘉手納基地を訪れることにした。

バスを降りるといきなり凄まじい爆音の歓迎を受ける。普天間のように人口密集地帯にあるわけではないが、本当に基地の町なんだという実感を深くする。飛行場の横には道の駅があり、その展望台からは飛行場の全容を望むことができる。
続けざまにジェット戦闘機が飛び立つ様子は戦争大好き人間の安倍晋三なら大喜びしそうだが、同じような物好きな人間は多いようで、超望遠レンズ付きのカメラを飛行場に向けている人がいっぱいである。私はそういう趣味は全くないので、すぐに退屈してしまい、早々に基地を後にする。
沖縄を去る

四日間の沖縄滞在は慌ただしく終わったが、戦後70年の節目の年に広島、長崎の原爆式典参加とともに国内唯一の激戦地であるだけでなく基地の島として戦後の矛盾(平和国家を標榜しながら安保条約を堅持)を押し付けられてきた沖縄を訪問できたことはなによりであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月13日 (日)

安息日

安息日
安息日
安息日
テントを6時前には出てゲート前に向かう。資材搬入ゲート前には警備会社の人が5、6人はいるものの、座り込みの人は数人いるだけで、時間がたっても座り込みの人は一向に増えない。こんな人数しかいない時に資材搬入をされたらひとたまりもないなと思いつつも、なんの変化もないまま時間ばかりが過ぎて行く。暇なもので、埋立反対のプラカードを走行する車に向かって掲げるが、手を振ったりして反応してくれるのは10台に1台もない。反応があった車に手を振り返すと、しばらくは元気をもらった気になるが、すぐにまた退屈になる。

10時を過ぎて、今日はもう搬入はないのではと思って近くの人に聞くと、日曜は搬入がないことが多いとのこと。今日は安息日であることを思いだし、今後の予定を検討する。とりあえずは浜辺に出てみてカヌー隊の様子を見に行く。

カヌー隊のテントの近くには貸切りバスが停まっていて、テント前の広場ではツアー客に辺野古の闘いの説明が行われていた。スタッフにカヌー隊の動向を尋ねると、今日は出撃はなく、午前中はカヌーの練習をしているとのこと。そこで浜に出てみるといたいた。沢山のカヌーが浜辺近くをパドリングしている。しばらくは眺めていたが、終了するまでは時間がかかりそうだったので、ゲート前に戻ることにした。

ゲート前近くの広場では集会をやっていたが、資材搬入ゲート前にはガードマン以外には人がいなかったので、やはり今日は搬入はないようだ。このままここにいてもしょうがないので、早めに名護に向かい、もし、バスの便がよければ、沖縄本島北端の辺戸岬に足を伸ばしてみようと思った。
本島南端近くは、那覇マラソン等で行ったことがあるので、この機会に北端も行ってしまおうという魂胆である。全くの観光であるが、今日は安息日だから、まあいいか。

名護バスターミナルに着くと、辺戸岬行きに乗り継ぐバスが10分後に出発し、その次のバスは1時間後となっている。10分後のバスに乗りたいところであるが、ここで昼飯を食べないといつ食べられるかわからないということで食事をゆっくりとしていく。

食事後に、乗り場で今日中に辺戸岬をバスで往復できるかどうかを聞いてみる。すると、私が乗るつもりの次のバスならばギリギリで可能だが、乗り継ぎの辺戸名の到着時間と出発時間が同じというヒヤヒヤものである。まあダメもとで出かけることにした。

海岸線の気持ちいい道を行くのであるが、途中からグーグルマップと時計のにらめっことなり、景色を楽しむ余裕がでなかった。乗り継ぎはなんとかできてホッとする。辺戸岬までは30分ほどで着き料金を尋ねると、65歳以上は無料とのこと。ラッキーとは思ったものの、他に乗客もおらず申し訳ない気分がした(帰りも同様)。

辺戸岬は青い海とグレーの岩のコントラストが素晴らしい所で観光客で賑わっていた。辺戸岬はクライミングエリアとしても有名で、観光客で賑わっているあたりにも登れそうな所はいっぱいあったが、支点等の登った形跡は見られなかったので、クライマーは少し離れた所を登っているのだろう。

名護に戻った時にはとっぷりと日が暮れてしまった。ホテルに荷物を置いてから、沖縄最後の夜を泡盛を飲んで楽しもうと、居酒屋に向かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月12日 (土)

座り込み初日

座り込み初日 座り込み初日 座り込み初日 早朝にゲストハウスを出て辺野古に向かう。ゲート前には100人を超える人が集まっていた。私の地元の杉並の区議も来ていてスビーチしていたので、挨拶しに行こうかと思ったら、早々と帰ってしまった。何だかなあ

 

その後に何台かの工事用車両が近づいてきたので、ゲート前に座り込む。機動隊が背後に張り付く。初めててのことなのでちょっと緊張するが、勝手がわからないので、無理はしないことにして大人しく機動隊員二人に両腕を抱えられて、警備車両と機動隊で作られた「オリ」に入れられる。激しく抵抗すれば、足も抱えなければならないので4、5人が必要になるので、それだけ資材搬入を遅らす効果はある。ただ抵抗していた一人が機動隊から暴力を受けて基地内に連れ込まれたので、すわ逮捕かと思われたが、まもなく解放されたのでよかった。よかった。

 

午後は資材の搬入もなく、何事もなく無事に終わる。今晩は土曜日のためか、近隣のホテルは満室だったため、ゲート前のテントに泊まらせてもらうことにする。大勢の人間が詰めかけているのかと思ったら、数人しか泊まらないと言うことでこれも拍子抜けであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月11日 (金)

沖縄へ

戦後70年の節目の年に広島と長崎の原爆式典に出席したが、今年もうひとつ訪れておかなければならないのが沖縄である。本来ならば沖縄戦が終わった6月23日に訪問すべきだったのかもしれないが、個人的な事情から訪れることができなかった。そうこうするうちに12月になってしまったが、この間の日本政府による沖縄いじめは激しさを増して、もはや許しがたい段階まで来てしまったので、やっと思い腰をあげることとなった。

那覇行きの便は早朝だったので、前夜から羽田空港の待合室で仮眠するつもりだったが、国内線ターミナルに行ってしまったので、だれも仮眠している人はおらず、警備員から閉め出しを喰らいそうになる。ここで仮眠できるのは国際線ターミナルであることを思いだし、最終のモノレールで国際線ターミナルに移動すると、こちらには仮眠客がたくさんいたので、その中に紛れ込む。

翌朝は大きな遅れもなく那覇に着き、モノレール、バスを乗り継いで嘉数高台公園に着く。ここは沖縄戦の激戦地でトーチかの跡も残っている。公園の展望台からは眼下に普天間飛行場が眺められる。密集する人家すれすれに爆音を轟かせて軍用機が飛んでいる光景を思い浮かべていたのだが、実際は数機のオスプレイが滑走路に停まっているだけの静寂の世界でちょっと拍子抜けであった。
沖縄へ

そこから少し歩いたところからバスに乗り、2時間近くかかって辺野古で下車。なんの変てつもないところで日本中を揺るがせている大騒動が起きている場所とはとても思えない。埋立の是非が争われているのだから海の方に行けばあるに違いないと進んでいくと、たしかにテント村はあったが、数人の人がいるだけで静まりかえっているので、またもや拍子抜けであった。聞いてみると、少し離れた基地のゲート前で座り込みをやっているというので、そちらに向かってみる。途中に食物屋があったので朝からろくに食べていないこともあり、立ち寄って沖縄名物のソーキそばを注文する。店の人に「旅行ですか?」と聞かれる。辺野古の地元の人は雇用問題が大きいからか、辺野古移設容認の人が多く、反対運動を快く思っていないと聞いていたので、「そうです」と応えてしまう。

食後にしばらく歩いていると、大きな掛け声とカラフルな旗が見えてくる。総勢20人くらいの少し寂しいデモ隊であるが、元気にシュプレヒコールを繰り返している。どういうわけかちょっと違和感を覚えたので、今日はデモ隊の中には入らず、反対側の歩道から眺めるだけにした。まもなく4時となってデモ隊は解散したので、私もちょっと手前の金武の町に戻って、予約してあったゲストハウスで今日はのんびりすることにした。

ネット右翼の書き込みでよく見られるのが、座り込みの騒音で住民の生活が脅かされているというものがあるが、これが全くのデタラメであることが現地を訪ねてみてわかった。というのは座り込みの場所は辺野古住民の居住しているところからは二つ離れたバス停付近であり、どんなに騒ごうが、絶対に騒音は聞こえるはずはないからである。強いていえば、機動隊の暴力によって負傷した市民を搬送する救急車のサイレンや右翼の街宣車の騒音があるかもしれないが、それらは全て、運動の妨害者の責任である。ひょっとして住民というのは基地の中にいる海兵隊のことかな。それだったらあるかもしれないが、そんな所にいる方が悪いのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 6日 (日)

戦争反対1206銀座大行進

戦争反対1206銀座大行進
戦争反対1206銀座大行進
今日はわが家はみな在宅だったので誰か参加する人はいるかなと思ったが、結局今日も私一人の参加となり、自分の動員力のなさに嫌になる。

会場の日比谷野音には開場よりも少し遅れて着いたので、どうせ今日も会場の外でデモ開始まで待つことになるだろうから、ワンセグで福岡マラソンでも見るつもりどあったが、驚いたことにこの時間でも会場に入れて拍子抜けであった。ただ参加者がそれほど多くなかったことの裏返しでもあるので、複雑な心境であった。

初めて会場内でスビーチを聞くことができ、やはり生はいいと思ったが、マラソンの結果が気になったので、ゴール間近と思われる時間だけ会場の端に寄ってワンセグを見た。期待の川内選手は振るわなかったが、佐々木選手がギリギリの8分台での3位と健闘したのが明るい材料か

会場の外では右翼の街宣車が妨害の騒音をがなりたてていたが、会場の熱気はそんなものは吹き飛ばしてしまっていた。デモが開始する時になっても右翼の街宣車はまだいたが、さすがに行進が始まるとついてはこなかった。

本日も銀座の繁華街をデモ行進したが、ショッピングを楽しむ沿道の人たちには我々のデモはどう映るのだろうか?全く反対の意見を持つ人や無関心の人に影響を与えることは難しいだろうが、多少なりとも理解を持っている人にたいしては、より一歩我々の方に近づけるくらいの効果はあるのではないかと思われる。

銀座を過ぎて流れ解散となり、いつもはそのまま帰ってしまうところだが、今日は時間もあることだしと、その場に待機して後続のグループが到着するたびに声援と拍手で迎える。信号で分断されたが、後続するグループだけでも10グループくらいはあったので結構な参加人数にはなったようだ。来年はさらに盛り上がることを望みたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 5日 (土)

坂東三十三箇所札所巡り 茨城南部編

坂東三十三箇所札所巡りもいよいよ茨城県入りである。順番からすると北部から南下すべきなのだが、北部は青春18切符が使える時期になってから行ったほうが経済的なので、今回はホリデーパスでほぼカバーできる南部に絞って行くことにした。

小山で水戸線に乗り継ぐのだが、1分間の乗り継ぎ時間に間に合わせようと自転車を担いで階段を駆け登ったが、さすがに無理で次の電車まで40分余り待たされることになった。下車する岩瀬駅はホリデーパスの範囲外なので、不足料金240円を支払う。

24番札所の雨引観音への道は関東の道百選として駅前に地図があり、まっすぐ道が伸びているように見えたので、駅前からの道を直進していった。しばらくして方位を確認すると、南に進むべきなのに北に進んでいるではないか。慌てて駅に戻り、先程の地図を良く見ると、すぐには直進せずに線路に沿って東に進んで踏切を渡ってから直進しているのだった。

今度は地図の通りに進んだのだが、たいして進まないうちに自動車道は行き止まりとなって、その先は急な山道となっている。案内板があり、雨引観音まで往復すると2時間以上もかかるようだ。駅前に案内のあった関東の道というのは歩くための道だったのだ。駅前でグーグルマップのナビで確認したときも関東の道と同じルートを示していたのだが、歩行者モードで調べてしまったようだ。そこで車モードに変更して調べると駅の西側の踏切を渡ってから南下するのが正解のようだ。やむをえずまた駅まで戻るが、かれこれ1時間近くロスしてしまった。

今度は間違いなく雨引観音まで達することができたが、小高い場所にあり、関東平野の展望が楽しめた。ここはそこそこの観光地のようで参拝者も多く、レストランも営業していた。多少早めではあったが、しっかりした朝食をとっていないこともあり、ここで昼食をとることにした。
坂東三十三箇所札所巡り茨城南部編

昼食後にこれからの予定を検討する。当初は笠間の札所を回ってから筑波山の札所に行くつもりであったが、朝から行程が遅れっぱなしのこともあり、笠間回りだと40キロ以上余計にかかることになるので、笠間は次回の北部の時に行くことにして今回は筑波山に直行することにした。

筑波山は山自体はたいした高さではないが、独立峰なので立派な山容で百名山に選ばれるだけのことはある。遠くに見えてた筑波山も近づくにつれつだんだん高く聳えるようになってきた。札所がどのあたりにあるのか確認してこなかったのだが、頂上近くだったらたいへんだなあ。

道はつづら折りを登ってケーブルカー駅に着く。頂上ははるか高見である。札所までどのくらい登らなければいけないのかと考えていたら意外にもすぐ上に札所があったので拍子抜けしてしまった。この札所は観光地の近くにあるにもかかわらず参拝者が全くいないという不思議なお寺である。
坂東三十三箇所札所巡り茨城南部編
次の清滝寺への道は途中から自転車専用道となるので快適である。ただ、この道をずっと辿っていくと清滝寺には行けなくなるように思えたので途中から一般道に戻り、くらくなる直前に清滝寺に着く。
坂東三十三箇所札所巡り茨城南部編

そこから今日のゴールの土浦までは12キロ程度なのだが、路側帯もない狭い夜道を走行することに危険を感じたので、草の生い茂った狭い歩道を走行したため、土浦まで結構時間がかかってしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 3日 (木)

民意とは?

民意とは?
民意とは?
昨夜のプライムニュースでは沖縄県知事の辺野古埋立承認取消をめぐる裁判での出廷があったことから、その討論がおこなわれたが、県知事側は社民党の福島議員一人なのに対して、国側からは戦争法制の強行採決時に悪役ぶりを発揮した佐藤議員に加えてアメリカ政府の日本問題の元責任者という肩書ではあるが、実質的には国側と同一意見の人間を出席させていたのは不公平である。なぜなら人数が倍になれば、発言時間も倍になるからである。また、この裁判を公有水面埋立法に関する手続き面だけの争いに矮小化させ、沖縄基地問題の本質に関する議論は避けたいとする国側の方針に歩調をあわせるかのように、福島議員が海兵隊は日本の防衛には無関係であるという本質論に踏み込もうとすると、司会者が発言を遮って「安全保障の問題は後で」と言いながら、最後までこの問題に言及する時間を与えなかったのは、極めて不公正な司会ぶりであった。

それはともかくとして、福島議員が沖縄の民意を尊重せよと主張するのに対して国側の代弁者が国民の民意を代表している与党政府が決めた国防政策に対して一地方が反対することはできないという暴論を吐いていたがとんでもないことである。たとえ国民全体の意思によったとしても、特定の一地域に多大な損害を与えること(ないしは現に与えている損害を除去しないこと)は、当該住民の同意なしに行えないことは民主主義、地方自治のイロハであるのに、そんなこともわからないとは呆れてものが言えない。それにもかかわらず、移設に賛成している辺野古住民の民意を知事が無視しているのはけしからんと自己矛盾とも言える非難をしているのはお門違いもいいところである。辺野古住民が移設に(多分消極的だとは思うが)賛成しているのは、基地ができれば雇用の機会が増えるからであろうが、その機会を与えることになる施設の建設を許可するかどうかは上位の自治体の裁量の範囲内の問題で下位の「自治体」の民意云々とは別の問題である。ただ政策論とし
て考えると、移設が中止になった場合には、辺野古の自然を損なわない範囲での観光施設を設けて雇用の機会を作るというプランを示して、辺野古住民の気持ちを変える努力は必要であると思う。

話は変わるが、今日3日は作家の澤地久枝さんの呼び掛けによる「アベ政治を許さない」のポスターを13時に掲げる日である。別にどこで掲げてもかまわないのだが、一人でスタンディングをするのは寂しいなあと思っていたら、国会前でも行うという書き込みがあったので、早速出掛けてみた。

早めに着いたので、ザックに「アベ政治を許さない」のポスターを張り付けて皇居一周をジョギングする。走力が全く落ちてしまったために抜かれっぱなしになるが、それだけ大勢のランナーにボスターを見てもらえるのだと思うと、抜かれることが全然苦にならない(ランナーからの反応はないんだけれども)。いつもならば、昼休みで大勢のランナーが走るところであるが、今日は小雨のためランナーはまばらだったのは残念だった。

国会前でのスタンディングには100人近くが集まっていて呼び掛け人の澤地久枝さんも見えていた。シュプレヒコールをあげ、写真をとり、澤地さんの話を聞いて解散した。次回は1月3日で子供たちが集まることもあり、来られるかどうかわからないが、万難を拝しても参加するようにしたい。帰りは気持ちが高揚していることもあったのか、いつもならば気恥ずかしくてザックから外してしまうポスターを家までつけたままにしてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »