沖縄を去る
名護のホテルを暗いうちから出るが、6時のバスにはタッチの差で間に合わず6時半となってしまった。これが致命傷となろうとはその時は思いもしなかった。
バスは7時前に資材搬入ゲート前に近づくが、あたりは騒然としている。今日は夜明け前の搬入がおこなわれようとしているのだ。次の停留所で降りて、急いで戻って座り込みに加わろうとするが、車道を機動隊員ががっちりブロックしていて、ゲートには近づけない。警備のスキをついて車道に飛び出すが、途中で機動隊員につかまって、歩道に戻される。やむをえず反対側で抗議の声をあげるとともに、機動隊が非暴力の市民に対して行う暴力の実態を広く知ってもらうために事実を見届けようと思った。警視庁から機動隊が応援に来るようになってから、市民の怪我人が急増しているとのことで、私はゲートの向かい側の崖の上に登って攻防の一部始終を見ていたが、私の見る限りでは、市民は非暴力に徹していたにもかかわらず、二人の市民が怪我をし、うち一人は救急車で搬送されることになってしまった。
憲法で保証された表現の自由に基づく行動に対して暴力をふるって抑え込もうとする警察国家の到来を絶対に許してはならない。
今日は資材搬入の阻止はできなかったが、1時間近くは作業を遅らせることはできた。あと倍くらい人がいれば作業自体を阻止できたかもしれない。
土曜日は午前中に2度の搬入があったので、この後もまた搬入があるかもしれないということで警戒をおこたらなかったが、緊張ばかりしていると疲れるということで歌を歌ったりしていると、JR北海道の沖縄平和ツアーの若い人たちがやってきて、しばらく意見交換をして帰っていった
時間はお昼近くとなって、午前中の搬入はもうないだろうということで、私も帰り支度を始めた。辺野古に来たのはたかだか先週の金曜日なんだけど、ずっと前からいるような気になってしまう。来月も可能であれば、また来てみよう。
帰る途中には、当初はひめゆりの搭に立ち寄るつもりだった。というのは10数年前に那覇マラソンを走った際に、その横を通ったものの心の中で祈るだけで立ち寄ることができなかったことがずっと心の中にひっかかっていたからである。ところが調べてみると、意外と時間がかかりそうで、半日では無理なようなので、今回は諦めることにし、代わりに米軍の極東戦略の要となっている嘉手納基地を訪れることにした。
バスを降りるといきなり凄まじい爆音の歓迎を受ける。普天間のように人口密集地帯にあるわけではないが、本当に基地の町なんだという実感を深くする。飛行場の横には道の駅があり、その展望台からは飛行場の全容を望むことができる。
続けざまにジェット戦闘機が飛び立つ様子は戦争大好き人間の安倍晋三なら大喜びしそうだが、同じような物好きな人間は多いようで、超望遠レンズ付きのカメラを飛行場に向けている人がいっぱいである。私はそういう趣味は全くないので、すぐに退屈してしまい、早々に基地を後にする。
四日間の沖縄滞在は慌ただしく終わったが、戦後70年の節目の年に広島、長崎の原爆式典参加とともに国内唯一の激戦地であるだけでなく基地の島として戦後の矛盾(平和国家を標榜しながら安保条約を堅持)を押し付けられてきた沖縄を訪問できたことはなによりであった。
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