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2016年10月

2016年10月31日 (月)

ランタントレッキング( 携帯版) シンゴンパまで

ランタントレッキング(<br>
 携帯版)  <br>
 シンゴンパまで
標高2000メートル弱のドゥンチェから標高3300メートルのシンゴンパまで標高差1300メートル余りを6時間かけてゆっくりと登っていく。パーティー編成は私の他にガイドとポーターの3人である。二人ともカトマンズから同行している。ポーターはできれば現地雇用した方が、復興に寄与できるのではないかと思ったのだが、まあカトマンズからでもネパール復興に多少なりとも寄与するだろうから、いいことにしよう。

 

倒壊しているロッジは見かけられず、地震の爪痕は全く感じられない。トレッカーも結構入っているが、日本人には1人も会わない。日本人の習性として人気の高いエベレスト方面に集中してしまうのと、地震被害の報道が足を引っ張っているためだろうか

 

ガイドが後半に少しバテ気味となったが、その分だけ楽をさせてもらった。シンゴンバにいくつかのロッジがあり、事前に調べた情報では携帯利用可というロッジ(但し、私が宿泊するロッジ以外であった)に入ってみたが、私の携帯ではつながらなかったし、wifi利用可能と書いてある所でもネットに繋げることはできなかった(ところが、A翌朝になると電波状態が良くなったのか、音声通信のみならずパケット通信までできるようになったので、それで送信ができた)。

 

夕食までの自由時間は景色も見飽きたことでもあるし、個室に閉じこもってボランティアでやっている点訳の仕事をやったり、明日からは富士山よりも高い標高での生活が続いて禁酒を余儀なくされるので、ドゥンチェから持参したウィスキーの小瓶を空けて最後の酒を楽しんだりした。集会場で他のトレッカーと交流すればよいのだが、日本人はいないし欧米人と英語でコミュニケーションするのは疲れるのである。こういう時には、もう少し英会話を勉強してよけばよかったなと反省もする。

 

食堂での夕食後に別棟の個室に戻るために外に出ると満天の星空である。外気も相当冷え込んでおり、高所用の羽毛服を持ってきたのは正解であった。

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ドゥンチェへ

ドゥンチェへ
ドゥンチェへ
ドゥンチェへの出発の朝は予定よりも早く目覚めてしまう。準備万端をして出たつもりだったが、思わぬところでヘマをしてしまった。ガイドとホテルで落ち合い、バスの発着場に着いた時にポシェットのサイドのポケットにしまってあるはずのカメラがないのに気づいた。反対側のポケットに入れてある携帯は落下防止のためにヒモがついているのだが、カメラの方にはつけてなかったのと、ポケットのジッパーがしまってなかったにもかかわらず、貴重品が入っているということで(本当の貴重品は胴巻に入れて寝ている間も身につけているのだが)、枕元に置いておいたために、夜中にベッドの下に落ちたのかもしれない。ガイドに話して、発着場まで送ってくれたエージェントの人にホテルまで見に行ってもらったのだが、見当たらないという。タブレットでも写真は取れるのだから仕方ないか

 

とんだアクシデントの中の出発となってしまったが、行程自体は特に問題めなく進行していく。ネパールでの路線バスの利用は3年前にインドのストックカンリ登山の後に仏跡を訪ねてインドからネパールを旅した時にネバールを横断した際に随分とあったが、1人で乗っていると、バスが本当に目的地に向かっているのか(車前方の行先謨\示はネパール文字で読めない)、休憩等でバスから降りた時に目を離した隙にバスが発車してしまうのではないかと心配は絶えないが、ガイドと一緒だと安心である。

 

昼前に途中の大きな町であるトリスリバザールで昼食をとる。もちろんお決まりのダルバートである。香辛料入りの野菜の煮物と豆(ダルという)入りのスープのついたライスで、今日はさほど奥地ではないのでチキンの皿も出てきたが、山中になれば期待できないだろう。ダルバートも嫌いな味ではないが、毎日続くとどうだろうか?

 

ここまでも随分とアップダウンがあったが、高度はカトマンズと大差はない。しかし、そこからしばらく行くと、山の斜面をぐいぐい上がっていき、1500メートル近くも高度を稼ぐ。道は片側が谷底まで切れ落ちていて、悪い路肩を乗り越えてしまえば、途中に遮るものはない。8年前のカラコルムハイウェイも悪かったが、こちらは振動の激しいガタガタ道なので、さらに悪く感じる。

 

なんとか悪路を乗り越えて遠くに氷雪をまとった山が見えてくるとゴサイクンド方面のトレッキング出発点であるドゥンチェも近い。町の入口にはチェックポストがあり、簡単な荷物検査を受ける。泊まるホテルは町の真ん中にあり、ロッジと言った方があっているが、眺めだけは素晴らしい。先ほど見えたピークはランタンリルンという7千メートル峰でランタン山群の最高峰のようである。ドゥンチェから見えるとは思わなかったので儲けもののような気がしたが、ゴサイクンドへのトレッキング道に入るとしばらくは前山に遮られて見えなくなるようなので、眺められてラッキーであった。

 

ドゥンチェでは無線LANは利用できないようなので、携帯からブログをアップしようと思ったら、携帯から可能なのは音声通信のみでパケット通信は不可ということで、ブログの更新はカトマンズへの帰途のバスからになると思ったら、翌日のシンゴンパでパケット通信が可能となったので、一日遅れで送信出来ることになった。

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2016年10月29日 (土)

カトマンズへ

ドーハからカトマンズに向かう乗客は当然のことながらネパール人が多く日本人の姿は見られなかった。出稼ぎの帰りであろうか、皆おおきな荷物を抱えている。きっと故郷で待つ家族のことを考えて心が踊っているのであろうか。羽田からの機体は3×3×3の1列9人であったが、今回は一回り小さい3×3の1列6人で、またも窓側の席であった。ドーハに向かう時は海上からだったので、今回は北回りで山岳地帯の展望を期待したが、それほど北回りはせずに南部の砂漠の雨上を飛んで行ったので、少し残念だった。

カトマンズが近づいてくると雲の上にヒマラヤの峰々が見えてくるのだが、残念ながら私の席の窓は反対側だったのでヒマラヤの展望は獲られなかった。ドーハに向かう時の席だったらよかったんだけど。そのうちに空港の上で旋回を始めたので、こちら側の窓からでも見えるかなと期待したが、高度が下が過ぎたために見えるのは低い山ばかりで高い山は雲に隠れて望むことはできなかった。まあトレッキングになればいくらでも見られるのだから、よしとするか。
 
空港からエージェントの車でホテルまで連れて行ってもらいトレッキングの手続きをしてから街に出る。繁華街のターメは賑わっていて地震の影響は全く感じられない。観光客は欧米人が中心であり、たまに見かける東洋人もほとんどが中国人のようで日本人の姿は全く見られない。適当な所で引き返してレストランで夕食をとる。 明日からはしばらく肉が食べられないので、普段はあまり食べないステーキを食べる。さあ明日からは野菜カレーが続くぞ

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2016年10月28日 (金)

ドーハへ

ネパールは昨年5月に大地震に見舞われたことは記憶に新しいが、自分にとっては登山などで何度も訪れた土地であり他人事には思えなかったものの、国内の被災地のように気軽にボランティアに行くわけにもいかず、当座は義援金の支援をするだけであった。観光が主要産業であるネパールにとっては観光等で大勢の人が訪れて現地にお金を落とすことが最も復興に役立つことになるので、早いうちに訪問したいと思ってはいたが、どうせ訪問するならば震源地に近く、大きな被害を受けたランタン地区に行くことが復興という観点からはふさわしいのではないかと思えた。ランタンを選んだのにはもうひとつ訳がある。ネパールのトレッキングとしては、エベレストやアンナプルナ周辺が一般的であるが、いずれも訪れたいことがあるのに対して、ランタンはまだ訪れた事がなく、昔、イギリスなの登山家のティルマンが「世界中で一番美しい谷」として紹介したこともあって、以前から行きたいと思っていた地だからでもある。ただエベレスト方面が比較的早く復旧したのに対してランタン方面の復旧は遅く、今秋になってようやく倒壊したロッジの再建が行われて、以前と同様にトレッキングができるようになったということを知り、早速トレッキングに出かけることにした。ロッジが再建されたのであるから、あえて現地のガイドを頼むまでもなかったが、自分の年齢を考えただけでなく、ガイドやポーターを雇えば現地に金を落とすことにもなるので、「大名旅行」をすることにした。さらにトレッキングのアレンジをする旅行社も日本社ではなく、現地の会社を利用することにしたのは同じ趣旨からである。

今回搭乗する航空会社はカタール航空で初めての利用である。さすがにアラブのお金持ちの国の航空会社だけあって、LCC並みの低料金でありながらアジアの航空会社の中ではシンガポール航空と並んでサービスの良い会社と評価の高い会社である。今まで利用してこなかったのは、当然のことながらカタール経由となるため航続距離が長くなり(今回もネパールまでの最短距離の倍近くの距離を乗ることになる)、原油が高かった頃は別料金の燃料代がばかにならなかったためであるが、今回は原油安で別料金は不要となったために低料金の恩恵をそのまま受けるようになったわけである。

出発時間もいつもは午前中から昼にかけてなのだが、今回は深夜発と異例である。そのために出発前に迷ったのは、出発直後に出される食事を食べるかどうかである。なにしろ日本時間だと丑三つ時という時間に食事をするなどということは考えられないことだが、次の着陸前の食事は日本時間だと朝の10時頃になるので、それまで待つのも辛いものがあると思ったからである(何時でも間食は頼めるらしいが)。ところが、食事のメニューが配られて和食の文字が飛び込んできたとたんに気が変わってしまった。しばらくとれない日本食なのだから、時間に関係なくこの際は有り難くいただくことにしようと。


しっかりと完食してワインまで飲んで、後は眠るだけだという段になって歯磨きをしていないこに気付いたが、あいにく窓際の席だったのでトイレにいくことも憚られて、まあしょうがないかと、しばしの間はまどろんだ。やがて日本時間の朝が近づいてくると目が覚めてしまったが、せっかくの窓側の席にもかかわらず外の景色は暗闇でなにも見えず、タブレットの音楽を聴きながら長い夜が去るのをじっと待つ。

やがて朝食が運ばれて早い朝食を終え、東の空が白じんでくる頃にドーハの空港に着陸する。ドーハの空港は実に大きな空港である。便数が多すぎて案内表示には出発間近のものしか表示されないので、係の人に教えてもらったゲートが本当に正しいのか少し不安になる。教えられたゲートからジュネーブ行きが出発した後、このゲートの次の便はカトマンズ行きと出ていたので一安心する。

ドーハと言えば、サッカーのワールドカップ初出場を目指した時にほとんど切符を手中にしながら、試合終了直前にゴールをきめられて初出場を逃した「ドーハの悲劇」により多くの日本人の記憶に残っているが、今回は乗り継ぎ時間も短いので、単に通過するだけの所となってしまいそうである。2016102813080300

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2016年10月26日 (水)

「小池劇場」報道の陰に隠れて

小池知事の登場以来、豊洲移転問題、オリンピック競技会場建設の見直し、小池知事を選挙で支援した若狭議員の衆院補選での圧勝と小池劇場の展開にマスコミはくぎ付けである。小池知事に対する賛否は別として、報道が過熱する陰で、人権や民主主義の根幹に関わる問題がほとんど報道されないままに既成事実が進行していることを見過ごしてはならない。たまたま今週末から、しばらく隠屯生活に入ることもあってブログの更新が出来なくなるので、原発避難者に対する支援打ち切りと沖縄高江における基地建設強行の暴挙についてはどうしても書いておきたい。

政府は現在の福島原発周辺の規制地区のうち、放射能の年間被曝量20ミリシーベル以下の地域については避難住民の帰還を進めるために家賃支援を来年3月で打ち切ろうとしている。従来、安全基準とされていた年間被曝量は1ミリシーベルであり、20ミリシーベルというのは、原発作業者に対するものであったにもかかわらず、それを放射能の影響を受けやすい子供を含む住民の安全基準にすり替えてしまったのである。

現在、福島県内の甲状腺ガン発症率は通常の100倍近くに達しているが、国は原発事故との因果関係を認めようとしていない。もし避難住民の帰還が進められたならば、健康被害は加速度的に増加することは間違いない。そうなった場合でも国は事実を隠ぺいして、福島の事故はなかったことにしようとするのか。これは人間モルモット政策であり、棄民政策そのものである。

安倍晋三は福島の事故はアンダーコントロールであるという大ウソを世界に対してついてオリンピックを招致してしまった。そのためにも避難民の存在は喉に刺さった骨なのだろうが、弱者に全てをしわ寄せさせて解決したかに見せかけるやり方は絶対に許されない。

参院選の終了直後から沖縄北部の高江において米軍ヘリパッド建設が始まった。北部訓練場返還の見返りとして行われるということで、基地負担軽減策であると誤解されやすいのであるが、新基地建設であることが問題なのである。すなわち、国土全体のわずか0.6%しかない沖縄に国内の全基地の74%が集中しているという異常事態にあっては、新基地建設が意味するものは、この異常事態が固定化するということであり、たとえ基地面積がわずかに減ろうとも、異常事態の解消という観点からはマイナス面の方がはるかに大きいのである。このことは高江の工事完了後に工事再開が目論まれている辺野古においても同様である。

先日の参院選では自民党は全国的には過半数を取ったにもかかわらず、沖縄では全敗してしまったことからもわかるように、新基地建設反対の民意はあきらかなのである。それにもかかわらず、防衛問題には民意は及ばないとして基地建設を強行し、全国の警察を動員して反対運動に対して違法な弾圧を繰り返す国のやり方は地方自治と民主主義を否定するものに他ならない。

大阪府の松井知事が「国策」に従っている機動隊を称賛し、反対運動を非難するメッセージを発表していたが、沖縄県民の犠牲の上に本土の繁栄が成り立っているという事実をどう考えているのだろうか?そんな意見は沖縄にある基地の一部を大阪が受け入れるということをやってからにしてもらいたいものだ。

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2016年10月18日 (火)

奥鬼怒&高原山

鬼怒川は上流・源流を除き自転車で走破していたので、残された部分はわずかな距離ということもあり、歩いて踏破しようと家内との紅葉見物も兼ねて奥鬼怒温泉郷に出掛けた。

鬼怒川温泉駅から日光市営バスで終点の女夫淵まで行き、そこから先は今夜泊まる加仁湯の送迎バスで宿に向かい、宿で昼食を撮ってから、奥鬼怒の源流に向かう。天気の方は申し分ないが、紅葉の方はまだ早かったようで、色づいた葉がちらほら見られる程度であった。
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30分ほど歩くと日光沢温泉に着き、そこから道は沢を離れて山腹を登っていくようになる。源流部には道はないので、ここから引き返してもよいのだが、少し登ると対岸の滝を眺められるようなので登ってみる。

ちょっとした急な登りで小尾根に上がってしばらく進むと、対岸に日向恐ろし滝という滝が見えてきて、小さい展望台も作られている。
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道は稜線にある峠まで続いているが、沢沿いの道というわけではないので、鬼怒川源流部を歩くことにはならないため、ここで引き返すことにする。大河を河口から源流まで踏破する場合に、源流部に道がない時は源頭近くの頂上に立つことで代替していることが多いが、この稜線は学生時代に尾瀬から日光まで縦走した際に通過しているので、今回はあえて行く必要はないのだ(その縦走の際に立ち寄った鬼怒沼を鬼怒川の水源とする説も一般的のようだし)。

加仁湯の露天風呂は混浴となっていて、沢のせせらぎを聞きながら入れる野趣に富んだもので、風呂嫌いな私にしては珍しく二回も入ってしまった。ことに深夜に満月を愛でながらの入浴は印象深いものであった。

翌日は送迎バスを利用せずにバス停までの渓谷沿いの約4キロの遊歩道を歩いて行くことにした。送迎バスを利用せずに遊歩道を登ってくる人が多いのには驚いた。もっとも、昨晩泊まった加仁湯よりも奥にある日光沢温泉に泊まる人は送迎サービスを受けられないし、マイカーも規制されているので、歩いて行かざるをえないのだが

バス停付近には食べる所がなかったので、宿でおにぎりを作ってもらったが、バス停にはまだ早い時間に着いたので、もう少し先まで歩いて行くことにした。

しばらく歩くと、間欠泉の展望台があったので立ち寄ってみる。看板に50分間隔で吹き上げると書いてあったので、おにぎりを食べながら、時間待ちをすることにした。時々、白煙の勢いが強くなるので、いよいよ吹き上げが始まるかと期待するが、すぐに勢いがなくなってしまい、50分が経過したところで退散することにした。ちょっぴり残念だったが、以前にアイスランドで本格的な間欠泉を見たことがあるので、あえて「ちゃちな」間欠泉を見るまでもないのだが。もっとも展望台では、他の見学者から嫌味と取られかねないので、アイスランドの間欠泉のことは口にださなかった。
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1日数本のバスをできるだけ待ち時間を少なくするとともに、絶対に乗り過ごすことがないように計算しながら、川俣湖の入り口のバス停まで着いたところで、バスに乗る家内と別れて、さらに歩みを続ける。
田代山からの下山道との合流点までは15キロほどあったが、なんとか次のバスまでには着くことができた。

これで鬼怒川の河口から源流までの踏破は完了したが、まだひとつやり残したことがある。それは川治ダムから湯西川温泉駅までをあるくことだ。大河踏破シリーズとして阿賀野川もいつか踏破するつもりで、その際に川治湯元駅から会津高原駅までも会津西街道を通って繋げると利根川・鬼怒川・阿賀野川を経由した太平洋から日本海までの自分にとっての四本目の踏破ルートが完結することになるのだが、奥鬼怒から川治湯元方面に向かうバスは川治湯元駅と湯西川駅のほぼ中間点あたりで会津西街道に合流するので、この際に湯西川駅まで歩いてしまうことにしたのだ。というのは、川治湯元駅からその合流点までは以前に自転車通過したことがあるが、かなりの登りとなるので、次回に会津高原方面に自転車で向かう時に、湯西川駅をスタートすることにすれば、登りがあまりなくて楽になるからである(福島県境の峠越え部分は以前に自転車で踏破済みなので、その部分は電車を利用した輪行で通過可能)。

鬼怒川が会津西街道に合流する地点で大きく屈曲し、西側に川治ダム、東側に五十里ダムがあるが、湯西川駅までは東側の五十里ダムサイトのバス停から歩きだせば4キロ弱なので、本数の少ない野岩鉄道の次の電車になんとか間に合う計算をしていたのだが、うっかりしてひとつ手前の川治ダムサイトで降りてしまったのである。降りてすぐに間違えたことに気づいたが、後の祭りである。

ここから湯西川駅駅までの距離を調べると5キロ以上あり、普通に歩いたのでは乗るつもりの電車には間に合いそうもない。そこで、昔取ったなんとやらで、走っていくことにしたが、道がほぼ平らなことが救いであった。しばらく走ってから、湯西川駅までの距離を調べると、後は普通に歩いても十分間に合いそうだったのでホッとした。

湯西川駅では予定の電車には余裕で間に合い、後は川治湯元駅で降り損なわなければ、川治湯元のホテルに先に行っている家内と合流できるはずであった。ところがそんなにすんなりと問屋が卸してくれるほど甘くはなかった。

初めての場所ならば、下車した直後に現在地点を確認するところであるが、川治湯元は以前にも来たところであり、勝手知った場所であるという意識もあったため、家内には5分くらいでホテルに着くと連絡してから、駅前広場の道をまっすぐ歩き始めてしまった。街灯もない道はすぐに真っ暗になり、しばらく行くと通行止めの柵があるではないか。変だと思いながら柵を乗り越えて前進していくと、とうとう道が崩壊して崖っぷちに出てしまった。やむを得ずライトを取り出して現在地点を確認すると、駅から反対方面に進んでいることがわかったので、家内に少々遅れることを告げて正しい方向に進むと間もなくホテルの前に出ることができた。

予定外の行動で本日の歩行距離は35キロほどとなったが、今までしてきた街道歩きやお遍路の時の標準的な歩行距離と比べればやや多い程度である。ここ川治温泉は熱海のような歓楽街があるわけでもなく、奥鬼怒のような野趣に富んだ露天風呂があるわけでもないので、内風呂に入って体の疲れをとったら、翌日の高原山登山に備えて早めに寝て鋭気を養うことにした。

朝食のバイキングで腹を一杯にし、ゆっくりとした時間で帰宅する家内と別れて、8時にホテルを出て高原山に向かう。

高原山へはかなり上の方まで道路が通っているので、下から歩く人などはほとんどいないようで、林道や仕事道が複雑に交錯していて何度も道に迷い、700メートルほど高いところにある登山口までは4時間もかかってしまった。駐車場には沢山の車が停まっていて人気のある山のようであった。

もう12時は回っていたが、頂上までは500メートルちょっとの標高差でもあるし朝飯は十分と食べてきたので、1時間ちょっとで着けるであろう頂上で昼食を摂ることにして、休まずに歩き続ける。歩き始めてしばらくは緩い傾斜が続くので、時間の割には距離が稼げない。

平家落ち人の説明板のある辺りから最後の登りが始まるが、こんな時間には誰も登ってこないだろうという予想に反して、かなりのスビードで登ってくる登山者に追い抜かれる。しばらくは追走したが、このペースにはついていけないと、スピードを緩めて間もなくして稜線に登り詰めた。

300名山にもなっている高原山というのは鶏頂山と釈迦ケ岳の総称でどちらが主峰かわからなかったので、まずは主稜線からはやや外れるが、西側にある鶏頂山に向かって登りだす。頂はかなりの登山者で賑わっていた。目の前には釈迦ケ岳から西平岳に続く稜線が横たわっている雄大な眺めを楽しみながら、ビスケットをかじる。
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しばらく休憩してから釈迦ケ岳に向かう。登山口への分岐点を過ぎるとめっきり人が少なくなる。釈迦ケ岳の頂上直下で、先ほど追い抜いていった人とすれ違う。その直後に頭上にヘリコプターが現れて頂上付近で旋回を始める。事故だと直感して、昨年のことが鮮やかに甦ってくる。ほどなく頂上に着くと、登山者が横たわっていて、回りには同行者とおぼしき数人が立っているので聞いてみると、骨折か捻挫らしい。こんな場所で事故るとは信じがたいが、事故とはえてしてそんなものではあるので、私も心しなければならない。
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Dsc00635頂上の左端は負傷者とその一行

消防のレスキュー隊員もヘリから降りてきたことでもあるし、私がここにいてもしょうがないので、先に進むことにする。ここから先はあまり人は入らないようだが、その割には道はしっかりしている。西平岳を過ぎるて道はほとんど下り一方で楽なのだが、明るいうちに林道まで降りられるかが唯一の気掛かりであった。

なんとか明るいうちには林道まで降りられたが、新藤原駅までどのくらいかかるかはわからない。しばらく歩いて携帯の通じる所に出たので検索すると、新藤原駅までは8.8キロとあったので、まだそんなにあるのかという気持ちとヤレヤレという気持ちが相半ばであった。

ぐんぐんと下っていくと、道が左右に分かれているが、携帯が圏外となってしまったので、どちらに進むべきか迷ってしまう。方角的には右に行くべきだが、登り坂となっているのに対して、左側の道は車の轍も残っていて「正しい」道のように見えてきたので、左に曲がってしまう。実はザックの中にはオフラインで使えるGPS用地図の入ったタブレットがあるのだが、取り出すために立ち止まるのも面倒だったし、タブレットの地図は小さな道は載ってなかったので、取り出して調べても無駄だと思ってそのまま前進した。ところが、しばらく進むと携帯が通じるようになったので、新藤原駅までの経路を検索すると、なんと来た道を戻るようになっていてガッカリした。けれども道を戻る気にはならず、このまま進んでも新藤原駅に向かう道と合流するはずだと信じて前進する。

果たしてしばらく歩くと東西に伸びる道に合流したので、迷うことなく右に曲がった。依然として携帯が通じなかったので、新藤原駅に向かう道であるという確信はなかったが、しばらくして「県道 宇都宮 藤原線」という表示があったので、新藤原駅に向かう道であることを確信した。やがて携帯が通じるようになったので、現在地点を確認すると、前回検索した新藤原駅までの経路上にいることがわかり、駅までもすぐそこであった。

間もなく駅には着いたが、駅付近には食堂はおろかコンピニさへもなかった。やむをえず自販機で飲料を買って、昼の残りのビスケットで空腹をまぎらわす。乗り換えの新栃木や栗橋でもコンビニには立ち寄れず、待望のコンビニは大宮駅までお預けとなってしまった。

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2016年10月12日 (水)

餓鬼岳

2年前に読売新道から燕岳まで縦走した時、最初は餓鬼岳まで足を延ばすつもりだったが、時間切れで登れなかったので、登り損なった山を今回登ってきた。なお下山口の中房温泉からは同じ200名山の有明山に日帰りで往復できるので、可能であれば両方登るつもりだったが、天候不順で登山日数が少なくなったことや体調が万全でなく、いつもの頑張りがきかなかったこともあって、餓鬼岳のみで終わってしまった。

三連休なので餓鬼岳登山終了後に中房温泉から有明山を往復するつもりだったが、初日が全国的に悪天とのことだったので、二日間で登るとなると有明山まではちょっときついが、1日目で東沢乗越あたりまで進むことができれば不可能ではないと思えた。

出発前に少し風邪気味だったのて、どうしたものかと思ったが、今までの経験では、このくらいの風邪は山に入ってしまえば、たいていは治っていたし、歩き始めて体調が戻らなければ、そこから戻ればいいだけだと考えて出発することにした。信濃大町駅前で夜行バスを降りた時にはかなりの雨が降っていたが、登山口である信濃常盤駅に戻ると雨の勢いは多少は弱まっていた。午前中の降水確率は80%だが、午後には20%に下がっているので、9時を過ぎれば、雨も止むことを期待して傘をさしながら出発することにした。

駅前には「餓鬼岳登山口」の立看板が立っているが、公共の交通機関がないため、大部分の登山者はマイカーを利用しており、駅から歩く人などはほとんどいないのだろう。実際に2時間近くかけて登山口まで歩いて見ると全国各地のナンバーを着けた車が10台以上駐車しており、そこそこ人気のある山のようである。

歩いている間にだいぶ体調は良くなったように感じられたので、登山を続行することにしたが、本調子ではないため、ペースは上がらない上に、つまらない所で足をすべらしたりもした。そんなこんなで今日中に餓鬼岳から先に向かうなどは思いもよらないことで、餓鬼岳に着くだけで精一杯であった。

頂上まで1時間ほどの所まで登り、なんとか暗くなる前に小屋近くのキャンプ場まで辿り着けるかと思ったが、その時、小沢を横切って地図にはない水場があることを発見した。おまけに1人用テントならかろうじて張れるスペースまであるではないか。迷うことなく、ここにテントを張ることにした。
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翌日は暗いうちから起き出し、四時頃に出発する。昨日は疲れた身体で登るよりも、朝の元気なうちに登った方がと思ったものだが、全然そんなことはなく、本調子でない今のペースでは頂上までは2時間近くかかってしまい、すっかり夜が明けてしまった。

頂上は小屋から5分ほどの至近距離にあるが、小屋に泊まっていた登山者の登頂は一段落を終えたようで、頂上は静まりかえっていた。晴れ渡った空の下、360度の展望を楽しんでから小屋に戻る。
Dsc00586頂上からの北ア展望(左奥は槍ヶ岳)
Dsc00588北アルプス北部の山々

小屋を出発した登山者が何人も先行しているのが見える。いつもならば、かなりの先行者を追い抜いて行けるところだが、今日はとても無理なのでしんがりをゆっくりと歩いて行くことにした。小屋付近の表示では東沢乗越までは3時間とされていたので、いつもならば2時間程度で行けるだろうが、今日の調子では4時間はかかるだろうと思っていた。ところが、実際には5時間もかかってしまった。コースの半分近くは岩稜帯で、岩を避けながらアップダウンを繰り返していくため時間がかかるにもかかわらず、コースタイムが3時間となっているのが不思議だった。
Dsc00590餓鬼岳から見た行く手の岩稜帯

小屋を出発する時は、最終バスには余裕で間に合うだろうし、日帰り温泉でひと風呂あびることもできるだろうと思っていたが、東沢乗越まで思いの外時間がかかったこともあったため、中房温泉までのコースタイム3時間のところも、大幅に遅れてしまうと、最終バスに乗り遅れることにもなりかねないと、少々焦りも出てくる。そこで気分を引き締めて急な坂を急ぎ足で下ると、コースタイム1時間の所を40分で下ることができて、温泉の望みも復活してきた。

ここから先の沢沿いの下山道は傾斜は落ちたものの、徒渉や高巻きの連続で、一部コースが不鮮明なところもあり、ちょっとした沢下りをしているみたいで、ペースもガクンと落ちてしまい、後から来た登山者にも抜かれてしまった。

バス停には最終バスの発車時間前20には着いたが、これでは温泉に入る時間もなくなってしまい、おまけにバス停近くには売店も自販機もないため、ビールはバスに1時間ほど揺られた穂高駅までお預けとなった。穂高駅で下車すると、乗車する電車を1本遅らせて駅前の居酒屋に入り、登山の無事終了を祝って1人で乾杯をした。

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2016年10月 2日 (日)

グローバル・フェスティバル

所属しているNGOも参加している国際交流NGOの祭典であるグローバル・フェスティバルに出かけた。昨年は一人だったが、今回は家内も一緒だ。

多数のブースでは、各国の民芸品や料理が販売されていて、一番奥の会場ではNGOの代表者等による運動の課題についてのディスカッションが行われた。

曇りの天気予報が外れて真夏を思わせる暑い1日だったが、大勢の人で賑わっていた。14754047622190
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杉並フォーラム

地元に杉並フォーラムという市民運動のグループが立ち上がり、第一回の集まりが行われるということが新聞に出ていたので参加してみる。会場の一室は100人近い人が集まって盛況だったが、例によって若い人の参加は少なく、ほとんどは自分と同年輩かそれ以上の高齢者であった。

第一回の本日は世界的な原水爆禁止運動の口火となった杉並区で発生した原水爆反対の署名運動の紹介とその教訓をどう活かしていくかについての話し合いが行われた。これからもテーマを変えて継続的に行われていくようなので、次回以降に期待したい。

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