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2017年1月 2日 (月)

長篠古戦場訪問と遠州鉄道乗車のリベンジ

関ヶ原、川中島と並んで長篠を戦国時代の三代古戦場と勝手に自分で名付けているが、関ヶ原は中山道徒歩踏破、川中島は信濃川遮行の折りに訪れているものの、長篠は近くまでは行きながら、肝心の馬防柵にはたどり着くことができなかった。というのは、事前によく調べてこずにJRに長篠駅というのがあるから多分その近くだろうと思って行ったところ、往時に似せて復旧されているという馬防柵を発見できずに他日を期して帰らざるをえなかったという苦い記憶がある。帰ってから調べてみると、長篠城というのは徳川家康の家臣の奥平某が武田軍に包囲されて籠城した所でそれを助けるべく出陣した織田・徳川連合軍に対して襲いかかった戦国最強と言われた武田騎馬軍団の猛攻を防ぐために設けられたのが馬防柵であるから、長篠城からはかなり離れた場所にあることがわかった。

 

今回、家内の実家に泊まって正月を過ごし、三日の日に娘夫婦がやってくるので二日中に帰ることにしてあるが、午後に新幹線で戻る家内に先行して、私は18切符を利用して早朝の電車で豊橋に向かうことにした。事前に調べておいた時刻では金山発8時8分の東海道線に乗れば、豊橋乗り換えで馬防柵の最寄り駅である三河東郷に10時過ぎに着き、後の行程もスムーズになるはずだった。そのとおりに行動していれば何の問題もなかったはずなのだが、年末に名鉄全線乗車で神宮前までバスを利用したことで神宮前に到着する時間がわかっていたので、金山からではなく神宮前までバスで直行して熱田駅から東海道線に乗車した方がよいと思い違いをしてしまった。

 

第一の誤算はバスの終点から熱田駅まで思いの外遠かったことである。急ぎ足でなんとか熱田駅には着いたものの、次の誤算はホームの時刻表を見ると普通しか停車せずに、金山から乗車しようと思っていた電車は停車しないことであった。ただ金山駅の次の停車駅である熱田駅を予定の電車の金山発よりも2分早く出発するのだから、追い抜かれる駅で乗り換えればいいはずだと考え携帯の時刻表で調べてみた。ところが、正月ダイヤのためか該当する列車が見つからなかったので、快速停車駅で下車して乗り換えようと考えたが、最寄りの快速停車駅である共和もその次の大府も上りは1路線しかないので追い越しは不可能であるから次の快速停車駅である刈谷駅まで行ってみることにした。

 

刈谷駅では特別快速に乗り換えることができたので、これで予定どおり進むことができるといったんは安堵したものの、そう簡単には問屋は卸してくれなかった。事前に調べた時刻では豊橋到着は9時2分となっていたので、飯田線の豊橋発9時8分までの乗り換え時間は十分余裕があるはずだった。ところが、正月ダイヤのためか単なる遅れかはわからないが、豊橋到着は9時6分となり乗り換え時間は2分しかないという厳しい状況となってしまった。おまけに前の方の車両に乗っていたために豊橋駅でホームに下車してから跨線橋まではかなりあるという不利な状況となった。懸命に走って飯田線のホームに急ぐと、1番線と2番線にホームが別れて両方のホームに電車が停まっている。どちらに行くべきか迷ったが、とっさに遠い1番線に向かって進んだところ、2番線の方の電車が動き出すではないか。2番線に停まっていた電車が乗る予定の電車だったのだ。

 

痛恨の選択ミスをしてしまったわけだが、すぐに善後策を検討する。飯田線は本数が少なく、馬防柵の最寄り駅である三河東郷まで行く電車はしばらくないが、約1時間後に豊橋を出る特急は三河東郷には停車しないものの、手前の新城には停まるのでタクシーを利用すれば馬防柵をある程度の時間をかけて観ることは可能であると思われた。ただ特急の出発時間まではだいぶ時間があるので、豊川までは18切符を利用して行って豊川稲荷を参拝してから特急に乗れば一石二鳥であると考えた。豊川稲荷は駅から近いので普段の日ならば可能なプランだったが、山門まで行ってみると、初詣の参拝客が長蛇の列をなしていたので、あきらめてそこから引き返すことにした。

 

豊川駅から特急に乗って新城駅で下車した時にちょっと心配だったのは、はたしてタクシーがつかまるかどうかということだったが、最悪の場合には新城駅から馬防柵までは五キロ弱なのでランニングで行くことも考えた。ただその場合には馬防柵をゆっくりと観る時間はなく、ただ行ってきたというだけになるだろうが

 

幸いタクシーは新城駅前に停まっていたので、すぐに馬防柵に向かう。タクシーでもかなり時間がかかったので、ランニングで行ってたら後の行程に支障が出たかもしれないと思い幸運を喜ぶ。

 

馬防柵はイメージとは少し異なるものだった。通説では鉄砲の三段打ちで騎馬軍団を撃ち破ったとされているが、実際には柵のすぐ後ろには山が迫っており、三列の鉄砲隊が入れ代わりに交代して射撃するにはスペースが少し足りない気がした。従来の通説では、それまでの戦法を一変させた画期的な鉄砲三段撃ちで武田騎馬軍団を撃破したとされているが、最近の研究ではこの戦いでの鉄砲の効果は殺傷能力ではなく、その音量に怯えた騎馬軍団の馬が思うように前進することができなかったことにあるとされているようだ(この時代の鉄砲は堅牢な鎧を貫通するほどの威力はなかったようである)。武田騎馬軍団を撃破できた最大の要因は鉄砲ではなく、武田軍の3倍という兵力差にあったというのが通説になりつつあるようだ。

 

長篠古戦場訪問のリベンジはなんとかできたが、今回はもうひとつのリベンジが待っている。それは天竜川経由での遠州鉄道乗車のリベンジである。浜松の北方には新所原から掛川を結ぶ天竜浜名湖鉄道と西鹿島から新浜松までを結ぶ遠州鉄道があり、前者については乗車済であるが、後者については新所原から天竜浜名湖鉄道で西鹿島まで行き、そこからスタートすれば楽なのであるが、過去にトライするも失敗したのと同じルートを通ってリベンジしようと思い立った。

 

数年前に自転車で諏訪湖から天竜川沿いに下降した際、二日目の夕方に中部天竜駅に着いた時に、ここから下流の天竜川沿いの道は通ったことがあるのでツーリングは終了とし、西鹿島行きの最終バスに乗って未乗車の遠州鉄道経由で浜松に出るつもりだった。最終バスについて時刻表で調べたり、自転車を持ち込めることも確認済であったのだが、中部天竜駅近くに何時に最終バスが来るのかはネットの時刻表には記載されていなかったので、それ以上は調べなかったものの、飯田線と天竜川の分岐点である中部天竜に最終バスが来ることは全く疑っていなかった。ところが、駅周辺にはどこにもバス停は見当たらず、あきらめて飯田線で豊橋に向かわざるを得なかったのである。後から調べると、飯田線は中部天竜駅の北側はしばろくは天竜川から離れて走るが、その間の水窪という駅から西鹿島行きのバスが出ており、中部天竜にはよらずに南下していくことがわかった。

 

今回リベンジするに当たり、西鹿島行きのバスも飯田線も本数が少ないので時刻表を細かく調べてみると、バスに乗車するのは始発の水窪からだと飯田線との接続が悪いが相月駅からだと待時間7分という絶妙なタイミングで乗り継ぎができることがわかり、効率的な行程を組むことができた。相月駅前のバス停は駅から階段を降りたところにあり、後は1日5本しかないバスに乗り損ないさえしなければ、終点の西鹿島までは問題なく着き、西鹿島からの遠州鉄道は頻繁に出ているので、なんの障害もなく浜松について二番目のリベンジもクリアできた。
2017010223115500 豊川稲荷

 

2017010223150600 馬防柵

 

2017010223155100 相月駅前のバス停

 

2017010223160400 遠州鉄道

 

 

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