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2019年1月

2019年1月30日 (水)

東海自然歩道踏破 7回目

昨夜に家族で泊まった三保の松原からの帰途に身延線の井出駅近くまで寄り道してもらって自然歩道歩きを再開するが、いきなり出鼻をくじかれる。というのは、末尾の地図の点線部分①が本来のコースなのだが、中部横断自動車道の工事のために立ち入り禁止となっていて前進ができないのである。迂回路がないか探し回ったが見つけられず、南側から大回りして合流せざるを得なかった。その後は順調に行くかと思いきや峠を登りきった先でまた困難に出会った。稜線上には林道が通っているが、地図では林道を横切って反対側の谷を降りていく道を通るようになっている。たしかにその部分は東海自然歩道の標示板があって、ガードレールが切れていて谷へ降りる舗装したスロープはある。しかし、その先には踏み跡は全くなく自然のままの急な谷が続いているだけなのである。念のために林道を左右にしばらく歩いてみたが、谷側に降りる道は発見できなかったので、やはり先ほどの道を降りるしかないと判断した。谷を降り始めると、かなり古い缶やビンを見つけたので人が通ったことは間違いないようだが、その後の大雨等で自然に戻ってからは誰も通らなくなってしまったようだ。地図で見ると、下山道は途中で谷を離れて左の小さな尾根を下っているようなので、登りやすそうな所を登って尾根に出るとかすかな踏み跡があり、道は次第に明瞭になって徳間の集落まで降りることができた(帰ってからネットで他の記録を見ると、皆さんは林道を右に五キロほど遠回りしているようで、私が下った二キロの谷経由の近道を通っている人は皆無だった。五万図には載っているのだが、廃道になってしまったのだろう)。

トラブル続きのために思いがけず時間がかかってしまい徳間に着いたのは3時になってしまったので、大平の最終バスである18時25分に間に合うには田代峠経由の本来の自然歩道(点線部分②)を行くのは難しいと判断して、徳間峠越えでショートカットして大平に向かうことにした。これならば十分に最終バスに間に合うだろうとその時は思っていた。ところが、鋪装道路が山道に変わり、峠が近づいてきたと思ったあたりから、新たな困難が現れた。それは台風のせいではないかとおもわれるのだが、あらゆる木がなぎ倒されている大倒木地帯に突き当たってしまっまたのである。それまではコースは左上していたのだが、左に移動しようとすると倒木の間に落ちてしまうので、倒れている木のてっぺんを目指して登り、てっぺんからは隣の木に移ってまたてっぺんを目指すという登りかたをしたために、本来のコースよりもかなり右側を登っていく羽目になった(この道も五万図には載っているが、ネットの記録はなかった)。

倒木帯が終わった時にはかなりコースを外れていることはわかっていた。尾根がすぐ上に見えていたので、とにかくあそこまで登ってしまおうと頑張ったのだが、辿り着いたのは目指していた稜線ではなく、稜線に続いている小尾根であることがわかりガッカリしたが、とにかく稜線まで登りきるしかない。倒木帯突破に時間を要して最終バスに間に合うのは絶望的となり、足にも痙攣がきたりして散々な状態で稜線に上がったが、徳間峠よりもだいぶ高い所まで登ってしまったようなので、夜道を峠目指して降りていくと、眼下には最終バスとおぼしき明かりが遠ざかって行くのが見える。複雑な気持ちではあったが、今は安全地帯まで降りるのが先決なので、峠から興津川までを慎重に下っていく。
興津川に降りたって鋪装道路を歩きだしてからは、今夜のねぐらをどうするかを思案する。バス停のある大平付近には宿泊できる施設はないので、4キロほど下流にあるやませみの湯が唯一の宿泊施設なのだが、ネットで調べた所では月曜日は休館日となっていたので、期待はできないものの行ってみることにした。途中で見つけた自販機で暖かい飲み物を買って残ったパンを食べたりしてトボトボと歩くとやませみの湯が見えてきたが、案の定、建物の中は真っ暗で宿泊はできないようだった。やむを得ず、建物の間の風の当たらない所に座りこんで、衣類をすべて着こんで始発バスを待つことにした。思ったほど寒くなく、この分なら朝まで我慢できそうかなとも思ったが、一時間ちょっとすると次第に苦痛になってきた。ネットで調べると、ここから6キロほど下ると和田島車庫というバス停があるので、そこへ行けば扉のある建物の中に入れるのではないかと思えてきたし、そこまで歩けば時間潰しもできると考えて歩き出した。2時間ほど歩いて和田島車庫に着いたが、残念ながら建物にはカギがかかっていたが、建物の前にベンチがあって風も当たらないので、ここで始発バスを待つことにした。3時間ほどの待ち時間でようやく始発バスに乗り込み
長い一夜を終えることができた。

自然歩道も7回目となって東京から遠くなると、自然歩道のコースはハイキングの対象とならない所がほとんどで荒れ放題となってきている。今後はますますコースが荒れてくるだろうと思うと、多少気持ちが萎えてくるというのが本当のところである。

Okitu


 

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2019年1月20日 (日)

箱根の山とランニング

箱根の山とランニング 箱根の山とランニング 箱根の山とランニング 箱根の山とランニング ランニングの仲間と 箱根駅伝の山登り区間である5区を走ろうということになった。5区を走るのは時間もかかるので2日目の午前中とし、初日は芦ノ湖湖畔を走るということだったが、私は足の調子が悪くて2日連続では走れないので、初日は別行動で金時山から南に伸びる尾根を縦走することにした。

 

新宿からの高速バスで乙女峠の下をトンネルで抜けて仙石原の金時山登山口で下車して、登山(ハイキング?)を開始する。今日は行程も短く早くホテルに着きすぎても仲間と合流するまで時間をもてあますし、明日のランのために疲労を避けたい気持ちもあったためユックリと登ったが、それでも一時間ちょっとで稜線に着いてしまった。ここから金時山までは一時間もあれば往復できるくらいの距離なのだが、金時山には過去2回登ったことがあるので、今回はパスして明神ヶ方面に向かう。小刻みなアップダウンはあるが、幅広い道が続いてトレランには最適な道である。もっとも明日のことがあるので、ユックリ歩きのままである。

 

明神ケ岳の頂上付近に着いたはずなのに、平坦な道がさらに続いていて頂上の標識が現れない。道はやや下りになっていくので頂上を通り過ぎてしまったのかと思ったら道が開けた展望の良い所で大勢の人が休んでいて標識もあり、そこが便宜上「山頂」とされているようであった。

 

あんなに多くの人がどこから来たのかと思ったが、稜線をしばらく進んだ所に強羅方面に降りる道が分岐していたので、ほとんどの人は強羅から往復しているのだろう。ただ、このまま強羅方面に降りてしまうと、ホテルに早く着きすぎてしまうので、もう少し稜線を進むことにする。そのため、これ以降は道はいいのだが、ほとんど人に会わなくなる。

 

今日はほぼコースタイムどおり進んでいて、2時半に明星ヶ岳に着き、ここから強羅方面に降りて4時頃にホテルに到着し、一時間ほどで仲間と合流することができた。

 

翌朝はホテルの朝食が7時半ということもあり、箱根湯本のスタートは9時半と遅くなってしまった。なお、本来の5区は小田原から始まるが、小田原~湯本の勾配はほとんどないが、距離はそこそこあるので、今回はパスすることにした。

 

昨日の山歩きの影響で足に多少の違和感はあったが、別にスピードを出すわけでもなく支障はあるまいと予定どおりに走り出す。湯本の商店街がなくなるあたりから登り坂となって、若い二人のペースにはついていけなくなる。年は取りたくないものだが、仲間はある程度離れてしまうと待っててくれるので、置いていかれることはなくて助かった。

 

自分のペースで走ることができたので、このまま走りきれるかと思ったのだが、最後の登りで足が痙攣しかかって、それが治まるまでは歩きを余儀なくされた。再び走り出すと「国道1号線最高点」の標示が現れたので、もう楽になると安堵したが、そうは甘くなかった。

 

下りにかかって間もなくすると、吹き飛ばされそうな猛烈な風が起きて前進が困難になり、近くの建物に避難する羽目となった。本番の駅伝5区でも、こんな凄い風は見たことも聞いたこともないので、ラッキーだったのかアンラッキーだったのか!ただ、風が強いのは局所的だったので助かった。

 

本来の5区のコースは坂を芦ノ湖まで降りきった先にある関所跡なのだが、帰りのバスの都合で芦ノ湖まで降りきらずに箱根園に向かう山裾を横切っていく道を通ったため、大した傾斜ではないが何回か登りが現れ、もう登りはないと思っていただけに、精神的にはこたえた。まあ距離的には大したことはなかったので、なんとか箱根園まで降りることができたが、体感的には先日の富士山マラソンよりもダメージは大きかった。

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2019年1月 8日 (火)

塩の道と糸静構造線の踏破

糸魚川と塩尻を結ぶ路は古来、「塩の道」と呼ばれて山国の信濃と海岸線の長い越後の間の重要な物流を担っていた。さらに塩尻から南下して安倍川を静岡まで下るラインは糸魚川・静岡構造線(略して糸静線)と呼ばれる日本列島を東西に分ける断層帯をなしている。これらのルートのうち、信濃大町~塩尻は電車でしか通ったことはなかったので、今回は自分の足で踏破することを目指すことにした。もっとも糸静線のうち南アルプスの北部を通過する部分は山の中腹を辿っていてトレースができないので、やや離れてはしまうが甲州街道を歩いた時のもので代用することとしたい。今回の塩尻~信濃大町は距離としては50キロ程度であるが、18切符を利用して始発と終電で1日で終えるためには七時間程度しかなく、レースならばともかくマラニックとしてはちょっとキツイ。一方、自転車の場合には1日の標準的な走行距離としている100キロからすると距離が短すぎる気がした。そこで、塩尻から松本の先の有明までの30キロを自転車に乗った後に自転車は有明駅に駐輪し、有明~信濃大町の20キロは行きは電車、帰りは走りという変則的な形でトレースすることにした。全行程が好天の日に決行したいが、松本あたりまではしばらく好天が続きそうなものの、信濃大町付近となると18切符の使える10日までは雪マークが続いていた。たとえ信濃大町が雪でも少し南下すれば雪も止むだろうからランニングには影響あるまいと考えて出発することとした。

 

塩尻を出発した時は、雲は多いものの青空は見えていたのだが、北上するにつれて雲は次第に厚くなってくる。塩尻駅を出遅れたこともあり、有明で乗車予定の電車には間に合いそうもなくなり、本数の少ない大糸線だけにどうしたものかと思ったが、とりあえず有明駅まで行ってみることにした。だいぶ進んで、そろそろ有明かなと思って国道から左折する道を覗きこむと駅が見えたので、そちらに行って見ると、なんと有明のひとつ先の駅だった。次の電車まではだいぶあるようなので、細野までいくことにした。

 

今度こそは細野駅を見逃さないように注意深く行ったつもりだったのに、またしてもひとつ先の北細野まで行ってしまった。北細野からは10分後に大町行きが出るのであるが、大町までは12キロしかなく、それだけの距離を走るために色々と準備するのも面倒に感じたため、今日は走るのはやめて自転車だけで信濃大町まで行ってしまうことにした。おかげで、早い時間に帰れることにはなったが、少し不完全燃焼気味に感じたことはいなめない。

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2019年1月 3日 (木)

北京

定刻どおり無事に北京西駅に到着したので、先頭車両の所まで行って写真を撮りたいなとも思ったが、そんなことをしている人は誰もいない。下手なことをして警察ざたになるのもいやなので、そのまま改札に向かう。北京西駅は外の路線も通っているせいか自動改札はなかった。まずやるべきことは両替である。ラサでガイドに紹介された業者は一万円が550元とあまりレートが良くなかったが、中国銀行が休業日だったため、やむをえず両替したもので、買い物をして手持ちの元がわずかになったので、北京の中国銀行で両替するつもりだった。ところが、書類に色々書かせた後で、パスポートをチェックしたらビザがないから両替できないと言いだすではないか。15日以内の滞在はビザは不要なのだと説明してもビザがないと両替できないの一点張りである。前にカシュガルでたしか中国銀行で両替できた記憶があるが、そんなことを言ってもラチが明かないだろうから、多少レートが悪くなってもいいから他の銀行に行くことにした。近くにあった中国建設銀行にダメ元で行ってみると、パスポートのコピーとヒアリング内容をプリントしたものにサインするだけでオーケーとなってしまったのにはこちらの方が驚いてしまった。官と民(多分)の対応の違いということだろうか

 

次にやるべきことは、市内交通カードの入手である。始めに地下鉄のインフォメーションに行って、ネットからスマホにダウンロードしたカードの写真と100元札を見せながら、英語でカードを買いたいと言っても全く通じず、中国語で説明されても全然わからない。ただ手で方向を指し示しているので、さそちらの方にだいぶ歩くと交通カードの写真のある機械が何台か見えたので、これだと思って近づくが、カードの買い方がわからない。そばに係の人がいたので聞いて見たが、例によってさっぱりわからない。そのときネットからの説明を見直すと、窓口で買うとある。ぐるっと見回すと、あったあった。窓口に行くにもセキュリティを通らなけれ行けないが、とにかくカードが買えることはわかった。ところが、100元札を出すと、また何か言ってくる。カード代20元+チャージ代最低20元ということはわかっていたので、いくらチャージするのか聞いているのだろうと思ったが、なにを言っているのかわからないので適当に首を振っていると、カードと一緒にレシートをくれたのて見たら80元がチャージされていたので納得して一件落着(未使用分とカード代は出国前に払い戻しした)。

 

これで家内がお薦めの明13陵(妹が中国旅行で行ったとのことで、調べてみると北京郊外にあることがわかった)に行く準備は整った。地下鉄を三回乗り換えてからバスで明13陵近くまで行くのだが、そのバス停の場所がわからない。駅近くにあるバス停に行ってみても314路というバス停はない。近くの人に聞いてみると、駅よりも向こう側だと言っているようなので駅に戻りかけて交差点までくると、なんと314路のバスが走ってくるでないか。そのバスは駅を通り越した少し先で右折したようなので行ってみると、そこは車庫でそれまでの間にバス停はなかったようなので、さきほどのバス停よりもさらに先に314路のバス停があるに違いないと、また逆戻りしていると、たまたま警官がいたので314路のことを聞くと、やはり車庫の方を指差しているので、半信半疑ながら車庫まで戻り、今度は車庫番のような人に314路のことを聞くと、車庫を通り越した先にあるという。これでわかったのは行きと帰りでは発着停留所が別だということである。これで明13陵近くまでは行けることになったが、バスに関してはまだいくつかの問題があった。ひとつは前方の電光掲示板には路線名が流れるだけなので、次の停留所は車掌の呼び上げで知るしかないのである。中国語で呼び上げられてもわからない場合には、通過した停留所の表記を確認して次で降りるべきかどうかを判断することとなる。実は誤算だったのはGPS地図があるからとたかをくくっていたのだが、バスの中ではGPSが機能せず、この技?を使えながったことである。もうひとつはカードを乗車時と下車時にタッチパネルにタッチする必要があるが、降車口の前後にあるパネルのうち前の方は(たまたま)点灯していなかったので、そちらの方だけにしかタッチしないと認識されずに、次回カード使用時にベナルテイが課せられるらしいことである。

 

バスからの下車が無事終わると、明13陵の入口は前方に見えたので迷うことはなかった。なお明13陵というのは明王朝13代の皇帝の陵で世界遺産にもなっているものである。

 

入場料が20~80元となっていたので中の上ということで40元を出すと、入場終了30分前だったせいか、「遠いぞ!」という感じでジェスチャーをしているので、最低の20元の券に変える。一直線に続いている道を歩きだすとたしかに長いが、いくつかの門を潜ったり、両側に動物の像が並んでいたりと飽きることはない。やがて前方に柵が現れ、ここから前進するのは自分の券では不可のようだったので、そこで引き返したが帰りはやけに長かった。歴史の重みを感じさせてくれる遺跡で、推奨してくれた家内に感謝々々。

 

帰りは問題なく都心に戻れたので、残りの時間をどう活用するかを、検討する。北京の有名な観光地としては、天安門広場や故旧などあるが、いずれも前に行ったことがあるので、まだ行ったことがないはずの天壇という明、清の皇帝が祭祀を行った建物を訪れることにした。

 

地下鉄を乗り継いで現地に着いたのが夕方の5時半。チベットなら十分明るい時間なのに、こちらは既に薄暗くなっており、朝が早いのは嬉しい反面、夜も早いのは損した気分になるのは、チベットの時間感覚になれてしまったからだろうか。この時期は8時まで入場可能となっていたので、てっきりライトアップされるのかと思ったら、歩道の灯籠に明かりが灯っているだけで、天壇は闇の中にぼんやりと見えるだけでがっかりだった。

 

その後は24時間オーケーの天安門広場にでも行こうかなとも思っていたけど、寒くもなってきたので空港に直行することにした。行きは早朝の国内線に乗りつぐ関係で第二ターミナルの近く、帰りは早朝の国際線ということで第三ターミナル近くのホテルを予約しておいたのだが、既に書いたとおり、行きの🎵到着した晩は近すぎることが仇になって白タクのえじきとなり、出発する朝は前夜の反動からなまじ歩いたために、えらい苦労を余儀なくされたわけだが、帰りは空港から数百メートルの「至近距離」なのだから、同じ轍は踏まないだろうと思っていたところ、思わぬ所に落とし穴があった。それは、直線距離は短くても道がないため大廻りしなければならず、実際の距離は行きの時以上になることが判明したのである。

 

とりあえず、キャンセル料がかからないうちにキャンセルはしてしまったが、その代わりにどうするかは決めてなかった。市内のホテルを予約するというのも一案だか、早朝出発ということになると、寝過ごしを恐れて一睡もできないというのが過去の通例である上、中国ではネット規制でヤフーのネット検索ができないためにホテル予約がしづらいという面もある。それならば国際線ロビーは24時間営業だろうからロビーで夜明かしした方がベターだという結論に達した。風雪にたたかれながらの岩壁のビバークに比べれば、暖房の効いたロビーのベンチは天国のようなものである。

 

ここまで読まれた方は、ガイド付の旅行と比べて個人旅行はいかに大変かと思われるかもしれない。ただ、その大変さを旅の醍醐味と思うか、辛さと思うかは人それぞれである。それを辛さとしか感じない(なくなる)場合には個人旅行という選択肢はないだろう。

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青蔵鉄道

ラサ駅窓口でガイドが取ってくれた切符を受け取って改札を抜ければ十日間一緒だったガイドともお別れである。日本語の会話がまあまあできるので、各家に(半強制的に)中国国旗が掲げられ、ラサ市内の西部には移住漢族の高層住宅が次々と立ち並んでいる状況をどのように思っているのか聞いてみたい気持ちもあったが、結局やめにした。聞いたところでどうなるものでもないし、しょせん自分は「♪ただの通りすがり・・・異邦人」なのだから。
1936年のベルリンオリンピックの9年後の1945年にナチスが、1980年のモスクワオリンピックの9年後の1989年にソ連がそれぞれ崩壊したことから、独裁国家がオリンピックを開催すると、10年以内に体制崩壊するというジンクスがあって、北京オリンピックから10年目にあたる2018年の中国の動向には注目していたが、2018年もまもなく終わろうとしている(執筆時点)にもかかわらず磐石の体制を誇っているかのようである。これは次の理由によっているのだと思われる。中国が前二者と決定的に違うのは、この間にかなりの経済成長を果たし、曲がりなりにも国民の生活水準を向上させてきたことである。たとえ貧富の差が拡大し、民主主義の不十分さと少数民族問題というアキレス腱をかかえているとしてもである。

 

二段ベッドの四人部屋に入ると、他の三人全員中国人で向い側は父親と息子、私の上の段は若い女性であるが、向い側とは他人のようであった。3日間の長い旅であるが、中国語しか通じないようなので多分交流はないだろう。そう言えば、過去に海外で寝台を利用したのは、インドで五~六回、中国で二回、ロシアで二回あるが、いずれも他の乗客との交流はなかったように記憶している。NHKで放映していた関口Jr.の中国鉄道の旅ではどのようにしてコミュニケーションをとっていたのだろう。

 

ラサを発車して最初の駅(通過駅)付近では、高峰の展望が得られるとガイドブックには書いてあり、向い側の父親は超望遠レンズで写真を撮りまくっていたが、もっと迫力のある景色を見飽きてきた身にとっては、写真を撮る気にもならなかった。やがて暗闇が迫ってきて夕食時間となり、隣の親子は食堂車へ、二階のお姉さんは車内販売の弁当で済ませたようだが、私は日本から持参したフリーズドライである。別にケチったわけではなく、ガイドブックに食料は持参した方が良いと書いてあったから従ったまでだが、「地球の歩き方」の面目躍如か?超簡単な夕食を済ませると、もう後はやることがない。各ベッドにライトは付いているのだが、老化している目(老眼にはあらず)には薄暗くて本を読むのがつらい。もっともホテルの電気も暗かったり、停電だったりして、まともに本を読む環境じゃなかったし、テレビはついてもちんぷんかんぷんで見る気がせず、長い夜はずっと続いているのであるが・・・

 

車内の設備自体はかつてのブルートレインと比べて遜色のないものであるが(今回乗車した北京西行きが一番設備が良いそうなので、他の列車がどうかはわからないが)、トイレ使用後に水を流さないといったマナーの悪さは民度の低さを物語っているように感じた。

 

寝台の揺れが揺りかごの役割を果たしたのか、睡眠時間は九時間と今回旅行中で一番の熟睡となった。夜中に目覚めた時の高度は5千メートルを越えていたのに、朝目覚めた時の高度は3千メートルを下回っていて急降下したようで、ペットボトルが外側の濃い空気に押されてひしゃげていた。自分にとっても10日ぶりの濃い空気である。

 

朝8時にようやく東の空が明るくなってきて夜が明けて新年を迎えた実感が湧いてくる。考えてみれば、海外で新年を迎えるのはこの年になって初めてのことである。まあ新年になっても、車内ではなにも変わったことはない。中国本土の人もチベット族もそれぞれの旧正月を祝うようで、西暦の正月には特に関心はないようだ。

 

完全に夜が明けないと食欲も湧いてこないが、隣の親子は食堂車に行ってしまい、二階のお姉さんは、今回はカップラーメンを食べている。これで我が部屋は外食派と自炊派が半々となった。中国のカップラーメンには必ず折り畳み式のフォークがついているが、これなども旅先での自炊派が多いことの表れなのだろう。

 

完全に夜が明けて私が朝食の準備に取り掛かった頃に駅に停車したので時間を確認したところ15分程度の遅れだったが、中国ではこの程度は遅れのうちにはいらないのだろう。私にしても、北京に到着後に決まった予定があるわけではないので(いくつかの計画は用意はしているが)、遅れは一向に気にならない。

 

列車が停車駅をスタートすると、次は青蔵鉄道本来の終点である西寧だ。もっとも北京の外、上海、広州等へと遠伸されている列車も多い。

 

昼前に車内販売で弁当を売りにきたので、まだ食欲はなかったが売り切れにならないうちに買っておくことにした。フリーズドライの予備はまだあったのだが、一度くらいは中国の弁当も食べてみたいと思ったのである。
いつも早めに食堂車に行く親子が行こうとしないので、どうしたのかなと思ったら、荷物の整理を始めたので合点がいった。多分、次の西寧でおりるからであろう。それにしても時間的には西寧手前にある青蔵鉄道の見所のひとつである青海湖が一向に見えてこないのは列車がかなり遅延しているからであろうか

 

結局、青海湖を見ることなく西寧に着いてしまった。粗い地図では湖の近くを通っているように見えても、地図を拡大して見ると湖岸を通っているわけではないことがわかった。期待に反して親子連れは降りてくれなかった。息子(といっても成人のようだが)の方が時々奇声を発して耳障りだったので降りてくれるとありがたかったのだが、仮に降りてくれたとしても、これから北京までは長いので誰かが乗ってくるだろうが

 

西寧での長い停車中に父綾はカップラーメンを買ってきたが、二人で一個しか買ってこなかったので、おそらく次の駅で下車するまでの繋ぎなのだろうが、次は多分蘭州だろうから、ずいぶんと遠いのだけれど、それで持つのだろうかと他人ごとながら心配になってしまった。

 

二時間ほどで蘭州に着いた。ここは、ウルムチ、敦煌からの路線と合流する交通の要衝で、10年ほど前に家内と西安から敦煌まで旅行した時に途中下車して壁画を見に行った懐かしい場所である。ここからならば日本への通信も可能だろうから、家内に新年の挨拶のショートメールでも送ろうと思ったが、やはり通じない。ホームに降りたら通じるかなとも思ったが、各車両の出入口には係員が出入りをチェックしているので、わけのわからはい中国語の問いかけに対応するのも面倒だったので、ホームひに降りるのはあきらめた。

 

気がついたら親子連れの姿が見かけないので、やはり蘭州でおりてしまったのかと思ったら、ホームで買ったらしい果物や菓子を抱えてもどってきた。ホームに降りても問題ないことがわかったので西安で降りてみようと思った。それにしても親子連れの下車の期待は何度裏切られたことか。こうなったら北京まで付き合うことにするか。代わりにどんな客が乗ってくるかわかないし。とりあえず、少々うるさいのを我慢すればよいだけなのだから

 

考えてみれば、今回は鉄道に乗って以来、外の景色は一度も撮していない。高原の荒涼たる風景やその中に点在して見られるチベット人の生活と放牧中の家畜、さらには遠くに望める雪をまとった峰々といったものが、青蔵鉄道旅行の魅力なのだろうが、チベット奥地を旅行した後からは新鮮さが失われてしまうようだ。ここはやはり多くの日本人旅行者が行っているように(というよりも「旅行会社が企画しているように」という方が正確だが)、行きは鉄道、帰りは飛行機とした方が、高所順化という面だけでなく、旅の感動という面からも望ましいのだろう。

 

蘭州から五時間くらい経ったあたりで列車が停車したので、てっきり西安かと思ってホームに降り立つとホームは閑散としていて手前の小さな駅だった。ここで、ようやく通信がオーケーとなったようなので、家内にショートメールでハッピーニューイヤーを送っておく。

 

一眠りして目覚めると、明け方に大源という駅に停車したのでホームに降りてみる。ホーム上だとGPSが機能するので現在地を確認すると、どうも西安は経由せずに北京に直接向かっているようだ。西安を経由する列車は多分、上海行きなのだろう。北京まではもう一眠りできるなと思ってたら、車掌が隣の親子連れを起こしに来る。乗車時に切符と交換した引換券の回収が下車30分ほど前にあるのだ。何らかの不正防止策かなと思っていたが、睡眠中の乗客を起こすことと切符の所持を確認して下車させるためのようだ。というのは、ほとんどの外国の駅では下車時の改札はないものだが、青蔵鉄道からの列車に限られるのかどうかは知らないが、下車時に自動改札があるので切符を所持して下車しないとまずいということなのだろう。

 

親子連れが荷物の整理でゴソゴソしだしたので、そのまま起きていると、やがて親子連れは下車して行く。北京まで一緒だと思い込んでいたのに予想を裏切り続ける連中である。あれほど嫌っていたのに、二晩も同宿すると寂しさまで感じるのは妙なものだ。終着の北京までは数時間の乗車だし、早朝ということもあり誰も乗ってこないだろうと思ったら、入れ替わりに若いカップルが乗り込んできたのは意外だった。日本と違い鉄道人気は高いということなのか

 

数時間のこととはいえ貴重な睡眠時間なのか、さっきまで親子連れが使っていた布団でカップルは寝入ってしまつたので、睡眠を妨げないようにと廊下で朝食の準備に取り掛かる(カップラーメンの容器にお湯をいれるだけだが)。食事をしていると、東の空がしらじんでくる。チベットの7時はまだ真っ暗だったのに・・・、それだけ、この二泊三日の鉄道の旅で東に大きく移動したことが実感として納得させられた。やがて列車は北京西駅に到着し、天空列車の長い旅は終わった。帰国まではもうちょっとである。

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