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2020年1月

2020年1月22日 (水)

辺野古ゲート前座り込み

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今回の沖縄遠征の最終日は例によって、辺野古ゲート前の座り込みである。今までは個人で参加していたので、朝の資材搬入阻止に間に合うためには前夜に名護に泊まらなければならなかったし、帰りは時間のかかる路線バスに乗るので、最終便で帰京するためには安全を期して3時過ぎの資材搬入阻止はスルーせざるをえなかったが、今回は市民グループの用意したバスを利用させてもらい、往復高速経由だったので1日3回の資材搬入阻止全てに参加できたし、那覇空港にも出発3時間に到着することができた。

 

現地に到着して暫くして第一回の資材搬入阻止行動が始まる。バスに乗車したきた14人を含めても30人ほどの座り込みなので、搬入自体を阻止するまでには至らないが、それでも工事車両100台近くがゲート手前に集結し、基地内に待機していた機動隊が整列して、中隊長の号令一下ごぼう抜きを開始し、座り込みを全て排除して車両が基地内に入るのには一時間以上要していたので、もし座り込みがなければ1日の資材搬入回数は増えていただろうから、座り込みの存在が工事を遅らせている効果があることは間違いないだろう。

 

お昼の第二回搬入の前には「島ぐるみ」という沖縄の反基地団体の仕立てたバスでやってきた20人が加わり、さらに福島からやって来た30人近い団体も加わったのでかなりの人数となったため、ある程度は搬入時間を遅らすことができるのではないかと期待したが、機動隊が座り込みの市民の前に整列すると、福島の団体は座り込みを止めて一斉に帰ってしまったので拍子抜けしてしまった。やはり初めての人にとっては、機動隊にごぼう抜きされるというのはかなりハードルの高いことなのだろうか?自分にとっては慣れっこになってしまったことだが、久しぶりに座り込みに参加してみると、機動隊のごぼう抜きも以前ほど手荒でなくなった気がするし、以前はごぼう抜きした後にフェンスと機動隊の人垣で作られた臨時の「留置場」に長時間収容されるという人権無視があったが(夏などは脱水状態になりかかった)、今はそれもなくなったのは警察内部になんらかの反省があったということであればいいが

 

最終の搬入までは時間があったので、テント前では芸達者の連中が得意ののどを披露してくれたりして楽しんだ。なかでも安倍晋三が演じる寅さんの替え歌は秀逸で、もしこれが放送されれば(たちまち放送禁止だろうが)大ヒット間違いなしという代物であった。その後に二人の地方議員がテント前に現れたが、なんと私の地元の区会議員であった。なんでも明日、沖縄の地方議員との合同のイベントがあるそうである。間もなく最後の資材搬入があり、同議員らも加わって阻止行動が行われて本日の行動は終了し、朝と同じバスで那覇に戻ることとなった。

 

自分が初めて辺野古ゲート前の座り込みに参加したのは安保(=戦争)法制の強行採決が行われた2015年の12月であるから、早いもので足かけ5年がたつことになる。それ以前は沖縄の問題というのは、どこか自分とは縁が薄い問題だという意識があったのかもしれない。しかし、アメリカの言いなりになって民意を無視して政策を強行するのは戦争法制も辺野古新基地建設も根幹は一緒であることに気づいて自分なりに勉強する中で、辺野古新基地建設は間違っており絶対に阻止しなければならないと確信するようになった。

 

すなわち日本政府のいう都市部にある普天間基地の危険性を除去するために辺野古に移転する必要があるという説明は真っ赤な嘘なのである。なぜならば普天間基地に駐留する海兵隊は米軍の海外侵略を行う尖兵として展開するものであり、日本を防衛する能力は有していないのである。防衛力とは直接的には敵国の海や空からの攻撃(日本は島国なので陸からはありえない)に応戦して、これを無力化することであり、それとともに相手本国に直ちに反撃して甚大な被害を与えうる攻撃力を有することによって、相手に攻撃を思い止まらせることだが、海兵隊はこれらのいずれの機能も有していないということは、軍事専門家にとっては常識となっていることなのである。それゆえに日本の防衛力には無縁の海兵隊は日本から出ていってもらって普天間基地の危険性を除去するというのが取るべき対応なのである。そして、それによって世界に類を見ない大浦湾の貴重な自然も保たれるのである。

 

さらには、基地建設予定地の大浦湾に軟弱地盤があることが判明したことにより二つの大きな問題が生じるようになった。ひとつは前例のない大幅な地盤改良が必要となってくるが、技術的に可能であるという御用学者の意見は根拠に乏しく、仮に可能だとしても設計変更については知事の承認が必要となってくるのである。当然、玉城知事は承認しないだろうし、基地反対派の知事が存在する限りは工事はストップしたままとなるだろう。一方、国側は裁判その他の法的対抗を取ってくるかもしれないが、その場合には泥沼化してしまい、万一国側の主張が認められるにしても非常に長期間を要することになって、いずれにしても普天間周辺の住民は長期にわたって危険性を甘んじなければならなくなってしまうのである。

 

もうひとつの大きな問題は、当初は数千億円と言われていた基地建設費用が地盤改良工事によって大幅な増額は避けられないことである。国はその金額を明らかにしていないが、県の試算では二兆円にのぼるとも言われている。国家予算の2パーセントにもなる金額をアメリカの歓心を買うためにだけで浪費し、しかも完成後に地盤沈下で使用不能になるかもしれないということを知ったら、いかにお人好しの国民でも反対の声が強まるであろうから国も金額を明確にせずにあいまいのままでごまかしているのである。つまり、国は明確な長期的ビジョンを持っておらず、その場しのぎの対応をとっているということだろう。

 

以上のような状況を踏まえると、当面は現在の膠着状況がしばらく続かざるをえないだろう。私の沖縄行脚も、体力的・経済的な面からいつまで続けられるかはわからないが、可能な限りはやっていきたいと思っている。

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2020年1月21日 (火)

渡嘉敷島横断

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久しぶりに朝をゆっくり過ごして出発する。自転車をレンタルして、島北部にある西山展望台を目指す。標高差200メートル強の登りは一昨日のマラソンの疲れが抜けてない体にはきついが、ランニングとは使う筋肉が違うので何とか頑張るが傾斜のキツイ箇所では自転車を降りて引いていく。 戦没者の碑である白玉の搭を過ぎて青少年公園の一角に入ると、西山の頂上は近い。西山のちょうじょうからは座間味島その他の慶良間諸島が一望である。ここから直接西側に下ってもよいのだが、東の展望台の手前に集団自決の碑があるので、そちらに寄ってみる。そこでは米軍が上陸したその日に圧倒的な武力の前に抵抗らしい抵抗もできずに高みに追いやられた数百人が集団自決し、その阿鼻叫喚が谷全体にこだましたそうである。二度と戦争をしてはならないという思いを新たにしてその場を立ち去った。

西山頂上から西側に下る道は下る一方かと思ったら、途中には結構登りもあって当てがはずれてしまった。ただ早咲きの桜が眺められたので気が紛れて今朝スタートした東側の渡嘉敷港から西側の阿波連港に繋がる島のメインルートに降り立ち阿波連をめざすことになる。ただ途中でルートを外れて渡嘉久志の砂浜に降り立つ。ここには対米軍用の秘密兵器として、艦船に体当たりする船を隠す穴が掘られて今も残されている。もっとも実戦では役に立たなかったそうだが

一度メインルートまで登り返してから阿波連に降り立つ。渡嘉敷港と比べると、砂浜が広がっているせいか観光地化が進んでいる印象を受けた。特に中国語の表示が目につき、春節では中国観光客でごった返すのだろう。 阿波連から渡嘉敷までは一時間足らずで着いたので、那覇への出航までは二時間以上あった。そこでフェリーの待合室に隣接するレストランでゆっくりすることにした。まずは渡嘉敷島の名物である混ぜそばを注文する。そば麺の上にねぎ、ニラ、刻み海苔、天かす、秘伝の味付き豚ミンチ、最後に黄身をのせてある。混ぜれば混ぜるほど味が良くなるそうである。さらに麺がなくなるとご飯を入れてまたかき混ぜるのである。お腹がいっぱいになったところで、マンゴーラッシーを注文して南国気分も味わう。 沖縄本島に戻ったのは夕方だったが、モノレールとバスを乗り継いで瀬長島に向かう。今回の行程では、沖縄本島を除くと5島目になるが、南シナ海に沈む夕日と那覇市内の夜景、それと空港の離着陸が眺められる那覇最大のデートスポットだそうである。夕日を眺めてからはホテルの日帰り温泉で汗を流した。

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宮古島から渡嘉敷島へ

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宮古島を去る前にもうひとつ訪れなければならない場所がある。それは中国の脅威を大義名分とする南西諸島の要塞化の一環として島の中央部に新設された自衛隊の基地を見てくることであった。空港の少し先の基地近くのバス停に向かうバスは平良というバス停から出るのだが、同名のバス停はだいぶ離れた所にもあり非常にまぎらわしい。おまけに十分に余裕をもってホテルを出たはずなのに思った以上に遠くて、発車時間ギリギリにやっと着く有り様であった。 陸上自衛隊の基地はバス停から比較的近い場所にあり、真新しい3階建て宿舎が五、六棟が建っており、奥にはより高層の弾薬庫かなにかが建築中であった。ミサイル基地を担当する航空自衛隊の基地は少し離れた高台にありパラボラアンテナも多数見えた。あそこまで行くのは次のバス時刻を考えるとちょっと厳しいのでこのまま帰るつもりだったが、帰りのバスが基地の真下まで寄り道をしてくれて、間近に基地を見ることができたのはラッキーだった。

南西諸島への自衛隊配備の実状については与那国島や石垣島でも見てきたが、着々と進行中のようである。、尖閣近くに中国公船が進出している状況を踏まえて、その必要性を論じる意見もあるが、南西諸島の要塞化は緊張を激化するだけで平和をもたらさないという意見もある。そして何よりも住民にとっては基地の存在が攻撃の対象となるというリスクまあるし、基地の存在によって島の唯一の水源である地下水が不足しかねないという問題もあるようだ。自衛(軍)隊は本来的に住民を守るものではないということは、沖縄戦における集団自決からみても明らかであろう。

空港に移って沖縄本島に戻り慶良間諸島に移動するのだが、船の出発までの時間を利用して首里城に寄ってくる。前回、焼失した直後に訪れた時は、焼失現場は立ち入り禁止だったが、最近になって一部は立入が許されるようになったようである。平日であったが、観光客もそこそこ見られ、沖縄を代表する観光地である首里城の人気を象徴するようであった。焼失現場は報道でも目にしているが、実物を見ると悲惨さが迫ってくる。一刻も早い復旧を願うのみである。

市内に戻り那覇に近い泊港から慶良間諸島の渡嘉敷島に向けて高速船で出航する。太平洋戦争末期に米軍が沖縄に上陸する直前に、その足場とするために上陸したのが慶良間諸島なので、その戦跡を訪れるのが目的である。実は今回訪れる渡嘉敷島よりも1日早く米軍が上陸したのは西側にある座間味島なのだが、座間味島に直行する船便が季節運休となってしまったため、渡嘉敷島にせざるをえなかったのである。 渡嘉敷港は寅さんの映画にでもでてきそうなひなびた港町である。到着したのが夕方だったため、どこにも出掛けずに予約していた民宿風の宿に直行し、夕食は海の幸を肴に泡盛を味わった。

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2020年1月19日 (日)

57キロでリタイヤ

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朝5時にスタートした100キロマラソンは57キロでリタイヤして完走はならなかった。20キロまでは快調だったが、その後はいつものことで、足に疲れがたまり思うように走れない状態となる。46.5キロの関門は制限時間一時間前に通過して80キロの関門を目指す(そこまでは走る権利があるので、80キロの関門リタイアはやむ無しということで)。ところが、足の疲労はたまる一方で60キロ先からの高度差100メートルの登りをクリアできる自信がなく、57キロのエイドでギブアップして収容車に乗るはめになってしまった。足の筋力の衰えはいかんともしがたく、100キロを走りきる走力は失われてしまったことは重々承知しているが、まあヒマラヤのための体力トレーニングにはなったし、宮古島を南北に縦断して、それぞれの島に橋を渡って行くこともできて、ちょっぴり観光気分も味わえたので、よしとしよう。

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2020年1月18日 (土)

決戦前夜

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羽田空港国際ターミナル「ホテル」で一夜を過ごして早朝の便で那覇に向かうことになるが、心配した降雪は避けられ小雨だけだったので予定通りのフライトであった。那覇に着くと、気温は一気に20度近く上がるので、防寒用の衣服を全て脱ぎ捨ててザックに詰め込んだので、荷物が膨れあがってしまった。那覇空港では宮古島便の乗り継ぎ時間が四時間近くあったので、どう過ごそうかと思っていたが、食事をしたり待合室で休んでいるうちに時間は経ってしまった。

 

那覇空港からは小一時間のフライトで宮古島空港に降り立つ。途中はずっと雲の上だったが、宮古島に近づいて高度を下げるとサンゴ礁も望まれ、宮古島初上陸となる。思っていたよりも気温が低いのは意外だったが、暑さに弱い自分としては助かる。ただ風がやや強いので明日は止んでほしいものである。市内に向かうバスに乗り込んだ人はほとんどが明日のレース参加者のようであったが、皆さんは途中で降りてしまい、受付会場行き送迎バスの始発である市役所前まで乗っていたのは私だけだった。

 

送迎バスは途中のホテル数ヵ所でピックアップするために寄り道をするので、受付会場まで一時間ほどもかかってしまった。レースのスタート地点でもある受付会場は野原の中にポツリと佇んでいる寂しい体育館であった。ここでゼッケンと参加賞であるTシャツをもらう。明日はここから長く苦しい1日が始まるというのに一向にファイトが湧いてこないのはどうしたことだろうか

 

送迎バスで市内に戻り、夕食を食べた後は早めに横になって明日に備えることにした。

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2020年1月10日 (金)

甲府南方の山梨百名山

昨年は甲府北方の山梨百名山を集中的に登ったが、年が改まって今度は甲府南方の山梨百名山を登ることにした。甲府北方の山梨百名山は点在しているので一回の山行で多くの登頂はしづらいが、甲府南方の山梨百名山は稜線上かその近辺にピークがあるので、効率的に登れそうだ。

甲府から路線バスで滝戸山の登山口に一番近いバス停で下車する。と言っても、バス利用の場合は明確な登山口というものがないし、一応登山口とおぼしき所までも一時間以上歩かなければならない。アプローチは長いが、南アルプス北部や八ヶ岳の展望が素晴らしいので退屈はしない。

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金比羅神社方面の道を分岐したつもりだったが、途中で道を取り違えたようで踏みあと程度の道となってしまい、神社下でまたしっかりした道と合流する。神社から山頂までも急登が続くが、背後の展望に励まされて山頂に達する。
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山頂で昼食後に春日山に向かうが、東に向かわなければならないのに、尾根を取り違えて南に向かってしまい、しばらくして気づいて引き返したが30分強のロスとなってしまった。正しい道をしばらく進んでいくと道は林道に降り立った。すぐ先で林道は二手に分かれ、左手の林道には進入禁止のゲートがある。ここでGPS地図を取り出して確認しようとするとすると、設定を間違ってしまったのか画面がくるくる回ってしまい、ルートの見定めがしづらくなってしまった。おまけに林道がくねくねと曲がっていてますますわかりづらくなっているが、なんとかルートを見定めて降りていくと、どんどん下降していく。変だなと思いつつ20分ほど進んだところで止まって、GPS地図が回転しないように固定して確認すると、道は稜線を外れて南側に進んでいることがわかった。距離にして二キロ、標高差で160メートルも登りかえさなければならなくなる大失敗であった。

 

林道の分岐点まで戻りルートを再検討すると、進入禁止となっている道を進まなければならないことがわかった。進入禁止と云っても車が進めないだけで、人は関係ないだろうからと進んでいく。二度の道の取り違えで春日山までの行程がタイトとなってきたのでジョギングで進むことにした。春日山の手前で暗くなってしまったが、山頂まで林道が続いているので前進には問題はない。

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山頂からは距離的には尾根道を行くのが早そうだがコースの状況がわからないので、遠回りではあるが、確実に下れる林道を降りることにした。距離は20キロ近くあるが、眼下に広がる甲府盆地の街明かりに慰められて石和温泉駅にたどり着くことができた。

 

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2020年1月 6日 (月)

クレムリン

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国便の乗り継ぎ時のモスクワ滞在時間は半日強となるが、ラウンジで過ごすのも悪くはないものの、貧乏性の我々はせっかくだからとクレムリンまで足を伸ばすことにした。クレムリンは以前に夏に訪れているのだが、冬はどんな感じなのかを味わってみたいと、わざわざ通過ビザをとっておいたのだ(ビザ取得料金は無料)。

 

予定ではトランジットの先にあるラウンジで朝食を澄ませてから入国するつもりだったのに、うっかりして直接に入国してしまったが、クレムリンは中に入るわけではなく外観を見るだけなのですぐに帰ってこられるだろうから、それから出国手続きをしてラウンジで食事をすればいいやと思ってた。

 

前に行ったことがあるという安心感から、中東の訪問国のように下調べもしなかったのだが、実際に行ってみると以前の記憶はあやふやで、現地の人に聞いたりしてなんとかクレムリンにたどり着くことができた。クレムリンの周辺は新年を祝うイベントで賑わっていて、イスラム暦では別の時期が新年となる中東諸国とは様変わりであった。クレムリンの裏手にある川が冬は凍りつくのではないかとの期待をもって見に行ったのだが、夏と変わらぬ流れだったので少しがっかりしながら帰途についた。

 

帰りは来た道を戻るだけだからと軽く考えていたのだが、地下鉄と空港鉄道の乗り換え駅が何と言う駅かもすっかり忘れてしまっていた。これは、駅名がキリル文字表記と英語表記の二通りあって紛らわしいことと、モスクワには我々の便が発着する北部にある空港の外にも南部に2ヶ所の空港があり、何人かの警官に道を尋ねた際にも空港名を云って尋ねたつもりだったが、空港名を勘違いして道を教えてくれた人もいたようだ。その結果、たどり着いた空港の電光掲示板に自分の乗るつもりの便が表示されてないことからインフォメーションで説明を聞いて初めて空港を間違えたことに気づき、路線図ももらって正しい経路もやっと理解できた。ちょうど外国人が羽田空港から皇居を往復するつもりが、帰りは成田空港に行ってしまったようなものだが、完全に準備不足であり空港名と空港鉄道の記載のある地下鉄路線図を見せて質問してれば間違うことはなかったと思う。

 

幸いにして時間の余裕もあったので事なきをえたが、ちょっぴりヒヤヒヤの1日であった。モスクワのラウンジは混雑してたがなんとか場所を確保して食事を摂り、成田への帰国便に乗り込むことができた。

 

 

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ビラミッド見学後に帰国へ

今日は今回の旅行のうち中東については最終日であり、今回の旅行ではカッパドキアに次ぐ目的であったピラミッド見学のひである。全荷物を持って移動するわけにはいかないので、市内中心部に宿泊は予定していない荷物置場目的の安宿わ予約してあったので、そこまで移動するためのタクシーをホテルに依頼すると六千円だという。昨日ルクソールで1日チャーターしても九千円程度だったのに高すぎると思われ、時間に制約される帰国時ならばともかく、今日はピラミッド見学だけで時間に余裕があるため、空港からは少し離れてはいるものの市内中心部まで行くであろう路線バスに乗ることにした。バス停を見つけるのに一時間以上かかってしまい、やって来たバスに行き先も確認せずに乗り込んでGPSで確認していると、案の定市内中心部に向かっているようなので一安心する。

 

市内中心部で下車してタクシーをつかまえホテルまで移動して荷物を置いて身軽になって市内中心部の広場に向かう。「地球の歩き方」ではそこからビラミッド行きのバスが出ているように書いてあったが、広場に差し掛かると日本人の若者に呼び掛けられ、地元の人でも広場のピラミッド行き乗り場を探し出すのは至難の業なので、地下鉄でギザ駅まで行き、そこからはピラミッド行きの人集めをしている業者がいるからそれについていくのが良いと言われてその通りに従うことにした。

 

ギザ駅で下車してうろうろしていると、自分もピラミッドに行くという地元の人から誘われて一緒にタクシーでピラミッドに向かうことにする。その男は英語の教師だと云っていたが、どうもうさんくさい気がしたので、ピラミッド近くで下車して喫茶店に誘われた時に強引に振り切ってその男から離れた。

 

ピラミッド入場口前のケンタッキーで昼食をとったが、その店の三階からはビラミッドやスフィンクスが見渡せる絶好の展望台であった。食事を終えてチケットを買おうとすると、代わりに買ってやるという男がいたので金を渡すとチケットは買ってくれたが、このままだとガイド料を請求されかねないと考え、彼からチケットを奪い取ると、制止を振り切って入場してじまい悪徳業者の魔手から逃れることができた。

 

こうして無事にビラミッドにたどりつき、間近に見ることができた。メキシコでもピラミッドはみたが、エジプトのものはスケールが違っていた。こんな巨大なピラミッドを数千年前に作り上げた古代エジプトのパワーには畏敬を感じざるをえない。まさに今回の旅行のラストを飾るに相応しいものであった。
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ピラミッドからの帰りは二キロほど歩いてmapsmeに記載されているバス停からギザ駅方面に戻るつもりであったが、そこからはミニバスしかないことがわかり、今回の旅行で初めてのミニバス体験ができた。ギザ駅で下車して地下鉄で市内中心部の広場に戻り、考古学博物館に寄ったら、地球の歩き方では年中無休でまだやっているはずの時間なのにクローズとなっていて見損なってしまった。その代わりにナイル川のほとりで夕日を眺めながらのひとときを過ごせたのでまあよかったことにしよう。
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これで無事にエジプトを去ることができると思ったら、最後でどんでん返しが待っていた。まずは、ナイル川沿いのレストランで「最後の晩餐」でデイナーを注文したつもりだったのに、さいしょにスィーツらしきものが出て来て変だなと思ったら、その後はいくら待ってもなにも出て来なくて、とうとうしびれを切らしてどなり散らしたら注文が通ってないことがわかり、提供されたものだけの料金を払ってチップもおかずに退散した。その後はホテルで荷物を回収し、残金が現地通貨で九千円相当あったので、これならタクシーで帰れるだろうと、流しのタクシーをつかまえて料金交渉も成立し、ひと安心したところ運転手曰く「空港に立ち入るには四千円近くかかるので、別途払ってくれ」とのこと、最悪の場合は空港手前で下車して歩かなければならないかなと覚悟したが、空港手前でタクシーに何らかのトラブルが発生して前進が不能となる事態になってしまう。そこで折よくやって来た路線バスに乗り移り、さらにシャトルバスにも乗り継いで空港に無事に着くことができた。ただその間も本当に乗り継ぐことができるのかとの半信半疑の連続であった。帰り歩便は初めての正式なビジネスクラスだったので(以前にソウルでの乗り継ぎ時時に誕生日祝いで無料でビジネスクラスにグレードアップされたことはあったが)、出発前はラウンジでくつろぎ、搭乗後はゆったりとした座席でサービスを受けられるはずだったのだが、バターン急となってしまいサービスを受ける間もなかったのは残念だった。

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2020年1月 4日 (土)

ルクソール

カイロ空港の近くで便利だと思って予約したホテルが前夜に歩いてみたら意外と遠かったことから、始発のルクソール便へのアプローチはタクシー利用にするつもりだったが、出発に戸惑って出遅れたこともあり、いつ来るかわからないタクシーを待つよりも、時間の読める歩きの方が、チェックイン締め切りまで余裕がない現状ではリスクが少ないと判断して、歩いていくことにした。空港到着までは順調だったのだが。出発ロビーが見つからずに少々あせる。日本国内と異なりチェックイン前にも簡易セキュリティチェックがあるため、その装置の作動している唯一の入口からしかロビーに入れないのだった。ロビー前の道を右往左往してやっとロビーに入れる入口がわかり、なんとかチェックインはできた。

 

ルクソール空港に到着して観光に移るわけでるが、当初の予定でさルクソールの真ん中を流れるナイル川の西側を午前中に済ませるため、まずはフェリーの船着場までのタクシーに乗るつもりだったのだが、そこまでの料金が想定の倍の金額を提示され、協定料金なのか、どの運転手も全く値下げに応じない一方、東西両方の観光地周遊の1日チャーター料金は想定していたものと大きくは異なっていなかったので、日本円で約8千円でチャーターすることにした。

 

タクシーの場合もフェリーを利用して西側に移るのかと思いきや、はるかに南方の橋がかかっている所まで移動して西側に移ってからフェリー船着場あたりまで戻るもので、フェリーは利用しないものであった。フェリー利用と比べて走行距離はだいぶ増えるが、チャーターなので料金には影響しないし、時間的にも早いようであった。ナイル川をフェリーで渡るという経験をしたい気持ちもちょっひりはあったのだが・・・

 

いくつかの遺跡を観光後に西側最大の目玉である王家の谷に向かう。古代エジプト王家の墓が各所にあって、なかでも有名なのはツタンカーメンのものである。ただ現在はツタンカーメン関係のものは博物館に移されて当地にはないそうである。観光客は1日に三つの墓を見られることになっているので、最初は入場してすぐのラムセスⅣ世の墓に入ったが、壁に描かれたレリーフが鮮やかで、後から見た二つの墓よりもはるかに見事であった。また王家の谷では妙な体験もした。それは休憩所のことであるが、アイスクリームを注文して百ポンド紙幣で支払い釣りをもらおうとしたら、「you give me」と云って釣銭を渡そうとしないのである。文句を云ってなんとか釣銭はもらったが、釣銭を払わないという文化は他国では経験したことがない。同じ中東でもヨーロッパの影響が強い所と違いエジプトはアフリカの影響が濃いためであろうか?もちろん一般商店ではそのようなことはなく、観光客相手の商売に限ったことではあるが釣銭部分はバクシーシ(喜捨)と考えているのだろうか
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西側の観光を終えて東側に移動し、運転手ご推薦の店で魚のフライ料理を注文したが、今回の旅行中に食べた料理の中で一番日本人の口に合う料理でとても美味しかった。食後は近くにあるカルナック神殿を観光したが、今まで見た世界の遺跡の中でも断トツの荘厳さで、はるばるルクソールまでやってきて良かったと思わせるものであった。「事件」はこの後に起きた。観光を終えて通りに戻り運転手に電話して待っていると、別の人がやって来て、「あなたの運転手は用事ができて来れなくなったので私の車に乗れ」というのである。半信半疑でいるとタクシーの運転手が戻ってきたので男は立ち去り難なきを得たが、もう少しで騙されるところであった。

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最後の観光は市の中心部に近いルクソール神殿であるが、これはこれで素晴らしかったもののカルナック神殿の後だとスケールの小ささが目立ってしまい、やはりルクソール神殿の後にカルナック神殿を観光した方が感動が高まっていくので良かっただろうと思えた。以上でルクソールの予定を全て終えて空港に戻りカイロに帰ることになるが、充実した1日を過ごさせてくれた運転手には「たっぷり」とチップをはずんでやり、彼も喜んでくれた。

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2020年1月 3日 (金)

死海体験後にエジプトへ

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本日はペトラを後にして死海経由で空港に戻り、エジプトのカイロに至るという変化に富んだ1日である。このような経路は路線バスはもちろんツアーにもなく、タクシーの遠距離利用にならざるをえない。料金は大体の予想はつくが、悪徳ドライバーに ぼられたらいくらになるかはわからない。運賃交渉をするにしても、こちらには早い時間にベトラを脱出して夕方には空港に着いていなければならないという事情があるので、足許を見られる心配がある。そこで割高になるのは覚悟の上でホテルにタクシーを紹介してもらうことにした。予定していたよりもだいぶ高い二万四千円かかることになったが、やむを得ないと考えることにした。

 

アンマンからペトラに来たときと違い、死海に向かうためには山越えをしていくので変化に富んだ魅力的なコースであった。ほどなく死海につき、一時間ばかり休憩をとって死海の浮遊体験を行った。高い塩分による浮力は思っていた以上で、海中から突きだした足を海底につけようと思ってもかなわず、一時的に溺れた状態になるしかなかった。

 

死海を後にして一路アンマン空港に向かう。早い時間に着き過ぎたので、チェックイン開始までかなり時間があり、チェックインしないことにはイミグレの先の免税店に行けないということで、チェックインカウンター側のカフェで軽食を摂りながらチェックイン開始を待った。二時間以上待たされてチェックインを済ませ、もう二度と来ることはないであろうヨルダンを後にしてエジプト航空の機内に乗り込んだ。

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2020年1月 2日 (木)

ペトラ遺跡

早朝にホテルを出てペトラ遺跡に向かう。観光用のペトラ行きバスは朝の1便だけということで乗り遅れてはたいへんなので日本から予約していったのだが、乗場がわからず不安であった。ホテルのロビーやタクシーの運転手に聞いてたどり着いた所は、予約書に書いてある所とは違い始発の場所であったが、そこからでも乗車できたしホテルからも近かったので結果的にはよかった。

 

ペトラまでは砂漠状の平原を三時間あまりかけて進んで行く。バスに乗り合わせた人はほとんどが夕方発のバスで帰る日帰り観光と思われるため、すぐに遺跡方面に向かって行くが、我々はペトラ泊まりで荷物があったので、遺跡と反対方面のホテルまで行き、荷物を置いてレストランで食事をしてから遺跡に向かう。

 

ペトラ遺跡の入場料は円換算で八千円とバカ高いことで有名であるが、一生に一度だけのことだからと我慢する。インディージョーンズの舞台ともなった宝物殿までは入口からシークと呼ばれる大峡谷を一キロちょっと歩いていく。ペトラ遺跡の最大の目玉である宝物殿の前には多くの観光客がたむろしている。テレビや写真でよく見る風景ではあるが、実物を目の前でみるとなかなかの迫力である。
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宝物殿の奥にも円形劇場や教会といったナバタイ王国の遺跡が多数見られるので、半日で見て回るとなるとかなりの強行軍にはなる。2日券や3日券も売っているが、宝物殿までの長い道を毎日歩くことを考えると、1日で観光を済ませてしまった方が得策であると思われる。そう言いながらも夕食後にまたペトラ遺跡に出かけることになった。、宝物殿前で週三回行われる「音と光のショー」(別料金)を見るためである。今晩は開催の日に当たっていたものの、元日なのでどうかなとも思われたが、イスラム圏では正月は関係なかったようである。家内は昼の観光で疲れてたので行きたくないということで一人で出かけたが、派手な演出こそなかったものの、まあまあ面白かったということにしておこう。
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2020年1月 1日 (水)

イスタンブールからアンマンへの移動

本日はイスタンブールからヨルダンのアンマンまでの移動だけである。直行便に乗れば早いのだが、直行便は安い便は売り切れていて高い便しか残っていなかったので、レバノンの首都ベイルート乗り継ぎの便を選択した。その場合にはベイルートの乗り継ぎ時間が四時間近くとかかるので、かつては中東のパリと謳われ、その後は内戦やイスラエルからの攻撃を受けて大きな被害を受けながらも復興の途上にあるベイルートの街を眺められるという興味もあった。街は空港に隣接していてタクシーを利用すれば、乗り継ぎ時間内に市内観光もできると踏んだのだが、家内が疲れ気味だったので乗り継ぎ時間は空港内で休養し、ターミナルから街並みを眺めることに甘んじることにした。折しも、昨日カルロス・ゴーンがレバノンに逃亡したそうなので、この視界のどこかに彼が潜んでいるのかと思うと興味深かった。
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また空港は海岸に面しているので、地中海に沈む今年最後の夕日を眺められることも期待したが、またもや悪天でかなわなかった。ただ離陸して雲の上に出ると、地上線上に残照が認められたのでよしとしよう。
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アンマン空港に着いてバスで市内中心部に向かうところまではよかったのだが、ホテルまたでのタクシー代は渋滞が激しかったことも影響していたかもしれないが、ネットに書いてあるものよりだいぶ高いものになってしまった。ヨルダンのタクシードライバー恐るべしで、明後日のペトラ遺跡からのタクシーチャーター料金を巡ってのタクシードライバーとのバトルを考えると気が重くなってしまう。

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