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2021年8月

2021年8月29日 (日)

強制隔離

いよいよ十日間の強制隔離がはじまる。

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デルタ株流行国として指定された国からの帰国者に対する取扱は次のようになっている。

デルタ株流行国として指定された百カ国近い国からの入国は原則禁止となり、帰国者は例外的に次の条件を守ることを条件に帰国が認められることになった。
・出発72時間以内に献体採取したPCR検査についての陰性証明書(厚労省所定の書式を含む)の提出
・誓約書の提出、健康状態や現在地を報告するアプリのインストールと隔離期間中の報告
・空港での抗原検査が陰性であること
・10日間の施設隔離とその間の3回のPCR検査で陰性判定が得られた場合の公共交通機関を利用しない自宅への移動と四日間の隔離

71年生きてきて幸か不幸か塀の中で暮らした経験はなかったが、今の生活はそれに近いのではと思えてくる。飲酒が禁じられていることはまだ我慢できるが、部屋を一歩も出られないというのが、非常にストレスになっている。その結果、外部とのつながりらしきものはネットやテレビを除くと、窓から見える空港の景色だけである。隔離されているホテルは成田空港第三ターミナルに隣接しており、朝は日の出を臨め昼間は広大な空港が一望でき、夜になれば滑走路灯が幻想的な美しさを見せる。そして昼間は出払ってた飛行機が翼を休めに戻ってくると、我が子が帰ってきたようにホッとした気分にさせてくれるから妙なものである。

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部屋から見える日の出
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同じ経験をされる方のために参考となることを書いてみる。ただし、私の滞在した東横イン成田空港についての経験だけなので、他施設では違う取扱がされる可能性があることは承知ください。
・提供される弁当について私自身は特に不満はないが、それ以外には食料は調達できないので(出前も認められていないようだ)、嗜好品等を希望する人は出国前に用意するか、家族等に差し入れ(酒は没収)を頼む必要がある。
・テレビは利用できるが、テレビに組み込まれているオンラインビデオは利用できないようになっているので、時間つぶしの方法を考えておいた方がよい。
・健康状態報告や現在地報告が毎日義務づけられているが、それとは別にビデオ通話への応答が不定時に求められている。これに応じると、こちらの様子が相手方に筒抜けとなるので、それが気になる人は、慌てて応答せずに身だしなみを整えてから応答するか、普段からあまりリラックスしすぎないようにすることも必要かもしれない。

日々の生活は三食の弁当が最大の楽しみであり(だんだんと飽きてはくるが)、後はテレビとネットで時間つぶしはできる。特にkindleで本のダウンロードができるのはありがたい。さわりの部分だけならば無料なので立ち読み感覚で読めるのが良い。

そうこうするうちに(といっても長い時間だったが)強制隔離最終日である十日目の朝が来た。7時前にPCR検査の採取容器が配られる。ホテル隔離後、三日目、六日目に続く三回目の検査である。キルギス出国直前の検査から数えると、二週間の間に五回の検査である(うち一回は成田空港での抗原調査)。検査はこれでおしまいにしてほしいものだ。

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朝食後にゆっくり風呂に入ってから荷物の整理を行う。これでいつでも退所できる準備は整った。その後に昼食として入所後30回目となる弁当の配布を受ける。いやー、よくも飽きもせずに食べて来たものだ(そんなことを言ったら罰が当たるか)。
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1時前に昼食を食べ終わると、後は何もやることがないのでテレビを見ながら検査結果の通知を待つ。事前に確認したところでは2時半から3時の間くらいに連絡が来るということだったが、3時近くなっても連絡が来ない。しびれを切らしてコールセンターに館内電話するが誰も出てこない。よもや陽性判定(たとえ、そうでも僞陽性に違いないので、再検査で陰性となることは間違いないとは思ったが)で、今日は退所できないから連絡が遅くなっているのではと悪い方に考えが行ってしまう。

3時15分過ぎにようやく連絡があり、すぐに退室してキーを返してバスに乗るようにとのこと。あわてて1階に降りて退所手続きを取ってバスに乗り込むと間もなくバスは空港に向かって動きだす。そうだ、十日間も隔離されたホテルの外観くらいは写真に撮っておかなきゃと思ったが、バスの窓は行きと同様に全て目張りされて景色が見れない(まだ感染者扱いかよ)。仕方ないので、覆いの間から撮ったものだから、ピンボケしてしまった。

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バスはすぐに空港第二ターミナルに着き、ここで自宅隔離の注意事項の説明でもあるのかと思ったら、別に係の人がいるわけでもなく、ここで解散ということのようだ。自宅までは公共交通機関の利用は禁じられているので、ハイヤーを予約しておいたが、そのチェックがあるわけでもないので、公共交通機関で帰ろうと思えば帰れたようである。もっともあんな重い荷物を担いで、猛暑の中を帰るのは大変なので、ハイヤーで帰るのも悪くはない気がした。  

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ハイヤーはホテル隔離者専用みたいで、運転席と後部座席差透明シートで完全に仕切られていて、感染者扱いはまだ続いているようだ。成田空港を出発したのが4時ちょっと前という時間だったのが幸いして渋滞にも会わずに2時間もかからずに帰宅できるこどできた。こうして、コロナが下火になっている「安全な」キルギスから一定人口あたりでは、1日の感染者がキルギスの10倍となっている「危険な」東京への移動は何故か10日間の隔離を挟んでようやく果たすことができた。
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2021年8月18日 (水)

帰国

8月17日
未明にドバイ空港から成田行きのエミレーツ航空に乗り込む。搭乗直前に防護服を着た航空会社職員から陰性証明を中心にチェックを受ける。おいおい、もう感染者扱いかよ!陰性証明は現地医療機関発行のものだけでなく、日本政府所定の様式の提示も求められる。日本大使館に事前に相談に行って必要な準備をしてきたからよいようなもの、そうでなけれは、この段階で搭乗拒否されていたかもしれない。機内に入ると、異様なほどのがら空き状態にびっくり。どこかの国のパラリンピック選手・関係者しか乗っていなんじゃない。混雑してたら感染防止のために機内食は遠慮するつもりだったが、これじゃ堂々と食べられるぞ!それにしても、この時期に二週間の隔離覚悟で日本に入国しようとする人ってどんな人だろう

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トバイの夜景を楽しみ、夜食を終えて一眠りして、はッと目覚めて窓の覆いを開けたら、そこは夜明けのカラコルム上空であった。しかもK2が間近に見えているではないか!もう大感激であった。さらには機体はタクラマカン砂漠の上空を横切っていく。何たる絶景か!飛行機に乗ってこんなに興奮したことはない。今日は71回目の誕生日であるが、最高の誕生日プレゼントとなった。

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飛行機は日本を目指して一路東に向かう。入国時のコロナに関する諸手続き、その後の14日間の隔離と初めてのことが続くが、心配半分、楽しみ半分である。そして隔離開けの晴れて自由の身となることを楽しみに待つとしよう。

 

やがて二回目の機内食が運ばれてくる。そこでアルコールを注文するかどうかが大問題だ。アルコールを飲むと検査で陽性がでやすいということで隔離中は禁酒になっているようだが、考えてみるとビシュケクでPCR検査をした前夜もそうとは知らずにウィスキーを痛飲してしまったが陰性判定が得られたんたから、少量飲むくらいは問題ないかなと思う反面、帰国直後に行う抗原検査は⑥PCR検査よりも疑陽性が出る可能性が高いらしいので自重することにしよう。

 

空港到着後、パラリンピック組とその他組に分けられ、その他組は抗原検査、陰性証明、誓約書、健康居所確認アプリのインストール等で2時間以上足止めされる。検査結果待ちの会場に通され、これで結果を聞いてすぐにホテルに入れるのかと思ったら、さらに1時間以上待たされる。しかも一切の状況説明がない。抗原調検査は通常30分くらいで結果が出るというのにこれだけ時間がかかっているのは何故なのか。お盆明けで検査が集中しているのかもしれないが説明がないのには、ぷんぷんである。

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私が結果待ちで待機させられた部屋の人は全員が抗原検査は陰性だったようで、その後もなんやかんや時間かかかってしまい、ホテルに着いたのは着陸してから実に5時間後のことであった。

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2021年8月16日 (月)

マナス空港とドバイ空港

8月16日
当初の予定では午後発のフライトであったが、航空会社の都合で早朝便に変更となったため、前夜から空港に向かうことになった。ただ寝過ごしてはいけないという思いから一睡もできない結果となる。真夜中から各地に向かうフライトごとの行列ができるが、私の向かうドバイ行きも3時前から行列が始まる。ここでひとつ心配となったのは電光掲示板に表示されているフライト便名と私が持っているチケットデータのそれとは異なることである(ただし、日時は同じ)。変更が度重なった便なので、便名も変わったのだろうと考えたが、ちょっといやな点であった。チェ空港ックイン自体は問題なく行えたので、便名が違って表示されていたのは共同運航のためではないかと思われるが、それならそれで共同運航であることを電光掲示板かチケットのいずれかに記載すべきではないか(日本ではそうなっているはずだが)。なおドバイから成田までの乗り継ぎ便は私の誕生日である翌日の未明発であるが、その便の座席まで指定済みだったので、ドバイでのチェックインはなくなり誕生日サプライズも期待できなくなっだ(10年前にカザフのアルマトイからインチョン乗り継ぎで帰った時は、出発空港では乗り継ぎ便の座席指定がされてなかったため、インチョンでの座席指定時に誕生日サプライズとしてビジネスクラスへの無料アップグレードがされたことがあり、今回も密かに期待していたのだが)。

 

ビシュケクのマナス空港は中央アジアでは唯一プライオリティパスによるビジネスラウンジが使える空港としてプライオリティパス初体験となるはずだったのだが、チェックインに時間がかかったため搭乗時刻まで30分ほどしかなく、ほとんど行く意味もない気がしないでもないか、何事も経験だと行くだけ行ってみることにした。

 

まずは入室であるが、パスや搭乗券の確認もなかったのは拍子抜けであった。次に驚いたのは部屋があまりにも雑然としていることである。前の利用者の散らかした跡をスピーディーに片付けないからこうなるので、以前に利用したことのある成田やモスクワのビジネスラウンジでもこんなに酷くはなかった。無料で提供されるのは軽食と紅茶くらいでかなりしょぼい内容だが、たまたま徹夜で空腹を感じていたので、ないよりはましだった。

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ラウンジを出ると、ドバイ便はまだ搭乗ゲートが表示されてない。搭乗10分前でまだゲートが決まってないということはありえないことで、出し惜しみをしているのだろうか。ソ連時代の
悪癖を引き継いで利用者ファーストならぬお上ファーストの考えが続いているのだろう。
ようやく機内に乗り込むと満席であった。行きは空席が目立ったが、減便して稼働率を高める努力が効をそうしたのだろう。ただ満席状態では感染リスクを考えて食事はしたくないのでドバイのラウンジまで我慢することにしよう。

 

ドバイ空港に降り立つと改めてその大きさに驚嘆させられる。空港が大きいだけに利用できるラウンジもたくさんあるようだ。行きの短い乗り継ぎ時間の中で見つけたラウンジが場所がわかる唯一のラウンジなので、そこに行ってみる。ただ、その時は閉鎖中で中に入れなかったのだが、それから一ヶ月近くもたっており、今度は入れるだろうと思ったら、引き続き閉鎖中であった。そこで別のラウンジにむかったのだが、ネットの紹介記事ではラウンジの場所のせつめいとしてターミナルコンコースが書いてあるか、コンコースの端から端までJRの一駅分は優にあるので゜搭乗口の番号も書いてもらえればありがたかった。、

 

一駅分ほどを歩き、別のラウンジにようやく辿りつく。そこは最大4時間の滞在が可能で、そこそこの食事と無料のアルコールまでとれるというものであり、私が利用したことがある成田やモスクワのビジネスラウンジよりも勝っていると感じられた。ただ搭乗券に大きなスタンプが押されてしまうので、ラウンジをハシゴしてきたことがバレバレにはなるのだが

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次に最大3時間仮眠できるラウンジがコンコースAにあるというのでコンコースAまでの移動手段である電車の発着場に行ってみた。ところが電車はいつまで待っても来る気配がない。ここでハット気付いて出発便一覧のボードを確認して納得する。現在コンコースAは閉鎖されているのだ。コロナに因る減便のためであることは間違いない。これでコンコースAにあるラウンジは利用できないことは明らかになった。

 

残るは第一ターミナルにあるラウンジにどうやって行き着くかであるが、ネットでは両ターミナル間は歩いていけるとは書いてあるもののその具体的な方法を記述したものはなく、第三ターミナルにおいて第一ターミナルへの誘導マーク等は一切ないので、第一ターミナルには事実上は行くことはできいと判断される。となると、まだ利用してないラウンジは一カ所が残されているに過ぎず、とてもラウンジのハシゴをするというわけにいかず、ドバイ空港滞在時間約18時間の大半を無駄にすごさざるをえない。

 

こんなことなら、空港で簡単にビザが取れるそうだから、市内に出て世界一の建物を見にいった方がよかったかなとは思う半面、乗り継ぎではないことになると、出発時間の遅れによっては陰性証明の効力にも影響しかねないかもしれないので、自重したのはやはり賢明であったと言えるだろう。

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キルギス最終日

8月15日
いよいよ旅の最終日だ。陰性証明も土産も手に入れて、外には特にやるべきことはない。唯一困ったことと言えば、現地通貨が日本円で1万円近く残ってしまい、これを使い切らなければならないことだ。それにはもう一度オシュバザールに行くことだが、乗り込んだバスが途中で故障してしまい、乗り換えようと思ったら、手持ちの小銭がなくなり、タクシーに乗ろうと思ったら近すぎるためか乗車拒否されてしまった。歩いて行けばいいようなものだが、あいにくの雨降りでザックの中にはパソコンやカメラといった濡らしてはいけなものもあり(一応、ビニールて包んではあるか)、カフェで雨が小降りになるのを待つことにした。

 

なかなか止まないので雨の中を歩きだしたら、バザールはすぐであった。ただ、先日いった土産物がひしめき合っている一帯には辿りつけない。あちこち探し回っていると、大きな建物の周囲にテントの屋根のようなものが張り巡らされた所があったので近づいて見ると、先日いった土産物屋の集まっている一帯であった

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お土産を買い足して、お昼を食べに市の中心部に移動する。現地通貨が余っているので、タクシーを利用することにした。いくらか聞いてみると200ソムだという。距離的にみて明らかにぼられている。だが、金持ち喧嘩せずで値切らなかった。それで相手も拍子抜けしたのか、レストランの入り口まで案内してくれるサービスぶりであった。

 

旅の終わりは中央アジア料理ということでネットで検索したお店を選んだのだが、食欲が今ひとつだったこともあり、あまり油っこいものは避け、「困った時のラグマン(うどんに似た味)」でいくことにした。食後に少し足を伸ばしてマナス王というキリギスの英雄叙事詩の主人公の碑を訪れることにした。ビシュケクという街はソ連時代に作られた新しい街で歴史的建造物らしきものがない中で例外的な観光名所ということで訪れようと思ったが、私の古いガイトブックに記載してある場所にはそのようなものは見当たらないのである。次の用件もあり、あまり時間もなかったことから、あきらめてタクシーでホテルに戻る。

 

次の用件というのはランニング仲間とのZOOMによるオンライン飲み会である。私にとっては久しぶりに日本人にあって、日本語を話せたというのが収穫であった。ただNHK+は毎日見ていたし、ブログも日々更新していたので、日本語に飢えているという感じはほとんどなかった。チェックアウトは朝済ませていたのでロビーの隅でzoomをおこなったため電波が弱かったためか、映像かしばしば中断した。

 

その晩の9時に空港に向けてホテルを発つ予定なので、それまでの間に近場で夕食をとることにした。ビシュケク到着初日に行った店にまた行ってみようと思ったのだが、道を一本取り違えたために辿りつけず、結局別の店に行く。ケバブの文字に惹かれてはいったのだか、店の名前はイスタンブールでキリギス料理でなくトルコ料理専門店だった。広い意味では同じトルコ文化圏内だから、まあいいか。帰りに公園を通って帰ったら、なんとそこにマナス王碑が君臨しているではないか!なぜここにあるのか理由は不明ながら、ここで見ることができてよかった

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ホテルに戻ってから空港まで小一時間をホテルの車で送ってもらった。千円以上の支払いは覚悟していたが、代理店から支払い済みのようで新たな支払いは求められなかった。空港でも若干の買い物はしたが、日本円で七千円相当の現地通貨が残ってしまった。ただここで無駄な買い物をして使い切るのではなく、そのまま残しておくことにした。というのは、今回はコロナ禍で陸路による国境越えが困難なため、キルギス国内だけの移動に止めたか、コロナが収束した時点での隣国タジキスタンへの国境越えを考えており(アエロフロートの3年間有効のチケット代金も残っていることだし)、今回の余った現地通貨はその時に使えばいいのだから

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2021年8月15日 (日)

PCR検査

8月14日
いよいよ運命の日であるPCR検査の日である。結果もさることながら、まずは検査がうけられるかどうかが第一のハードルである。受付で予約済みとの文言のロシア語訳を表示したタブレットを見せると、別の受付場所の建物の外にに連れていかれる。何人かの先客がいるが、順番がどうなっているのかがわからない。適当な時に受付の建物の中に入ると、パスポートの呈示を求められ、いくつかの質問が行われる(もちろん、翻訳アプリを介してだが)。その中に電話番号というのがあった。そこでスマホの番号に国別番号をつけたら、海外の番号はダメだと言われる。弱ったなと思ったらホテル名でもいいことがわかった。実際問題として、スマホにロシア語で連絡事項が来ても対応できないんだけどね

 

いよいよ、その後は隣の部屋で献体採取に移る。日本では唾液によったが、こちらでは鼻と喉の粘膜の採取だ。奥の方に細い棒を突っ込まれる時に一瞬だが違和感はあるが、唾液の場合は必要量を集めるのがなかなかたいへんなので、一概にどちらがどうとは言えない。これで今夜には結果がでるそうだが、ワクチン接種済みでるし、他人との濃厚接触は避けてきたので、陰性は間違いないとは思うものの、万一ということもあるので、不安が全くないわけではない。

 

その後は昨日は素通りしたオシュバザールで土産物を買う。全く迷路のような所に夥しい数のお店が集まっている。一割くらいしか値引きしてくれないが、元々高価なものを買うわけではなので言い値に近い値段で買う。時間があればまた来てみよう。

 

バザールから少し歩いた先からトロリーバスに乗って市南部のファイザーというレストランに向かう。何やらワクチン製造会社名みたいな名前でPCR検査結果を前にしてゲンカツギみたいな気もするが、地元料理店としてはビシュケク一の人気店だそうである。ビシュケク初日の日も捜したのだが、古いガイドブックに載っている場所からは移転したようで、今回ようやく訪れることができた。

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注文したのは一番人気のブロフである。炊き込みご飯とチャーハンをミックスしたような料理で中央アジアで広く食べられている定番料理である。さすがに人気店であるだけに空席か出来ると廊下で待っていた人がすぐに座ってしまうという状態である。私も長居せずに店を出る。

 

帰りもまたトロリーバスに乗る。ビシュケク市内の主要な交通機関は路線タクシーのようであるが、路線番号がわかってないといけないし、小回りかきくだけにどこへ連れていかれるかわからなという不安もあるし、使いやすさの裏返しで、どの車も密状態というのも、利用には二の足を踏まざるを得ない。それに対してトロリーバスは電線が必要なため幹線道路しか走らないので、GPS対応地図で路線が違ったことがわかれば、次の停留所で降りて戻り乗り換えるだけである。なにしろ料金は8ソム(約10円)なのだから。ただひとつ難点は車内だとGPSの効きが悪くなって地図上の現在位置がわかりにくくなることである。これに対してはスマホとタブレットの両方の地図を開いて現在位置の信頼性の高い方をとることによって対応せざるを得ない。。

 

ホテルの近くの停留所で下車し、食料と酒を買ってホテルに向かう。今晩はNHK+でもみながら夕食をとり、PCR検査発表前の「最後の晩餐」を迎えることになる。やがて定刻となり、至近距離にある医療機関に向かう。当然のことながら陰性判定だったが、これで日本に帰れると思うとやはり嬉しかった。夕方からしこたま飲んではいるのだが、お祝いということで、帰り道でさらにビールの小瓶を買ってしまった。
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2021年8月13日 (金)

カラコル

8月13日
今日はイシク・クル湖の東端よりもさらに東よりの山岳地帯にあるカラコルを目指すということで7時にゲート前で落ち合うことになっている。ホテルの朝食は8時からとなっていて間に合わないので、昨夜のうちにランチボックスを頼んでおいた。ところが7時近くになってもロビーのカウンターには係員が現れるないので、しびれを切らしてホテルを出てしまった。

 

走り始めて間もなくしてチョルボン・アタの街に入り、お店がたち並びホテルも散在している。普通ならああいう所に泊まるはずなのに何故プライベートビーチのホテルを予約してあったのかが不思議である。

 

車がカラコルに近づくと天山の高峰も見えだししてきた。運転手
は何故私がカラコルに行きたがってるのか不思議がっていたので次のように説明しておいた。「10年前にカンテングリ山をカザフスタン側から登山したので、今度はキルギス側から見てみたいのでカラコルに行きたいのだ」と。ただカラコルからカンテングリが果たして見えるのかどうかについては自信はなかった。

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カラコルの手前まで来た時に山の合間からカンテングリとおぼしき山が姿を現した。方角的にもピラミダルな形からしてもカンテングリであることを確信したが、すぐに前山に隠れて二度と姿を現さなかった。カラコルは比較的大きな町で、たくさんあるお店の中から適当なカフェを選んで遅い朝食を摂る。また銀行もいくつかあったので両替もしておく。

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後はビシュケクに戻るだけなので、当然同じ道を戻るのかと思いきや悪路だと嫌がっていた湖南側の道を進んで行くではないか。これでカンテングリをもう一度見て写真をとるチャンスは失われたが、雲が厚くなってきたので、あのまま戻っても見られなかった可能性は高いと思う。今回は山国キルギスで南のパミールと北の天山の両方見られただけでも大満足であった。

 

湖南側の道は全然悪路ではなく、むしろ北側を走っている時よりもスピードを出しているようだった。想像するところでは、カラコルは遠いためできれは行きたくなかったので方便をついたが、来てしまった以上は客の希望を聞いてやりたいと思ったのかもしれないし、実際問題としてカラコルからならば南側の方が早いという面もあっただろう。

 

やかてイシク・クル湖を離れると湖の南北の道は合流して一路ビシュケクを目指すことになり、私のキルギスの旅もフィナーレが近づいてくるようだ。

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2021年8月12日 (木)

イシク・クル湖

 

08月12日
今日から二日間の予定でソ連時代は外国人立入禁止で「幻の湖」と呼ばれたイシク・クル湖に行く。本来は登山終了後は隣国タジキスタンに足を伸ばして、アフガニスタンとの国境地帯であるワハン回廊に行きたかったのだが、コロナの影響で陸路の国境越えは困難が予想されるために予定変更となったものである。

 

初日はイシク・クル観光の拠点となるチョルボン・アタで泊まり、翌日は湖の東端から少し上がった所にあって天山登山の基地となるカラコルまで足を伸ばした後にビシュケクに戻るというものである。チョルボン・アタまでは路線バスが頻発しているようであるが、途中寄り道してみたいプラナの塔は路線バスは素通りしてしまうようなので、行きだけは車をチャーターして翌日は路線バスで帰ってくることも考えていた。ただバスの混雑状況がわからず、PCR検査を翌日に控えて密環境の中で万一感染でもしようものなら何にもならないので、翌日もチャーターすることにした。またカラコルからの帰り道は同じ道を行くのは芸がないので、湖の南側を通っていくことを考えていたが、運転手から南側の道は悪路だという懸念も表明されたので帰りも湖の北側の道さを行くことにした。先日のベースキャンプまでの道ほどの悪路ではあるまいとも思われたが、格別南側の道に固執する理由もなかったからである。

 

車は市街地を抜けて田園地帯を走ってしばらくすると、急に路肩によって停車した。パトカーに停車を命じられたからのようである。スピード違反かなにかのようである。運転手が拘束されることさへなければ多少の遅れは構わないが、前途多難の船出である。運転手は警官の差し出す書類に次々とサインして握手を交わしていたから、これで一件落着のようである。車に戻った運転手は何の説目をするでもなく、素知らぬ顔でまた走りだした。まあ説明をされても多分私は理解できないだろうが

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その後、車は幹線道路から外れて南下し、プラナの塔を目指す。プラナの塔はシルクロードの往来が盛んであった頃には旅人のよき道しるべになったであろうと思われ、塔のてっぺんに登って四方を見渡すと、千年も昔に戻った気がしてくる。観光客もそこそこ来ており人気スポットのようてある。

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次におとずれるのはアク・ベシムという仏教遺跡である。ガイドブックには現地の人には知られていないと書いてあったが、本当に運転手は知らないという。私のGPS対応地図には載っているのだが、運転手の地図には載ってないようだ。そこで私がナビゲーションしていくことになり、左右に曲がる指示を出しながら進んでいったのだが、運転手も私の指示だけで進むことには不安を感じたのか、通りすがりの人に道を尋ねて、進行方向に目的地があることを確認してから安心して前進を続けた。

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ほどなく遺跡の横に到着したが、発掘現場がそのまま残っているような状態で他には観光客はおろか地元の人もいなかった。仏教と多少なりとも接点のある日本人にとっては玄奘三蔵も訪れた場所ということで馴染み深いものであるが、異教徒にとっては何の感心もない地なのであろう。そういえば以前にパキスタンのガンダーラ遺跡のひとつであるタキシラを訪れた時も、観光客は全くおらず、地元の子供達に付きまとわれたことがあったっけ。

 

その後、日本の道の駅のような所で昼食をとる。エージェントからの料金内訳にはツアー料金は食費込みとなっていたので、ホテルに着いてからの食事となると空腹となるかもしれないと思い、後部座席で早弁をしていたのである。そしてビュッフェスタイルで運転手があれもこれもとすすめるにもかかわらず最小のものしか頼まなかったので、えらく少食の奴だなと思われたかもしれない。

 

車はやがてイシク・クルの湖畔を通るようになり、天山の山並みも遠くに見えるようになる。イシク・クルはあまりにも大きいので海のようである。チョルボン・アタの少し手前で車は左折し、鉄の扉が閉ざされた所で停車する。どうもセキュリティの厳しいプライベートビーチの中に今夜のホテルはあるようだ。一人で来るには場違いの気もしたが、乗りかかった舟だからやむを得ない。
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夕食は「オンザビーチ」と言われるが、海に突き出た所にあるホテルなのでビーチはひとつではない。どこのビーチだかわからないが、一番可能性のありそうなビーチに行ってみる。それにしても、まさか砂浜で車座になって食べるわけではないだろうしと思ったら、砂浜の端にレストランがあったので、多分あそこだろうと思っていくと当たりであった。それならば「砂浜のレストラン」と言ってもらえればわかりやすかったのに
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帰国準備

8月11日
今日は一日フリーなので市内見物を兼ねて帰国に関わる手続きの準備にとりかかった。まずは日本大使館に行って日本国の入国者へのコロナ対応の確認を行うことであった。大使館までは歩いて小一時間の距離なのでタクシーでもただみたいなものであるが、時間の制約はないので、街の様子を知るために歩いていくことにした。
 
大使館へは迷うことなく着いたが、大使館員の対応に一抹の不安がなかったわけではなかった。というのは私が若い頃は大使館員の目はビジネスマンのみを向いており、いわゆるバックパッカーに対しては冷たい態度をとっているということを聞いたこどが
あるからだ。  
 
今回は事前予約もなしに訪れたのだが、対応にあたってくれた若い一等書記官はきわめて親切に応対してくれた(彼の父親と私が同年輩であることも幸いしたかもしれないが)。その結果、日本出国前に確認していた10日 間の強制隔離とその後の4日間の自宅隔離の方針には変更がなく、ワクチン接種完了者に対する特例措置も特に取られていないことが判明した。最大の収穫は陰性証明の取得に際して、日本国が作成している書式に書いてもらえれば、日本入国時にスムーズに手続きが進むことが判明したことである。 

 

その後は、大使館近くの日本料理店で特上の寿司を食することにした。日本人オーナーが経営する店だけにまがい物ではなく本物の味を堪能することができた。写真の内容にデザートまでついて日本円で約2500円というお値打ち価格である。手持ちのソムはあるのだが、試しに昨日キャッシングしようとしてPINコードではねられたクレジットカードでの支払いに挑戦してみた。カードリーダーに暗証番号を入力して無事に決済は完了した。PINコードと暗証番号は違うのであろうか。疑問は解決しないままであった。  

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その後は、さらに歩きでビシュケク最大のマーケットであるオシュバザールに出かける。大使館の人からもスリには十分気をつけるように言われていたが、重要な物は胸のところで抱えるようにして首からぶら下げており、仮に背中のサブザックに切り付けられて中身を盗まれても実害はほとんどない状態だったので、安心して通ることができた(サブザックを切り付けられても予備はあるし)。バザールは広範囲にわたっており、食料品のエリアと衣料品のエリアに分かれている。今日は時間がなかったので通過しただけだったが、帰国着前に再度訪れて後者のエリアで土産物を見ていくことにしよう。また前者のエリアではベースキャンプではかなわなかった馬乳酒も買い求めてみたい。

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最後はPCR検査をしてもらう医療機関で検査の予約をすることであった。ホテルから医療機関までの地図はもらっていたのだが、途中からその地図に入ることは難しく、かなり長時間歩いていて熱中症のリスクもあるため、一度ホテルに戻ってしばらく休んでから出直すことにした。

 

仕切り直しでホテルから医療機関を目指すと、たいして迷わずに5分くらいで辿り着けた。今日は単なる予約だからすぐに終わるかと思いきや医療機関でのやり取りに30分以上の時間を要してしまった。一つには先方はロシア語、こちらは日本語以外は
堪能でないので、両言語間の翻訳ソフトを使って意思疎通を行うのだが、ソフトの不備から意思疎通がうまくいかない時は英語を補助的に使うというややこしさがあるほかに、先方は私の出国日時と日本国の検査対象時間(出国前72時間以内の献体採取) にについて確認したがっていることが、だんだんわかってきた。

 

とりあえず予約だけは済ませたので、ホテルへの帰り道にあるお店でビールとチーズ、ソーセージを買って、昨日の残りのウィスキーを併せたもので、今夜の夕食代わりとすることにした。今日のお昼は現地の感覚からすれば豪華の部に入るかもしれないが、夕食代はなんとその一割程度で済ませることになってしまった、。

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2021年8月11日 (水)

ビシュケクにもどる

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8月10日
本日はビシュケクに戻るだけで一日を使ってしまい、ちょっ近くともったいない気もしたので、当初は陸路で絶景を楽しみながらいくことも検討した。ただ乗合自動車だと乗客が集まってからの出発となるため、ビシュケクに着くのは深夜になるようだし、長時間密になると感染リスクも高まるので、小一時間でひとっ飛びできるフライトを選択することにした。その時はたかがフライトでこんなに苦労するとは思いもしなかった。

 

午後のフライトでお昼頃にホテルを出ればいいため午前中は時間が空くので、オシュ最大の観光地と言える大シルクロード博物館に行ってくることにした。その前にパミールのBC~ABCへの馬代の支払い等で現地通貨のソムの手持ちがわずかになったので、ホテルの近くにあった銀行でユーロを両替することにした。ユーロの小額紙幣の合計が45ユーロあったので両替しようとしたら、小額の両替は両替屋でやってくれというので、最低の両替はいくらからかと聞いたら、たった5ユーロしか違わない50ユーロからだというので、50ユーロ紙幣を取り出して両替をしてもらう。

 

銀行から出て大シルクロード博物館まで小一時間を歩いていくつもりだったが、タクシーが何台も止まっている。日本の感覚からすると、二千円くらいかなと思われるが、ここはキルギスなんだから500円以下ならいいかなと思って、いくらで行ってくれるかとメモ帳に書いてもらう。そしたらなんと100ソム、日本円で約80円という信じられない値段である。ただ、こちらの人の1という字の書き方は縦棒だけてなく、縦棒の頭から斜め棒線が左下にも伸びるというものである。以前カザフで世界遺産を訪れるために車を一日チャーターした際に、いざ支払いとなってからその字をめぐって100ドルか200ドルかで揉めて喧嘩になり、150ドルて決着したことがあったが、今回は100ソムだろうが、200ソムだろうがどうでもいいことである。

 

地図で示した地点について支払いをする時は100ソムて問題なく終わった。ただ降りた地点にはモスクはあるが、中はがらんどうで博物館ではないようだ。近くを通りかかったアベックにガイドブックの写真を見せると、もう少し先の方だという。そこで行ってみると果たして博物館はあった。ただ展示内容は石器や土器といった古代の生活用具の展示だけで何が文明の交流を表すシルクロードなのかという気がして看板に偽りありという気がしないでもなかったが、スレイマー山という神秘な岩山とセットになっている博物館ということで許してあげよう。

 

博物館から道路に降り立った所にバス停がありベンチもあったので休んでいると、たまたまバスがやってきたので乗り込んでしまう。方角的にはホテルの近くまで行くのは間違いないと思われるが、料金がいくらかということはわからなかった。ただ他の乗客に小銭を見せれば教えてくれるだろうと思って乗り込んだら、が車内に10ソムと書いてあった。ただ乗り込んだ瞬間にバスが動いたのでバランスを崩したのが、他人から見るとよろめいたように見えたのかも知れず、目の前に座っていたどう見ても私より高齢のおばあさんから席を譲られそうになった。さすがにそれはないだろうと思ったら、少し離れた座席の若者が席を譲ろうとしてくれたので、そちらに座らせてもらうことにした。そんなに私は老人に見えるのかと心外ではあった。

 

バスはホテルの少し先で止まり、そこからホテルに戻って、しばらくして空港までの送迎サービスを利用してチェックインを済ませてからゆっくり昼食を摂ろうという思惑は空港に着いてみて、脆くも崩れた。なんとエージェントからもらったEチケットに記載されているフライトが電光掲示板には載ってないのである。職員に聞いてもらったりしても、あちこちをたらい回しされるだけで解決にはむすびつかなった。

 

エージェントに電話して善後策を検討するのが最良だとは思ったのだが、なにしろヒアリングが苦手なこともあり、たまたま空港内ではフリーwifeが通じていたので、状況を報告して対応をお願いすることがベストであると考えた。ただ状況をそれほど悲観的には捉えていなかった。なぜならば夕方から夜にかけてビシュケク行きが五本あるためエージェントが動いてくれればどれかの便に潜り込ませてもらえるだろうと思ったからである。それに最悪の場合は、翌朝発の陸路という手もあるし・・・ 

 

エージェントからの返信メールがなかなか来ないのは対応に当たってくれていて、その解決に時間を要しているからだろうと勝手に考えていて、夕方のフライトまではしばらく時間があるので、自分で新たにチケットを購入しなければならなくなった時に備えて、普段やったことのないキャッシングの練習もしておこうと空港内のATMで試したところ、PINコードが違っているのか、なかなかうまくいかなかった。ちょうど私と前後してATMで手続きをしていた欧米人の旅行者が片言日本語で手伝いを申し込んできたが、正しいPINコードがわからない以上は対応不能と思われるので申し出は断わざるを得なかった。

 

ところが、その旅行者がしばらくして戻ってきて、私にカードのことをいろいろと尋ねてくる。どうもキャッシングの後にカード返却手続きをせすにATMを離れてしまったためにカードが行方不明となってしまったが、私が彼のカードを不正取得しているかもしれないと疑っているようであった。とんだ濡れ衣であるが、身の潔白を証明するために手持ちのカードを全て見せることによって、疑いを晴らすことはできたようである。

 

なんだかんだしているうちに夕方のビシュケク行きのフライトされなかっ時刻が迫ってくるし、エージェントの事務所の電話も5時を過ぎると通じなくなるかもしれないと意を決して電話してみる。担当者に通じたので、拙い英語で私のメールを読んでくれたかを聞いてみると、まだ読んでないという。そこで、読んでから返信メールを送ってもらうように頼んだ。しばらくすると返信メールがあり、20分後くらいのフライトに乗るようにとのことである。そんな短時間で手続きができるかどうか半信半疑だったが、やってみると嘘のようにスムーズに事が運び、無事に機内の人となるかとができた。

 

何故eチケットに記載されているフライトが電光掲示板には表示されなかったかについては不明なままだったが(通常なら欠航等の表示がでるであろうに)、済んだことは詮索せず「終わりよければ全てよし」でいくことにした。ツアーならばありえないことだが、自由旅行ならばトラブルは日常茶飯事だし、それだからエキサイティングな自由旅行はやめられないとも言える。

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2021年8月10日 (火)

オシュにもどる

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8月9日
前日に取り損ねた朝焼けのレーニンの写真を撮ろうと入念に準備してなんとか撮ることができた。これで心残りなく、ベースキャンプを去ることができると思ったら、実際にベースキャンプを出発したのはなんと3時だった。その代わりにトイレ休憩はとらずに4時間で飛ばしてオシュの街におりたった。朝晩はまだ真冬の気候の世界から真夏の世界に一気に移ることになった。 

 

オシュのホテルでは二週間以上の分のメールをチェックするのに1時間以上かかったし、同じくらいの期間浴びることができなかったシャワーを浴びてサツパリすることができた。その後は近くの中華料理店で中華料理を肴にビールで一人乾杯をした。

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パミールの山 後半

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7月31日
ABCに戻って一夜明けて、体の調子はだいぶ戻ったようである。ガイドの情報では二日間は悪天候が続くとのことであったが、今日もいい天気である。ガイドの奨めで医者の健康チェックを受けることになったが、酸素飽和度、脈拍、血圧、聴診のいずれも異常はなかったようである。   

 

二日間の休養ということで時間を持て余してしまうので、タブレットに転送してきた「アラビアのロレンス」を見た。4時間以上に及ぶ長編だが時間潰しにはよかった。タブレットの小さい画面では、字幕が読みづらいところもあったが、なんとか話の筋は理解できた。ビデオもkindle も全部見てしまったし、明日は一日どうやって過ごそうか

 

8月1日
午前中は前に登ったパノラマピークの途中まで登ってレーニン峰の写真をタブレットでなくカメラで撮ろうと思ったのだが、朝のうちは良かった天気も雲が出てきてレーニン峰は隠れてしまったため諦めてBCの方に向かって歩き出した。というのは、BCの方に近づけばDOCOMOと提携している地元の電話会社の回線に繋がるかもしれないと思ったのだが、少々歩いたくらいでは全く繋がる気配かないので諦めて引き返す。

 

昼食後にガイドにレーニン峰は体力的に諦めて手前のラズデルナヤ峰に変更することを伝える。ガイドも「賢明な判断だ。明日も天気が悪そうだけど、6千メートル峰ならば日程的にも充分余裕がある」といったが、そうであってくれるといいのだけれど

 

テントに戻ってタブレットを見てたら、kindleからダウンロードしたうち、司馬遼太郎の街道シリーズで読みかけのものがあるのを発見し、これでしばらく暇つぶしはできそうだ。

 

夕方から雪が降りだし、夜中にはずいぶんと降ったようだ。日程的には余裕が乏しくなり、レーニン峰は当初どおり実行するつもりだったとしても日程的にも厳しくなってしまったかもしれない。

 

8月2日
朝方には雪も止んだので、このまま天気が良くなってくれるのかと思いきや、しばらくしてまた降り出したので、何時になったら行動が再開できるのか全く読めない状態となった。まあ自然相手のことだから、どうしようもないのだが

 

午後になってガイドから「明朝2時起きで出発」との知らせがあり、ようやく出発が決定した。前回の教訓から朝食はしっかりと食べ、行動食はいつでも取り出せる所に携行し、装備は極力軽くすることに留意した。

 

8月3日
前回同様に2時起床3時出発となったが、前回の反省を踏まえて朝食はしっかりと食べていくことにした。行程も前回よりはスムーズに進み、難場の梯子のある所も前回は明るくなってから通過したが、今回は暗いうちに通過でき、キャンプ1が見渡せる小高い所には出発してから七時間半で到達できたので、キャンプ1までの標準時間とされる6~8時間内でぎりぎり到達できるかと思ったものの、緩いアップダウンが続くだけなのに体が全く自由が利かず、キャンプ1に到達するのに1時間半もかかってしまい、ABCからの行程時間は9時間となってしまった。

 

出発前にネットで読んだ72歳の人のレーニン登頂記でも高所順化がうまくいかずに私と同じくラズデルナヤ峰に変更したのだが、キャンプ1まで9時間かかってしまい、ラズデルナヤ峰は5800メートルまでで敗退したという記録があったことを思い出し、いやな予感がした。

 

8月4日
7時半にキャンプ1を出発したが、その際にガイドより時間の条件をつけられる。すなわち、ラズデルナヤ峰直下のキャンプ2に2時までに到達しなければ、その時点で引き返すというものであった。その時はそれほど厳しい条件とは思わなかったのだが・・・

 

キャンプ場の裏手から稜線を目指す。いきなりの急登に加え、前夜降った雪が登路を隠して歩きにくい。稜線に出ると傾斜も落ち道幅も広くなって、歩きやすいはずなのだが一向にベースが上がらない。ガイドから「そのペースでは制限時間内には登頂できない」といわれるが、「とにかく2時までは歩く」と答える。ただ歩幅を広げて歩き、ストックに体重をかけるようにして少しでもスピードがでるようにして歩いても、キャンプ2に泊まるために大きな荷物を背負った人に抜かれてしまう。自分の高所順応力が落ちていることは明らかである。

 

頂上目指しての最後の急登が始まるが、この時点では制限時間まで3時間あり登頂を確信していた。だが、いくら登っても頂上は近づかず時間ばかりが過ぎていき、ついに非情のガイドの声が「2時になったので下山!」。到達高度は丁度六千メートル、頂上までは標高差145メートルであった。 

 

下山は気持ちの張りを失ったこともあり、フラフラの状態でキャンプに戻る。その晩は頭が冴えてなかなか寝付かれなかった。今回、高所順応力が低下したのは、六千メートル以上の高所登山を目指すときは利用している三浦雄一郎さんの低酸素室がコロナのために休業で利用できず、5~6千メートルの高所順応を国内で事前に終えておけなかったことが敗因であると考えたいが、年齢的に六千メートルを越える登山はもう無理なのてはないかという気持ちも拭いきれないものである。

 

8月5日
今日は通い慣れたはずのABCまでの下山だけであるが、ほとんど下り一方にも関わらず苦しい歩きの連続であった。滞在日数の長さにも関わらず最後まで5千メートル台には順化しきれなかったようである。 

 

キャンプ1を見渡せる小高い地点は絶好の撮影ポイントであるにも関わらず、写真を撮る気にもならずにシャッターチャンスを逃してしまった。最後の小川を渡りきってABCに帰り着いた時は、登頂した訳でもないのにスタッフ総出で歓迎してくれたが、手を振るのがやっとであった。

 

8月6日
本日はABCで一日休養するのも手であったが、ベースキャンプまで下れば電話が通じるので、心配しているであろう妻(それほどでもなかったりして)に無事を伝えたくて、ベースキャンプまで下りることにした。

 

そのおかげかどうかは知らないが、下っている途中で10年前のカンテングリ登山の国際チームで苦楽を共にしたアイルランド人とバッタリ出会う。国内の登山でも知り合いに会うことは珍しいのに、海外で出会うとはなんという奇遇なのだろう。

 

ベースキャンプ近くまで降りてくると富士山と同高度になるので
元気が出てくる。行きは体力温存のために登り口手前まで車に乗っていたので、そこまで下りると、カイドは車に乗ることを奨めたが、最後まで歩き通しガイドに遅れを取ることもなかった(この歩きが山の上でもできれば良かったんだけど)

 

ベースキャンプに着くとすぐに妻に電話をかけたが、何度かけても電話にでなかったのて、留守電に無事下山のメッセージだけは残したが、果たして聞いてくれたことやら。その後キャンプ場をうろうろしていたら、ABCまでの荷物の運搬をしてくれる馬子に呼び止められる。彼は前から私のソーラーバッテリーに興味深々だったので、それが欲しいらしい。発電量が少なくお荷物と感じていたので、「使いものにならない」と断った上でプレゼントした。すると、馬子は奥さんにキルギスの民族帽をとって来させる。多分、土産店相手の奥さんの内職の品なのだろうが、この取引果たしてどちらが得をしたのだろうか

 

8月7日
二日間の完全休養をベースキャンプで過ごすことになる。ここまで下りてくればもう少し暖かくなるのではと期待したが、朝晩の寒さは上と変わらない。まあ富士山と同高度なのだからやむを得ないことではあるのだが。かといって早めにオシュに下りても暑いだけで出かけるところがあるわけではないし、当初のベースキャンプ出発日までここにいる限りは、出費は特にはないのだ。

 

朝明るくなってからテントの周りをうろついていたら、昨日の馬子夫婦の子供が家(と言っても倉庫のようなものだが)から出てきて近くで用を足している。キャンプ場のトイレはずっと遠くにあるのだ。こんな辺鄙な所でどうやって子供を育てるのかと思ったが、馬方の仕事があるのは夏の限られた期間だけなので、他は麓で別の仕事をしているのだろう。

 

今日は日本の早朝に女子マラソンがあるはずなので、他の競技はともかくとして結果が気になっていたが、キャンプ場の食堂で放映しているオリンピック放送は自転車、男子レスリング、新体操といった日本ではまず放映されない競技ばかりで、マラソンの結果は分からず仕舞いであった。

 

放映されている競技に興味が湧かなかったことと、そもそもオリンピック反対の立場から競技は無視するつもりだったことを思い出して、その場を切り上げ散歩に出かける。普段は外出するとじっとしていられないたちであるが、何もしないというのが最高の贅沢ではないかと思ってしまう。そういう傍から、石柱が小高い所に立っているのを見ると、その先がどうなっているのか知りたくて登ってしまうのは性なのだろう。

 

石柱は山に関係した人々を記念するもののようだが、ロシア語で書かれている以上のことはわからない。道はさらに先わまで続いているので、明日天気が良かったら行ってみよう。寝袋を外に干している関係で空模様を気にしながら帰途に着くと、テントの目前まで来た時にパラパラと降ってきた。危ないところであった。

 

小休止して食事をしに食堂に向かうと、昨日の馬子が家の前に立っている。さては仕事にあぶれたなと思って食堂に入ると、一角に数人が集まって打ち合わせをしている。そこへ件の馬子が入ってきて打合せに加わり、契約書を真剣に読んでいる。およそ法律の世界とは無縁な人間だと決めつけていた自分が浅はかだった。丁度そこへ馬子の奥さんが着飾って現れて打合せに参加したのには二度びっくり。私には理解不可能な世界であった。

 

午後になって携帯と固定電話の両方で妻に連絡するも相変わらず呼び出しのままなので、何かあったのではないかと心配になり娘の所に電話をすると、特に変わったことはないそうで一安心する。途中から孫が出てきて長電話になりそうだったので途中で切り上げる。娘から妻に連絡がいったようで、しばらくして妻に電話すると今度は通じた。国外から電話すると発信番号の始めに国別番号がつくが、見かけない番号なので不審電話だと思って出なかったそうである。どうも困ったものだが、懸念材料の一つが解決して一安心である。

 

その後、サッカーの3位決定戦であるブラジルースペイン戦を見る。まあどちらが勝ってもいいので気楽な見物であるが、世界水準のサッカーを楽しむというほど知識があるわけでもないけど・・・。そしたらやはりサッカーを観戦していたスタッフと思われる人からビールをたらふくご馳走になる。この前ビールを飲んだのは、ベースキャンプに上がってくる前の晩の中華料理店だったから、二週間ぶりのビールが五臓六腑に染み渡った。前の泊まり場のABC (4400メートル) でも3ドルで缶ビールを売っていたのだが自重していたものの富士山と同じ高度のベースキャンプならば大丈夫だろうと解禁とした。だんだんと下界の世界に戻っていくようである。

 

8月8日
今日はオリンピックの最終日で暑さ対策から早朝に男子マラソンがあるはずなので、日本との時差3時間を考慮して3時過ぎに食堂に向かう。入口の紐で留めてある部分を外して中に入り、テレビのプラグをコンセントに差し込んでもテレビはつかない。試しに別のコンセントにバッテリー充電用のプラグを差し込んでも充電されない。というなとはコンセントまで電気が来ていないことなので回線を追っていくと、隣の母屋の方へ回線は延びている。おそらくソーラーパネルで発電した電気が蓄電池に貯められて食堂にも供給されているが、元のスイッチが切られているのだろう。万事休すなので、入口を元通りにしてテントに戻ることにする。隣のテント村までは電線か延びているというのに電線を引き込む費用をケチッたのだろう。

 

一眠りして6時過ぎに目が覚めてテントから出てみると、レーニン峰に連なる雪山が朝日を浴びて真っ赤に燃えている。これは露出を手動で調節できるカメラでなければ写せないとカメラを取り出したところ、「充電してください」のメッセージがでて起動しない。昨夜カメラのフタがあきっぱなしとなっていたため電力が無駄に消費されてしまったらしい。あわててタブレットで撮影しようとしたが、燃え上がる赤みは消えてしまい、シャッターチャンスを逃がしてしまった。

 

電気を巡るトラブルは終わらない。極めつけは7時半頃に朝食を食べに食堂に行った時だった。スタッフの人が言うには「今日は電気は使えない。テレビも見れない」とのことである。先ほどのマラソンが見れなかったのは、スイッチを切ったためではなく、そもそも電気系統の故障があったためかもしれない。でも、これじゃABC以下、高所キャンプ並の文化生活に逆戻りだ。

 

今日は暇なのでオリンピック最終日の放映を終日楽しもうかなという目論みは見事に外れ、日本選手をライブで見ることもないようだ。まあ元々今回のオリンピック開催には反対の立場だったのだし、実質的にはパミール最後の日となる今日はパミールの自然を味わい尽くせという神の思し召しかもしれない。

 

朝食にはパンの上にウリとオイルサーディンが乗ったものが出されて美味しかったが、ひょっとしたらキルギスに来て以来初めての魚かもしれない。首都のビシュケクには日本料理店もあるそうだが、山国のキルギスだから江戸前の寿司というわけにはいかないだろう。今まではこちらの料理は皆おいしく満足していたが、里心がついたのか、急に寿司や天麩羅が食べたくなってきた。

 

一休みしてからハイキングに出かけて標高差にして200メートル弱登っただけだが、これが大成功てあった。草原に咲き乱れる高山植物と遠くの雪山との対比がパミールの山旅をしている実感をいやおうなく高めてくれた。高所の登山活動とは別の意味の山の楽しさである。オリンピック放映をさせなかった神様の思し召しに感謝である。

 

帰りは登ってきた道を通らず、真っすぐ谷間に降りる道を行ったが、踏み跡はあるものの細い道なので両側の高山植物を踏まずに歩くことは難しく、日本では考えられないような所である。足下にユルタ(移動式の家)が見えてきて間もなく谷間に降り立つと思った時、突然犬の吠える声が聞こえ、数匹の犬が走り回っているのが見えた。狩猟民族に飼われている犬は、飼い主以外は敵と見なして、襲ったりすることもあると聞いたことがあるので、山腹を横に巻いて進み、ユルタのないところで谷間に降り立った。

 

そこは神秘的な青い池のほとりでキャンプ場まではすぐそこの所であった。キャンプ場まで続く電線(だのにうちらのキャンプ村の手前で終わっている)の下の踏み跡を進み、あともう少しという所まで来た時に、右手の斜面にマーモットの巣穴を発見、二匹が上半身だけ出していたので、全身を出すのをじっと待っていたが、ついに穴に隠れてしまったので諦めてキャンプ場に戻る。おかげで腹ペコになってしまったが、思わぬ自然観察もできた。これも神様の思し召しか。 

 

昼食に食堂に戻った時も電気はまだ回復してなかったようなので、午後は対岸のキャンプ村に行ってみる。私のいるキャンプ村は現在の利用者は自分一人で、明日からは利用者がいなくなるかもしれないというのに、対岸の各キャンプ場はみな盛況そうだったのは、電気もそうだけどサービス面に差があるからだろうか・・・・。ただ高台にあって一番立派そうに見えるキャンプ村だけは周囲をすべて金網に囲まれていて入ることはできなかった。こんなことは初めてだ。一体何を考えているんだろう。

 

橋を渡って手前に戻り、隣のキャンプ村にあるバーに寄って馬乳酒(クムズという)はあるかと聞くと妙な顔をして「ない」と言われる。棚にはジンとかバーボンといったいわゆる「洋酒」しか置いてない。考えてみれば当たり前で、欧米人相手の店に地元民が飲むクムズを置くはずがないか。周りに馬がたくさんいるからと供給面のことしか考えてなくて需要面のことを考えてなかったのは失敗であった。クムズは山を降りてから、地元民相手の飲食店で注文してみよう。

 

キャンプ村に戻り、喉が渇いたのでお茶でも飲もうと食堂に入ると天井の電気がついているではないか。もしやと思ってテレビをつけると閉会式をやっていた。閉会式だけでも見ろという神の思し召しかと思って見ることにした。セレモニーが延々と続くので、そろそろテントに戻ろうかと思ったら男女のマラソンの表彰式をやるというではないか。今回もっとも結果を気にしていた種目だけに画面に釘づけとなる。残念ながら日本選手は表彰台には届かなかったが、男子のキプチョゲ、女子のコスゲイといった実力者かメダルを獲得しているのはさすがである。どうも今日一日は自分の意思ではなく、神の思し召しによる一日であったような気がしてらい。 

 

それはともかくとしてパミールにおける活動は全て終了したことになる。単なる思い出で終わるのか、今後に生かす術はあるのかをじっくり考えていきたい。拙い長文にお付き合いいただきましてありがとうございました。

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パミールの山 前半

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7月24日
いよいよレーニン峰に向けて出発の日である。と言っても今日はベースキャンプ(以下、BCと略)まで行くだけであるが。7、8人のグループが乗っている車に便乗してホテルを10時頃に出発する。なかなか騒々しい連中で、コロナ対策という意識はないようである。もっとも私は最前列に座ったので、ソーシャル・ディスタンスは取れていたが。

 

車はタジキスタンとの国境を目指して一路南下する。峠に着いて見晴らしのいい所でトイレタイムとなる。遠くの方には雪山も見えてくる。それからしばらく進むと、国境への道と別れて西に向かう。左側にはレーニン峰に連なる国境の山々が屏風のように聳えてなかなかの迫力である。道はなおも舗装路を進むが、どこで南に進路を変えるのかと思ったら、突然左折して踏跡のような完全なダート道を進んで行く。次第に高度を上げて3000メートルを越えるようになると、レーニン峰が目前に迫ってくるが、頂上付近は雲に覆われれて望むことはできない。

 

3時近くなってテント村が見えてくると待望のBCである。いくつかの会社があちこちにテント村を作っているようで、とあるテント村で私だけ降ろされてガイドと落ち合う。ガイドの名はアンドリーという30代のバリバリという感じである。遅いランチを食べてからガイドと装備やタクティックスの打合せをする。私の海外登山歴のリストも出したので、ある程度は私の力量も分かってくれたようである。ただし、体力は落ちてることも伝えておいたが。

 

BCでは背の高い広いテントが私専用に用意されていた。辺りは広い草原で、正面にはレーニン峰が聳えているという素晴らしい立地条件である。ネットこそ繋がらないが、電源もあり、サウナまで用意されているという至れり尽くせりの環境である。これから二週間の登山生活が始まることになる。

 

7月25日
今日は前進ベースキャンプ(以下、ABCと略。なおそこをキャンプ1として、以下キャンプの番号をひとつづつ多く表記しているものもあるが、ここではそれは採用しない)まで標高差800メートルの登りであるが、重い荷物は馬に運んでもらうし、最初の比較的平坦な所は車をチャーターしたので、実際に登る標高差は600メートルに過ぎない。

 

ガイドは非常にゆっくり歩いてくれるので助かるが、他のパーティーには次々と抜かれていく。結構重そうな荷物を担いでいる人がスイスイと抜き去っていくのは心中穏やかではないが、自分は年なんだし、ゆっくりと登るのが高度順化の秘訣なんだと言い聞かせる。その代わり、ほとんど休まずに登ったので行動時間自体はそれほどは多くかからなかったかもしれない。

 

ABCの手前で、かなり流れの激しい沢を横切るところがあった。この程度の沢は国内でも渡ったことはあるので、靴を脱いで渡るつもりだったのだが、ガイドは私を背負って渡るという。断りたい気持ちもあったが、郷に入りては郷に従えという諺もあることだし、大人しく従うことにした。他の登山者はどうするのかと思ったら、少し上流に馬を引いて待っている人がいて、渡し船ならぬ渡し馬で渡っていた(もちろん有料だろうけど)。

 

最後の急登を越えるとABCのテント村が見えてきて、今まで隠れていたレーニン峰も間近に現れてくる。やれやれテント村についたぞと気がゆるんだが、ガイドはテント村を素通りして先に進む。遠くの方に別のテント村が見えてきたので、ガイドの所属する会社のテント村はあちらの方なのだろうと思って進むと、今度は正解であった。こちらも個人専用の大きなテントが用意されていて、ユルタという遊牧民の移動式住居のなかで食事が食べられるのはBCと同じであるが、電源サービスはなく、テレビも見れないのは異なっている。まあオリンピックボイコットのつもりで、この時期に来たのだから、その方が好都合でもあるのだが。明日はいよいよ雪山装備をつけての本格的な登山がスタートすることになる。

 

7月26日
今日からレーニン峰に向けての登山が始まると思いきや、ガイドは裏山に登るという。まあ日程的には充分余裕はあるんだけと・・・。

 

ガイドは相変わらずゆっくりととしたベースて登っていく。昨日の登りで私の力量はわかっているはずなのにペースを落としたままなのは、私の年齢に配慮してのことたろうか。おかげで今日も他のパーティーに次々と抜かれていく。富士山でも使用したくたびれたランニングシューズに変えて高所靴を履いていくようにガイドが言うもんだから、滑りやすいザレ道を足首を固定された高所靴で登るのは非常に苦労した

 

1時間ほどの登りで裏山の頂上に着いた。300メートルほどの
登りでモンブランとほぼ同じ高さまで登ったことになる。ここはパノラマピークと名付けられているだけあって、正面にレーニン峰の大パノラマが望めるほか、後ろには稜線には雪のついている5000メートル級の裏山も見える。ここでガイドから信じられない言葉を聞かされる。明日は5000メートル級の裏山に一泊してからABCに戻ってレストすると言うではないか。一応、日程的には可能だが、予備日がほとんどなくなってしまうので、登頂の確率が減ることになってしまう。

 

30分ほど休んで下山に移る。登りは歩きにくかったが、下りはそれほどでもなく、ほどなくABCに着き、自分のテントに入ろうとした時だった。背中に違和感を感じて腰痛が悪化したようである。今まで山から下りてきて腰痛が悪化したことなどは一度もないが、これも高所の影響であろうか。とにかく背中の前後への屈伸を繰り返して改善を試みるが、もし明日になっても改善しなければ明日は休養として、その後に改善が見られれば、裏山登山は止めてレーニン峰に向けての登り下りという本来の高所順化を行うことを提案したいと思う。

 

7月27日
腰の調子は快方には向かっているが、まだ完調ではないのて本日は休養とする。ただガイドに対しては腰の調子が悪いと言うと心配するだろうから、日本出発以来休みなしで行動してきたから休養を取りたいと言い訳をする。ただテントの中で一日じっとしていることは、腰のためにも高所順化のためにも良くないので、テントの周りをぶらついたりする。もっともテントの中は暑くて長くはいられないので、涼しいユルタの中にいることが多かった。
 
午後になって日が陰ってきたのでテントに戻る。今はKINDLEの本が何冊分かと、ビデオ録画を転送したものが何本か入っているので退屈することはない。昨日は「日本沈没」、今日は「ラストエンペラー」を見た。タブレットを長時間つけっぱなしにすることはタブレットの電力消耗を早めることになるが、ここABCでもコンセント数は少ないながら充電サービスがあることを発見したので、争奪戦となる時間を外せば、電力の心配はしなくてすむのはありがたい。

7月28日
今日もまた裏山に高所順化トレーニングである。昨日登った山よりも更に裏手の山であるが、高度は5100メートルあるユーヒン峰とかいう山である。

 

昨日登ったパノラマピークの頂上直下までは同じ道を行く。腰の痛みを心配したが、ストレッチを充分やったせいか大丈夫のようである。昨日は歩きにくいと感じた道だったが、慣れてきたのか昨日ほどは歩きにくくはなかった。

 

パノラマピーク頂上への道と別れてしばらくは平坦な道を行くが、ユーヒン峰への登りにさしかかると、傾斜が増すだけでなく道も崩れやすくて極端に悪くなってくる。今日は誰も登って来ないのかと思ったら、下の方に小さく見えた人影がどんどん近づいてきて、頂上の手前で抜かれてしまう。こんな悪い道をよくもこれほどのスピードで登ってくるものである。まるでトレランランナーのようである。ウサギと亀の昔話にあるように自分は亀の歩みで行こう。

 

頂上に着くと高所順化のためにしばらく滞在してから下降に移るが、登りでも悪く感じた道が更に悪く感じる。今にも崩れるのではないかという道を慎重に下る。パノラマピークとの鞍部の平坦地まで下りるとホッとする。パノラマピークからの下りは昨日は
悪く感じたものが、今日はいい道に思えてくる。

 

ABCまで下りついて、ガイドから明日はレーニン峰登山道のC1で一泊することが告げられる。ようやく仮免まで辿り着いたと言えるのだろうか。

 

7月29日
朝2時起床とのことだったが、12時過ぎから目が覚めてしまう。予定時刻となってガイドと落ち合うと、テーブルにはチーズやハムが並べられているが、早朝から食べるにはつらいものがあったので、少しつまんだだけで出発したが、これが大失敗であった。

 

暗闇の中をガイドとロープをつないで登って行くがペースは遅々として進まず、後続パーティーに次々と抜かれていく。ガイドからはベースアップを再三迫られるが、まったく体に力が入らない。どうも出発以来何も食べていないので(行動食はガイドが持っているため)、いわゆるシャリバテ状態になったようである。そしてそれが誘因となって高度障害も引き起こしたようである。カザフの時もそうだったが、どうも狩猟民族系の人たちは、農耕民族と違って食いだめが出来るらしく、一食くらい抜かしても平気らしい。

 

高度障害が次第にひどくなって何度も吐いたり(何も食べていないので胃液しかでてこないが)、歩みもますます遅くなって標準時間を大幅にオーバーしてキャンプ1に到着した。頭痛こそなかったものの、酸素飽和度は危険水域の76まで下がり、ほとんど食べられない状態であった。

 

7月30日
症状は多少改善されたものの高度障害は治りきっておらず、高度を下げてもさほど変わりはなかった。今日も後続パーティーに抜かれっぱなしで時間をかけて下っていくが、足下に見えるABCが少しずつではあるが近づいてくるのが慰めではある。やがてABCの一角には降り立ったが、我々のABCはもうひとつ氷河を渡った先である。そこまで達するのも実に長かった。その晩も疲れきっていて夕食はほとんど食べられなかった。

 

このような状態になってしまった以上はレーニン峰に向かうことは論外であるが、手前の6千メートル峰であるラズデルナヤ峰ならば登頂の可能性はなきにしもあらずである。C1までのあの苦しみをまた味わうのかと思うとウンザリしてしまうのも事実であるか

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