« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »

2022年5月

2022年5月31日 (火)

二王子岳

新発田駅から二王子岳までは15キロ程度だが、真っすぐの道はなく大きな交差点ごとに地図と首っ引きで行き先を確認しなければならないので結構時間がかかる。二王子神社の手前で道が二つに分かれ、山と高原地図では右の急な登りを神社に向かうようになっているが、maps_me では左の道をしばらく行くと川を渡って対岸に渡れるようになっているので、こちらの方が近そうだと左の道を行くことにする。

 

ところが踏跡はすぐに消えて前進が困難になってくる。戻ろうかなと思ったが、飛び石づたいに対岸に渡れそうな地点があったので渡ってしまう。沢沿いに進むよりも尾根を登った方が楽そうなのでしばらくは登ってみるが、このまま登り続けると本来のコースとは離れてしまいそうなので、斜め下に進んで行くと間もなく本来のコースに合流したが、30分程度は時間をロスしてしまったようである。

 

コースを登り始めると、まだ11時だというのに下山してくる人がいるのには驚いた。よほど早く出発したのだろうか。その後も平日だというのにかなりの下山する人とすれ違ったのは、さすがに二百名山だけのことはある。五合目あたりからは雪も現れたが、大勢の登山者に踏み固められた道はしっかりしていたので、持参したアイゼンをつける必要もなかった。

 

2時半頃に八合目付近に着き、頂上の避難小屋も望めるようになった時にスキーをザックに付けたこの日最後の下山者とすれ違う。彼は「今から登るんですか」と咎めるような口調て尋ねるので、少しムッとして「よーし、頂上を往復して彼を追い抜いてやろう」と思ってペースを上げる。

 

頂上に着いたのは3時ちょうどだった。正面には飯豊連峰が屏風のように連なり圧巻の眺めであった。ゆっくりとしていたい気もしたが、先程の登山者を追いかけるためにすくに下山に移る。下山は一度も休まずに早足で下りたつもりだったが、やはり追いつくことはできなかった。
Dsc_1917_copy_407x305

Dsc_1915_copy_451x338

二王子神社まで下り、maps-meに載っていた道を辿ろうとしたが、辿ることはできず地図の道は間違っていたことを知る。後は新発田駅まで下るだけであった。翌日の予定は信越線沿線の三百名山の米山であるが天気が心配であった。新発田駅に着いた時は翌日の予定はまだ決めていなかったが、天気予報では朝から雨とのことだったので米山登山は中止して新津経由で長岡まで行き、そこから最終の新幹線て一日早く帰京することにした。

 

ところが特急券を買った直後に新津行きの電車は運休になるとの放送があってびっくり、慌てて新潟発の特急券に買いなおして本日中に帰れることにはなった。なお、この運休のために米山の最寄り駅に行くこともできなくなったので、たとえ翌日の天気が良かったとしても米山は元々無理だったのである。

| | コメント (0)

2022年5月29日 (日)

粟ケ岳と八十里越え

新潟の山登りはまずは粟ケ岳からとなる。10年ほど前に山菜採りと粟ケ岳登山の催しがあっあのだが、天気が崩れて粟ケ岳登山は中止となったので、今回はそのリベンジでもある。

 

粟ケ岳登山だけならば、登山口付近に温泉があるためバスのほんすうも多いので便利だが、今回は登山後に八十里越えも予定しているため、歩くとなると15キロもあるので東三条から往復70キロのサイクリングとなる。

 

八十里越えは古くから越後と会津を結ぶ交通の要衝であり、実際の距離は八里(約30キロ)であるが、あまりの険しさからその10倍の長さに感じるということから名付けられたものである。この峠を有名にしたのは、幕末の戊辰戦争の際に長岡藩の家老河合継之助官軍にも奥羽;列藩同盟にも与せず中立の立場をとることを官軍との会談で表名したが、認められずに戦争が勃発し、長岡藩は善戦するも破れて、河合継之助等は会津方面を目指して八十里越えを敗走していった故事のためである。

 

粟ケ岳の登山口を出発したのは12時過ぎで、下山してくる人もちらほら現れる時刻であった。登りは急登の連続で、8合目あたりが森林限界のため、標高は1200メートルちょっとながら、高山の雰囲気を持った山である。
Dsc_1912_copy_396x297

Dsc_1906_copy_408x306

明るいうちに下山し、それから夜道を八十里越えの登り口まで向かい、テントを張る。

 

翌日は早朝から八十里越えを目指して出発するが、さすがに八十里越えというだけあって険しさは格別で、四時間かかっても峠の半分以下の七キロ以下しか進めず、雪にも阻まれて断念して引き返す。

Dsc_1910_copy_341x256

自転車は下り一方で軽快なはずなのだが、真夏のような高温にやられたのか全く不調で、ランニングの人にも抜かれる有り様で、なんとか新発田駅まで辿り着き、ホテルでバタンキューとなる。

| | コメント (0)

2022年5月11日 (水)

阿賀野川溯行 二日目

喜多方のホテルを早朝に発ち、始発で荻野に戻って阿賀野川の溯行を再開する。阿賀野川とかいたが、実は福島県に入ってからは「野」が取れて阿賀川に変わっているのである。新潟県内では中流域に阿賀野市、続いて阿賀町があるが、川名はまだ阿賀野川だったのである。

昨日の終点である荻野からは東に進めば阿賀川の 上流に出られるが北へ回って山都向かう。阿賀川に沿って忠実に進みたいという気持ちもあるが、山都で阿賀野川水系最大の支流である只見川との合流点を見たいという思いもあったからである。

新緑の下で青い空と雪におおわれた飯豊連峰を眺めながら行くサイクリング 実に気持ちがいい。昨夜に山都まで行ってれば、結構アップダウンがあるので辛い思いをするだけだったかもしれない。

Dsc_1869_copy_524x392

只見川との合流点と思しきあたりまで行っても手前の尾根の張り出しに隠れて合流点は見られない。そこで、只見川にかかっている橋の所までいくと、只見川からの合流点は見られた。

Dsc_1866_copy_413x310

しばらく行くとコンビニはあったが、昨夜食べられなかった喜多方ラーメンに再チャレンジするため、一時間ほど先にあると思われる道の駅まで空腹を我慢する(早朝にサンドイッチを少し食べただけだったので)。

道の駅に着いたところ営業はしていたが、ラーメンは10時からだと言われてしばらく待たされる。多少早めに作ってはくれたが、まあ期待したほどの味でもない。

Dsc_1871_copy_426x320

道の駅を後にしてしばらくは平坦な道が続いたのでピッチも上がり、3時の特急にも余裕で間に合うかと思ったが、山間部に入るとアップダウンが激しくなり、会津田島駅に着いたのは特急発車の5分前であった。急ぐこともないので、次の特急でゆっくり帰ることとし、待合室で会津の地酒をゆっくり楽しんだ。

Dsc_1875_copy_431x323

連日天気に恵まれ、予定も100パーセント達成できた。休養日を取れなかったので、少し疲れ気味ではあるか

| | コメント (0)

2022年5月10日 (火)

阿賀野川遡行 一日目

始発のフェリーで新潟に戻る。佐渡の予定は全てクリアしたので、もう佐渡にくることはあるまいと思いながら
佐渡の景色に名残を惜しむ。
Dsc_1853_copy_544x407

新潟に上陸後に阿賀野川の河口に移動。
Dsc_1855_copy_469x352
今日から二日間の予定で会津田島まで川沿いに遡る。会津田島よりも上部は源流を辿って荒海山まで登っているので、阿賀野川の完全踏破を目指すことになる。阿賀野川自体は取り立てて見所があるわけでもなく、河口以外では写真をとることもなかった。

阿賀野川は山都駅までは磐越西線とほぼ平行しているが、そこから先は、磐越西線は東に向かって会津若松に向かい、阿賀野川は南に進路を変えて南会津に向かうので、初日は山都まで進み、隣の喜多方に宿泊する予定だった。

山都駅の一つ手前の荻野駅に着いたのは7時台で、次は9時台となるので、喜多方のお店が閉まってしまう恐れがあるので、7時台で喜多方に向かうこととし、山都までは明日に回すこととした。ところが、喜多方に着いてみると、8時を回った頃だというのに開いている店はコンビニ以外は皆無で、結局はコンビニで買ったものですませることになり、喜多方ラーメンも食べ損ねてしまった。わざわざ早めの電車に乗った意味はなかったことになった。

| | コメント (0)

2022年5月 9日 (月)

佐渡島一周達成

今日は今夏に孫たちと一緒に行く予定の富士登山の山小屋のネット申し込みの受付日で開始時間はなんと深夜零時である。時間到来とともにアクセスするが、アクセスが集中しているようで全然通じない。3時頃になってようやく通じたが、今度はシステムのエラーがあるのか登録ができないという問題が発生し、予約が完了したのは4時近くになってしまい、その後も頭が冴えてほとんど眠れないまま朝を迎えたため自転車乗車中に睡魔に誘われないか懸念された。

昨日の北半分には世界遺産登録申請中の佐渡金山があるが、それに比べると南半分にはさしたる観光地は少ないものの、佐渡島の西端にある浜崎鼻灯台は観光名称のようで、私が帰りかけた時に観光バスが乗り付けてきた。
Dsc_1844_copy_514x385
そのちょっと先にある島最南端である青の洞窟にも行ってみたが、こちらには一人も観光客はいなかった。
Dsc_1849_copy_397x297

さらに進んで直江津とのフェリー船着き場まできてお昼を食べたが、その後に睡魔に襲われないかが心配だった。しかし、その後はずっと平坦な道が続いていたので、睡魔に襲われることはなかった。睡魔に襲われるのは、激しいアップダウンがあって、下りでペダルを長時間踏まなかった時に起きるようで、ペダルを踏み続けている間は睡魔には襲われないようだ。

やがて佐渡島東端の赤亀に達して、ゴールの両津まで後一歩となる頃から、またアップダウンが始まったが、もう登りでペダルを踏む元気はなく、自転車を引いて登るしかなかった。それはともかく、二日間でショートカットすることなく、佐渡島一周を果たせたのは万々歳であった。
Dsc_1851_copy_409x306 赤亀

| | コメント (0)

2022年5月 8日 (日)

佐渡島北半分

今日は佐渡島の北半分の海岸線を回る予定である。100キロ以上となる長丁場だが、お尻の時間が決められていない無制限の行動なので気楽ではある。両津を出発してからしばらくは平坦な道が続いたが、北端の二つ亀に近づくにつれてアップダウンが繰り返されるようになる。

二つ亀に着くと観光客がちらりほらり見える。遊歩道が砂浜の方まで続いていたが、歩くのが面倒になってしまったので、上からの景色だけを見て、少し先にある大野亀に行きレストランで食事をしながら、大野亀の大岩壁を眺める。6月頃には麓にはカンゾウ(ニッコウキスゲと同種)が咲き誇るそうだ。
Dsc_1836_copy_363x272

Dsc_1838_copy_289x385

大野亀から先もアップダウンが続き多少疲れもでてきて、目的地まで行けるか心配になったが、その後は比較的平坦な道となったので、なんとか目的地に予定した時間よりも早く着くことができた。

| | コメント (0)

2022年5月 7日 (土)

金北山

中断した福島~新潟のツーリングを再開したが、スタートは前回とは逆に佐渡ヶ島からとする。新潟港から高速船で一時間ちょっとで両津港に着く。昼食をとってから自転車で300名山の金北山の登山口に向かったが、登山口に着いたのは1時過ぎとなってしまった。

 

金北山の標高は先日の男鹿岳よりも600メートルほど低いが、海抜0メートルから登るので、登山口からの標高差は千メートルもあり、男鹿岳の倍もあるので、半日で往復するのはかなりたいへんだ。

 

4時登頂の予定だったが、途中で道を間違えたこともあり、四時半となってしまった。山頂からは日本海が一望できて素晴らしいのだが、風が強かったため直ぐに下降に移るが、下山路がわかりにくく30分くらい行ったり来たりしてようやく正しい道を見つけ、八時半には両津のホテルに戻ることがでした。
Dsc_1826_copy_308x409

| | コメント (0)

2022年5月 6日 (金)

会津西街道と男鹿岳

Dsc_1818_copy_419x314

今回登った男鹿岳は本題に入る前に登山を計画した経緯を述べておきたい。大分以前に関東地方の外周の県境を踏破する計画を立てたことがある。群馬県から埼玉、東京、神奈川までは以前に踏破済みのものも含めて繋がったのだが、栃木・茨城両県については大きな問題があった。それは県境には縦走路がないことであった。もっとも群馬県も上越国境には谷川岳周辺を除くと縦走路はないが、こちらは豪雪地帯のため残雪期ならば薮に悩まされることなく行動できるが、栃木・茨城両県はそういう訳にはいかない。そこで、両県の関東地方外周県境から最も近い一般道を自転車で走るとともに両県境上の主要な山を麓から登ることとし、300名山でもある男鹿岳もその対象に選ばれ、10年ほど前に山頂の栃木側のさほど離れてない山腹を東西に走っている林道から取り付くことを考えて実行に移した。ところが、林道の入り口に巨大なゲートが作られていて左右も全く隙間がなく、完全に進入を拒んでいたので諦めて撤退した。あと考えられる方法としては、ゲートを空身で攀じ登って反対側に降りてランニングで往復することだが、実際にやった人の記録を読むと往復で40キロもあり、林道も相当荒れているとのことだったので二の足を踏んでしまって今に至っていた。ところが、会津側からはそこそこ登られていることを知るようになり、チャンスをうかがっていた。

前置きが長くなってしまったが、今年のGW に三年越しの計画であった北陸の毛勝岳が友人の怪我で又しても中止となったために、その穴埋めとして男鹿岳登頂と会津西街道及び阿賀野川下降して新潟に至り、さらに足を伸ばして佐渡一周もするといった欲張りな計画を立てた。ただ、途中で変更できない用事ができてしまったため、計画を二つに分けて、まずは会津西街道を会津田島まで行き、そこから男鹿岳登山を行うというものである。

会津西街道というのは、江戸時代に江戸と会津を結ぶ重要な交通路で観光地として有名な大内宿も通っている。東武線の湯西川温泉駅よりも南側は別の計画で走破済みなので、湯西川温泉駅がスタート地点となる。また前述した県境近くの一般道を走るという計画により走破済みの部分は省略することにしているので、自転車の解体と収納を各二回行うことになり、計画的に行動しないと運行本数の少ない路線だけに、大きな時間ロスを生じてしまうことになる、

会津田島で会津西街道を離れて男鹿岳方面に向かったのは2時半と遅めの時間であった。一時間半ほど走ったところで自転車をデポして林道歩きに移る。本当はもう少し先まで自転車で進むつもりだったが、意外に早く路面がダートとなったため、林道歩きが三キロ近く増えて10キロちょっととなってしまった。

林道歩きの半ば頃には暗くなってしまったが、かなり悪い道であった。道路の崩壊、落石の散乱、雪の堆積といった状態で4時間ちょっとで大川峠に着いたが、体力よりも神経の疲れるアブローチであった。

軽量化のため、ストックを支柱代わりにするシェルターを使用し、コンロは持参せず水でも戻せる乾燥米に夕方に水をいれておいたので、軽量化の対象外であるビールを飲み終えた頃には食べられるようになっている。ビールとつまみである程度は腹も膨れているので、ご飯の大半は朝食用に残しておく。寝袋カバーと軽羽毛服だけで寝たので、さすがに寒くて熟睡はできなかった。

翌朝は深夜から起き出して4時半には出発したが、登山口がわらずあちこち探してようやく見つける。登りだせば踏みあとは明瞭でマーキングもしっかりしているので迷う心配はない。峠から頂上までの標高差約500メートルの半分あたりまて登った頃から雪が現れる。通常はここでアイゼンを付けることになるのだろうが、この時期の中級山岳ならば、アイゼンを付けずともキックステップで雪面をけり込めば支障はないことは経験済みなので、昨日林道上に自転車をデポした際に補修用工具等とともに軽アイゼンもデポしてしまった。

登りの際のキックステップはつま先を雪面にけり込むのだが、久しい間キックステップなどやっていなかったので、長らく使うことがない筋肉を使用したためか思いの外体力を消耗し、行程は遅々としてはかどらず、頂上直下では今朝ゲートを出発してきたと思われる登山者に追い抜かれる始末であった(勿論、彼はアイゼンを付けていたが)。

頂上からは正面に那須連山が望め、頂上標識の背後には帝釈山脈とおぼしき峰々も見られる。
Dsc_1815_copy_252x337
Dsc_1818_copy_419x314

そのいくつかは登っているはずなのだが、山座同定するにはいたらなかった。30分ほど休憩して下降に移り、急斜面をキックステップで降りる。下りのキックステップは登りと違い、腰を引かずに姿勢を正して踵から加重していくのだが、しばらく進んでいると、太ももに痙攣が走り休憩を余儀なくされる。その後も定期的に痙攣が起きて筋肉が老化していることを痛感する。それでも登りの三分の一ほどの一時間半で大川峠まで降りることができた。

峠から自転車のデポ地までは10キロほどの下りなのだが、久々のキックステップの後遺症で足に力が入らないのでゆっくり歩いていっため、登りの時と大差ない時間でデポ地に着く。ここからは会津田島駅まで10キロちょっとの下りのサイクリングだけだ。

会津田島駅まで降りて切符を買う時に念のために特急券なしで下今市まで乗車できるかをきいてみる。ところが、さ3月に規定が変わり鬼怒川温泉までしか乗車できなくなったと言うではないか。実は連休最終日ということで、特急券は終日満席だったが、この規定を使って下今市までは特急を利用し、そこから先は特急を利用しなくても当日中に帰宅できることは確認済みであったが、鬼怒川温泉で乗換えた場合でも同様かどうかは未確認だったので少々焦ったが、鬼怒川温泉で乗換えても大丈夫なことがわかり一安心であった。

今回は久々のキックステップで足の疲労が大きかったため、この後引き続きツーリングを続けるのは大変だったと思われるので、急用が出来て一度帰京しなければならなくなったのは渡りに舟であった。

| | コメント (0)

« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »