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2022年10月

2022年10月27日 (木)

会津朝日岳

本日の目的地の会津朝日岳は先日の御神楽岳よりも登山口からの標高差で200メートル以上多くあるが、登山口までは自転車で行けそうなので、歩く時間は短くて済みそうだ。

 

6時にキャンプ場を出て8時前に登山口手前のそばの店に着く。ここから登山口までは400メートルほどだが、砂利道となるため自転車を置いて歩き出すのだが、舗装道路の最後の所で前輪の空気が急に抜けてしまう。パンク修理には多少時間がかかるため下山してからすることにした。そば店は9時~16時営業とのことなので、頑張ればそばを食べてから修理すればいいやと、この時は思っていた。

 

登山口まで歩いていると、登山者の乗った車1台に抜かれる。登山口から登り出すと、しばらくして後続の登山者に立て続けて抜かれる。どうも私とは歩くスピードがかなり違う。連日の行動による疲れでスピードが出ないこともあるが、残念ながら加齢による体力低下があること否めないだろう。普段は出発時間が遅いことが多くて他の登山者と登山口付近で出会うことは稀だが、今回のように出発時間が他の登山者と近いと自分の体力低下を意識せざるをえない。

 

登山口からは赤倉谷を進むが、沢を離れてひと頑張りすると稜線に着く。ここから山頂までの標高差は300メートルちょっとなのでもう少しと思ってしまったが、少し登った叶の高手からは100メートル以上下降してから登り返すことになるので、意外に時間がかかってしまう。そのうちに先行していた登山者が次々と下りてくるので、思った以上に差がついてしまったことに気付く。

 

やがて眼前に朝日岳の堂々とした山容が見えてくるとファイトが湧いてくる。最後はちょっとした岩場を登り切ると絶頂に達する。三角点は稜線を少し北上したところにあり、到着したのは2時だったのでソバは諦め、次の目標は暗くなる前に自転車の所まで下りてパンクを修理することであった。
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下山を始めてしばらくして避難小屋の横を通ると人の声が聞こえてくる。多分、早朝に登山口を出たのであろう私と同年輩の登山者二人と頂上直下ですれ違ったので、そのふたり連れは下までは下りずに小屋泊まりとしたのだろう。

これが年相応の山登りなのかとは思いつつも、なかなかそこまで思いきれない自分であった。

下りは同じ道を下りるだけなので、迷うこともなく登山口に着いたが、すでに真っ暗となっていた。ライトの明かりでパンク修理するのは嫌だなと思いながら自転車に近づき、もしやと思って前輪に空気を入れてみると空気漏れしないではないか。そのまま暗闇の中を1時間ほど自転車を漕いで県道に出れたのは奇跡に思えた。少し先のコンビニにはまだ明かりがついていたので飲食物を買って店を出ると、まだ7時を少し回った時間だというのにコンビニの明かりは消えてしまった。タッチの差で間に合ってラッキーだったが、もし間に合わずに只見の町まで行ってもコンビニは閉まっている可能性が高かっただろう。今日は最後になって幸運の女神が微笑んでくれたようだ。

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2022年10月25日 (火)

八十里越え断念

八十里越とは古来より越後と会津をつなぐ峠道であり、長岡藩家老の河井継之助が官軍との北越戦争に敗れて会津に落ちのびるために越えた峠として司馬遼太郎作「峠」に登場して知られており、最近では同名の映画も上映されている。実際の距離は30キロ(約八里)程度だが、険しい難路で実際の距離の10倍に感じることから名づけられたとされている。私も今春に300名山の粟ヶ岳を登った帰りに越後側から八十里越えを目指したが、思った以上に時間がかかって断念してしまった。

会津側から登った方が距離が短いようなので、今回只見方面に来たのを機会にリベンジすることにした。

問題となるのは、八十里越えの道が地図上では確認できないことである。国土地理院の五万図では峠を越える赤色の道路が記入されているが、これが建設中の国道と関係あるものかどうかは不明である。また古道というのもあるようだが、地図上には記入されてないので詳細は不明である。また越後側から会津側へ八十里越えを行った記録がネット上ではいくつか見られるが、只見方面に下降するあたりの記述としては「建設中の国道に降りてしまった」程度のもので、全然参考とならない。
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今回はさしあたり、地理院五万図の赤色の道路を行くことにした。グーグルマップでは、叶津の少し先から道が細くなっているので多分そこにゲートがあるのだろう。ネットの情報ではゲートの先にも開放前の国道が延びているとのことなので、自転車ならば前進できるだろうと考えた。

起床時に自転車を点検すると後輪の空気が完全に抜けている。一ヶ月ほど前に酒田の手前でパンクしてチューブ交換したばかりなのに‥‥、古いチューブを使ったからだろうか?いやな気分でキャンプ場を出ると、叶津の少し先に浅草岳と八十里越え古道の登山口の標識があった。心が動いたが、前日訪れた河井継之助記念館にあった八十里越えの概念図では古道は現在では廃道と書かれていたので無視することにした。

未解放ながら完成済みの国道は川沿いに地図上の赤色の道を辿っていたが、トンネルの部分だけは川沿いの赤道とは離れていた。いくつかのトンネルを過ぎて五万図を確認すると、赤道は川を離れて尾根を登っているのに、国道は川沿いに続いているのだった。

そこでやむをえず戻ってトンネルの手前から赤道上のあたりを登り出した。ところがいくら登っても踏み跡は皆無で、人が立ち入った形跡もない。そこで前進を断念して先程の古道登山口まで戻ることにした。

浅草岳登山道と古道は同じで歩きやすい道だった。快調に鞍部まで登ると、浅草岳山頂付近までは明瞭な登山道があるのに反し、八十里越え方面と思われる沼の平に至る標識のある道はロープが張ってある。それを無視して前進すると道が二手に分かれて、いずれにもロープが張ってあって立ち入り禁止となっているが、左手の道は不明瞭だったので右手に進むと、次第に下って行き朝登りかけた地点の方へ降りるようであった。午前中から降りだした雨もひどくなってきたので前進を諦めて来た道を戻ることにした。
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只見の町に戻って、夕食を食べようと飲食店を捜したが、只見の夜は早く(というよりまだ薄明るかったのに)、「本日は閉店しました」の店ばかりであった。やむをえずコンビニ弁当を買い、ついでにつまみだけ買い、ビールはキャンプ場の管理棟の自販機で売っていることを思い出して買わずにキャンプ場に戻ったら、7時を少し過ぎただけなのに管理棟には鍵がかかって入れなかった。町に戻っても24時間営業のコンビニではないので閉まっている可能性もあり、酒なしで我慢することにした。ついてない1日であった。

八十里越えは越後側から泊まりで行うのが一般的のようなので、機会があったらやってみたい。

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2022年10月22日 (土)

河井継之助記念館

今回の只見線乗車率に合わせて行って見たかった一つに河井継之助記念館がある。戊辰戦争の前哨戦とも言える北越戦争で敗れた河井継之助が負傷して担架に乗せられながら八十里越えをして会津の塩沢までたどり着いたところで傷が悪化して命を落としたことを記念して塩沢の地に建てられたものである。
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中でも見たかったのは、映画「峠」にも出てきた当時の最新兵器「がリントン砲」である。また原作者の司馬遼太郎が只見川の流れを見入ったという地点にも立って、過ぎし日を偲んで歴史に思いを馳せてみた。
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この後は、今晩の泊まり場のある只見に移動するのだが、電車だと四時間も待たなければならないし、土曜で観光客で混雑する電車に自転車を持ち込むのもいやだったので、荷物は重いが休み休みということで自転車で移動することにした。

 

只見のオートキャンプ場は一泊900円と比較的安いが、二晩続いた駅の待合室での仮眠からは昇格したことになる。ここに三泊することにしたが、山岳会の合宿以外で一カ所にこんなに泊まるのは初めてである。
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テントを張り終えてからすぐに雨が降りだしてラッキーであった。雨はまもなく止んで、夕焼けもどきとなったが、明日の八十里越えの天気はどうであろうか
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2022年10月21日 (金)

御神楽岳

登山口までの道が最初から舗装されておらず、往復で6時間近く歩く羽目に。

登山口からしばらくは踏み跡を辿ったが、途中で踏み跡を見失なってしまい徒渉しながら進んだので結構時間がかかってしまう。ただ、その先で踏み跡に戻れたので、登山道を見失うという最悪の事態は免れた。
本名御神楽岳までは急登が続き苦しかったが、背後の山々が紅葉に彩られていたのが慰めであった。

 

本名御神楽岳から本峰の御神楽岳までは刈り払いが十分されておらず歩きにくかった。
只見側からは本峰まで行く登山者は少ないのだろうか


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本名御神楽岳から望む本峰

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本峰頂上

本峰に登頂した時点で下山中に暗くなってしまうことを覚悟するが、沢まで下りてからは忠実に踏み跡を辿れたので、無駄な徒渉をせずに時間を節約できた。行きの徒渉を繰り返していた時も、すぐ横を踏み跡が続いていたことを帰りに気づいたが、後の祭りである。

ただ暗くなると疲れがどっと出て、踏み跡の端を踏み外したり何でもないところで転んだりとヨレヨレとなっていた。登山口に戻ってからも林道歩きが延々と続き、本名駅に戻ったのは10時を回り、行動時間は17時間に及んだ。

天気も良く紅葉も綺麗だったけど、とにかく疲れた!

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2022年10月20日 (木)

全線開通の只見線乗車

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ながらく不通となっていた只見線の只見~会津川口が10月1日から開通して只見線は待望の全線開通となったので乗車してみたが、6便あった代行バスが輸送力の大きい電車になったせいか4便に減らされ、うち1便は快速でノンストップとなったために、近距離利用者にとっては、便数が半減することとなった。地元にとっては本当に歓迎すべきことなのだろうか。

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2022年10月17日 (月)

秩父札所サイクリング

秩父34札所の巡667礼は10年ほど前に妻と二年かけて一部はバスも利用して全札所を回ったのが最初で、二回目は数年前に一人で三日かけて一筆書きで回ったが、自転車を利用すれば一日で回れるのではないかと考えるようになった。ただ、秩父に行くだけで時間がかかってしまい、朝自宅を出ると行動時間が限られてしまうので、前夜から秩父に泊まることにした。もっとも初日を秩父への移動だけで使うのはもったいないので、別計画も実行することにした。

 

初日はやり残したプランがいくつかある寄居に向かうことにした。寄居までは東上線で行くのが便利であるが、池袋回りとすると、自転車を輪行してラッシュの電車に乗り込まねばならないので、途中駅の和光市までは自転車で行くことにした。自宅付近の中杉通りは、終点の中村橋までは一本道なのだが、そこから先の和光市までは曲がりくねっていて解りにくいのだが、事前によく復習しておいたのでスムーズに行くことができた。

 

かつて寄居と秩父を結ぶ主要な峠道のひとつであった粥仁田峠は明治の初めに自由民権運動に触発されて秩父地方で発生した暴動(秩父事件)に際して秩父の民衆と大宮からの警察隊との攻防が行われた所で、だいぶ以前に自転車で訪れようとしたことがあるが、パンクのために断念し再訪がかなわなかったところである。一方、寄居自体は何年か前に秩父七峰縦走を2回に亘って行った際に、アプローチで鉢形城址の横を通ったので、寄居の北方にある低山の鐘突堂山登山とともに、縦走が終わった残りの時間にやろうと思ったものの、時間不足でやり残したままとなっている。

 

今回、やり残しを済ませるために、まずは鉢形城址を訪れることとしたので、それならば寄居まで行かずに手前の鉢形城址をみてから鐘突堂山を登った方が効率的だろうと考えて鉢形駅で下車した。鉢形城は戦国時代の北条氏の支城で川に挟まれた要害堅固の地であったが、豊臣秀吉の小田原攻めの際にあっけなく落城した。今は曲輪の跡がわずかに残っているだけである。
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一通り見学した後に鐘突堂山に向かう。関東百名山にも選ばれているが、標高はたかだか300メートル程度の低山なのでろくに調べもせずに取り付く。大した登りもなく頂上に着くと10数人の団体さんで賑わっていた。頂上には山名のいわれとなる鐘とお堂があった。先ほどの鉢形山の見張り台の役目をしていて、敵が近づくと鐘を鳴らして危急を伝えたそうである。
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団体が下山してしばらく時間をおいてから自分も下山するが、すぐに団体に追いついてしまう。追い抜く際に大勢に足止めさせるのは申し訳けないので、一定の距離を保って歩くことにする。そのうちに下山方向がおかしいことに気付くが、ほとんど下まで降りてしまっているので、頂上まで登り返すよりも下から回りこんで自転車を回収した方がよいだろうと考えて前進することにした。

 

低山だと侮って下山時に方向を確認せずに団体の後をついていってしまった失敗だが、グーグルマップで調べると1時間以上かかることがわかる。隣の谷に通じる尾根を越える地図にはない里道がきっとあるはずだと思って前進すると、思ったとおり里道があって40分ほどで自転車の所までたどり着いた。下から回りこむよりも早かったが、無駄な時間を費やしてしまった。

 

ラーメン屋で遅い昼食を食べてから粥仁田峠に向かうが、また鉢形城址の横に出てしまい、こんなことなら鐘突堂山、鉢形城址の順に行った方が時間を省略できたと思えてきたが、後の祭りである。粥仁田峠を登る際の懸念は、どこまで舗装してあるかだったが、道は次第に狭くなってくうものの峠まで自転車を下りずに漕ぎつづけることできた。ところが峠を越えて下り初めると間もなく舗装が途切れて砂利道となってしまったので、やむなく自転車を引いて行く羽目になる。

 

麓の集落に着いた時には暗くなってしまったが、これからどうするか思案する。ここから札所1番までは比較的近いので巡礼を開始するには好都合だが、夜を徹して巡礼するのは少々気が重い。そこで今夜中に行ける所まで行き、秩父駅近くにあるネットカフェで仮眠して、翌朝から巡礼を再開することにした。暗くなると多くの札所が門を閉じてしまうが、元々1日で全ての札所を回るには本堂での参拝は省略して山門までしか行かないことを決めていたので、夜間の参拝となっても支障はないことになる。
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1番札所は前2回の巡礼では最寄り駅から向かったので登りがそこそこあったが、今回は峠から下ってきたので楽だったが、2番札所は一度下りてから登り返したので結構たいへんだった。その後は、さしたる苦労もなく10番札所まで進んだが、時間もかなり遅くなったのでネットカフェに向かおうかなと思ったが、念のために11番札所を確認したところ、3キロほど戻ったところにあるではないか。明日、ここまで戻ってくるのもたいへんなので今夜中に行っておこうと行ってみると、なんだかさきほど来たような気がする。もう一度ネットで調べると、ここは3番常泉寺で、11番は一字違いの常楽寺でネットカフェの近くにあることがわかった。とんだ間違いでネットカフェに着いたのは零時を回っていた。

 

仮眠を終えてネットカフェを出たのはまだ暗い5時過ぎであった。11番から12番に向かう途中のすき家で朝食をたべる。そこから先は札所間の距離は近く、どんどん先に進める。10時に前には前半のハイライトとも言うべき23番の音楽寺を目指してヘアピンカーブを喘ぎながら登って行く。音楽寺は秩父市内全体を眺められる展望の良い所で、駐車場からもその景色は眺められるのだが、肝心の音楽寺に向かう道が見当たらない。遊歩道が下っているので、そちらに向かってみるが、寺は見当たらない。時間をかなり空費したので諦めて帰りかけた時に参道を発見してなんとか音楽寺に辿り着けた。今までは巡礼道を下から登ってきたので迷うこともなかったが、駐車場からの道はかなり解りにくかった。
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その後は荒川に下って札所を何カ所か回って、28番の橋立堂に着く。ここは鍾乳洞も隣接しているので観光客も多いが、圧巻はお堂の背後に聳える圧倒的な大岩壁である。
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  景観を眺めた後、お昼も近かったのでそば屋で山菜そばを注文する。実は妻と秩父札所を訪れた際に二カ所で食べたそばのまずさが語り草となっていて、今度もまずかったら本物だという気持ちがあったのだが、出されたそばはやはりねっとりしていて予想を違わぬものであった。もっとも、道の横には「そばの里 秩父」とかかれたのぼりを見かけたので、地元の人には好評なのだろう。
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その後に札所の中では一番南に位置する30番に着いたのは2時頃で、いよいよ最後の頑張りということになるが、ここから31番もあって札所間の最長距離となる15キロもあり、しかも山を越えた向こう側の谷間まで行かなければならないのだ。異を決して坂道を登り出すが、結局山越えはなくて途中からトンネルをくぐって向こう側の谷に下りたので拍子抜けしてしまった。

 

札所際奥の31番の山門に着いたのは4時だったので、明るいうちに巡礼を終えるのは難しくなってきた。31番の山門から本堂までの往復は小一時間かかるのでパスして32番に向かう。距離は12キロあって前半は下り、最後は登りとなるが、小一時間で終えることができた。33番までもなな7キロ近くあるが、平坦な道なので問題はなかった。

 

最後の34番までは山を回り込むことになるので、一度荒川に下ってから登り返すことになる。登り返しに入って道が分岐しているところで多くの車が右折するので、それに釣られてしまう。しばらくしてから気づいて来た道を戻るが一時は気弱になってリタイアしてしまおうかとも思ったが、まだ6時をすこしまわった程度だったので、気を取り直して34番の水潜寺に向かい、7時前にはなんとかゴールできた。時間の余裕があったので、前2回の時には寄れなかった満願の湯にも立ち寄ることができた。巡礼を終えて満願を果たした者が立ち寄る所とされているが、来場者の大半は巡礼とは関係ない人のようであった。食堂も併設してあったので名物のわらじかつどん(さしてうまくはないが)を食べられて大満足であった。ただ、西武秩父までは15キロほど自転車をこがなければならず、ビールを飲めなかったのが残念であった。
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2022年10月 5日 (水)

最上川下降と奥の細道

神室山下山後に真室川駅まで戻り、在来線と新幹線を乗り継いで米沢に移動し、そこから最上川の源流を目指す。実際の水源はもう少し奥にあるのだろうが、一般的には米沢から20キロほど北方にある火焔の滝が最上川の水源とされているので、そこを目指すことにした。最初は平坦な道だったが、次第に傾斜を増してくると今までの疲れも出て、喘ぎ々々前進する羽目となる。目的地まで数キロまでとなった時点で検討した結果、今のペースでは目的地までは1時間以上かかるのは必至で、その場合は今後の予定が苦しくなるため、残念ではあるが引き返すことにした。

 

米沢まで戻ってコインロッカーから荷物を回収し、ホテルを予約してある山形駅方面に向かう。夜道の国道を進むため安全第一で進んだのでペースが上がらず、20キロ手前から在来線で山形まで行くことにした。日程的にはまだ余裕があったので、この程度の遅れは充分回復できると思えた。

 

翌朝は昨日の到達点まで在来線で戻り、そこから最上川の下降を続けると書きたい所だが、昨日のゴール付近から最上川はJRを離れて山間部を進むので、しばらくは最上川を離れてJRに沿って進むことにした。次に最上川と合流するのは、三日前に鳴子温泉から峠を越えて最上川に達した大石田である。このあたりは最上川が激しく蛇行しているが、最上川の北端あたりまでは三日前に走破しているので、酒田までの最短距離を目指すことにした。ここから酒田までは70キロ以上あり既に3時を回っているが、今夜の宿は予約してないので酒田への到着時間が遅くなればネットカフェに泊まればいいやと考えた。

 

峠を越えて蛇行を終えた最上川に降り立ち、最上川沿いに酒田を目指した時は既に暗くなっていた。しばらくして陸前西線と合流してからは、いざとなったら終電で酒田まで行き、残りの部分は翌日回しとすることができるので気が楽になった。そしてさらに進んで酒田まで30キロ近くになった時に後輪がパンクしてしまった。予備のチューブは持っているが、狭い夜道で交換作業をするわけにはいかないので、二キロほど先にある駅まで自転車を引いていくことにした。

 

最初は駅で仮眠して翌朝にパンクを修理してから酒田に向かうつもりだったが、駅の周辺にはコンビニもないので予備食で一晩を過ごすのはわびしい気がしていたところ、三つ先の駅近くにはホテルやコンビニもあることがわかり、電話してみると泊まれるということだったので、自転車は駅に置いて最終の代行バス(JRは工事中で運休のため)でホテルのある駅に向かうことにした。

 

最終日は代行バスで昨日の駅に戻り、パンクを修理してから酒田に向かう。酒田には午前中に着き、最上川の河口まで行って奥の細道の完全踏破(平泉~酒田以外は以前に済んでいる)と最上川下降の完成を確認した。急いで帰ってもしかたないので、酒田市内を観光することにした。
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まずは港近くの日和山公園に上がり市内を見渡したが、公園には松尾芭蕉の句碑が立っており、奥の細道踏破のフィナーレを飾るに相応しいものであった。酒田の一番の観光名所としては本間家の屋敷があるが、ここは以前に行ったことがあるので、代わりに山居倉庫に足をのばしてみた。少し遠いので前回は行かなかったが、今回は自転車があるので問題はなかった。そこは庄内米の貯蔵庫として使われたものであるが、わざわざ出かけるほどの価値があるかどうかは疑わしい。
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観光が一段落したので、ランチを食べてから帰ることにして、海鮮丼を食べようとグーグルマックでお店を検索した。ところが、お店でメニューを見ると海鮮丼がない。まあ海鮮ならなんでもいいやと海鮮〇〇という料理をよく確認もせずに注文したら、なんと海鮮フライの盛り合わせで当てが外れてしまった。終わりよければすべてよしとならなかったのは残念だった。
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2022年10月 4日 (火)

神室山

一昨年に奥羽本線沿いの二百名山を和賀岳、焼石岳とピークハントしながら南下し、最後は神室山を登るつもりだったのだが、連日の深夜に及ぶ行動で疲れがたまっていたことと、最終日は雨模様だったため登山を断念したため持ちこしとなっていた神室山登山を奥の細道からは少し寄り道となるが今回実施することにした。

 

最寄り駅の真室川から神室ダムの先の登山口までは約20キロあるので、時間がかかることを覚悟していたが、ダムの手前以外はさほど傾斜はなかったので2時間ほどで着くことができて、行動に多少余裕ができた。登山口には10台程度の車が停まっていて、さすが200名山のことだけはあるなと思った。

 

登山口からは沢沿いの道を多少のアップダウンを交えながら2時間ほど歩くと、ここから尾根が急登が始まる。ここで昼食をして12時半に登りだすと、もう下りてくる人に出会う。短パン姿であったからトレランのトレーニングの人なのだろう。

 

登山口から稜線までは標高差700メートルの急な登りであるが、その後は誰にも逢わないなと思ったら、稜線間近で多くの下山者とすれ違う。その頃にはうっすらと色づいた山頂へと続く稜線も眺められてファイトがかき立てられる。
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稜線に出ても山頂までは30分以上かかるが、ここですれ違った最後の下山者から、頂上の小屋に泊まるのかと聞かれる。時間は3時を回っていたので、まともな登山者ならば頂上の小屋に泊まる時間であるが、まともでない自分は「今日中に下山します」と答えたものだからあきれらてたかもしれない。

 

頂上直下では反対側の斜面から登ってきた4、5人のパーティーを追い抜く。こちらは、まともな登山者?のようで頂上の小屋に泊まると言う。先に頂上に着いた私は彼らの到着を待って記念撮影をしてから下山する。頂上でのんびりしてもよいのだが、周りを見ても見知らぬ山ばかりだし、喧噪の頂上は苦手なので早々と下りてしまった。
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同じ道を下るので道に迷うこともなく、スムーズにおりられたが。沢に降り立った時は真っ暗になっていた。そこから行きと同じく2時間ほどで登山口に着いたが、当然のことながら車は1台も停まってなかった。今夜はホテルの予約をしてないので、ここにテントを張ってもよいのだが。自販機を利用したかったので、1時間ほど進んだ公園にテントを張ることにした。

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2022年10月 2日 (日)

鳴子温泉と奥の細道

妻と宮城県の鳴子温泉に連泊することになったので、その前後を利用して奥の細道の未踏部分である平泉~酒田を自転車で走破することにした。
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平泉付近の北上川

初日は一ノ関で始発の新幹線から在来線に乗り換えて平泉に向かう。平泉からは中尊寺は目と鼻の先であるが、何度も行ったことがあるので、パスして南下することにした。芭蕉が石巻から中尊寺までどうような行程を辿ったかは、はっきりしていない。ただ奥の細道の記述では、現在では最短路となる北上川沿いの道を忠実には辿らず(今とは流れが違っていたためかもしれない)、西側の登米という所に長期滞在したようだ。現在では登米市とされている所だが、そのどこに滞在したのかも判然としてない。また、中尊寺から酒田に向かう際も、鳴子温泉の手前の岩出山までの経路も判然としていない。

 

そこで今回は、以前に北上川を河口から水源を目指した際に、時間切れからショートカットしてしまった部分を通って、途中から北上川を離れて登米市を通って、岩出山に向かうことにした。北上川に沿う道は国道ほどの交通量はなく快適である。途中、気仙沼線と交差するが、北上川にかかる鉄橋を列車が通過すれば絶好の撮影ポイントとなるものの、ネットで調べてみると上り下りとも次の列車までは1時間くらい待たなければならないので、撮り鉄ではない自分は先を急ぐことにする。
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道はいつしか北上川を離れて登米市内に入り、遠くの方に東北本線を走る列車が見えてくる。まもなく当初予定していた初日のゴールである新田駅に着くが、まだ時間が早かったので先に進むことにする。ふたつ先の瀬峰駅に着いたのは4時前で岩出山までは20キロちょっとであり、十分に行ける時間であったが、途中でパンク事故があるとチューブ交換で時間を要してしまい、夕食に遅れる心配があったので、本日はここまでとし駅の駐輪場に自転車を置いて電車で鳴子温泉に向かった。

 

翌日は鳴子温泉発の8時台の電車は途中駅の接続が悪かったので、10時過ぎの電車に乗ったため、駐輪した瀬峰駅に着いたのは12時近くと遅くなったが、本日の行程は40キロ弱と短いため問題はないはずであった。実際走り出して見ると、途中、多少のアップダウンはあったものの概ね平坦で順調に行程は捗り、早い時間帯の夕食にも十分間に合うことを確信した。ただ余裕があったにもかかわらず、途中にいくつかあった芭蕉関連の記念碑等に立ち寄らなかったのは残念であった。

 

最終日は妻と別れて新庄に向かう。その前に標高差数百メートルある山刀伐峠を越えなければならないが、その登り口の手前に奥の細道にも出てくる尿前の関跡がある。 
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その先は緩やかな登り坂が続き、やがて本格的な昔の峠道が始まるのだが、自動車道はトンネルで山刀伐峠を通過しているのだ。
どちらを行くべきか迷い、最初は旧道を進んだが、途中で舗装が終わっていたら引き返さなければならないと考えると弱気になってトンネルを選んでしまった。楽ではあったが、少し残念な気もした。

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旧道の登り口

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新道のトンネルを降りた先の旧道との合流地点

トンネルを抜けて大石田まで下り、そこから新庄の手前まで最上川に沿って行く。といっても、最上川はこのあたりは激しく蛇行しているので忠実に川沿いに進むことは出来ず、蛇行している部分のほぼ真ん中あたりを出来るだけ真っすぐ進む。20キロほど進んで新庄の手前で最上川と別れて、本日の泊まり場の新庄に向かう。

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