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2024年2月

2024年2月27日 (火)

ウシュアイア滞在記

 2月21日

朝食のために1階に降りるとテーブルには先客が一人いたが、彼は私より一つ年下の日本人男性で1週間ほど前からこの宿に泊まっているそうである。今回はひと月ほど前から南米に来ており、この後アフリカに向かうそうである。彼の話を聞くと、若い頃から世界中を旅しており、今回が最後の海外旅行としてやってきたそうである。カラファテで出会った人といい、どうも南米は日本人の老人天国のようである。若い人が少ないのは南米は費用と期間の面でハードルが高いのに対して、老人はいずれもクリアできているからだろう、

食後に下の街に降りて、南極クルーズの出発直前の安い、いわゆるラストミニッツを探しにいく。最初に入った旅行代理店では約1週間後に出発するクルーズの価格を約60万円で呈示される。正規の価格の3分の1以下であり十分魅力的であったが、他の旅行代理店の情報も得た上でと思って即答は避けた。その後に、他の代理店にも向かったが、入り口に先ほどと同額の価格が掲示されていたので、それがラストミニッツの相場なのだと考えられて中には入らずに先ほどの店に戻った。

クレジットカードも出して申込直前寸前であったが、ここでひとつ問題が発生した。現地で事故が発生した場合に日本に送還する費用をカバーする保険に加入することが申込の条件であるということである。店から教えられた番号に電話するが、スペイン語で話をされて全くわからなかったので、店の人に代わりに電話してくれないかと頼んだが、申込み者がやるべきこととして断られる。その代わりに日本語での対応が可能な電話番号を教えられ、これは日本国内の電話番号だと言われたので、日本の国番号をつけて電話してみるが、無効な番号として表示されて繋がらない。代わりにメールで連絡することを思いついてアドレスを教えてもらい、ホテルに戻ってwi-fiから送信することにした。

昨夜の宿は街から遠くて旅行代理店と往復したりするのに不便だし、長期滞在するには割高なので、街なかにある安いドミトリーに移ることになり、宿のWiFiに接続すると早速保険会社宛てのメールを送信しておいた。その後にグーグルマップに載っていたすし店の場所を確認してから前の宿に向かい、朝会った日本人を誘って一緒にすしを食べるつもりであった。ところが、最初の店は開店時間と表示されている5時を過ぎているにもかかわらず、閉まったままで店の中は開店準備をしているようにも見えなかったので次の店に行くと、こちらも同様に暗いままである。どうも、すし店は日本人客が集中する年末年始のみ営業し、他の時期は休んでいるのかもしれない。そういえば、街を歩いていても、我々二人以外は日本人には出会わないし、東洋系としては中国人に数回会ったくらいである。中華料理店を見かけないのも、中国人客は春節の時に集中するからかもしれない。

もう1軒のすし店があるはずの辺りにも行ってみたが、店は発見できなかったので近くのカニ店に入ることにした。テーブルに座ると、店の人が生簀から見事なカニを取り出して見せてくれるが値段を聞いてビビリ、もう少し小ぶりのカニを頼むことにした。カニを肴にビールを飲みながら旅行談義をして、それぞれの宿に戻ることにした。

2月22日

このドミトリーはまずまずだったので宿泊を延長しようとしたら、中心街にあって便利なためか延長は難しいようだったので、もう少し郊外にあって料金も少し安いドミトリーに移動することにした。そのドミトリーは思ったよりも遠かったが、すぐ近くにミニスーパーもあるので便利ではあった。

チェックイン時間までは時間があるので、旅行代理店まで行って保険手続きの相談をすることにした。メールの返事がまだ来ないことと電話による申込みにはトライしたものの難しいことを話すと、代理店の人が代行してくれることになった。保険料一万円ちょっとのささいな保険の加入に過ぎないのに、2時間近く時間をかけて途中で近くの別の代理店にも何のためか分からぬまま行かされたりして、ようやく手続きが完了した。後は翌日にクルーズチケットの受け取りと料金の支払いを行って申込みは完了する。なかなかハードルは高かったが、ようやく手続きに目処がついてホッとした。港に行ってみるとクルーズ船が数珠つなぎとなっており、あの中のどれかに乗るかもしれないと思うと胸が高鳴った。

まだ時間があるので、世界の果て号という列車に乗ってみようかなと思ったが、チケット売り場がよくわからず、風が吹いてきて寒くもなってきたので宿に戻ることにした。帰ってから調べると駅はだいぶ離れた所にあり、タクシーかシャトルバスで行かなければならないということなので、公園入園料とセットになったツアーもありかなと思えてきた。チケット売り場を探すのに手間どって昼食に少量のパンを食べただけだったので、3時にカップ麺を食べたため、夕食はワインとつまみのチーズ&サラミで済ませた。クルーズ成功を祈ってワインで乾杯した。

このドミトリーは2泊を予定しているので、クルーズ出発までの3泊をどうしようかと考えたが、クルーズ中は相部屋が続くので個室の方が良いだろうと考えて検索すると、中心街に近い所に手頃な料金のホテルがあったので予約しておく。これで当面は日々の宿探しの面倒からは解放されることになった。

2月23日

今日はチリに旅立つ日本人を見送ってから、旅行代理店に行ってカードでクルーズ代金を支払って後はノンビリするつもりだったのが、全て目算が外れた。先ずはバスが出発すると思われる場所(ウシュアイアにはバスターミナルはないので、グーグルマップの経路図から予想)に行ってみたのだが、バスも乗車待ちの人も見かけず見送りを断念せざるを得なかった。次に旅行代理店に行ってカードで支払いをしようとしたら、「このカードでは支払えません。違うカードで支払って下さい」というメッセージがでてしまう。結局3枚のカードで試してみたが、いずれも同じ結果であった。3枚のカードとも月の使用限度額以内ではあったが、ひょっとすると1回あたりの使用限度額というのもあるのかもしれないと考えて、金額を3枚のカードに分割して払おうとしたが、それでも同じメッセージが出て支払いができない。次に考えたのは、通常の支払いだとカード情報の入力だけですむところなのに、クルーズ料金の支払いの場合には支払人の郵便番号や住所まで記載しなければならなくなっていたが、都道府県については選択方式なので漢字で表示されるが、市区町村は入力方式なので現地のPCでは当然漢字入力はできず、ローマ字で入力したため、それがカード会社に登録されている情報(当然、市区町村は漢字表記であろうから)と異なっているためにエラー扱いされるのではないかと考えて、自分のスマホで漢字表記した市町村名を代理店のメールに送ってコピペして漢字表記で入力してもらったが、それでもダメで万事休すとなった。

代理店の人はカード会社に電話して対応してもらうように言うので電話してみたが、日本とは12時間時差があるので自動音声の対応しかなく、今回のような事案に対応できるはずもなかった。代理店の人は日本時間の営業時間(9時からだろうが、果たして土曜日でも対応可能かどうかは不明)に電話するように言うが、それで繋がったとしても代理店のシステムがわからないだろうから、カード会社が有効な解決策を出してくれる可能性は極めて低いと考えられ、この時点では、クルーズ不参加もやむを得なしと考えるに至った。

他に方法はないかと考えたところ、日本から送金してもらうという方法もあるが、間に土日があって送金可能な日は出発前日となり、時間的に間に合わないだろうし、妻はこの手のことは得手でないので現実的な方法ではないことはあきらかであった。次に考えたのは、現金で払えないかということである。ドルの手持ちでは2千ドル不足するが、日本円を御守り代わり(換金率が非常に悪く、換金は現実的でないらしいので)に多少持ってきていたので、これをドルに換金して二千ドルになればOKのはずである(全額を現金払いも可能なことは確認済みである)。そこで近くの両替屋に行って二千ドルを受け取るためには、日本円がいくら必要か聞いてみると、38万円だという。1ドル=190円の計算となり1ドル=150円の為替相場と比べて、これだけで8万円の損失となるが背に腹は代えられないし、手持ちの日本円は39万円とまさに首の皮一枚で繋がった状態だが、夜にカード会社に電話して良い結果が得られなければ、最後の手段として現金払いをすればなんとか支払いは済ませそうだという見通しは持てた。日本時間の朝9時になってからカード会社に電話してみるが、私のカードにエラーの記録はないとのことで、カード会社で対応できることはないようなので、やはり現金払いをせざるを得ないようだ。

夜になってから同じ部屋に若い日本人カップルが入ってきた。1年間かけてアジア、ヨーロッパを経て南米に来たとのことで、色々と旅の話をして過ごした。調子に乗って今までの私の体験談も話したらびっくりしていたが、私にしたら1年間も海外に行ってられる方が驚きで、私の場合は経済的にも精神的にも3ヶ月が限度かなと思う。

2月24日

ドミトリーを引き払って両替屋に向かうが、9時過ぎに両替屋についてみるとドルへの換金は10時からだと言われる。ニューヨーク市場の取引開始を待ってからと言うことだろうか?たまたま本日から3泊滞在するホテルが両替屋の隣なので、チェックイン前ではあるが、荷物だけは置かしてもらって身軽になり、ドル持参が遅くなることを旅行代理店に連絡してから、再び両替屋に戻る。すると、二千ドルに必要な日本円は昨日は38万円だと言ってたのに、今は39万円だと言う。1日でそんなに相場が変わるのだろうか。なにか騙されているような気がするが、1万円札1枚を手元に残してもあまり意味はないので要求に応じ、必要額ぴったしの金額を持ってきた幸運に感謝する。ただ二千ドルを100ドル札でなく20ドル札100枚でくれるものだから、数を数えるのが大変だっただけでなく、一枚一枚チェックしていかなければならないので大変である。うち1枚に書き込みがあるのを発見して別の札に変えてもらう。

なんとかオールキャッシュでクルーズ料金を支払えるようになったので、そのまま旅行代理店に直行する。すると、こちらでもドル札のチェックが始まる。日本から持ってきた札は問題がなかったが、両替屋からの札には何枚か問題があるということで、それらを含む20ドル札5枚を日本から持ってきて手元に残してあった100ドル札と交換させられる。まるでババ抜きをしているかのようである。

次に膨大な記述のある契約書にサインさせられる。メクラサインというわけにはいかないが、かと言って膨大な記述のすべてを解読するのは至難な技である。そこで金額の表示があったり、なにか問題になりそうな部分を感を交えて見つけ出して読み込んで、いくつかについては質問して最後にサインをする。次に私の個人情報を健康面を含めてPCに入力し始めて、いくつかについては質問を受けて、それに答えた。時々担当者が上司と相談する場面があり、なにか問題が起きたのかとヒヤヒヤする。

2時間近くかかって本日の手続きは全て終了したので、私の方からは環境省に提出する届出書に記載する事項で不明な点につき質問し、次に手元に残るドルは300ドルを切り、これを残り少なくなっているペソへの両替に使ってしまうわけにはいかないので、カードでキャッシングするためにATMのある場所を聞き出して代理店を後にした。

さっそくATMに向かうが、数枚のカードでトライしてみたものの、キャッシングができない。まあアルゼンチンペソは残してしまっても、チリでは半値にしか評価されないので、これから先はペソをクルーズ中に使うことはないだろうし、下船後はカード利用可能な店だけを選べば、あえてアルゼンチンでキャッシングする必要はあるまいと考えられた。

ホテルに戻り、部屋に入って久しぶりの個室となって落ち着けたが、問題が二点あった。ひとつはWiFiが弱くて、特にタブレットの方はほとんどインターネットに繋がらないことである。さらにお湯を沸かすことが出来ず、せっかくチリから持ってきたカップ麺を食べられないことである。そこでクルーズ終了後にウシュアイアに最低一泊しなければならないが、その宿は別の所を捜さなければならなくなった。次にウシュアイアからブエノスアイレスとブエノスアイレスからサンチャゴへのフライトとブエノスアイレスで荷物を預かってもらっているホテルの宿泊予約も行った。最後にウシュアイアで買うべきお土産の目星をつけるために街に出て、本日のやるべきことは全て終了した。

2月25日

朝食のために1階に降りてみると、お湯が使えることを発見する。朝食と言ってもパンと飲み物だけの簡単なものなのでカップ麺も一緒に食べることには何の支障もない。クルーズ終了後とブエノスアイレスでも一個ずつ食べればチリから持ち込んだ分は全部消化できることになる。チリでは入手できアルゼンチンでは入手できないカップ麺をアルゼンチン内で消化できるのは喜ばしい。一個百円程度のものではあるが

今日は特に予定がないので、本来ならばウシュアイアの観光に宛てたいのだが、ウシュアイアの観光客と言えば、ダーウィンが通ったビーグル水道のクルーズ、ペンギンが棲息している島への上陸、世界の果号乗車といつのが定番だが、前二者は南極クルーズで体験することであるし、後者については日曜日は運休らしいので、代わりに裏山にでも登ってみようかと思った。別に頂上に登るのが目的ではなく、ウシュアイアの町全体が展望できる場所に行ってみたかっただけである。

最初に行こうと思った道は私道らしくて住人に前進を阻止される。やむを得ず自動車道を進むことにしたが、しばらくすると日光のイロハ坂のような曲りくねった登りとなり、その横を遊歩道が直上するようになっていたので、勿論後者の道を選択した。幅の広いよく踏まれた道でおまけにマーキングがしっかりついているので迷う心配ない。ところが、しばらくすると、遊歩道は自動車道からは大きく離れて沢沿いに進むようになっているので下り気味になっている。ところが川まで降りると橋があったので、それを渡ってしまったのが間違いであることが、後で地図を見てわかったのであるが、その先も下りが続いており、いくらなんでもちょっと下り過ぎじゃないかと思ったら、なんと「イロハ坂」の起点に戻ってきてしまった。きっと橋の所にスペイン語で表示がされていたのだろうが、それを見落としてしまい、沢に降りるまでは下り基調になるという意識があったので、間違いを冒してしまったのだろう。

再度登り返す元気はないので下に降りることにしたが、町に向かわずに空港に向かうことにした。というのは、ブエノスアイレスに帰る時に空港に行くのは他の交通機関はないので、タクシー利用が一般的であるが、歩けない距離ではないので事前に試し歩きをしておこうと思ったからである。だが実際に歩いてみると思った以上に距離があり、10キロ以上の荷物を背負っていくのは、かなり大変だと感じてタクシー利用はやむを得ないと思った。こちらのタクシーはカードが使えないので、アルゼンチンペソを補充しておく必要があるが、こちらのATMではどうもキャッシングがうまくできない以上は換金をせざるをえない。ただネットで調べたところでは空港までは千円以下らしいので、20ドルも換金すれば充分と思われ、手持ちの現金が少ないなかではあるが、その程度はやむをえないだろう。

町に戻って孫へのみやげのペンギングッズを買おうと思ったら、日曜のために休みの店が多く、お目当ての店も休みだったのて、明日出直しすることになった。夕食をどこかのレストランでとろうかとも思ったが、明後日からのクルーズではご馳走三昧になるので、今は粗食にしておいた方が経済面だけでなく健康面でもよいだろうと考え、ハムとチーズを挟んだパンとピールを買い、部屋で食べることにした。

2月26日

本日は10時にクルーズチケットを受け取れるはずだったが、店に行ってみると準備が遅れているので12時半に出直してくれといわれる。この場所にはいつ来ても予定通り事が運んだことはなく何らかの問題が起きているので、もう慣れっこになっている。そして12時半過ぎに再訪すると、今度はチケットを受け取ることができた。ここまで辿り着くのにいろいろな苦労があったなあと感慨深かった。この店にはもう来ることもないだろうが、もし来るようなことがあれば、それは何らかのトラブルが起きたときだろうから、そうならないことを望む。

午後はまるきり空いていたので、昨日途中までしか行けなかった裏山の氷河下まで登ってみることにした。ただ同じ所をまた歩くのは嫌なので車で行ける所まではタクシーを利用した。ウシュアイアではまだタクシーに乗ったことがなかったので、ブエノスアイレスに戻る時にウシュアイア空港までタクシーに乗る予行演習の意味もあった。特に運賃はメーター計算によるので事前交渉の必要はないということがネットに書いてあったが、それが事実かどうかを確かめたかった。

終点近くになると結構な人が歩いて登っていた。終点まででメーター計算で7百円程度を払って下車したが、8キロほどの道程だったから日本に比べるとかなり安く思えた。舗装道路の終点からの山道は二つに分かれるが、行きは沢沿いの傾斜の緩い方の道を選んだが、今日は調子が良くて先行者をゴボウ抜きして行く。先日のアコンカグアでは若い人について行けず、もうダメかと思われたが、一般の人に比べればまだまだ捨てたものではないと変な所で自信がでた。

氷河末端直下まで着くと、結構な人数が休んでいた。今日は小雨交じりの昨日と比べるとまずまずの天気でウシュアイアの町が足下に望めて、昨日は途中までしか登れなかったのが今となっては却ってラッキーであったと思えてきた。こんな千メートルに満たない山なのに氷河があるのは緯度が高いからだろう。まわりの山が鋭く尖った山ばかりなのは、地球の寒冷期においてはこの辺りは大氷河に覆われていた名残りだろう。

しばらく休んでから下山に移ったが、途中で道が分岐する所からは傾斜のきつい方を下り結構なペースで降りたつもりだったが、今日初めて他人に抜かれることになり、元気な若い人には勝てないことを再認識した。舗装道路にでてからは、そちらは行かずに山道を下って行ったが、ほとんどの人は舗装道路を車で降りて行ったとみえて誰にも会わなかった。やがて昨日間違って下降してしまった地点まで降りると合流点になにやら書いてあり、それを読めればここが登りと下りの分岐点になっていることがわかるのだろうが、スペイン語のわからない自分はもう一度昨日の道から合流点に達しても、やはり間違って下山する方の道を選んでしまったであろう。今日はタクシーで終点まで行って正解であった。

山道を下りきって舗装道路に達し、後は港まで最短路を下って行った。港に着いたのは夕方になっていたが、今夕はクルーズ船は一隻しか停まっていなかったので、翌日の夕方にはあの船に乗って出航することになるのであろう。あまり大きな船ではないようなので船内で迷子になることはないだろうが、ドレーク海ではかなり揺れることは覚悟しなければならないだろう。船に関する情報は全くなく、乗船時に説明はあるのだろうがちんぷんかんぷんであることは間違いないので、状況を完全に把握するまでは大人しくして、後で無駄な請求をされることがないようにしよう。いずれにしても明日はいよいよ出航だと思うと胸の高まりを抑えきれない。

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2024年2月22日 (木)

南米最南端の町を目指して

2月17日

足かけ4日間滞在したプエルトナタレスを後にして南米最南端を目指す旅に出る。ウシュアイアまで行けるバスは数日後でないとないということで、まずはプンタアレナスを目指すことにする。プンタアレナス行きの本数は多いので予約なしでも先発のバスの切符がとれた。もっともプンタアレナス行きのバスは既に停車していたが、このバスではなく、次の10時発のバスが私の乗るバスらしい。

定刻の10分ほど前にバスはターミナルに入ってくる。私の座席はラッキーなことに2階席の最前列で素晴らしい展望が得られる。そこそこ満席に近かったが、私の隣は空席だし、通路を隔てた席は若い女性の二人連れというこれ以上ない条件だが、3時間ほどで終点のプンタアレナスに着いてしまうのが惜しいくらいだ。

やがてブンタアレナスの手前の空港に着く。ここからもウシュアイアにフライトがあるんだけど、数日先まで満席だし、直前の購入だとバス代の5倍くらいしてしまうようだ。車掌が先ほどの女性を起こしにきたので親切なことだと思ったら、結局、女性客は降りなかった。単に女性客と話しをしたかっただけかもしれない。 

プンタアレナスのバスターミナルは街の中心地にあり、下車するとすぐに翌日のウシュアイア行きの切符を買いに窓口に向かった。ところが、3日先まで満席というではないか。まあ、休みはいくらでもあるのだし、安宿に泊まって自炊もするようにすれば、たいして滞在費もかからないので二日間の足止めくらいはいいか

この日のドミトリーはよく考えずに選んでしまったので、中心街から小一時間も歩かなければならないところだった。当初の予定どおりに翌日の出発だとしたら、朝のバスに乗るために相当早く宿を出なければならず大変だった。そのため、翌日以降の宿泊は中心部の近くにとることとし、安宿ではあるがドミトリーではなく個室にした。

今晩のドミトリーは前面がマゼラン海峡で眺望が素晴らしく、内部も清潔で広く、朝食の内容もそこそこの割には1泊18USドルと安く、今まで泊まったドミトリーの中では一番といえ、これで中心部に近ければ言うことないんだけど。特にマゼラン海峡が眺められるのが最高で、ここを越えて太平洋に達したマゼランやカヤックで渡って南米大陸に上陸した関野さんのことを思うと感無量であった。

2月18日 

このドミトリーは場所以外は文句の付けようがないのだが、朝早く出発するにはターミナルまて遠すぎることと、周りに店が全くない(そのために前日は休肝日となってしまった)ことが欠点となったいる。そのため、中心街近くのホテルに移動することにする。

昨日と同じ道を歩くと、ターミナルの少し先の公園にマゼランの銅像があり、観光名所になっているようだ。だが考えてみれば、マゼランは後のスペインによる南米植民地化の先兵になったともいえるわけで、ヨーロッパ系の人はともかくとして、(混血も含めて)先住民の子孫にとってはどういう思いなのか知りたかった。

本日の宿は場所はグーグルマップでわかったのだが、看板がでてないので少々迷ってしまった。料金は現地払いだが、代理店からのメールよりも15パーセントくらい高いものを請求されたので文句を言うと手数料だという。釈然とはしなかったが、それでも1泊六千円くらいだから「泣き寝入り」をしてしまう。

荷物を置いて食材を買いに行く。外食ばかりだと滞在費が馬鹿にならないからだ。あいにく、日曜日のため休みの店が多かったが、大きなスーパーが開いていたので助かった。チリ南部は最後の街となるのでチリワインも併せて買う。

ホテルに戻ってワインを飲み始めたが、温度もさほど高くないので2日は持つだろうと買ったチーズやサラミをかなり食べてしまい、明日の分は買い足さなければいけなくなってしまった。

2月19日

翌日のウシュアイア行きの予行演習で八時前にバスターミナルに行ってみることにする。経路は明確だが、出発場所がターミナルに間違いないかどうかを確認する意味もある。八時前にバスターミナルに着くとウシュアイア行きのバスが停まっていて乗客も乗り込んでいた。今日の予約が取れていたならば、途中乗り換えせずにウシュアイアまでの直通に乗れたんだし、プエルトアナレスに着いた直後に予約すれば、このウシュアイア行きが取れたかもしれない。ただその場合はプンタアレナスまで行かず、手前でこのバスに乗り継ぐことになるので、マゼラン海峡を体感せずにいたかもしれないので、やはり自分の選択は正しかったかなとも思えた。

帰りにスーパーに寄るつもりだったが、まだオープンしてなかったので、観光名所にもなっている街を見おろせる展望台に上がってみることにした。街を見おろすと、さすがに空港がある街だけあってかなり大きいことが実感できた。またマゼラン海峡の対岸の陸地もはっきりと見ることができた。

下に降りて喫茶店で朝食を食べることにした。コーヒーとウィンナーを挟んだパンを注文したが、先に運ばれてきたコーヒーを飲んでいると、店の人が何か聞いてくる。その中にマヨネーズという言葉があったようなので、多分マヨネーズをかけるかどうか聞いているんだなと思って頷くと、案の定、マヨネーズのかかったパンが運ばれてきた。これだけで千円程度だから、レストランで食べるよりも随分と安い。そのためか、店は地元の人で大賑わいだった。

帰りに大型スーパーで夕食用のウィンナーと翌日のバスの中での食料を買ってホテルに戻り、前日に近くのミニスーパーで買った日本製でないカップ麺を食べてみると結構いける味だったので、ミニスーパーが開店したら買い足すことにした。

昼前から雨が降り始めたので、外出が億劫だったが、夕方になって近くのミニスーパーにカップ麺を買いだめに出かける。結局6個を買い、前日に買った分も含めて9個をアルゼンチン用に持っていくことにした。もし南極クルーズに乗れたら、クルーズ中は豪華なバイキングなので、カップ麺を食べる機会もないだろうから、もっぱらウシュアイアとブエノスアイレス用である。 

その晩は、昨日に引き続き、パンに野菜、チーズ、ソーセージの自炊である。プンタアレナスでは、一度もレストランには行かなかったし、ツアーにも参加してないので安上がりの滞在であった。もっともウシュアイアで南極クルーズに参加することになれば、桁外れの費用になるのだけど

2月20日

いよいよ南米最南端の町ウシュアイアを目指しての旅の始まりだ。7時過ぎにターミナルで待っていると、リオグランデ(途中の乗り継ぎ地点)と書かれたバスが入ってきた。途中でマゼラン海峡はフェリーに乗り換えたり、アルゼンチン側では別の会社のバスに乗り継いだりして、乗車予定時間は11時間だが、全然長いとは思わなくなった。さらにこのバスでは珍しくフリーwifiが使えるので退屈しなくてすみそうだと思ったら、wifiが使えるのはターミナルの周辺だけでぬかよろこびであった。

ほぼ満席に近い状態だが、自分の隣は空席となっているものの、それもわずかの時間でプエルトナタレスからのバスの乗り継ぎ客が座ることになるだろうと思っていたら、案の定、ガソリンスタンドの前で停車すると、プエルトナタレスからのバスが来て、10人近くの乗り継ぎ客で満席になり、私の隣も空席ではなくなった。ここのところ、隣席は若い女性のことが多かったが、今回は見上げるような大男である。まあ、その方が気を使わなくてよいのだが

バスはマゼラン海峡沿いに走り、海峡が大西洋側ではもっとも狭くなるところでフェリーに乗り換えて対岸のフェゴ島に移ることになる。これで南米大陸ともお別れである。対岸のフェゴ島は間近に見え、大西洋から海峡に入ったマゼランが、こんなに海峡が狭くなってきたのによく前進したなと感心する。西側の太平洋に出るところでは、もっと狭くなっているところもあるが、そこまで進めば前進せざるを得ないだろうが。

バスを収容してフェリーは出発する。バスから降りて船室に行ってみたら波が荒いのに驚く。こんな荒海をよく関野さんはカヤックを漕いでいったものだと感心する。

やがてフェゴ島に上陸したバスは視界を遮るものが何もない平原の中を疾走していく。まもなくアルゼンチンとの国境に達し、まずはチリ側のイミグレで手続きを行い、税関はなにも申告するものはないので、そのまま通過する。チリは入国するときは、食品の検査が厳しく今回のように大量のカップ麺を持ち込めば即没収だが、出国の際は特に支障はないようだ。

次にアルゼンチン側の入国手続きに移るはずなのだが、バスが発車していくら行ってもイミグレが現れないので省略なのかと思った。もともとアルゼンチンは入出国に際してパスポートに判を押さないから省略でも不思議はないと思っていたところ、国境から12キロも離れたところにイミグレはあった。手続き自体は簡単に終わりバスに戻ったら、今度は荷物を持って検査を受けさせられた。麻薬犬とエックス線検査が行われたが。なんで1度で済ませられないのだろうか。それに私は車内持込の荷物を持っていくのを忘れたが、それについてはノーチェックであり、どうもザル検査のように思われる。それに何度も車の乗り降りをするのは時間の無駄であり、アルゼンチンとウルグアイの間のように同じ場所でやってもらうわけにはいかないのだろうか。

アルゼンチン側の検査が思った以上に時間がかかったこともあり、リオグランデでの乗り継ぎ時間が当初予定では30分あったものが、5分程度しかないことになり、円滑に乗り継ぎが間に合うか気がかりだが、このバスの乗り継ぎ客は相当いるだろうから、それを置いて先に出発してしまうなんてことはまずないだろと考えて安心することにした。

リオグランデの出発時間の5分前に終点の広場に着いたが、乗り継ぎバスはまだ来ていない。果たしてここで乗り継ぐのか別の場所で乗り継ぐのかもわからない。まあ他の乗り継ぎ客の動きを見るしかない。すると、マイクロバス2台が広場に入ってきたので、ここで乗り継ぎができることがわかった。

マイクロバスに乗り込みさへすれば、後は時間がたてば自然にウシュアイアに運んでくれる。カラファテからここまで何台もバスに乗り継いでやって来たが、徒歩や自転車に比べればはるかに楽ではあるものの、言葉の壁を乗り越えてなんとかここまでやって来られて、まずはホッとしている。

グーグルマップの経路で予想したバスの終点の近くの宿を予約したつもりが、急な登りを結構登らせられる羽目に。初めての土地の初日なので私としては比較的ランクの高い宿を予約したつもりだが、どうも個人経営で他の客は泊まってないみたいだ。予め近くのレストランを調べてあったので、そこに向かったが、辺りは別荘地らしく高級ムードで結構なお値段であった。まあレストランは久しぶりだし、南極クルーズのことを考えたら、これくらいでぴびってはいられない。

 

 

 

 

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2024年2月17日 (土)

チリ・パタゴニア

2月14日

一月近く滞在していたアルゼンチンに一時お別れしてチリに向かうことになる。細かいアルゼンチンペソが450ペソ(それも10ペソとか20ペソという少額紙幣が多数)あったので、これに1000ペソ紙幣を足して買えるものはないかと探したが、一番安いと思われる水の小ペットボトルでも1500ペソ(300円弱)したので、結局カードで買わざるを得なかった。まあウシュアイアまで行けばまた使えるのだけど

チリは検疫が厳しいらしく食料品、特に生ものは全て没収されるとのことなので、キャンプに持っていた残りは国境までのバスの中で食べてしまうつもりだが、日本から持参した乾燥米とスポーツドリンクがどうなるかは不明である。まあ没収されたらされたで仕方ないが

チリのプエルトナタレスまでの経路は前日のモレノ氷河付近を海沿いに行くのかと思ったら、内陸部を通って行くものであった。荒涼たる平原を進み、野生のアルパカかそれに類するものが、そこら中で草を食んでいた。

2時間ほど進んだところで停車したので国境かと思ったら、まだ大分手前でトイレ休憩だった(車内にもトイレはあるのだが)。どうも地図のGPSでの経路を見ると、プエルトナタレスまでの最短路ではなく、かなり寄り道して走っているようである。まあ急ぐ旅でもないし、ホテルのチェックインに間に合うくらいの方が都合がいいのかもしれない。

アルゼンチン側のイミグレの出国手続きは問題なく終わる。国境を越えてしばらく進むとチリ側のイミグレがあり、入国手続き自体は特に問題はなかったが、検疫が厳しいということがネットに書かれていて多少は緊張したものの、実際は大したことはなく、麻薬犬云々ということもなく、特に食料を没収されるということもなかった。手続きが緩和されたのだろうか

全員の手続きは無事終わり(私が最後だったけれど)、バスは一路プエルトナタレスに向かって進んで行く。道路脇に家がたて込んでくると、ブエルトナタレスの市街地である。バスターミナルで荷物を整理してからチリペソへの換金を行った。日本を出発する時はアルゼンチンペソの方がチリペソよりも若干高かったのだが、ここ一ヶ月の間に逆転してチリペソの方が高くなっているようだ。さすがに年率40パーセント以上物価が上がっているアルゼンチンだけのことはある。興味深かったのは、アルゼンチンペソとチリペソの売買の価格の比である。通常の場合は売買のレートの差は1割程度なのだが、アルゼンチンペソについては倍となっていた、これはインフレの激しいアルゼンチンのペソについては誰も持ちたがらないので、このような差がついたのだろう。アルゼンチンペソで支払ったウルグアイで物価がやけに高く感じたのも、アルゼンチンペソが不人気だからであろう。

予約したホテルはバスターミナルから歩いて10分ほどのところにあった。ドミトリーが4泊、キャンプが二泊と続いたので、今夜は珍しく三ツ星ホテルを選んだ。また10日近く連続で行動してきたため、明日は完全休養日とすさることにした。

プエルトナタレスは海岸沿いなので、おいしい魚が食べられると思って魚料理店に行こうと思ったが、海岸近くまで行かなければならないので、それは後日として、ホテルの近くにあった中華料理店にはいることにした。ところが、メニューが漢字表記ばかりで麻婆豆腐以外は何の料理かわからない。あてずっぽで魚へんの料理を注文したら、イカのフライだった。チリ人がよくこんなメニューで注文できるのか不思議だった。隣のテーブルの家族連れは、チャーハンとおかずを3品注文していて、入れ替わりたいぐらいだった。なお、ここもカードで支払ったのであるが、今まで使ってたカードは月の使用限度額が少額なので、上限に達する前に限度額の多いカードを使うことにしたら、こちらはタッチ認証もできてpinコード入力の手間が省けて便利であった(落としたり盗られたりした時の不正使用のリスクはあるが)。

帰りにスーバーに寄ったらカップ麺を売っていたので、思わず買ってしまったが、ホテルの部屋には湯沸かしがなく食べられなかった。翌日のホテルはワンランク下なので、多分、自炊用のな設備が共同であると思う。なお、スーバーにはレトルト食品まであった。どうもアルゼンチンよりも生活レベルが上のように感じられた。

ホテルに帰ってしばらくすると、今まで使えていたインターネットが繋がらなくなった。スマホもタブレットも繋がらないので、多分システムの故障で、明日、ルーターの再起動をしてもらえば直るかもしれない。それまではダウンロード済みのデータで過ごすしかないだろう。

2月16日

翌朝にはネットも復旧して妻ともwifiで連絡することができた。昼前にホテルを出て10分ほど歩いて今夜の泊まるホテルに向かう。ちょうどメインストリートを歩いていくことになるので、ウインドウショッピングしながら行ったが、前日までのカラファテが観光客のための街て、お店もレストラン、ツアー関係、お土産屋くらいしかなかったのに比べて、こちらは生活用品のお店がたくさんあるのが大きな違いだ。

ホテルの隣がレストランで水産物も食べられるということで早速入り、カニのサラダを食べたが、なかなか美味であった。ホテルのチェックインは3時なので、荷物だけを置かせてもらってバスターミナルまで行き、ウシュアイア直通バスの運行日を確認したが、翌日のパイネツアーの日以外はだいぶ先になってしまうようなので、直通はあきらめプエルトアナレス泊まりの二日行程にすることにした。

その後、ホテルまで戻る途中でホテルの部屋と翌日のパイネツアーでの食事の材料を買うことにした。今日一日は行動したのはバスターミナル往復くらいで、すっかり休養できたので、多分、元気は取り戻せただろう。

2月16日

本日のパイネツアーは本当は日帰りツアーでなくフィッツロイ、セロトーレと同様に個人でキャンプをして行きたかったのだが、パイネの場合は国立公園内への入場やキャンプについての許可等の手続きが面倒で、また公園までのアプローチの問題もあるのでツアー参加もやむなしと判断した。その結果、パイネのモルゲンロートは見られなくなるが、やむを得ないだろう。

7時前に集合場所に行くと参加者は女性が一人いただけなので、少人数パーティーになるのかと思いきや、先のホテルで次々と乗り込んできて、最終的には十数人の大人数となった。ただほとんどが私よりは若かったが、ある程度の年配者のようなのでまずは遅れを取ることはあるまいと安心した。

道路を北上していくと、左側にパイネ山群が見えてくるが、まだどの山がトーレスデスパイネなのかは確認てわきない。やがて道はカラファテ方面への道と別れる。3日前に国境を越えてカラファテから来た道だ。

その先でもビューポイントで何カ所か停車して撮影タイムがあり国立公園入口に到着。ここで入場料US35ドルを払うのだが、数年前から現金ではなくPayPalで事前に払うように変わって面倒になったので、ツアー申込時の説明には事前支払が必要とは書いてないことからツアーにしたという面もあったのだが、そこがいまひとつ不明確だった。

他の参加者は皆、スマホの画面を見せていたので、PayPalで支払ったのだろうか。私はそれをしてないのでどうしたものかと思ったら、奥に連れて行かれてパソコン画面に個人情報を入力してチップを缶に入れるように言われる。五ドル札があったので、これでも良いかと聞くと、良いと言われる。入場料との差額30ドルはどうなるのかと思ったが、ツアー参加者に対してはお目こぼしがあるということだろうか?それなら一ドル札を入れておけばよかったかな。

その後も景勝地を巡っては撮影休憩を繰り返したが、ここではたと気づいた。トレッキングツアーを申し込んだつもりでいたのだが、間違って観光ツアーに申し込んてしまったことを。まあアルゼンチンと違ってチリのトレッキングは日数がかかり、日帰りトレッキングではモルゲンロートが見えないだけでなく、たいして奥深く入れないようなので、観光ツアーでも良かったかなとも思えてきた。

トレッキングツアーを想定していたため行動食を用意していたが、昼食はレストランで食べるようである。私は外がで持参した行動食を食べようかなと思っていたところ、食費はツアー料金には含まれてないが、席は人数分予約してあるみたいで、レストランの係の人に半ば強制的に席まで連れて行かれてしまった。しょうがないから、一番手軽なハンバーガーを注文し、飲物は頼まず持参したコーラを飲むことにした。

食後も何カ所かで撮影タイムを取った後、一路プエルトナタレスに向かうのかと思いきや、プエルトナタレス手前の有料の天然記念物(先住民の居住跡?)の所で停車する。この入場料11USドルはツアー料金には含まれてないということは、事前の旅行社の通知に書いてあったが、これも国立公園入場料と同様に当日払いができず、事前払いした証明書をスマホ画面で呈示しなければならないことは全然知らされておらず、他の参加者がスマホを見せて進んで行くのに対して、外で待っているしかなかった。プンプン

その日の晩は、まずは初日にも来たスーバーでアルゼンチン用にカップ麺を四個買い、次にこれも初日に来た中華料理店に入り、今度は麻婆豆腐を注文する。途中で何か言ってくるのでできないというのかと思ったら、向こうも翻訳アプリを持ってきて、「肉を入れますが」だって、肉の入ってない麻婆豆腐なんてあるか?なお、先日、漢字のメニューでよくチリ人がわかるなと書きましたが、スペイン語(多分)のメニューは別にありました。私が東洋人だから漢字のメニューを渡したらしい。

明日はウシュアイア行きの直通バスはなく、かなり手前のプエルトアナレスまで行くだけで、バスの本数も多いようだから予約はせず、適当な時間に起きて出発することにした。

 

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2024年2月14日 (水)

アルゼンチン・パタゴニア

2月8日

ブエノスアイレスには随分と長くいるような気がするが4日間に過ぎないのだ。しかし、それも今日でしばらくのお別れだ。ホテルに不用な荷物を預けて空港に向かう。前日の失敗に懲りてタクシーは使わず、地下鉄で終点まで行き、そこから路線バス(コレクティーボ)に乗って空港まで行くことにする。乗車するバスの番号はグーグルマップで調べてきたのだが、地下鉄終点のバス停はたくさんありすぎて、どこから乗っていいのかわからない。そこで係の人に聞くと、だいたいの方角は教えてくれたので、そちらに向うと大きな旅行カバンを持った人がたくさんいたので、ここに違いないと確信し、次にきたバスに乗りこむ時に、運転手にも確認をとった。

これで第一関門はクリアしたものの、乗継時間が40分しかないため、果たしてスムーズに乗り継げるかという問題は依然クリアできてない。ところがもっと深刻な問題が発生した。時ならぬ雨で出発が1時間半以上遅れて、予定便よりも後の運航次第では今日中にカラファテに着けない可能性もあることである。まあ最悪の場合は空港で一夜明かしても構わないし、 カラファテに着くのが1日遅れても何の問題もおきないのであるから、なるようにしかならないという気分である。空港には日本の若者グループもいたので、なにか情報でも持っているかと思って聞いてみたが、特にはないようである。

1時間ほどのフライトでロサリオ空港に着き、さてこれからどうなるかが一勝負である。だが、私のそんな気持ちとは裏腹に、通常の乗り継ぎと同様に進行していき、乗継便が遅延便を待って出発するというだけのことのようである。まあ考えてみれば、ロサリオからカラファテまで行く乗客のほとんどはブエノスアイレスからの乗継客であり、その乗客を乗せずに空に近い形で出発してしまうという方がありえないことなのだろう。今夜の宿には特に到着時間は伝えてないので、多少遅くなっても問題はないであろう。

空港から宿まではシャトルバスを利用した。タクシーと違い料金が固定されているので安心だ。ネットでは2人以上ならタクシーの方が安いと書いてあったが、ペアで乗っているカップルも多かったのは何故だろう。空港から10分ほどのドライブでカラファテの街に近づくが、シャトルは乗客全員の宿泊先に寄っていくので、中心部に宿を取った自分と違い、周辺部で降りる乗客が多く、自分が下車したのは最後から2番目となってしまい、結構時間がかかった。ただカラファテの街をドライブしていると思えば、それも悪くはなかった。

今夜の宿はやけに安いなと思ったら6人用のドミトリーであった。ただメンドーサで泊まったドミトリーと比べると清潔感はあり、ホールなどの施設も充実しているので連泊する気にはなった。ただ到着したのが遅く、まわりにはレストランもあまりないようだったので、ビールとつまみを買ってホールで食べて夕食代わりとしてしまった。こうして、憧れだタゴニア第一日の夜は無事に終わっていった。

2月9日

朝食を食べに行ったら、同年輩の日本人二人と一緒になった。一ヶ月くらいの予定で前半は陸路をのんびり、後半はクルーズでこれまたゆったりと過ごすそうだ。彼らからみたらハードスケジュールの私とは好対照である。とまれ、日本人と久しぶりにゆっくりと話ができたのはよかった。

朝食後にフロントに延泊を申し込んだところ、空きがないと言われる。さあ、どうする。ここで発想の一大転換をし、今回一番見たかったのはフィッツロイなんだから、この際、一気にエルチャルテンまで行ってしまい、フィッツロイ近くのキャンプ場まで今日のうちに行ってしまおうと思い立った。

早速、チェックアウトの手続きをし、手持ちが少なくなってきたペソを100ドル分だけ両替してバスターミナルに向かうが、宿でターミナルまでの経路をグーグルマップに徒歩モードで表示したものは、オフライン地図になると消えてしまって方向を見失ったので、細い道を無理矢理東に進んでいく。すると、たくさんの犬が出てきて吠えられてしまう。みな飼い犬で野犬ではないだろうが、こちらは放し飼いが多いようだ。出発前に狂犬病の予防注射をしていったからいいようなもの、そうでなかったら、ちょっと心配になるところであった。

途中、キャンプ場の横を通ったが、ここならばバスターミナルにも近く、中心部にもそう遠くはないので、エルチャルテンから戻ったら、ここにテントを張ろうと思った。

バスターミナルには10時半過ぎに着き、早速、切符を買うことにした。往復で買うと割引があるらしいが、帰りの予定は不透明なので片道だけ買う。11時の切符が買えたので大して待たずに乗ることができた。私の席がある二階は半分以下の乗客しか乗っていないがら空き状態だった。

バスはいよいよパタゴニアの荒涼たる平原を進んでいく。とうとうここまで来たんだなあという感を深くする。やがて、遠くの白く輝く峰々の右端に憧れのフィッツロイが見えてきた。今回の旅で一番見たかったシーンである。

wifiの使えるレストランに入って家にlineで連絡を入れる(と言っても日本は深夜だが)。牛肉のサンドイッチを食べてから出発の準備に入る。本当はもう少しボリュームのあるものを食べたかったけど、こんなものしかない店だった。

日本からはフリーズドライ食品を持ってきているが、それだけでは足りないのでスーパーで食料品を買い足す。日本のようにカップめんとかレトルト食品が売ってないので、買えるものには限りがある。

次にガスコンロの燃料カートリッジ(飛行機には積み込めないため持参せず)を買おうとして3軒目の登山用品店でようやく見つけるが、日本では見かけないメーカーのもので、持参したバーナーのノズルと互換性があるかどうかが不明である。また小型のカートリッジはなく中型しかないので、仮に互換性に問題がなくてもお湯を沸かすだけでは大半を余らすことになるうえ(飛行機には積み込めないため持ち帰れない)、値段が日本の倍近くするようなので、お買上にはならず地図だけを買うことにした。なおフリーズドライ食品は時間はかかるが、水だけでも食べられるので、まあなんとかはなる。

最近はGPSに頼り切りで地図の読図力が落ちているのか、最初は自分がどちらの方向に向かっているのかわからなかったが、やかてセロトーレ方面に進んでいることがわかった。最初はフィッツロイ方面に行くつもりだったが、時間的なことを考えると最初はセロトーレで正解だったようである。出発が4時であったにもかかわらず、次から次へと上から人が下りてくる。9時頃まで明るいから不思議ではないのだが

だらだらした登り下りが続き、なかなか目的地に着かなかったが、8時過ぎにようやくセロトーレの展望台ともいえるキャンプ場に着いた。ここは無人のキャンプ場なので。当然料金はいらない。そのせいもあるのか数十張りのテントが張ってあった。さすがに私のようにストックを支柱代わりにしたテントはなかったが、雨さえ降らなければ、それほど居住性が悪いわけではない。ビールを飲んで食事を済ませれば何もやることもないので、明朝のセロトーレのモルゲンロート(ドイツ語で、山が朝日で染まること)を期待して寝るだけである。

2月10日

期待どおりの快晴でセロトーレのモルゲンロートがバッチリ撮影できた。撮影後はすぐに出発してもよいのだが、今日の行程は短いので外が暖かくなるまで待ってから行動を開始する。最初は昨日来た道を行くつもりだったが、ちょっと北の方に行き過ぎたことに気がついたので、北回りの道経由で引き返すことにした。

本来の北回りの道は湖の畔を通って行くのだが、そのためにはちょっとした丘を越えて行かなければならないので、ショートカットして直進したのだが、あまり良い道ではなく果たして短縮できたのかどうかは不明である。ともかく湖の方から続くと思われる道とは合流でき、しばらく進むと前日の道とも合流できた。

前日の道はセロトーレに向かう人で朝早くから大賑わいであった。ところが、途中でフィッツロイのビューポイントに進む道に進路を変えると途端に人の数が少なくなった。セロトーレとフィッツロイのビューポイントは別々に行く人が多く、2つを繋ぐ人は少ないからだろう。だが、この道は前半は草原、後半は湖と絶景を辿る素晴らしい道であった。

4時前にはフィッツロイのビューポイントであるキャンプ場に着いた。前日歩き始めた時間よりも早く、まだ太陽は高かったが、これ以上進む所もないので、早めの夕食をとった(と言っても水で戻したパスタだけだが)。当地でも350mlのビール瓶があれば今夜の分も持ってきたのであるが、さすがに500ml2缶は重かったので今夜は久々の休肝日となってしまった。やることもないので明日もモルゲンロートが見られることを期待して早めに寝ることにした。

2月11日

夜半から強風が吹き荒れていて心配した通り、朝方は小雨が降っていて手前の山は見えるが、フィッツロイは全く見えない。出発の準備をして早々に下山する。天気が良ければモルゲンロートを見に来る人で賑わうのだろうが、今朝はそれほどでもないので、煩わしさが少なくて助かる。それでも天気が回復傾向にあるためか、下るにつれて登ってくる人が増えてくる。

ゆっくり下っても四時間ほどで街に下りられる。途中で菓子を食べたため、腹は空いてなかったので、初日にも入った喫茶店でビールを飲んで休肝日を打ち切る。その後、予約してあるドミトリーに荷物を置いてからターミナルに行き、明日のカラファテ行きの切符を買う。一日3便あるとのことなので、一番早い8時の便にする。

その後、ドミトリーに戻ると、4人の定員のところ、カップル二人が同部屋で二人でいちゃいちゃしているのにはまいった。早々に街に出て、ぶらついたりして、ほどよい時間になったので、レストランに入り、ハーフサイズのピザと赤ワインのグラスを注文する。ベエノスアイレスを出てから、初めてまともな食事をした気がする。明日は麓からもフィッツロイのモルゲンロートが見られることを期待して、今夜はNHKプラスでも見ながら夜をすごそう(と思ったが、ネットの電波状態が悪くみられなかった)

2月12日

暗いうちから起き出して通りに出て、フィッツロイのモルゲンロートを待つ。東の空が明るくなってくるとともにフィッツロイにも赤みが差してきたが、その後に東の空に雲がかかってきたため、フィッツロイの赤みも消えて今日はこれまてと思って帰りかけたが、せっかくだからもう少し粘ろうと思い直したところ、フィッツロイに再び赤みが戻り、先ほどよりもモルゲンロートらしくなってきて、写真もほぼ満足できるものが撮れたので宿に戻る。

荷物をまとめてバスターミナルに向かう。カラファテ行きのバスはほぼ満員に近かったが、2階の後部座席だけは空席となっていたので、ゆったりと座れてラッキーだった。足かけ4日間の滞在であったエルチャルテンにもお別れである。車窓から遠ざかっていくフィッツロイに別れを告げてカラファテに向かった。

カラファテのターミナルではまず、明後日に向かうチリのプエルトナタレス行きの切符を買い、次に翌日のモレノ氷河への往復切符を買う。ターミナルからカラファテ初日にも泊まったドミトリーまでは30分強の歩きであるが、今回は街に下っていくのでよいのだが、ターミナルに向かう時は坂道を登っていくので少々きつい。後、登り二回、下り一回はしなくていけないことになる。なお当初はカラファテでキャンプするつもりだったが、ドミトリーに空きがあったので予定を変更した。

ドミトリーの近くにガイドブックおすすめのレストランがあるとのことで探して見たが見当たらなかった。ガイドブックはコロナ流行直前にパタゴニアに行こうと思って買ったものの、コロナ流行で今回まで出発が延びたものだが、日本でも流行中に多くの飲食店が廃業を余儀なくされたように、その店も廃業してしまったのかもしれない。

しょうがないので、店の前に写真が張りだしてある所があり、その中にスパゲッティ風のものがあったので、それに誘われて中に入りメニューを見たら、その料理が見つからない。しょうがないので、パスタの中から適当に選んだら、今回もまたスパゲッティを食べ損ねてしまった。

食後にホテルに行きチェックインをしていると、声をかけられたので振り返ると、私と同年輩の日本人男性でひと月ほど前から南米を放浪しているそうた。しばらく話をした後、夕食を一緒にすることを約束して別れて部屋に戻った。

8時過ぎに日本人男性と再び落ち合って夕食に出かける。昼食べた所と同じ店に行き、ビフテキ風の料理を食べる。こんなにボリュームのある料理は久しぶりである。海外旅行談義は食後も続き、エンドレスになりかねなかったが、明日のこともあるので10時前には店を後にする。宿に戻る途中、音楽が聞こえてきたので寄り道をすると、民族舞踊をやっていたので、しばらく観てから宿に戻った。

2月13日

昨日、会った日本人男性とは朝食会場でまた会いましょうと言ったものの、食後もしばらく待ったが姿を現さずバス発車時間も迫ってきたので挨拶もせずに別れることとなった。旅の出会いと別れは常にあるものなんだけど

バスターミナルまで歩いてモレノ氷河行きのバスに乗る。1時間近く走った所で止まり、入場料約二千円を現金で支払う。そこから少し進んだ所でバスは停まり、連絡バスに乗り換えて展望台の上に着く。

展望台からは遊歩道が下っており氷河の全容が眺められる。氷河の上には薄いながらも虹もかかっており、絶景ムードを高めている。最初は氷河の末端の崩壊は頻繁にあるのかと思ったら、1時間近く近く待っても全く崩壊はなく、時折、崩壊らしき音は聞こえても、遊歩道からは見えない裏側の方ばかりであった。七千円ほどでボートに乗って下から氷河を眺めるオプションもあったが、氷河に近づき過ぎると崩壊した時に被害受ける恐れがあるためか、氷河から随分と遠い所までしか行かず、これなら遊歩道から見るのと大差ないように思われた。また氷河歩きのオプションもあるらしいが、いやというほど氷河は歩いた経験はあるので、今更というものであった。

帰りのバス発車まで四時間ほどの滞在時間があるが、2時間もしないうちに飽きてしまい、休憩所で休んで時間を潰すことになった。展望台にはレストランというほどではないが、軽食程度は出す所と売店はあったが、山の食料の残りがあり、翌日の国境越えに際しては、チリ側の検査が厳しく食料品は没収される可能性が高いので、極力残りものを消費するようにしたため、なにも買うことがなかった。

最後にまだ30分ほど時間があったので、先程は通ってなかった下側の遊歩道から氷河への接近をしてみた。こちらの方から崩壊の音が聞こえた気がしたのだが、特に崩壊の跡はみられなかったので、先ほどの崩壊の音は別の所でしたのだろう。先端近くまで行ってしばらく滞在してみたが、結経、崩壊は見ることはできなかったので、諦めてバス停に戻る。するとバス停の手前で昨日の日本人男性とバッタリ会う。午後のバスで来たようだが、バスの出発時間が迫っていたので、挨拶だけして別れる。でも最後に挨拶だけでもできてよかった。

これでアルゼンチン・パタゴニアの行程は全て終わり、次はチリ・パタゴニアとなるため、明日はバスで国境を越えてチリに入る予定である。

 

 

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2024年2月 8日 (木)

ブエノスアイレス

2月4日

帰りのバスも次第に混んできて隣の席には又もや若い女性が座り、夕方にその女性が降りると入れ替わりに別の若い女性が座って翌朝まで隣合わせだった。日本ではまずないことだが、言葉が通じないのは残念なことである。おそらく私はトイレに行きやすい前方の通路側に座席を取るのに対して、女性は防犯上前方の席を希望し、たまたま空いている窓側を希望してそうなったものと考えられるのである。

 

2月5日

まずまず眠れて翌朝ほぼ定刻どおりの9時過ぎにブエノスアイレスのバスターミナルに着く。そこからホテルに向かうために地下鉄に乗り換えるのだが、日本のように地下鉄乗換の表示はない。Googleマップで見当をつけて、大きい荷物はターミナルにおいたまま偵察に行く。盗まれはしないかという心配もないわけではないが、仮に持っていかれても今後の行動に著しい支障はないし、むしろ身軽になって行動が楽になるくらいの気分である。しばらく進んで、このまま行けば地下鉄まで行けることを確信してターミナルに戻ると荷物は「残念ながら」無事であった。

地下鉄や近郊バスは現金では乗れず交通カードが必要になるので、まずは交通カードを買って一定額をチャージするシステムである。アルゼンチンの地下鉄は日本最古の地下鉄である銀座線が開業する時にモデルにしたと言われるほどの古い地下鉄である。もっともアルゼンチンではブエノスアイレス以外では、まだ地下鉄はないそうである。なお、アルゼンチンでは車は右側通行だが、地下鉄はどういうわけか左側通行である(路線バスも専用レーンでは左側通行のの所があった)。

最寄り駅で降りてホテルに向かうが、グーグルマップに保存しておいた場所を間違っていたらしく、該当するホテルが見当たらない。予約確認のメール自体はダウンロードしてあったのだが、そこから所在地に辿り着くにはネット環境がないとどうにもならない。たまたま通りかかった喫茶店にWiFiのマークがあったので中に入り、インターネットにアクセスして正しい所在地を確認する。だいぶ行き過ぎてしまったようなので、正しい所在地と思われる地点まで戻る。

ところが、正しい所在地と思われる地点まで戻っても、ホテルの看板は見当たらない。その付近で人が入れそうなのは肉屋だけだったので、出てきた客に聞いてみるがホテルのことはわからないようである。あたりをウロウロしていると肉屋の隣がどうも怪しい。建物の外観がグーグルマップの写真とも一致する。間違いないと確信してブザーを押す。ホテルの人が出て来てチェックインがようやくできた。

一休みしてから早速、昼飯に出かける。ホテルの近くに和食屋があるのだ。日本円で三千円弱とちょっと高めだが、幕の内を注文する。おかずは刺し身と天ぷらに焼き魚と大和煮で、これにご飯と味噌汁が付いている。天ぷらは今ひとつだったが、あとはまあまあであった。カツ丼とか寿司もあったので、今度はそちらを食べてみよう。

夕方に明日出かけるウルガイへ出港する港まで予行演習で行ってみる。こちらも、予約したホテルが偶然最短距離のホテルであった。切符を買うのに随分と時間がかかったので、今日のうちに買っておいてよかった。ところが、帰ってからネットで見ると、私が払った往復のフェリー料金よりも安い料金の日帰りツアーの募集があってショックだった。多分早売りの切符を使っているもので、安い料金分は売り切れとなっているのかもしれない。いや間違いない、そうに違いないと思うことにしよう。

2月6日

前夜は早く寝たので5時前に目が覚め6時過ぎにホテルを出る。前日に下見してあるので港まで迷うことはなかったが、一本道ではないので初めてだと苦労したかもしれない。切符を買った時に7時までに来るように言われてギリギリで間に合ったが、チェックイン受付の前は長蛇の列である。もしかしたら7時からチェックインが始まったのかもしれない。切符売り場はまだ無人となっていて、前日に切符を買っていなかったらどうなったのだろうか?

フェリーで1時間ほどの距離だが、一応国境越えにはなるのでイミグレでの手続きが必要になる。ユーロ圏内は別として、空路以外の国境越えはそれなりにたいへんなものだが、今回は極めて簡単だ。アルゼンチンの出国窓口の後側にウルグァイの入国窓口があり、いずれもフリーパス同然である。船室内は8割方が埋まっている状態であり、まだ空席はあるようなのでギリギリに来ても乗船できたのかもしれない(ヒヤヒヤするかもしれないが)

ウルグァイのコロニアに着いても予備知識がないので、他の乗客の後を着いて行く。ツアー客はガイドの説明のたびに立ち止まって聞いているが、聞いてもなんのことかわからないので先に進む。岬の先端の方に灯台が見えてきたので、ネットの情報では登れるように書いてあったが、違う灯台があるのか知らないが、この灯台は登れないようだし誰も登ってなかった。

セントロの方に出ると古い街並みがあったので、ここが世界遺産なのだろうとは思うが、ポルトガルとスペインの両方の統治の特徴が見られるという所は全くわからなかった(猫に小判である)。坂を登っていくと、観光客向けのレストラン街となる。そのうちの一軒で食事をしたが、ウルグァイの通貨を両替しなかったので、クレジットカードの使える店を探しだすのに結構たいへんだった(アルゼンチンペソやUSドルも大概の店では使えるらしいが)。

港に戻っても予約してある最終便までは7時間もあるので、出港の早いフェリーに変更できないか窓口で聞いてみたがダメだと言われる。港の待合室でもネットに繋がるし、ホテルで休んでも待合室で休んでも同じようなものなので仕方ないか。ここで考えが変わって午前中には行かなかったセントロから北の海岸線を歩いてみると、なにか新しい発見があるのではと考え出かけてみることにした。

結局、格別目新しい発見があったわけではないが、静かな海岸線を散歩するのは気持ちよかったし、行きに海岸線にある食堂が出している縁台でビールを飲んでいる人が羨ましかったので、帰りにアルゼンチンペソが使えるかと聞いて使えるとの返事だったのでビールを注文してしまったが、至福の時間であった。

セントロに戻った時点ではまだ食慾がなかったので、港で食べようと思ってスーパーで飲食物を買うことにした、入口にはVISAのマークが表示されているのに、何らかの理由でキャッシュでしか払えないという。咄嗟にアルゼンチンペソで払えるかと聞いてしまい、払えるという返事だったので払ってしまった。だが、さきほどのビールと言い明らかに割高な値段である。そういえば、ネットの情報では、定期的にアルゼンチンからウルグァイに渡って為替で儲けているという投稿を見たことがある。詳細は不明であるが、どうも両国の為替関係はいびつで、そのことが、ウルグァイ国内でアルゼンチン通貨を不当に低く評価することに繋がっていらのかもしれない。まあ一回きりのことだからいいんだけど・・・

港に戻る直前にまさに風雲急を告げるという空模様となり、港の建物に辿り着く前に土砂降りに会うのは避けられないかと思ったがなんとか無事に帰り着いてヤレヤレと思ったら、風もやんで天気もそれ以上悪くてなることはなかった。一体あの風は何だったんだろう。

港まで着ければ後は時間さへたてばフェリーで帰れるはずだ。だが、そうは問屋が卸さない。イミグレの手続きが終わり、待合室でしばらく待ったあとに乗客が動き出したので、それに付いていき乗船手前の所まできたが、そこで搭乗券のチェックをしている。行きの時は、そんなことはしてなかったのになあと思い券を見せると、乗船を制止されなんとかかんとか言われて向こうに行けと言われる。一瞬、なにか必要な手続きをしてなかったのかなあと思いながら、言われた方向に向かうと別の列があり、その先には私が乗船予定のフェリーの船名が書いてある船体が見える。同じ時間帯に二隻が出航するという紛らわしいことをしていたのだ。そういえば、行列に並ぶ時に最後尾から並ばず途中から並ぶというズルをしたが、最後尾に並んでいれば行き先のチェックを受けたのかもしれない。とまれ、これで予定通りにブエノスアイレスくらうに戻れることになって、まずは一件落着である。

2月7日

今日は翌日のパタゴニア行きを前にして確認しておきたいことがあるので空港に行くことにした。地下鉄で行けるのかと思ってたら、バスに乗り換えないことがわかり、面倒なのでタクシーで行くことにした。今までタクシーには良心的な運転手にばかりあたっており、今回は街なかの流しのタクシーでありメーターもつけていたのでぼられることもあるまいと、事前の料金交渉なしに乗ってしまった。

さほど時間がたたないうちに空港に着いたが、請求金額を見て飛び上がりそうになった。なんと7千円以上である。先日、空港を越えた先にあるターミナルまで倍以上の距離があるにもかかわらず四千円くらいで行ったにもかかわらずである。そのことも翻訳アプリで表示してみせ、四千円を渡してこれ以上、払わないという態度を示した。一方、運転手もノーノーといって負けない姿勢である。5分くらい膠着状態が続いたが、私がもう千円払うということを提案してようやく決着した。

本題の空港での用件とは、明日のパタゴニア方面のフライトは途中の乗継空港での乗継時間が40分しかないが、もし乗継空港で自分で預け荷物の積み替えをするとなるととても間に合わないので、機内持込み(8kg)だけで済むように計画を組み直さなければならないからである。係員に確認したところでは、積み替えは会社の方だけでやるということでひと安心したが、まだ完全に安心できないので預け荷物が届かないことも想定した計画で臨むことにした。

帰りはまたタクシーに乗ることは考えられないので、バスで帰ることにした。バス停は空港からは少し離れた所にあり、グーグルマップでの表示よりも空港寄りであった。行きのタクシーよりも恐らく100分の1ほどの料金で帰ることができた。ホテルに帰る途中で先日の和食店でカツ丼を食べる。少し味が濃かったが、まあ美味かった。

ホテルに戻ってひと眠りしてから、明日からのパタゴニア行きに必要な物品を買いに商店街に行き、帰りにまた同じ和食店で今度はラーメンを食べる。明日から一ヶ月くらいは現地食しか食べられなので、いわば食いだめである。

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2024年2月 4日 (日)

イグアスの滝

1月31日

私一人だけ乗車して出発したと思ったら、すぐ近くのターミナルから次々と乗客が乗り込んできて、ほぼ満席となった。私の隣は若い女性だったが、もちろん言葉が通じないのでお近づきにはなれなかった。今日は二階席なので前方の展望が良く効いて退屈しのぎにはなった。昨日と比べると途中に大した町はないのか途中停車することもほとんどなく、夜9時を回った頃にようやく飲食物が買えそうな所で停車したので車外に出てみた。きっと昨日のように30分くらいは停車するのだろうと思って発車時間を確認しようと思っていたら、5分程度しか経っていないのに、もう車内に戻るように促されて飲食物を買いそこねてしまった。20時間近くの乗車時間があるのだから、10分20分停車時間が伸びたからといって大勢に影響はないだろうにと思われるのに、一体何を考えているのだろう(実際、翌朝の終点前のターミナルでは時間調整の停車を長時間していたというのに)。もっとも私は昼にしっかり食べてきたので、夜は抜いても支障は感じなかった。こちらに来て以来、タンパク質は肉ばかり食べているが、イグアスの滝近くでは川魚が食べられるそうなので、明日はそれを期待して今夜の夕食は我慢することとしよう。

2月1日

(ほぼ定刻どおりの9時半にイグアスのバスターミナルに到着。昨日の昼から何も食べてないが、その割には腹は減ってない。ホテルに直行してもすぐにはチェックインできないだろうからターミナルで食事をしながら情報収集でもして時間を潰すことにする。

ホテルの場所がわからなかったので、遠かったらタクシーをぼられても仕方ないと思っていたが、至近距離で日本円で六百円程度であった。ホテルは古いけれども清潔でお湯も出るし、ネットも弱いながらも通じていて朝食付きで六千円以下と安いので、宿泊を3泊に延長することにした。

今日中に滝に行くつもりだったが、オフライン地図をダウンロードし忘れたので道に迷ってしまい、イグアスの町を右往左往するだけで1日が終わってしまった。

2月2日

今日はいよいよハイライトのアルゼンチン側の滝見物である。まずは公園入口にまで路線バスで移動するが、ツアーバスもあるので、間違ってそちらに乗ろうとして係員に制止される。公園に着いてチケットを買って入ると、奥まで行くには鉄道と徒歩に分かれる。鉄道にも興味が湧いたが、実物を見てみると遊園地の汽車のようなものだったので、歩いていくことにした。

ひとつひとつの滝のスケールはナイアガラに劣るが、屏風のように続く滝の落口近くを次々と渡っていく遊歩道を進んでいくのはイグアスの滝ならではのものである。悪魔ののど笛とあわれるあたりで滝の列は終わり、引き返すことになる。昨日も道に迷いさへしなければ時間的には十分行ってこれたと思うが、そうなると1日が丸々余ってしまうので、日程的にはよかったかもしれない。

2月3日散

今日はブラジル側の滝を目指したが、トラブル続きであった。まずは昨日と同じ場所に切符を買いに行ったが、ブラジル行きと書いてあるにもかかわらず、ここじゃないと言われる。やむをえずバス乗場の前にある切符売り場の方に行くと、フォㇲ・デ・イグアス行きと言っているにもかかわらず、何という都市かと何度も聞かれる。押し問答を繰り返してなんとか切符は買えたが、その切符を持ってフォㇲ・デ・イグアス行きと書かれたバスに乗り込もうとすると係員に阻止される。何でと思いながらも次のバスを待っていると、30分後に隣の番線に入ってきたバスに乗れることになり、一件落着かと思った。

アルゼンチンの出国手続きは問題なく終わり、再びバスに乗って国境の橋を渡りブラジルの入国手続きとなる。手続き自体は問題なく終わったが、戻ってみるとバスが見当たらない。なんてこった。私一人かと思ったら、取り残された外国人が何人もバス停で待っている。次に来たバスに乗ろうとしたら、待っている外国人からそれはパラグアイ行きだからだめたと言われ、だいぶ経ってからきたバスに乗ろうとしたら、それはブラジル側の滝べ直行するバスだから、私の切符では乗れないと言われる。当初の予定ではブラジル側の滝の後にパラグアイまで足を延ばすつもりだったので、滝への直通切符は買わなかったのだが、私の場合は最初に来たパラグアイ行きに乗ればよかったように思われる。地球の歩き方にはアルゼンチン側からブラジル側の滝への直通バスがあるようには書いてなかったので、事情が飲み込めなかったのである。

しばらくして来たバスに外人は乗り込んで一難去ってと、その時は思ったのだが、終点に着いて外人の後を着いていこうと思ったら、外人が二手に別れてしまったのである。どちらについきていこうか迷っているうちに、どちらも見失ってしまった。しょうがないから腹ごしらえをしようとグーグルマップで検索すると、近くに中華料理店を見つけたので喜んで出かけた。店内に入って、まずはカードが使えるか聞いてみると使えないらしい。 次にアルゼンチンペソが使えるか聞いてみると、これもだめらしい。国境近くの街だから隣の国の通貨くらい使えるだろうと思ったのだが、考えが甘かった。、弱ったなと思ったらUSドルなら使えという。10ドル札は持っていたのでなんとか食事にありつけることができた。半月ぶりの東洋食で満足した。

食事しながら考えたのは、運よく滝行きのバス停を見つけたとしても、ブラジル通貨を持っていないと切符を買えない可能性が高いことである(アルゼンチン側から直通切符を買っていれば別だが)。今回はいろいろとトラブルが多かったので、こういうときは無理をすると碌なことはないと考え、ブラジルの街歩きをできたことと中華料理を食べられたことを成果として大人しく引き下がることにした。

そうは言っても、まずはアルゼンチン側に戻るバス停を見つけなければならない。バスターミナルの中をあちこち捜しても、それらしい行き先表示が見当たらない。係員らしい人がいたので聞いてみると、このターミナルの向こうだという。それで行ってみると、たしかにインターナショナル云々と書いてあるので、しばらく待っているとアルゼンチン行きのバスがやってきた。今回もブラジルイミグレの所では、乗ってきたバスが待ってくれないというハプニングがあったが、朝のことがあったので、さほど慌てることはなかった、

バスはターミナルまで行くのかと思ったら、中心街で打ち切りとなってしまったので、柄にもなくウィンドウショッピングの真似をしながら宿の方に向かった。これでイグアスの旅もおわりである。明日はブエノスアイレスまでの20時間の長いバス旅がまた始まる。

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メンドーサからブエノスアイレスまでの移動

1月30日

今日から明日にかけてはメンドーサからブエノスアイレスまでの長いバス旅である。メンドーサ州はアコンカグアも含むはずなので、随分と長く滞在したことになるが、とうとう離れることになった。

当初はアコンカグアが終わってから、まずはブエノスアイレスに移動し、その後にパタゴニア方面に行くつもりだったが、早めに下山してしまって日程が余ってしまったので、イグアスの滝見物を前倒しすることにした。そのため、以前に予約していたメンドーサからブエノスアイレスまでのフライトが日程変更可能となっていたので変更しようとしたら、手数料が当初支払った金額の倍以上かかることがわかり、この先予定しているアメリカ横断やチリ・ボリビア縦断バス旅行の予行演習を兼ねてバスを利用することにした。

バスターミナルがホテルから比較的近く、出発時間も午後からと遅かったので、チェックアウトを済ませてからも比較的余裕を持ってバスターミナルに向かうことにした。ただ日本のようにターミナル内に案内表示がたくさんあるわけではないので、目的のバスがどこから出発するのか、わかりにくかった。そこで、係の人に予約したスマホ画面を見せて紙に書いてもらって出発ゲートを知ることができた。

また予約画面の下の方を読むと、預け荷物は1つのみと書いてあることに気づいたので、2つの荷物を結束バンドで繋いで無理矢理1つにして預けることにした。飛行機だったら、機内に運ぶ途中で分解しかねないが、バスはその場で積み込むので、その心配はない。ただ係の人に荷物を預けた時にスペイン語で何か言われてわからなかったが、受付シールを貼る必要があるのだろうと思い、スマホを出したら裏にシールを貼って荷物を車内に運んでくれた。また車内に乗り込む時にも係の人に何か言われて、多分座席のことだろうと思って紙に書いてもらったものを車内に入ってからタブレットの翻訳アプリで読んでみると、「シートNO?」とある。たしかに予約時に座席は指定したはずだが、車内はがら空きだったので、どこに座ってもいいよということらしいのであった。

しばらくして運転手二人が乗り込みドアは閉まって、約18時間にも及ぶブエノスアイレスまでの長距離バス旅行が始まる。エアコンは効いていてトイレも完備し(飛行機と比べてドアの開閉やカキの閉め方が分かり難いが)、がら空きの車内はリモコンを倒せばホテルのようなものだが、残念なのはwifiが通じてないこととバッテリーチャージができないことであった。ただ今回のように山と兼ねた旅行の場合はモバイルバッテリーをたくさん持参してきているし、ネットに繋がらないのは山でも慣れているので、それほど苦にはならない。また車内灯のつけ方もよくわからなかったが、ヘッドランブと予備バッテリーもあるので、持参してきているグレイトジャーニーを読み直していれば退屈することもない。ただトイレが完備している代わりにトイレ休憩を利用して飲食物を買ったりすることは難しく、事前に準備しておかなければならないようだ。この先、夕食がどうなるかが差し当たり心配ではあるが

途中、数時間おきにターミナルで停まるが、その時に飲食物を買いに行けるかどうかが問題である。各ターミナルでは10分ほどは停車しているようなので、ダッシュすれば軽食程度は買えそうだが、日本のように人数確認はしていないので、乗り過ごしたらそれまでである。

実際に次のターミナルで試してみたが、その時は5分くらいしか停車せず、私がバスに戻るや否やドアが閉まって発車し、危ないところであった。もっとも運転手席からは売店が見えていて、私が戻ったのを確認して発車したのかもしれないが・・・。ネパールの長距離バスには何度も乗ったが、その際は食事時間中は30分近くは停車していたので、乗客はほとんど下車して食事していた記憶がある(もっともその際も置いていかれるのではないかとハラハラしながら食事をしていたが)。こちらの人はヨーロッパの影響でやはり肉食人種で食いだめができるため、一食くらい抜いても平気なのだろうか

と思ったら、次のターミナルでは乗務員は二人ともバスを降りてしまい、乗客もほぼ全員パスを降りて売店に向かったので、私もまた買い物に出かけた。売店は今までのターミナルよりも商品の数が多くていろいろ買えたし、なによりも近くの席のおばさんがレジで私の後ろに並んでいたので、安心して買い物ができた。もっとも、売店では軽食も注文てきたようだが、さすがにそこまでする余裕はなかった。

快適なリクライニングシートのおかげですぐに眠りに入る。夜中に1回トイレに行った以外は熟睡できた。五時過ぎに目が覚め、終点のブエノスアイレス到着まではまだ2時間ちょっとあって一眠りできる時間ではあるが、そろそろ東の空が白じんでくる時間であり、東に向かって行く旅のハイライトでもあるので、起きていることにした。

やがてバスはブエノスアイレスのバスターミナルに到着する。メンドーサよりもだいぶ大きなターミナルで店の数も多い。昨日からずっとサンドイッチか菓子しか食べてなかったが、ようやく多少はましなものが食べられた。と言ってもハムとチーズをクロワッサンで挟んだシンプルなものだが。ここは中心街からはさほど遠くはないようだが、まわりにお店はないようなので、ターミナル内で六時間ほどイグアス行きのバスを待つほかはない。南米のパリと言われるブエノスアイレスはイグアスの帰りに数日は滞在する予定なので、その時に観光すればよいだろう。

実はブエノスアイレスの到着ターミナルと出発ターミナルは異なっていることは前から認識していたのだが、乗り継ぎに六時間以上あることから、のんびりとブログを書いたり、本を読んだてのんびりとしていた。しかし、ターミナルは早めに移動しておいた方がいいだろうと考え直して、係の人に聞くと、どうもタクシーで行かなければ行けない距離らしいので、ターミナルの出口に停まっているタクシーを掴まえる。目的地を告げて料金を聞くと、二万五千ベソだと言う。高いのか安いのがわからなかったが、お得意のムーチョカーロ(とても高いと言うこと)と言うと、二万ペソ(四千円弱)に下げてくれた。実際は1時間以上かかったので、決してぼられたわけではないと思う。

 

途中、ガス欠となってスタンドで降ろされた時は、ここで打ち切りになるのか、ガソリン代を払わされるのではと思ったが、そのようなこともなく無事目的地に着く。先ほどのターミナルに比べて建物は新しいが、内部はほとんど人がおらず閑散としている。本当にここで良いのが心配になってきたが、入口の案内所で予約票を見せて確認すると間違いないようなので一安心する。きっと先ほどのターミナルは海にも近く、ブラジルやパラグアイとの行き交いに利用する人も多いが、こちらは少し内陸にあるため、奥地との行き来はそう多くはないからなのだろう。イグアスの滝は南米随一の観光名所ではあるが、観光客はほとんど飛行機で往復するであろうし、20時間近くかけてバスに揺られていく人はいないからだろうか。そうこうするうちにバスが来たら、なんと乗客は私一人で発車することになった。前回以上の珍道中になるのだろうか。

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アコンカグアとの別れ

1月29日

 

いよいよアコンカグアと別れる日が来た。今回はアコンカグアは通過点のひとつとして来たにすぎないので、それほど残念という気持はない。それよりも、次の目的に向けての期待の方が大きい

 

ガイドの見送りを受けてヘリポートに向かう。出発時間は8時半と聞いていたのに、次々と他の客に抜かされて私がヘリに乗れたのは9時半になっていた。別に他の客がインチキをしているわけではなく正確な情報が伝わっていなかっただけかもしれないが

やがて自分の順番が来てヘリに乗り込むと、二日間かけて歩いて来た所をヘリはあっという間に通りすぎてしまい駐車場に降り立つ。たった七分間のフライトであるが、冬の気候から初夏の気候への様変わりである。

ヘリの着陸場から行きにも泊まったペニテンテスのテルまでの短い距離を多分ヘリ会社の車で移動し、そこでヘリの支払と出発時に預けた荷物の回収を終えたのが昼前で、午後過ぎのバスに乗ってメンドーサに比較的早い時間につけるはずだった。

 

バス停にはなにも目印となるものがなく、数人の旅行者が荷物を持っていたことと、旅行社の人がメンドーサまで同乗してくれることになっていたから問題はなかったが、そうでもなければ、乗車するにも苦労するところであった。

 

ところが発車の時間を過ぎても一向にバスが現れない。すると待ち続けている人の中から、バスが事故を起こして遅れるとの情報がもたらされた。そのうち何人かはわからないが知り合い思われる人の車に拾われたが、後の人はそのまま待ち続けているので、まだバスが遅れても来るのだろうと待ち続けた。

 

やがて四時間ちょっと待ったところで、待望のバスが現れた。ところが、最初に着いたバスの運転手は後ろのバスに乗れという。多分事故運休となっために増発した方に誘導したものと思われるが、こんなに遅れても減便してないのは内外を通じて初めてである。

 

メンドーサにエージェントが予約してくれたホテルは悪くはないが、値段の割にはシャワーのお湯が出ないなどサービスが今ひとつだった。またホテルの近くにはめぼしいレストランがなく、久々の下界の食事がハンバーガーというのも寂しいものだった。

 

 

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登山活動

1月27日

今日はベースキャンプ近くの5千メートル峰に登るのがスケジュールとなっているが、体力低下の自分にはとても無理と思われたものの、行ける所まで付いていこうと思った。ところが、ベースキャンプを出てすぐに皆に引き離されてしまう。ガイドからは、明日の行動にも差し支えるから、このあたりで引き返そうと言われ、やむを得す従うことに。

 

ベースキャンプに戻ってから考えた結果、このままベースキャンプに滞在しても、上部キャンプまで装備や食料を自力で担ぎ上げられない以上は、ベースキャンプで皆が戻るまで何日も待つのは、あまりにも無駄であると判断して、明日、皆がキャンプ1まで荷物を担ぎ上げるのに同行し(もちろん自分は荷揚げはしないが)、行ける所まで登ってベースキャンプに戻り、翌日ヘリコプターで麓まで戻ることにした。

 

余計な出費とはなるが、これが最善の策だと思われ、早めに下山して余裕ができた日程は、イグアスの滝をブラジル側まで足を延ばし、観光しながらブエノスアイレスに戻って、その後は予定どおり、バタゴニアトレッキングに向かうこととした。

1月28日

皆は今日はキャンプ1まで荷揚げに向かうのだが、私はキャンプ1までの往復のみということで、皆よりも1時間早くガイドと一緒に出発する。

昨日と比べるとだいぶ体調は良く、他の登山者に抜かれるのはいつも通りだが、自分としてはまずまずのぺーで登れ、本隊のメンバーに抜かれることもなくキャンプ1に着くことができた。もっとも本隊のメンバーは上部キャンプ用の食料を一人10キロかついでいるので、スピードが上がらないのは当然なのだが。

 

下りは別の道を下ったが、かなり急な道で時間短縮にはなるだろうが、神経はかなり使う道であった。登りは四時間ちょっとかかった所を半分ほどの時間で下れ、本隊よりも1時間半ほど早く下りることができた。

 

ずっと私に付き合ってくれたガイドにはプラスチックブーツと羽毛服上下をプレゼントすることにした。私が二度と使うことがないだろうから。

 

その後は、アコンカグア最後の夜をおしみながら、眠りに着く。

 

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ベースキャンプまで

1月21日

メンドーサのホテルで休んでいると、夜になってガイド3人が装備の点検にやってきた。あまりにも細かく調べるので、やりたくはなかったのだがガッシャーブルムの登頂証明書の画像を見せて、その時の装備で今回も来ているのだと説明すると納得したらしく、なにも問題がなく終了した。

1月22日

翌日は午後から出発ということで、ランチは同行者と一緒に食べることになった。メンバーは客8人とガイド3人で、多国籍のメンバーと一緒に登るのは2011年のストックカンリ以来で、あの時は英語の環境が3週間ほど続くので、ひょっとして英会話が上達するのではないかという期待もあったが、結局全く効果はなかったので、今回はそのような期待は持たずに最小限の意思疎通ができればいいと割り切ることにした。

 

本日の宿があるペニテンテスは一昨日のツアーの時にも少し先まで往復したところであり、特に目新しいこともない。因みに3月始めにアルゼンチンからチリに移動する時ももう一度ここを通過することを予定している。

 

夕方にペニテンテスに着いて荷物の仕訳をしてからピザを食べて、これが夕食かなと思って部屋に戻ったら、しばらくして夕食の連絡があり食堂に戻ると分厚いステーキが待っていて、これを今から食べるのかとゲンナリした。自分は半分も食べられなかったが、皆はペロリと平らげており、農耕民族と狩猟民族との違いを痛感させられた。

 

夕食後も、皆は英語とスペイン語のチャンポンて話し続けていたが、英語の単語が断片的にわかるだけで、会話には全くついていけなかったので、適当な所で切り上げて部屋に戻り、持参してきた関野さんのグレートジャーニーをしばらく読んでから眠りについた。時差ボケはようやく解消したようで、日本とは半日の時差があるが、すぐに眠りにつくことかできた。

1月23日

翌朝は3時頃に目が覚めたので、5時間くらいは熟睡できたようだ。日本でも加齢のためか6時間以上眠るのは苦痛になっているので、睡眠リズムは正常に戻ったようだ。この時間、外はまだ真っ暗だが、アルゼンチンの時刻は首都ブエノスアイレスを基準に決められているようで、メンドーサを含むチリ国境に近い西部地域は夜明けは6時半頃で、日没は9時過ぎのようである。

外が明るくなりかけた頃にカメラを持って写真を撮りに行く。しばらくすると西にある尖ったピークが朝日を浴びて明るくなってきたので写真を何枚か撮る。その時はアコンカグアかとおもったのだが、後でガイドに聞くと違う名前の山であった。

8時に朝食を摂り、不要な荷物は帰りに回収するという違うことで宿に置いて、登山口の  車場までは車で進み、そこからはいよいよ登山の始まりである。

1月23日

11時出発の予定が、30分遅れて出発。途中で管理人がいる所で手続きをして、すぐ先の駐車場で下車して歩き出す。前半は調子が良かったのだが、昼食後、ガイドのすぐ後ろを歩く連中が、ハイペースで飛ばすので、それに追いつこうとしてオーバーペースになってしまい、苦しくなってきた。そこでガイドのすぐ後ろを歩くことにしたので、ガイドもそう飛ばさなくなり、なんとかキャンプ場まで着くことができた。

キャンプ場は巨大なテントが林立しており、食事用テントや多数のベッドがセットされているテントもあった。キャンプ場につ着いてしばらくは疲れから酸素飽和度が80台前半まで下がり、脈拍も80台となったが、段々と落ち着いてきて、夕食後には90まで回復した。なお本日の夕食もすごい量で半分しか食べられなかった。


1月24日

一晩寝て体調は回復し、酸素飽和度の数値も平地に近いものがでるようになった。昨日はスピードが早すぎて体調不良となったと思われ、今日は高所順化の往復だけだから、皆から遅れても構わないのでゆっくり歩こうと思った。

結局、ガイドの一人と一緒に私は皆の後をゆっくりと歩いていくことにした。最初のうちは皆に追いついたりもしたが、次第に離れてしまい、私は途中で引き返すことになった。

 

1月25日

私は皆より1時間早く6時にガイドと一緒にBCに向けて出発することになった。前半は平坦な所を行くので調子よく進めたが、後半は登りとなるので次第に疲れが出てくる。特に途中で本隊に追いつかれて精神的なダメージも加わって足の疲労が顕著になってきた。BCが眼の前に見えても全く足が前に進まず、疲労困憊の末にやっとBCに辿り着いてバターンキューとなり、その晩は夕食も食べられなかった。

 

1月26日

今日は1日BCで停滞だ。1晩ぐっすり寝たせいで足に少し疲労がある以外は体調は元に戻り、食欲も出てきた。湖の方に出かける人もいたが、私は体力温存を優先して、グレートジャーニーの本を読んだり、記録を書いたり、パタゴニアやチリ観光のスケジュールをまとめりたりして1日を過ごした。

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