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2024年3月

2024年3月28日 (木)

イースター島

3月26日

日付が変わった12時過ぎに保安検査口に行ってみると違う係員がいたが、私の搭乗券を見て、自分の腕時計を見せながらダメだと言っているようだ。彼女は英語がしゃべれないというので(まあ私も同じようなものだけど)、これ以上やりとりしてもムダだと思い、朝まで待つことにする。

一般の国内便客が待つ上の階は床に寝転んでいる人もたくさんいるほどこんでいるが、この階はイースター島行き専用のため、それほどこんでなく三つの椅子を占領して完全に横になれた(これならラウンジのソファーより安眠できる!)。

目が覚めると4時半だったが隣の椅子の寝ている人はいなくなっていた。6時を待たずに保安検査口は手続きが始まったようなので、慌てて検査口へ急ぐ。

イースター島は準外国扱いで保安検査前の個人情報登録をスマホで行うのだが、何度やってもエラーが出てしまって最初からやりなおしとなり、最後は係員の助けも借りてなんとかクリアしたが、1時間くらいかかってしまい、冷や汗ものだった。朝に宿を出て手続きをしていたら完全にアウトとなるところだった。QRコードでダウンロードした申請書への個人情報入力は他の所でも増えてきたが、自分にとっては鬼門だ。

保安検査場の先で一般の国内便の乗客と合流し、先日も利用して勝手知ってるラウンジなので、そちらへ向かったが、その前にトイレに行こうと思ったところ、トイレは曲がり角の先にあるのだが、そちらから長蛇の列が続いていて全然動く気配がない。しばらくは待ってみたが、どうもおかしいと思って、曲がり角の先まで行ってみると、その列は別の搭乗口への列であることがわかり、安心してトイレに寄ってからラウンジに向かった。ラウンジ受け付けでは、通常は搭乗券とカードだけでO.K.なのにパスポートの提示まで求められて、イースター島はやはり準外国なのだと思った。

イースター島行きのフライト4時間前からラウンジで朝食を食べられることになったが、まだバーは閉まっていてアルコールは飲めないものの、そのうちに開くだろう。もっとも飛行時間は四時間ながら、1時間の時差があって到着は一時近くになるものの、この航空会社は他で利用した際も国際便で昼時にもかかわらず、スナック菓子しかださなかったので今度も同様と思われ、しっかり昼の分まで食べておかなければならないだろう。

そのうちに利用客も増え係員も増えたのでビールを飲みたいと係員に言ったところ、10時からだと言われて、それでは離陸後になってしまうので、まあ朝から酒を飲むということは自分のポリシーにも反するので、残された1時間余りは昼食の先食いに充てようと思った。アコンカグアと南極では、1週間以上は禁酒したんだし(前者は高度のため、後者はドル現金を節約するためと理由は違うが)、三日間ぐらいの禁酒(外出禁止、移動のための慌ただしさ、ラウンジでの飲酒のために我慢と日々理由は違うが)はどうと言うことはないだろう。

ラウンジの情報板には私の乗る便の搭乗口までは2分と表示されていたので急ぐこともあるまいと30分前にラウンジを出たのだが、乗るべき搭乗口が見つからず、保安検査口まで来てしまう。一瞬ガーンとなったが、途中に見取り図があったことを思い出し、そこまで戻って確認すると、目指す搭乗口は上の階にあることを発見し、保安検査口の横に通路があったので、そこをずっと行くと、目指す搭乗口があってホッとした。まるで迷路ようだったし、サンティアゴ空港からの搭乗は苦労の連続だった。

離陸後40分くらいして予想してなかった機内食が配られる。考えてみれば、サンティアゴからの距離はブエノスアイレスやラパスからよりもイースター島の方が遠いのだ。やはりイースター島は国際線扱いされているのだろう。こんなことなら、ラウンジで頑張り過ぎなければよかったと思ったが、どうも今回はアテが外れてばかりである。もっとも「据え膳食わぬは武士の恥」でしっかり完食はしたが・・・。よし、これなら午後はしっかり観光に時間を使えるぞと思った。

空港着陸後に中心地のハンガロアに向かって歩きだす。他の乗客はみな迎えの車を利用するようで、空港から歩いて来るのは私だけである。ハンガロアまでは30分くらいであるが、世界的に有名な観光地だからカラファテやウシュアイアのように一見して観光の町とわかる所かと思ったら、ごく一部を除けば普通の田舎町であった。海岸沿いに歩いて育と、さっそくモアイ像とのご対面である。独立したものから5体が並んだものまであって、もうこれで帰ってもいいなやもいう気にもなった。ただ写真を撮ると逆光でモアイ像の顔が黒くなってしまうのが残念である。一番端のモアイ像まだ行ってから引き返してホテルに向かったが、ホテルは中心街からかなり離れているので思いがけず時間がかかってしまった。



3月27日

今日はレンタサイクルで島中を回るつもりで地図に出ていたお店に向かったが、そこにはお店はなかった。そこで、近くのお店で翻訳アプリでレンタサイクル店の場所を地図上で教えてくれといっても、スペイン語でぺらぺら喋りだすのでさっぱりわからない。その人が指さす方向に歩いてもお店はなく海に出てしまう。海岸沿いにはマリンスポーツ関係のレンタル店はあるのだが自転車はない。すると、ツアーの募集がでていたので、ツアーでもいいかなと思ったが、聞いてみるとツアーは午前中からスタートするものばかりで、午後からのものはないということで、お昼近かったので諦める。ではタクシーで行くことをかんがえたが、タクシーが全く見当たらないので、お巡りさんに聞いてみると、タクシーはないという返事である。ガイドブックにはタクシーのことは書いてあるのだが、コロナで客足が落ちた時にタクシーは消滅してしまったのか

こうなったらしかたないので、モアイ像ではないが近くにあるカルデラ地形の中に多数の池があって地元の水源ともなっている所に歩いて行こうと思って歩きだすと、すぐの所にレンタサイクル店があった。1日で3200円だからツアーよりも一万円くらい安い計算だ。すぐに借りることにしてまずは先ほど歩いて登ろうとしたカルデラに行ってみることにした。

飛行場の脇を登って行くが傾斜5%程度だから、それほどきつくない。ところが最初はポツリと降っていた雨がだんだんと強くなり、ついには本降りとなる。カルデラの登り口に自転車を置いて山道を登りだしたが、展望もほとんどないので、ここが最高点と思われる所で引き返す。途中、チラッとカルデラの底の池が見えて絶景ではあったが、すぐに見えなくなってしまだた。

下り始めても雨は止まず、全身が濡れてくる。やっとの思いでホテルに戻りシャワーを浴びて体を温める。しばらく雨は止みそうにないが、せっかくイースター島に来て、昨日のモアイ像だけではもったいないので、別のモアイ像も見てみたいと、日没は8時頃と遅いので小止みになるのを待つことにした。

夕方になっても雨はやまず、イースター島は雨期に入ってしまったのだろうか?航空運賃が下がったのはそのせいだろうか?などと考えてしまう。時間も5時を回ってしまったので、しびれを切らして出発する。ただし、8時までに自転車を返さないといけないので6時半には引き返すことにする。雨は止むどころかかえって激しくなってくるようだ。目的のアモイ像まで届かずとも、一体でもアモイ像があれば、そこで引き返すことにした。願いが通じたのか、目標地点よりもだいぶ手前であったが、一体のアモイ像に出逢った。


写真をとってからすぐに引き返すが、この時間なら自転車屋が閉まる8時までには十分間に合うと安心したが、別の心配がでてきた。それは街なかを通ることになるので、放し飼いの犬(ほとんどの飼い犬は放し飼いである)が自転車に対してどういう反応をするかであった。ところが、数十匹の犬に出逢ったのに吠えてきた犬は一匹だけであった。それも一回吠えただけで追いかけてくるわけでもなかった。なかにはこちらの姿を見ただけで逃げ出す犬もいるほどであった。きっと犬にとって自転車はふだんはあまり見かけないものであり、関わりたくないものなのかもしれない。もっともチリ本土では走っている自動車に飛びかかっている犬も見たし、グレートジャーニーでは自転車に乗っているとしょっちゅう犬に追いかけられたようなので、自転車嫌いの犬はイースター島に限ったことかもしれないが。

自転車を返した後、すぐにでもホテルに戻って暖かいシャワーを浴びたい所であるが、ホテルの近くにはレストランはないので腹ごしらえをしなければとレストランに入る。濡れた服のままじっとしていると、風邪をひいてしまうのでマナー違反かもしれないが、その場でTシャツを着替える。着替えはビニール袋に入れておいたのだが、やはり濡れているものの、今までよりは多少はましなようだ。料理は適当に頼んだのだが、出されたのは目玉焼きの乗ったステーキとポテトフライと玉ねぎをいためたもので日本のファミレスの料理のようであった。おまけにライスは茶碗にはいっているので、日本人旅行者御用達の店かもしれない。そういえば、遠くの方に日本人と覚しき人も見えた。

ホテルへの帰り道は歩くと30分くらいだが、自動車モードだと遠回りになるので、ほぼまっすぐ行けそうな歩行者モードの道を選んだが、あるはずの道が途中で消えてしまったりして、その度にスマホを出して、道を確認していたら、どうもUSB端子に水が入ってしまい、充電ができなくなるという事態に繋がってしまった。さらに悪いことには、やたらと放し飼いの犬が多い所で、そこらじゅうで吠えられてしまう。なかには至近距離まで来る犬もあったが、この頃になると、犬の扱いにも慣れてしまい、放し飼いの犬は本気で人を襲うつもりはなく、単に威嚇しているだけなので、目をそらさずにゆっくりと後ずさりして離れれば無関心になるということがわかってきた。結局は自動車モードの道に戻ってホテルに着いたが、1時間以上かかってしまった。大変な1日だったが、シャワーを浴びて横になれば極楽である

3月28日

本日も朝から雨がふっている。イースター島はすっかり雨季になってしまったのかもしれない。航空運賃が大幅に下がったのには理由があったのか、まあ初日の天気が良かっただけでも儲けか。ホテルの料金がまだ支払ってないようなのが気になってオーナーに言ってみてもカードで支払済のような返事があるが、旅行社からのメールでは現地払いとなっていた気がする。まあ何らかの手違いがあれば連絡が来るだろうと静観することにする。

10時にホテルの車で送ってくれる。まあ歩いても空港までは10分くらいなのだが、雨が降っていることと、そして何よりも途中で犬とのバトルをしなくても済むことが助かる。チェックインに際してはサンティアゴ空港と違い他の便はないのでeチケットを見せる必要はなく、パスポートの提示だけで済んでしまう。チェックインが終わった乗客はそのまま保安検査口に並んでいくが、他の便がないためすぐには検査は始まらず、検査口の列は進んでいかないので、しばらくは並ばずに椅子に座って待つことにする。どうせ検査が終わってもラウンジがあるわけでもなく、急いで検査を終える必要もないからである。

検査列の列がだいぶ短くなり始めた頃にようやく検査の列に並び始める。サンティアゴ空港では苦労した検査場の突破も、ここでは問題なく終えることができた。小雨の中をタラップまで走って機内に入る。席は最後尾の通路側というトイレに近い自分にとっては最適の席だ。さあこれから5時間近い長旅に備えようと思っていたら、まだ搭乗時間の20分前だと言うのに、機体は動きだした。出発が遅れることは珍しくないが、こんなのってありかよと思ったが、機体はイースター島を離れてサンティアゴ目指して飛び立った。

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2024年3月26日 (火)

さらばボリビア お帰りチリへ

3月24日


前日の国勢調査による外出禁止によってボリビアみやげを買う予定が果たせず、一日を無駄にしてしまったが、まあそれも旅の醍醐味だろうと頭を切り替えて、南米最後の旅行に向かう。

夜明け前に予約していたタクシーで空港に向かう。手続きを済ませてプライオリティパスが使えるラウンジに入る。飲み物と軽食くらいしかないが、通常は朝は飲まないビールを前日は外出禁止で買わなかったので少しだけ飲む。

やがて機内にはいり、これでボリビアともお別れである。アタカマ砂漠から国境を越えて、ウユニ塩湖、ラパス、チチカカ湖太陽の島という1週間以上の行程だったが、終わってみればあっという間の気もする。

飛行機が離陸する際に前日、警察の車に連行される前に遠望できたイリマニ山に再び相まみえることを期待したがかなわず、代わりにワイナポトシを遠望することができた。搭乗機は直接チリの首都サンチャゴに向かわず、ボリビア南部にある同国第二の都市であるサンタクルスに着陸して一部の乗客の乗降を行ってからサンチャゴに向かった。

乗降の際には搭乗口が開けられたので暖かいというよりも暑い外気が入り込み、一気に季節が変わってしまった印象で体が慣れるまでには暫く時間がかかりそうだ。サンチャゴに着いたらもっと暑いのだろうと覚悟した。

サンタクルスからの乗客も乗りこんでサンチャゴに向けて離陸し、しばらくするとワゴンが押されていくので、時間的にもランチの時間だろうと思っていると、配られたのはなんとスナック菓子であった。たしか同じ航空会社だと記憶しているのだが、ブエノスアイレスからサンチャゴまでのフライトの時もランチタイムだったのにスナック菓子しかでなかったようである。比較的近距離の運行に関しては食事をカットして料金引き下げに努めているということだろうか?

サンチャゴ国際空港に着陸してからドミトリーまでの経路はブエノスアイレスからサンチャゴまでのフライトの時に経験しているので、特に迷うこともなかった、ただ前回はバスターミナルが終点であったのに対して、今回はもう少し先までいったようである、ただどちらにしても、地下鉄の駅が近いので便利さに変わりはないようである。

今日のバス終点からドミトリーまではちょっと距離があったが、途中にカレー屋があり、前日に外出禁止でカレーを食べ損なったことのリベンジで立ち寄ったので、地下鉄を利用せずに歩いてしまった。

10日ぶりのチリはボリビアと比べると大都会という印象だが、ボリビアの庶民的な感じの方が自分としては好きである。チリは単に規模が大きくなっただけなようで洗練された感じがしないのである。

3月25日

今回泊まっているドミトリーは前にも泊まったことがあるのだが、前は無料で簡単な朝食が提供されていたのだが、どうもシステムが変わってしまったようで、皆は食券のようなものを出して、グレードアップされた内容の朝食を注文している。そのシステムの利用方法がわからないし、フロントできいたとしても、理解するのにすごいエネルギーを要するだろうから、諦めて外で食べることにした。

今日は土産物屋を見て行こうと思っているのだが、10時開店らしいので、それまでの時間潰しができる所として近くにあったマクドナルドに入った。注文した品かできるまでの間に店員の動きを見てると、日本ではテキパキと動くのに対して、こちらはもたもたとしており、動きにもムダが多い。国民性の違いと言ってしまえばそれまでだが、これほど効率性を高めている日本の経済が停滞しているのは、政治に問題があるからだろうか。

パン食も厭きたし、みやげを買うアテもなくなったので、贅沢してやれと日本人が経営しているという寿司屋に入ってみた。海外で寿司屋に入ってみて美味しいと思ったことはないが、今回はいかに?

注文したのは、たこといくらとエビを、2巻ずつで、さすが日本人が経営しているとだけあって、へたな日本のすしやよりも上手かったが、値段もとびきりだった。

次の地下鉄駅まて歩いて行く途中で土産物屋が並んでいるバザールのような感じの所を発見、午前中にみたショッピングモールのようなしゃれた所ではないが、イースター島から帰ったらもう一度ゆっくり見てみよう。

その後の行程については、イースター島に行くのは明朝だが、今夜中に空港に行くことにした。というのは、空港には国際線と国内線のターミナルがあり、イースター島に行くのはどちらのターミナルかわからず、朝の慌ただしい時に両方を行ったり来たりして焦るのは厭だし、最悪、乗り遅れてしまったら目もあてられない。それに前回、アタカマに行く前に早朝にカラマに飛んだ時は、前夜からにもかかわらず、保安検査は受けられて(最初はダメだと言われたのだが粘って受けられた)
、検査場の先にあるプライオリティパスの使えるラウンジを利用できたので、今回も上手くいけば前回同様ラウンジで夜を過ごせるかもしれない。

早速、地下鉄てバスターミナルまで行き、前回も買ったバスの発車場の前の切符売場に切符を買いにいくと、スペイン語で訳の分からないことを言って売ってくれない。すると、次に並んでいる人たちに対しても何かを言って切符を売らない。そして向こうの建物の方を指さしている。そういえばあの建物の中にも切符売場があったような気がした。ここで買えない理由はわからないが、あちらで買えと言うことだなと気付き、そちらに向かうとかなりの行列ができていたが、後ろの人に翻訳ソフトで、ここで空港行きの切符が帰るかと聞くと、買えるみたいなのでそのまま待つとなんとか買うことができた。時間の余裕が十分ある時だったからいいようなものの、もし朝で時間の余裕が余りない時だったら、かなり焦ったと思う。その意味でも前日に来ておいてよかった。

バスが空港に着くとまずは国内便のターミナルに行ってみる。ところが、カウンターにはだれもいないではないか。やむを得ずたくさんある自動チェックイン機でチェックインしてみる。すると画面が切り替わり、選択肢の中に番号を入れるものが二つある。一方、番号として可能性のあるものは予約番号、PINコード、eチケット番号だから、確率としては1回当たり六分の一だから順番に試してみるとヒットするものがあったが、またなにかスペイン語の文字がでてきた。翻訳ソフトで確認すると、印刷のことだとわかったので、ふたつあるボタンのうちひとつを押すと、預け荷物用のタグが印刷されてきた。今回は預け荷物はないので、もうとつのボタンを押すと、今度は搭乗券が印刷されてきた。これも時間のある時だからできたのであって朝の時間がない時ならとてもできないだろう(もっとも乗客の多い朝ならば受付に人がいないということはないだろうし、現に前回はチェックインの手続きは受付の人にやってもらった)。

次の問題は印刷された搭乗券にはまだ搭乗口の記載はされてないので、このまま国内便の保安検査口に行っていいのかどうかということである。もしかしたら、イースター島は国内便ではあっても国際線あつかいで国際線ターミナルに行けといわれるかもしれない。恐る恐る前回も行った国内線の保安検査口に行ってみると、この保安検査場ではなく、1階下の保安検査場に行けと言われたので行ってみると、たしかにイースター島という文字がみえる。ここまではなんとかクリアしたが、問題はこの時間から保安検査を受けられるかどうかである。案の定、明日の便だからまだ入れないと言われた。前回は何時からなら入れるのかという私の質問に対して係員は答えられなくて、面倒になったのか入れてくれて、その後に24時間対応のラウンジに入れたが、今回は明朝の6時からだと明確に言われてしまった以上は引き下がざるをえない。それに保安検査場が別であるということは、検査後もプライオリティパスが利用できるラウンジにはたどり着けない可能性もある。ともかく今は係員が代わっていることを願って日付が変わった時点で再挑戦してみるしかない。

 

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2024年3月24日 (日)

ボリビア北部滞在記

3月18日

バス会社の事務所に行くと、バスは事務所前に停車していた、事務所の中には先客はすでに1人いたが、東洋系ではあるが日本人ではないようだ(韓国人か?)。その後、西洋人が何人か来た後に、今度は正真正銘の日本人カップルがやってきた(受付で日本のパスポートを提示しているのが見えたから日本人だとわかった)。その後も乗客はやってきたが、出発時間直前にしては集まりが悪いなと思いながら事務所の時計を見たら、1時間遅れているではないか。ここで初めてビーンときて、さきほどの日本人に聞いてみると、やはり1時間の時差修正が必要なことがわかった。チリとアルゼンチンは時差はなく、ボリビアは両国の中間に位置しているので、時差はないものと思い込んでいた、またスマホの設定で日時が自動修正となっていなかったことも時差に気付かなかった一因ではある。そこで日時を自動修正に変えたら、正しい時刻に変更されていた。ツアーでは昨日から時間が変だなと感じていたが、これで謎が解けた。

ラバスまでのバスは各社によって運営されているが、その中でサービスと安全性の面で評価が高い(値段も高い)トド社のバスを選択したが、評判に違わず飛行機のビジネスクラスのようなゆったりとした座席で自分が選択したのは1人席なので他人に煩わされずに寝ることができ、しかも夜食のサービスまで付いているという至れり尽くせりぶりである。バスは定刻よりも5分ほど遅れてラパスに向かって出発した。

3月19日

バスがラパス直前まで着くと朝食が配られるという飛行機並みのサービスである。定刻よりも1時間ほど早くラパスのバスターミナルに到着し、これから1週間近くのラパスの滞在が始まることになる。まずはターミナル内外でWiFiが使えるところはないかと探してみたが見つからないので、諦めて市内観光に向かうことにする。

ラパスには18年前にワイナポトシという山を登った時にもきたことがあるが、その時と一番の違いは、すり鉢状になっている市内のてっぺんから底までロープウェイが張り巡らされている点である。その時は高所登山のダメージで坂道を歩くことがかなわなかったので、今回はまずはすり鉢のてっぺんまで行ってみようと思った。

てっぺんまでは一回の乗り継ぎが必要だが、一回あたり70円弱という安さである。ロープウェイは10年ほど前に作られ、住民の上下への移動の負担を減らすためであったが、観光客にもよく利用されているようで、すり鉢状の斜面にへばりつくように建てられている住居の景観はここでしか見られないものである。
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写真をとりまくりながらてっぺんに達すると意外な景観が広がっていた。てっぺんはてっきり山の中だと思っていたら、そこにも下と変わらぬ町が展開していたのである。露店もいくつかあったので、現地食を注文してみた。何の肉かわからぬがコラーゲンのかたまりのようなものをなんとか完食したが、しばらくは食べたくないものだった。

下りは歩いていこうと思っていたが、かなり迂回していかなければならないようなので、途中まではロープウェイに乗り、途中から中心街を歩いて下ったが、露店の多さには驚いた。

今晩からはドミトリーに4泊の予定だが、チェックインの14時まではしばらく時間があったので、近くの食堂に朝の口直しのつもりで入ったのだが、味が今ひとつで当地ではグルメは期待できないことがわかった。食後は市内観光の続きですり鉢の底まで行ってみようと、行きは下りだからと歩いていくことにした。

最後のロープウェイの所までは道は比較的明瞭だったが、すり鉢の底に降りる部分が道が見つからず、かなり迂回してみたが下降は不可能と判断してロープウェイを利用することにした。ロープウェイができる前までは道はあったのだろうが、ロープウェイができてからは廃れてしまったのだろう。

ロープウェイの終点まで降りたが、底まではまだかなり歩かなければならなかった。他所の土地では山の手が高級住宅地で、下町は庶民の住宅地というのが普通だが、ラバスは空気が薄いので底の部分に金持ちが住んでいるとは聞いていたが、確かに上の部分では見られない高層アパートはちらほらあったが、高級住宅地というイメージではなかった。道はいつまで経っても下っていき底の部分には辿り着けなかったが、完全なすり鉢になっているわけではなく、一箇所だけ切れ目があってそこから川が流れ出していることがわかったので、川まで降りた時点で引き返すことにした。

ロープウェイを利用して市内に戻ってから、近くの中華料理店(とグーグルマップにはでていた)にいってみるが、メニューは若干のバリエーションはあるものの基本的には単一で、中国人が知ったら怒りそうな内容である。量も半端でなく多く半分ほどは残してしまった(美味しければもうちょっと食べたんだろうが)。

3月20日

今日は天候もまずまずだったので、ラパスの北側に位置するワイナポトシという山と南側に位置するイリマニという山の両方が見られる展望台に上がることを予定していた。特に前者は18年前に登ったところだけに懐かしく、ぜひ見たいと思った。最初はタクシーで行くつもりだだったが距離を測ってみると2キロちょっとしかないので、これなら歩いても行けると考えて歩くことにした。

展望台に向かって歩きだすと、展望台方向の道はどこも車の進入が規制されている。なにかと思ったら市内の複数の高校(多分)の生徒たちによる音楽パレードが行われるためである。タクシーを利用していたらかなりの遠回りを余儀なくされていただろう。歩き出すにつれて傾斜がきつくなってくるが、それにしても足の疲労が半端ではない、これも高所に弱くなった現れだろうか。また途中で何度も犬に吠えられ、今にも飛びかかられそうになってヒヤリとさせられた。狂犬病の予防接種をしていなかったら、戦々恐々だっただろう。

展望台に着いてみると、頭上は晴れているのにまわりの山は雲に隠れて見ることはできずに残念だった。来た道を戻るつもりだだったが、すぐ近くにロープウェイの駅があり、そこから昨日も行ったすり鉢の底近くまで行けるので、来た道を戻るよりも大分時間短縮ができそうであった。すり鉢の底近くの駅まで下りて、ネットに出ていた月の谷方面に行くバスの番号のバスが来るのをまったが、やって来るのは違う番号のバスばかりであった。

時間も昼時であったため、少し先のレストランでランチを食べることにした。メニューはスペイン語でしか表示されてないので、わかるのはサンドイッチとビザだけだったか、サンドイッチはしばらく食べてなかったように思ったのでサンドイッチを注文し、飲み物はアイスコーヒーとした。しばらくして運ばれたサンドイッチはつけ合わせのサラダとともに凄い量だったしアイスコーヒーがなかなか来ないので忘れられているのかと思ったら、店員が氷が入った袋を持って来たので他所に買いに行ったようで間もなくアイスコーヒーは運ばれてきた。サンドイッチ自体の味はまずまずで、ラパスに来て初めてまともな物を食べた気がした。ただ量が半端でなく食べきれないので、残りは持ち帰ることにした。

レストランで食事中も通過するバスの番号をチェックしていたが、一向にネットに出ていた番号のバスは通らないので平行している別の道を通過しているのかもしれないと思いタクシーで行くことにした。こちらのタクシー料金はメーターではなく事前交渉が必要とのことで聞いてみると700円弱とのことである。距離からするとちょった高いかなとは思ったが、日本の初乗り料金とほぼ同額ということもあり、面倒な料金交渉はせずに乗車することにした。

月の谷への道は前日の記述ですり鉢には1箇所出口があると書いたが、その口を進んで途中から対岸の道を登って月の谷に着くと、ツアーバスが何台も停まっていて人気の観光地のようであった。

先日のアタカマ砂漠でも同名の地をツアーで行ったが、それと比べるとこちらはこじんまりした箱庭的な景観であった。ひととおり見終わったので帰るることにしたが、還りのバスの時刻がわからないのでしばらく待ったが、時刻も運転間隔もわからないため途中で次のバス停まであるいた。

次のバス停に着く前にそれと覚しきバス(番号は違っていたが)に抜かれたが、やむを得ないと割り切り、次のバス停で待つことにした。次のバス停に着く前に雨が降出し、雷も加わってほしい豪雨の様相を呈してきた。30分ほと雨宿りして少し小降りになったように思われたので、歩きだすとまた雨足が強くなり、雷も活発になってきた。この程度の雨は経験済みだが、急峻な地形のため道路を滝のように水が流れるのには参ったし、橋を渡っている時に上流から高波のように激流が押し寄せて来た時は一瞬たじろいでしまった。

やっとのことでロープウェイの駅に着いてみると、豪雨のためにロープウェイは運転を停止していたので、運転再開を駅前で待つこととなった。その間に着替えを行ったが、ザックの中に入れてあった着替えがほとんど濡れてなかったのはラッキーであった。運転再開後はロープウェイを乗り継いで最寄り駅で下車して宿に向かった。宿に着くとすぐにセーターを一番下に着込んで風邪をひかないようにした。また昼食の残りで夕食も足りそうなので食を求めて外出する面倒もなかったのはラッキーであった。

3月末21日

朝5時半に宿を出てターミナルに向かうが、ズボンと靴は前日の雨でねれたままでほとんど乾いていない。その代わり、砂漠を歩いてついてしまった砂や塩湖を歩いていてついた長靴から上の部分の塩はきれいに洗い流してくれていた。。ネットではチチカカ湖畔のコパクバナル行きのバスは7時半と8時発のものしか出てなかったが、7時発のものもあることがわかり、それに乗ることにした。恐らくネットでも把握できない零細業者のものなのだろうが、太陽の島に向かうフェリーの時刻がネットでも把握できない以上は少しでも早く現地に着いておいた方が安心できるからである。もっとも距離当りの運賃が先日のウユニからの豪華バスの半額なので全然期待はしていなかったが、実際のバスを見てそのオンボロ加減に驚いたが、まあ4時間程度のことだから我慢することとしようと思った。

出発するた前の座席の人からニーハオと挨拶される。ハポンだと訂正したが、そんなに間違われるほど中国人がたくさん来るなら、中華料理店もなんとかしてほしいものである。出発時点ではがら空きだったが、すり鉢のてっぺんの町まで来たらどっと乗り込んできて、ほぼ満席になった。しばらくすると、前日は見られなかったワイナポトシがくっきりと見られて目を楽しませてくれた。それから先は単調な景色が続くのであるが、世界一高い所にあるチチカカ湖と繋がった湖が左手に見えてきて、対岸に向かって高度が下がっていく。

対岸との間は海峡(正確には湖峡か)となっているので、そこには橋がかかっているのだろうと思ったら、橋はなくフェリーで渡るのだときづいた、たしかにフェリーというよりははしけと呼ぶ方がふさわしい船が何艘も岸辺に並んでいる。こんな小さな「フェリー」でバスに乗ったまま対岸まで移動するのは初めてだ。バス一台と一般車一台が乗ったらもういっぱいになる。エンジンはついているものの、岸から離れる時は船頭が長い棒で岸を押しているようである。こんな小さな船で大丈夫なのかと心配にはなったが、これで毎日運行しているのだから大丈夫なのだろう。

フェリーへの乗船の待機と両岸でかなりの乗客の乗り降りがあったのでかなり時間を要してコパクバナルまでの乗車予定時間4時間はかなり超過しそうであった。実際は30分遅れの11時半にコパクバナルに到着し、すぐに岸辺に下りて行った。岸辺ではなにかのお祭りらしく、民族衣装を着た男女が音楽に合わせて行進して行く。行進の合間をぬってむこう側の太陽の島行きのフェリーの切符売り場まで行くと、次のフェリーは13時半で本日の最終だという。だいぶ時間があるので、また行進を横切ってレストランに入って二階から42年振りのチチカカ湖を眺めながら名物のニジマス料理を食べることにしたが、焼き魚は南米に来てから初めてかもしれない。行進はエンドレスかのように続くので、ひょっとして同じ人間が何回も行進しているのではないかと思って、特定の人間がまた通らないかを見守ったが、確認が取れない間に行進は終了した。
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発車10分前に切符売り場に行き、指示された船着き場から太陽の島行きの船に乗り込む。しばらくしてから「日本人ですか」と若者に声をかけられる。カラファテからウシュアイアにかけては同年輩の日本人に何人かあったものだが、ウシュアイア以降は出会う日本人は若者ばかりである。その若者はラバスに一ヶ月ほど滞在していて最初は高度障害でダウンしていたそうだが、それにしても回復後は何をしていたのだろうか?彼は島の一番手前の船着き場で降りて、島には泊まらずに最終便でコパクバナルに戻って一泊してからラパスに戻るそうだ。

私は終点の船着き場から下船して今晩の宿に向かう。船着き場からいきなり急登が始まりなかなか苦しいが、30分ほどでホテルに着く。ホテルは東湖岸が一望できる位置にあり、正面にペルーアンデスの峰々が眺められて美しい。このホテルにはレストランはないので、もう少し上まで登って西湖岸が眺められるレストランで夕食をとりながらサンセットを眺めるつもりであった。残念ながら水平線に雲があってサンセットは見られなかったが、優雅な気分を楽しめた。


3月22日

ペルーアンデス方面からの日の出を期待したのだが、夜中から雷鳴を伴う悪天が続いてかなわなかった。朝食はなかなかの内容でこれが含まれて1泊3400円などというのはチリやアルゼンチンでは考えられない料金である。食後は部屋に戻って荷物の整理をしてチェックアウトを行い船着場に向かう。

港にはコパカバーナ行きの船に乗り込む人がかなりまっている。予定通り10時半に出航したが、行きはかなりの空席があったのに対して帰りはぎゅぎゆう詰めである。つぎの11時の便ならば、もう少し空いているのかもしれないが、なにがあるかわからないので、乗れるうちに乗っておくのが望ましい。

船底のような席で立ち上がらないと外が見えないが、ブログ書きをしていると、なんとか退屈せずにコパカバーナに着くことができた。上陸するとすぐにラパス行きのチケットを購入。発車までは2時間近くあったので、レストランに入る。WIFIも使えるし、今までなかなかお目にかかれなかったスパゲッティも食べられたので(ただし、味は今ひとつ)、出発間際まで滞在する。  

ほぼ定刻に出発して順調にフェリーの乗り場まで来た時に予期せぬできごとが起きる。全員にバスを降りるよう指示がでたのである。本日は波が高くて(そのようには見えないが)乗客を乗せたままでは危険と判断されたのかどうか理由は不明であるが、このような時は無理して合理性を求めるよりは、まわりの流れを読んで、その流れに身を任せるのが一番であると思うようになってきた。

降ろされた乗客はモーターボーの券を買わされて、乗客なしでフェリーで先行するバスを追いかけることになったが、幸い対岸に着くとバスは我々を待ってくれていて、全員乗車後は何もなかったかのように一路ラパスに向かって走って行った。

順調に進んで行ったので、この分ではラパスにかなり早く着くかなと思われたが、ラパスに近づくに連れて渋滞が激しくなって走るのと停まっているのと同じくらいになってきた。その代わりに街の様子をじっくり眺めることができ、従来言われてきたようなすり鉢の底には金持ちが住み、てっぺんには庶民が住んでいるというのは必ずしも当たってないように思われた。何故ならば底の部分は開発の余地が乏しいのに対しててっぺんの部分は無限の発展可能性を秘めているからである。この傾向に拍車をかけているのが2014年以降に各地に張り巡らされたロープウェイである。確かに底に住んでいる金持ちも多いのかもしれないが、その傾向は徐々に薄れていくだろう。何しろ標高差で800メートルの差があるだけだから、慣れてしまえば行動能力にそれほどの差が出るとま思えないのであるし

また車中から18年前に登ったワイナポトシの姿がじっくりと望めたのも渋滞のおかげである。数日前にワイナポトシとイリマニの展望台に上がりながら雲に遮られて展望が得られなかったことのリベンジがワイナポトシに関しては果たせたことはラッキーであった。

宿にはほぼ予定どおりの6時半には着いたが、ランチの量が多かったせいか全く食欲がなく、ビールだけで済ませてしまった。ボリビア滞在が実質的には翌日1日だけなのに対してボリビア通貨の手持ちがかなりあり、できるだけ通貨を使いたいところではあったが。まあ明日1日あるので、他に予定はないことでもあるし、消費に頑張ってみるし、最悪の場合はレートは悪いかもしれないが、チリペソやUSドルへの両替の道も残されているのだから

3月23日

実質的なラパス最終日ということで、朝食後にドミトリーを出て三つ星ホテルに移動することになるが、チェックインまでには時間があるので市内観光地に出かける。今日は快晴で先日見られなかったイリマニ山もはっきりと見えるので、後でロープウェイで展望台にでも上がってみようと思ったりした。人通りがほとんどなく警官がやたらに多いなとは思ったが、まだ異変には気付いていなかった。

夜にでも行こうと思ったラーメン屋の下見をしようと店の前まで来た時に後ろから来た警察の車に乗せられ宿泊予定のホテルを聞かれて連行される。静まりかえった街を見て外出禁止になっていることはわかったが、軍隊は出てないので戒厳令でないことは想像できた。ホテルに入ると午前中であるにもかかわらずチェックインはできた。ホテルには次々と客が入って来てロビーも客でいっぱいになる。外出禁止の理由をフロントで聞こうと思ったが、客の対応で忙しそうだったし、たとえ英語が通じても理解できない可能性が高いので、ネットで日本大使館のサイトを見てみることにした。すると、国勢調査のために本日は終日外出禁止となっていることがわかった。念のために明日の出国は可能かどうかを領事宛にメールしておいた。

外出禁止のために外に食事に出られず、せっかく今日行くつもりであったラーメン屋とカレー屋に行くことはできなくなったが、ホテルにレストランはあるので食いっぱぐれることはなさそうだ。本日の昼食は昨日に続いてのパスタとなった。ラーメンやカレーはサンチャゴに着いてからのお楽しみにとっておこう。大使館からの返信も来て、明日の出国には問題がないとの回答でホッとして明朝のタクシーの予約もフロントに頼んでおく。

この後もホテルでの滞在は今しばらくは続くが、なにも起きそうにないのでブログは一応更新することにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

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2024年3月18日 (月)

アタカマ、ウユニ

3月12日

飲食後に奥の足置きのある席に移った時はまだ誰も座っておらず、このまま朝まで眠っていられれるはずだった。ところが、イースター島のフライトのことが気になって調べてみると、確かに3月下旬にはピーク時よりもかなり料金は下がるが、ウユニから戻って以降だと、イースター島からの帰りの便が4月になってからでないと空きはないことがわかり、どうしたものかと考えていたら目が冴えて眠れなくなってしまった。一方、このラウンジは二階にあるが、下の一般待合室を見下ろすと、さほど混んでなくて2つの座席を繋げて横になって眠れることに気づくが、ラウンジの方はそれぞれが独立した座席なので完全に横にはなれない。これならラウンジを出て下に行った方が眠れるんじゃないかと思われ、意地汚いことではとるが、ラウンジで早めの朝食を取ってから下こ階に移動する。

今度こそ寝れるぞと思ったら、カラマの空港からはアタカマ行きのバスは出ておらず、カラマの町からならばバスは出ているが、バス会社ごとにバス停が違っていて、どのバス停に行っていいかがわからない。おまけにカラマは治安が良くないので明るいうちとはいえ、あまりうろうろしたくない所らしいことがわかると少し不安になって眠れなくなってしまった。

ほとんど寝ないままカラマ行きの飛行機に乗り込み、うつらうつらしながらカラマの空港に着く。最初はカラマの町まではタクシーのつもりで、苦手な値段交渉を覚悟していたら、アタカマと書いてある紙を持った客引きを見つけたので値段を聞いてみる。一万円くらいまでは覚悟していたのだが、なんと二千円ちょっとということだしカード払いできるということだったので、すぐに飛びついた。

運転手にマイクロバスまで案内されると、すでに5、6人は乗っており、私の後に二人連れが乗り込むとすぐに出発したのでほとんど待つこともなかった。案ずるよりうむはやすしであった。あとはアタカマに着いてからのアタカマとウユニまでのツアー選びが残されている。道は砂漠の中を一路アタカマへと辿っていく。

アタカマに着いた第一印象は「町でなく村だ」である。南米の他の観光地であるカラファテやウシュアイアに比べての大きな違いは道が舗装されてない、大きな建物がなく造りも貧相である等、ネパールのトレッキング街道を思わせるものであった。その一角で遅い朝食をとってから予約した宿に行き手続きをする。久しぶりに相部屋でない個室となる。WiFiの設定をしてメールのチェックをしてから旅行代理店にツアーの申込みにいく。

まずはアタカマのツアーとしては、死の谷、月の谷の半日ツアーを申込み、次にウユニ塩湖までの3日間のツアーバスの申込みもおこなった。後者がこんなんに簡単に申込み手続きが終わるとは思わなかった。空席待ちとなることも考えて日程の余裕もみていたのだが、スムーズに行き過ぎたので、余った日程をどう消化するかも考えなければならなくなった。なお、アタカマにもウユニに次ぐ規模の塩湖があって半日ツアーの対象となっているが、世界一の塩湖を見る前に二番煎じのような所へわざわざ行く必要もないので省略することとにして、代わりに休養。

ツアーの開始は3時半なので、その前に遅い昼食をとるとにした。ピザ屋があったので、久しぶりにピザを食べたくなって、メニューにミックスなんとかと書いてあるものを注文した。ミックス以外の文字は読めなかったが、きっといろいろな種類のピザが交じっているのだろうと思ってた。

しばらくして料理が運ばれてきて、目が点になってしまった。なんと大盛りのサラダが運ばれてくるではないか。ミックスなんとかという料理はメニューの最初の方ではなく、後の方の飲物の上に書いてあるのでサラダの中の一つの料理だったのだ。仕方がないのでベジタリアンになったつもりで食べたが、以外とボリューム感があり、これだけでお腹がいっぱいになってしまった。

4時前から月の谷のツアーに参加する。アタカマの町を11人くらいの参加者がマイクロバスに乗って郊外の砂漠地帯を通ってゆくと月面を思わせる異様な岩が多数現れる場所にでる。

あたりには何箇所も展望台があって急坂を上り下りするので靴の中は砂だらけになってしまったが、靴下を履いていかなくて正解だった。一通り見終わってサンセットまでな待ち時間を利用して、マイクロバスの横にテーブルがセットされて酒とつまみが置かれたミニバーの登場である。新婚旅行のペルー以来となるピスコサワーも飲むことができた。ひととおり腹を充たした後、夕陽の展望台として有名な場所まで車で上がって沈みゆく夕陽を眺め、完全に日没となったところで車に戻り、しばらく下るとアタカマの町に帰ってツアーは終了となる。






3月14日

今日は1日休養日ということでゆっくりと寝て、昼前に起き出して町にでる。昨日食べそこねたピザを食べるために昨日の店を探したがわからず他の店に入る。今度は間違えないようにメニューでしっかり確認してマルガリータを注文する。やがて運ばれてきたピザは2人分ではないかと思われるほど大きかったが、朝食を食べてなかったので、しっかり食べられた。

その後は町をぶらついてから宿に戻り、昼寝をして外が少し涼しくなってからまた町に出かけた。ビールを買って宿に帰ってから飲もうと思ったが、どの店にも売ってない。多分、アタカマではアルコールは外で飲むもので家庭には持ち込まないというルールがあるようだ。どうしたものかと思っていたら、INCA COLAというのを見つけて買ってきた。これはペルーに新婚旅行に来た時にCMでよく聞いたので懐かしかった。


3月15日

6時半に迎えのマイクロバスがくる。私の宿は町の外れにあるので、中心部から乗り込んできた人たちで車はすでに十数人が乗っていた。後部座席はまだ空いてたのでそこに陣取る。乗客はほとんどが地元の人のようだ。町を外れて三十分ほどすると、チリのイミグレに着くが、イミグレが開くまでしばらく待たされる。

やがてイミグレが開くと手続き自体は簡単に終わり、ボリビア側イミグレへ進む。なお、この地点の標高4630メートルがこのツアーの最高標高となるかもしれない(実際はさらに数百メートル高いところがあったが)。しばらく進むとボリビアのイミグレとなるが、こちらでも事務所があくまでしばらく待たされる。こちらの手続きも簡単に終わるが、すぐには出発せず車の前にテーブルが置かれてその上に朝食が並べられる。朝食が食べ終わって、いよいよボリビア側のツアーが始まることになるが、ここでマイクロバスを降りてジープ2台に分かれることになる。結局、国境付近の標高4500前後の地点に2時間強も滞在したことになる。

ジープに乗換えたわけはすぐにわかった。マイクロバスでは通行が困難な悪路だからである。グレートジャーニーで関野さんがボリビアを通過した時の記述で「ボリビアでは車を走らせるために道を作るのではなく、車の走った跡(轍)が道になる」という部分があるが、20年経っても状況は変わってないようである。

イミグレを過ぎてしばらくすると公園の入園手続きがあるが、これが難題だった。まずはQRコードで申請フォームをダウンロードする必要があるが、WiFiのサービスがないのでダウンロードができないというピンチに陥った。同じ車に乗っていた人でモバイルWiFiを持っている人がいたので、それを借りてダウンロードだけはできたが、入力する内容がパスポート情報はだけにとどまらず旅行社名や車のナンバーまで書かせる。その度に運転手を掴まえて聞き出してなんとか全ての欄を埋めて終了しようとしたところ、どこかに入力不備があるのか先に進めない。弱ってしまって運転手に助けを求めると窓口に連れて行かれる。

窓口は二つあって、右側はダウンロードした申請フォームに入力した内容を見せて手続きをるということで大勢が行列しているが、左側には誰も並んでいない。そちらに連れて行かれてパスポートを提出すると、係員はパスポートを見ながら必要事項を入力して手続き終了となった。右側の係員は入力作業なしに処理できるが、私のようにそれに対応できない人のために左の窓口も用意してあるのだろう。さだめし私はデジタル音痴の人間だと思われただろう。

公園の入園料3000円強を払っていよいよ公園を進んでいくと、しばらくして温泉が見えてくる。初日に温泉があることはネットの情報で知っていたので、着替えしなくてすむように短パンを下に履いておいた。昨夜もシャワーを浴びたし、温泉も特別入りたいわけではないが、南極の冷たい水に飛び込むのはご免だが、温泉ならば話の種に入っておいてもいいだろう。

温泉の後は隣の建物で昼食をとり、この場所でかなりの時間を費やした。その後も間欠泉で撮影タイムをとった後、最後はフラミンゴの大群落がいる湖で大休止となった。カメラを車の上の荷物な中に入れてしまったため、スマホでは最大限に写してもフラミンゴは小さくしか写らないので、ビクーニャを前景にして移したりした。




最後はわずかの走りでホテルに着いたが、盛り沢山の1日であった。その代わり、1日の進んだ距離はあまり稼げなかったが、急ぐ旅でもないのでよしとしよう。

3月16日

本日はウユニを目指しての500キロほどのロングドライブである。スタートして間もなくして、奇岩が集まっている観光名所があったが、それから先は荒野を進むだけで、これといった見所はなかった。ただ午前中はボリビアアンデスの核心部の麓を行くので、雪に覆われたアンデスの峰々が見られて退屈しなかった。





午後になると道はアンデスを離れてしまうので退屈し、ウユニまであと何キロというのをスマホで表示させながら、なんとか退屈を紛らわした。ウユニの町近くになって町への道と離れて西の方に向かうので、このまま塩湖に行くのかと思ったら、そうでなくて機関車の廃墟を展示してある公園に立ち寄るためであった。

その晩は他の車に乗った人も交えてレストランでの会食があり、これまでの慰労と明日の塩湖訪問への期待を膨らませる場となった。

3月17日

5時出発ということで3時前からウトウトして5時前には玄関まで降りてみるが誰もいない。そのうちに何人かが降りてくるが、肝心の運転手がやってこない。どうもこちらの人は時間にルーズな人が多いようだ(後になってわかったことだが、ボリビア入国時に必要な1時間の時差修正を忘れていたのだ。文句を言ってごめんなさい)。(時差修正前の)6時近くになって運転手が現れるが、グーグルマップによると、塩湖まで2時間近くかかるようになっていたので、これでは日の出に間に合わないではないかと思ったが、その時はその時だと覚悟を決めた。

車は走り出して間もなく町を出て、あたりは真っ暗となる。しばらくすると車は停まって、他の車が運んできた長靴が配られた。するとそのすぐ先は湖で、車はタイヤの先を塩水に浸がら固い塩の地面を進んでいく。わずかな水位ではあるが、水の中を潜って進んでいくのは意外であった。てっきり塩面の上をそのまま進んで行くのだと思っていた。

塩湖を走るようになってからは自転車並みのスピードにダウンしたが、もう塩湖に達しているわけでグーグルマップの塩湖と表示されている地点まで行く必要もなくなったので、少し安心した。やがて東の空が薄明るくなった時に車は停車し、日の出を待つことになった。車の横にはテ
ーブルがセットされて、日の出とともにワインで乾杯が行われた。その後、少し先の塩のホテルで朝食をとる。




その後はパフォーマンス撮影タイムが続いたが、自分はそういうことは好きでないので、妻に頼まれた塩を取ったりしていた。ところが、岸辺に戻ると露店が立ち並んでいて、バックされた塩も200円程度で売ってたので買うことにした。

その後町に戻り昼食をとってからツアーは解散することになったのて、私は次の目的地であるラパスに向かうバスのきっぷを買うためにバスターミナルにむかったが、なかなか場所がわからずウロウロしてると、ネットで評判の良いバス会社の建物を見つけて、そこで翌日の夜行バスのきっぷを買うことができた。それから今夜の宿に向かったが、町外れにあり、途中で犬に何度も吠えられたりしながらたどり着くことができた。ホテル自体はなかなか設備は良く、なんと壁は塩でできていた!ただ近くにレストランはなかったので、近くのミニスーパーで買ったもので夕食は済ませてしまった。

3月18日

本日はラパス行きバスの発車場までに夜の8時半までに行くだけで、他に急ぎの用事はないので、ゆっくりと8時過ぎに食堂にむかう。するとまだ電気もついておらず、朝食付きとなっていた割には飲物とクラッカーが置いてあるだけのちょっと寂しい内容だった(まだ時差修正が必要なことに気づいていなかった)。しょうがないので、これで朝は済ませて昼にしっかりと食べようと思った。その後に何人かのグループがチェックインに訪れた時とほぼ同時に階下から係の人がパンとハムやジュースを持ってきたので多少は朝食らしくなった。もう一度食べ直して部屋にもどったが、部屋はハエが顔のまわりに飛んでくるので、うるさくてならない(寝ている間はフトンを頭から被っていた)。アルゼンチンやチリではハエや蚊は全くいなかったのに、ボリビアに入ると途端にハエに悩まされるのはボリビアの衛生状態を反映しているのだろうか?もっとも食堂にはハエはいなかったのを思い出して、出発の準備だけを済ませると出発するまでは食堂で待つことにした。

チェックアウトの旨を告げてフロントに鍵を返して外に出ると、後ろからホテルの人が追いかけてくる。支払がまだ済んでないということであった。昨日のチェックイン時に支払のことは何もいわれなかったのて、てっきりカード決済で支払は終わっているものだと思い込んでいたのだが、予約確認のメールを読み直してみると、支払は現地払いとなっていたので、ホテル代を現金で支払った。ホテルまで戻ればカード払もできたかれないが、面倒なので現金で払ってしまった。その結果、手元現金が寂しくなったので、キャッシングをすることにした。

昨日も行ったATMにまた行ってみる。昨日は閉店間際で後ろに行列もできていたので、ゆっくりと手続きをする余裕もなかったので、キャッシングは不調だったが、今日は落ち着いて手続きできたので、無事キャッシングができた。ただ上限額が500ボリビアーノ(一万円強)でその下にOTHERSという選択項目もあったので、もっと大きな金額もキャッシングできたのかもしれないが、とりあえずは今日はこれで足りるだろうと思った。

その後は市場を覗いたりしてたが、市場の裏の露店の店で牛丼っぽい(ただしだしはない)のを食べた、日本円で150円相当と安く、今回の旅行での最低食事代かもしれない。アルゼンチンやチリでは安く食べられる外食店が皆無だったが、ボリビアでは町のそこらじゅうにあるようだ。これから行くラパスも同じようなものだろうから、ラパスに長期滞在しても費用は嵩まないだろう。

ウユニでもうひとつ済ませておきたいことがあった。それはカミソリの購入だったが、なかなか売っているところが見つからず、外も暑かったので喫茶店に入って充電も兼ねながら1時間ばかり滞在してから、再びカミソリを探しに行くと、ようやく見つかった。前に買ったカミソリはウシュアイアで買ったもので、高級品しか売ってなかったが、こちらは普及品も売っており、私の趣味に合う町である。

その後は、道の真ん中が遊歩道になっている所で屋根のあるベンチの下で涼しい所でブログ書きをしてから、先ほど行った市場に戻って、市場の中の食堂で早めの夕食を食べることにした。ところが、食堂は午後の休みで1時間以上もまっても一向に開店する気配がないので、しびれを切らして、近くのチキン専門店に行ってしまった。

ウユニは物価も安く、インカの面影を残しているいい町であった。

 

 

 

 

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2024年3月13日 (水)

サンティアゴ滞在記

3月10日

ブエノスアイレスからサンチャゴに向かうフライトはチリとの国境手前でアコンカグアを間近に見ることができる。アコンカグアはパタゴニアや南極に向かう途中にあるから登ってみようかと思っただけで、さして思入れのある山ではないが、途中で断念しただけに目前にすると複雑な気持ちは否定できない。

アンデス山脈を越えるとサンチャゴ目指して機体は下降を始める。サンチャゴ空港はアコンカグアの登山口となるメンドーサへの乗り継ぎで一度来たことはあるのだが、空港の外には出てないので実質的には初めてのようなものである。前に来た時は空港のATMでお試しにキャッシングを少額してみたら、ほぼ同額の手数料を取られてキャッシング拒否症になってしまったが、まとまった金額をキャッシングすれば手数料の負担感はそれほどではないはずなので、前にキャッシングしたATMでキャッシングしようとしたがカードが入らない。何回やってもだめなので、諦めて明日にでも市内で行うことにした。チリペソについては多少の現金は持っているので、特に空港でキャッシングする必要もなかったのだが

空港から市内に向かうにはタクシー、ミニバス、空港バスのいずれかになり、ブエノスアイレスのように路線バスはないが、タクシーがのさばっていて、空港バスの乗り場は国際線のターミナルにはなく、少し離れた国内線のターミナルまで歩かないとないことは、ガイドブックを見ても書いてないのである。地球の歩き方の読者のほとんどはツアー利用者でツアー会社の迎えの車に乗るからなのだろうか

バスのチケットを買う時に「・・・だけどいいか」のように聞かれたが、わからなかったのでそのまま乗車すると、市内中心まで行くと思ったバスはかなり手前で終点となってしまった。一瞬焦ったか、地下鉄駅に接続していることがわかったので、地下鉄で行くことにした。ブエノスアイレスと同様に交通カードシステムを採用していたが、ブエノスアイレスで経験済みなので、問題はなかった。

地下鉄で下車した駅から今晩の宿までは至近距離だったが、手続きを済ませてドミトリーの部屋に通されると、なかなか清潔そうな感じであった。無事にサンチャゴに着いたお祝いに祝杯をあげたが、空港でサンドイッチを食べてきているので、とてもフルサイズのピザは食べられないと思って、ビールのみで我慢してドミトリーに戻った。

3月11日

本日の最大の目的はATMでチリペソをある程度キャッシングしておくことである。南極クルーズの申込みで手持ちのドルをほとんど使い果たしてしまっているので、ボリビア通貨とも交換可能なチリペソの必要性は高いし、余ってもチリに戻ってから使えるので無駄にはならない。宿の近くのATMをグーグルマップで調べて保存しておいた。ところが、ATM自体の場所は大体はわかったのだが、画面の表示がアルゼンチンのそれと違ってスペイン語表記のものばかりで、英語表記を選択できる画面がみあたらないのである。

昼食後に宿に戻り、サンチャゴのATMの表示についてネットでなにか情報が得られるか検索してみたが特に役に立つ情報はなかったので、午後はATMの画面に表示されたスペイン語を翻訳してみるしかないと思った。だが、画面は一定時間たつと切り替ってしまうのでなかなかうまく翻訳できない。かと言って、何回もエラーを繰り返すとカードが使用できなくなったり、最悪の場合は吸い込まれたままで戻って来なくなるということも聞いたので、何度も処理を繰り返すわけにはいかない、そこで思いついたのは画面をスマホで撮影して、それをゆっくりと翻訳することだった。そして隣の喫茶店で翻訳をしていったが、きなかなか解決につながるような言葉はでてかなかった、ところが最後に外国人という文字を見つけたので、これだと思ってATMの所に戻って外国人の文字をクリックすると、英語が選択できるようになってキャッシングにようやく成功したのだった。

これでウユニ塩湖に行けるメドがようやく立ったので、フライトや宿泊で予約可能なものは予約して出発に備えることにして、夕食はスーパーで買ったビールとつまみで軽くすました。

3月12日

今日は夜に空港に着けばよいし、宿のチェックアウトも12時なのでゆっくりと起き出す。今日はキャッシングの追加をちょっとするぐらいしかやるべきことはないし、キャッシングのやり方は昨日わかったので問題はない。ウシュアイア以来、連日慌ただしかったり緊張したりの連続で、こんなにのんびりできたことはない。

午後には宿を出て近くの露店で地元の食べ物を注文しようと思ったらアメリカンドックしかなかったが、財布の小銭を減らしかったので注文する。その後、2枚のカードで引出し上限額を引出し、これでキャッシュ不足からは解放される。先程のアメリカンドックだけでは少し足りないので、歩行者天国のような所でランチを食べていると、少人数のデモ隊が現れて反対側の歩道で騒ぎ始めた。プラカードの文字をアプリで翻訳しようとしたができなかった。日常生活では使われない政治用語だからかもしれない。ところが、その中にガルシアという文字があった。ガルシアと言えばチリの軍事政権の終焉を描いた映画の主演俳優のことかもしれないし、それに関連した行動なのかもしれない(うがち過ぎかな)。

昼食後にいくつかの観光名所を見てからモネダ宮殿にむかった。ここは先程も述べた軍事政権が50年ほど前に南米初の社会主義政権のアジェンダ大統領に対してクーデターを起こして双方の激戦が行われた所である(現在の建物はもちろん再建されたものである)。今回の旅は自然を対象としたものがほとんどで、他の歴史的遺産としてはマゼラン海峡を前にしたマゼラン像くらいしかないが、歴史好きな自分としては、ここで歴史的遺産と巡り会えたことは喜ばしいことである。

その後は地下鉄とバスを乗り継いで空港に向かう。コロナ以前はサンティアゴからアタカマまで丸一日かけて行くバスがあったらしいが、今は乗り継がないとならないので時間がかかり過ぎるため、アタカマの近くにあるカラマまで飛行機で行き、そこから1時間ちょっとのバスでアタカマに向かうことにしたのだ。カラマまでのフライトは1日何便かあって早朝の便は他の半額ほどになるので魅力的だが、それに間に合うために空港で近くのホテルに泊まらなければならないと思われ、その場合のホテル代が高ければフライト代の安さを帳消しにしてしまうので、どうしたものかと思ってたところ、ネットでこれを解決する情報を見つけたのだ。

それは国内線ではあるが、プライオリティカードで朝までいられるラウンジが利用できるというのだ。ラウンジは通常はセキュリティを過ぎた所にあるので、まずはチェックインをしなければいけない。空港に着いたのは出発の14時間も前で、こんな前ではチェックインは無理だろうと思ったが、ダメ元でやってみたらなんとチェックインができて搭乗券をもらえてしまった。だが、さすがにセキュリティはまだ早すぎると思って出発12時間前になってからセキュリティ場に向うと、案の定、係員に明日のフライトだからまだダメだと言われる。それなら何時からならばいいのかと聞くと、そういうルールはないようで係員は回答に窮してしまい、通っても良いと言わせてしまった。これで堂々とラウンジに入れることになったが、場所がなかなかわかりにくいところでネットを読んでなかったら辿り着けなかったかもしれない。

多くのラウンジは3時間程度の制限があるのだが、入る時に何も時間のことは言われなかったので多分朝までいられるのだろう。飲食の内容は大したことはないが、アルコールもOKだし飲食はテーブル席で行った後に奥の席に移動すると、足置きのある椅子も用意されているので仮眠も可能なのである。これで2食代と一泊の宿泊費が節約できることになる。たいした金額ではないが、長期の旅ではありがたいことである。

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2024年3月11日 (月)

さらばアルゼンチン

3月8日

クルーズ船で朝食を食べ終えてすぐに下船し、観光案内所に直行する。案内所はまだ閉まっているが、案内所の周りでは弱いながらもWiFiが使えるからで、真っ先に妻に無事に戻ったことをラインで伝える。その後、10日分のメールを確認した後にフェイスブックへの投稿もしようとしたが、電波が弱すぎて投稿できなかったので、近くにある今晩の宿まで行き荷物を置かせてもらった後にレンタルした衣服を返却し、銀行で若干のキャッシングをしたが、ここでちょっとした間違いをしてしまった。五千円相当をキャッシングするつもりが、5000ペソ(千円弱)をキャッシングしてしまったのである。これではキャッシング手数料にも足りない額である。もう一度キャッシングすると、また手数料1000円ほどがとられるので、手持ちのペソでもあと2日間のアルゼンチン滞在中はなんとか足りそうなため再度のキャッシングは行わないことにした。

今日はクルージングの疲れを癒やすため宿でゆっくりしてもよかったのだが、ツアーの予約をしてしまったため、行かざるをえなくなった。ところが、メールで送られてきたのは切符そのものではなく、切符の引換券で引換え場所が明確でなかったのである。メールがリンクしている引換え場所を開くと港付近の地図なので、そこにはクルージング前に一度行ってみたが該当する施設はなく、引換場所がわからないというメールを出したら、ウシュアイア唯一の駅だからわからないはずはないという返事だった。しかし、最果て駅はウシュアイアの中心から12キロも離れているのに、メールに記載されている所在地にはウシュアイアから3.5キロと書いてあるのである。

悶々としていたが、結論としては指定された時間までに駅まで行ってみようということである。もし、引換場所が別の遠い所でも引換券を持っていれば、なんとか対応してくれるだろうということであった。出発時間は12時で30分前までに手続きするようにということだったので、宿に荷物を預けて歩き出したが、指定時間に間に合いそうもないので、途中でタクシーに乗って駅に向かう。指定時間までには駅に着くと、外の切符売り場とおぼしきところにはかなりの行列ができている。駅の建物の中に入って係員に引換場所はどこかと恐る恐る聞くと(港の方だと言われたら万事休すなので)、外の切符売り場だと言われてホッとした。たしかにメールにあったリンク先の所在地の地図はおかしかったが、所在地のウシュアイアから3.5キロというのは中心地からではなく、外れからならば間違いとも言えないようにも思える。

私が予約したのは切符だけなので国立公園入園料は別に必要となるが、12千ペソ(約二千円)ということだっとので、翌日の空港までのタクシー代を払っても十分お釣りがくるし、余らしてしまって隣国で両替しても価値が半減するので入園料を買って手持ちのペソを減らすことにした。列車が発車する待ち時間の間にクルーズ中の禁酒の反動でビールを買ったが、つまみと昼食を兼ねてチーズとハムを挟んだサンドイッチを買ったつもりが、いざ食べて見ると真ん中に挟まれているのは、黄色と赤色をした甘味であった。どうも今日はキャッシングといい、勘違いが多いようだ。クルーズが終わって気が緩んだのだろうか。

観光列車はほぼ満席で発車し、途中一箇所の駅ですぐ上にある滝見物のために短時間停車した後に終点駅に向かう。最果ての鉄道と名うっているが、それだけが売り物であり特に変わった景観があるわけでもないので、乗車時間1時間強で一万円強というのは、随分と強気の商売をしているなあと感じた。

終点に着くと乗客の多くは待機していたマイクロバスに乗り込んでいく。私はマイクロバスのツアーには申し込んでいないので遊歩道を少し歩いてみるが、どうということはない道で、これで二千円とは高いなと感じた(マイクロバスならば湖まで行けるようなので、それなりの景観は得られるのだろうが)。どうもウシュアイアは観光客を食い物にしているなと感じた。歩いてもしょうがない道だと感じたので駅に戻ってみたが、誰もいないし帰りの列車の時刻もわからないので、どうしたものかと思っていたら、ちょうど遊歩道を歩き出す人がいたので、その後を付いていけば帰りの列車に間に合うのではないかと考えて後を歩くことにした。

ただ彼らは途中の休憩が多いので、途中で追い抜いて適当な所で自動車道に上がって駅に戻ることにしたが、駅に戻ってしばらくしても誰も戻って来ないので、業を煮やして始発駅まで戻ることにした。始発駅までは小一時間で着き、そこからはタクシーでも帰れるのだが、まだ3時半であり、早く街に戻ってもやることもないので、このまま歩いても7時頃には宿に着けるだろうから、最後のウシュアイアの町歩きを楽しもうと歩いて帰ることにした。

ウシュアイアにはクルーズ船の申込みのために1週間ほど滞在していたこともあり、街は知り尽くしたように思っていたが、似たような街並みが続くので意外と迷いやすく、宿には朝荷物を置くために立ち寄ったにもかかわらず最後で迷って右往左往してしまい、三十分ほど時間をロスしてしまう。ドミトリーに入ると、クルーズ船で一緒だった見覚えのある顔があって挨拶したが、豪華クルーズ船の乗客ならばドミトリーに泊まるなどということは絶対にないだろう。

3月9日

目覚めるとバナナ一本だけ食べて、タクシーで空港に向かう。出発の4時間も前に着いてしまったが、朝食とブログ書きで時間を潰す。定刻どおり12時15分に出発したが、ブエノスアイレスまでは3時間以上の長いフライトである。出発も到着も国際空港ではあるが、フライト自体は国内便なので、食事時間帯にもかかわらず食事のサービスはないようだ。有料でもいいから食事にありつきたかったが、待ち時間の間になにか買っておくべきだった。もっともサンドイッチに類した食事には飽きてしまったのも事実だが。

と思ったらブエノスアイレスに近づいてから、飲物と菓子類のサービスがあり危ういところで餓死を免れた(笑)。また私の席は窓側で通路側の乗客は熟睡しているようなのでトイレに行きにくいなと思っていたら、持参の食料を食べだしたのでトイレにも行けて、これで着陸するまでやるべきことはなくなった。

空港ではターミナルの建物のすぐ横まで飛行機は来ているのに、わざわざバスに乗り換えてターミナルまて行くことになる。もう少しターミナルまで接近すれば、乗り換えずにターミナルに行けるものを。荷物の受取では自分の荷物が一番最後になってしまったが、こんなこともめずらしい。係員に追い立てられるように誰もいなくなった受取所を出ると、空港バスの乗場には行列ができている。ここからが今日の山場である。旅行者の空港から市内へのアクセスはタうクシーか空港バスが一般的だが、まだ残高がかなり残っている交通カードを使って路線バスで向かってみることにしたのである。タクシーや空港バスを利用するには手持ちのペソでは足りないのでATMでキャッシングしなければならないが、翌日にアルゼンチンを離れるのに、キャッシングするのも馬鹿らしいと思ったからである。

ブエノスアイレスのもうひとつの空港はカラファテに行く時に利用したので要領はわかっているが、今回の空港は初めてだったので路線バスの乗り場がどこにあるかわからず、グーグルマップで検索すると5分ほど歩いたところにバス停があるようになるので行ってみたが、バス停らしきものはないし、バス待ちの人もいない。そこで空港バスの所に戻ると、隣のバス停には旅行者ではなく地元の人が行列しており、行き先もメルカドール セントラルと書いてあるので、これに間違いない。路線番号は8番となっているが、バス停の場所は空港ビルから少し離れているのでネットは通じないが、さきほとネットが通じる時にみた記憶では確か8番のバスに乗るようになっていたと思う。念のために並んでいる人に交通カードを見せて、これで乗れるかと聞いたら乗れるような感じであった。

バスは予想した通り、ホテルの近くまで行くバスであったが、日本のように降車ベルがあるわけではないので、運転手に降車したいことをしらせる術がわからなかった(前回乗った時は終点や皆が降りる所だったので問題はなかった)。そのため、降りたかった所よりも少し先のバス停で、他の人が降りる時に一緒に降りたので、少し戻らなければならなかったが、まあ大した距離ではなかった。

今日のホテルもわかりにくいところではあるが、前回も泊まっているので問題はなかった。支払をPayPalでしようと思って、前日に練習をしたのだが、うまくいかず結局はなけなしのドルで支払うことになった(アルゼンチンベソが高インフレで価値が低下しているので、ドルに直結したものでないと受け取りたがらないようだ)。今日は上手くいくことと、失敗があい半ばしていたので、点数をつけるとすれば60点くらいか、

宿に着いた後に前にも行ったことがある和食店に行き、ウシュアイアで行こうと思っていたすし店がみな閉まっていたことからすしを注文したのだが、いざ食べてみると注文しなけりゃ良かったというレベルで本日の平均点を下方修正させるものであった。

3月10日

いよいよアルゼンチンにおさらばする日である。今日のサンティアゴ行きの空港はカラファテに行く時に利用した国内便中心のもので、かって知ってる空港ということで地下鉄と路線バスの乗り継ぎも問題はなかった。ところが、チェックインカウンターに向うと国内便のばかりで国際線のものは見当たらなかった。そこで近くにいた警備の人に国際線のチェックインはどこだと聞くと二階だと言われたので二階に行くと、いきなりセキュリティとなる。発展途上国ではチェックインの前にセキュリティがあることも珍しくはないなので、そのまま進むと1階でチェックインをしてから来いと言われる。そこで1階に戻ってチェックインの係員に国際線のチェックインの場所を聞くとカウンターの番号を教えられ、そちらに向うと確かに国内便のチェックインカウンターの中にポツリと国際線のチェックインカウンターがあった。国内線中心の空港で国際線に乗ろうとしたためのトラブルであった。

Eチケットには預け荷物は一個で15キロ以内と書かれていたので、それに合うようにしたつもり(重量は手で持った感覚だが)だったが、約5500円の超過料金を取られてチェックインは完了し、余ったアルゼンチンペソ4000ペソ(約700円)も飲物とスナックで使い切って、これでアルゼンチンとは完全に縁が切れたことになった。昼食を食べる時間はあったが、国際線だから食事は出るだろうと思って食べなかったら、結局、飲物とスナックしかでなかった。サンティアゴ便は空港もフライトも国内線扱いということなのか

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2024年3月 9日 (土)

南極クルージング

2月27日

いよいよ南極へ出発する朝が来た。前夜は興奮したのかあまり良く眠れなかった。朝食前に昨日予約しておいたスポーツ店にレンタルの防寒服を受取りに行く。十日間のレンタル料が1万5000円くらいで、アコンカグアでガイドに私のダウン服をあげなければ借りる必要はなかったのだが、その場合はメンドーサからここまで、さらには下船後は帰国まで運ばなければならないことと帰国後は使う可能性はまずないことを考えると、やはり手放してしまってよかったと思う。

ホテルに戻ってから朝食を食べてチェックアウトの10時まで粘る。クルーズ着のチェックインが3時半だから、まだだいぶ時間があるが港にある案内所で時間をつぶすことにする。あそこならばクルーズのチェックイン場所と近いし、WiFiも一応は通じるようだ。港にくると昨夜一隻だけ停泊していて、あれに乗船するのかと思っていたクルーズ船は出航してしまい、新たに3隻のクルーズ船が着岸しているので、そのうちのどれかに乗船することになるのだろう。

チェックインは3時半でだいぶ時間があるが、こんな大きい荷物を持って出かけるあてもないので観光案内所でそのまま待機する。案内所には大勢の観光客が出入りするが、日本人は見かけなかった。やはり日本人は正月前後の限られた時期に集中するのだろう。そのせいか、今の時期はグーグルマップに載っていたウシュアイアのすし店も軒並み閉店していた。

集合場所がわからなかったのでチケットを見せて案内所の人に聞くと、正面の船着き場の待合室だという。たしかに待合室には大きな荷物を持った人が何人か座っているが、クルーズ船の乗客にしては人数が少なすぎる気がした。そのうちに少しづつは大きな荷物を持った人も集まってきた。そして係員の呼びかけがあり桟橋の方に誘導された。桟橋には6隻のクルーズ船が停泊していたが、その中でクルーズ船とは思えないほど小さい船が私の乗る船であった。他の大型船に向かう乗客もいたが、彼らはほとんどが身軽な格好で来ているが、私の乗る船に向かってくる人は皆大きな荷物を携行している。その違いの理由はすぐにわかった。大型船に向かう乗客は、荷物はどこかで船会社の方で預かって部屋に運び入れてくれるので身軽で来られるが、我々は自前で船まで運ばなければならないのである。

ここで私が支払ったクルーズ料金が一般のクルーズ料金と比べて三分の一以下となっている理由もわかった気がした。たしかにひと昔前は、出航直前のクルーズについてはラストミニッツと言って正規料金よりも大幅に値下げした料金で乗船できることも珍しくなかったが、最近は中国人旅行者の増大により大幅な値下げは難しくなっていると聞いていたのに、今回は昔のラストミニッツ並の値下げかと思われるような値段で募集していたのは、正規料金自体が大型船のそれよりも安いことも与っているのだろう。もちろんラストミニッツとしての値下げはあるのだろうが。まあ豪華客船の旅を楽しみに来ていたわけではなく南極に行くことが目的なのだから、多少サービスが悪くとも安い方がいいに決まっている。歌の文句じゃないが、「南極に変わりがあるじゃなし、着いてしまえば皆同じ♪」である。ただドレーク海峡での揺れが大型船に比べて激しいであろうことは覚悟しなければならないだろう。ただ小さい船だから迷わないだろうと思ったのは大間違いで、迷路のようになっていて迷ってばかりいた。

船内に入って自分の部屋に行くと、後から相部屋となる人が入ってきた。オーストラリアから来た若者で人柄も良さそうだったので、十日間生活を共にする相手としては安心した。船内には他に日本人カップルが一組、台湾からは3人乗船しているほかは、総勢百人弱のうち欧米系の人が大半であった。食事のテーブルでも英語の会話が中心となるが、苦手な英会話ではアコンカグア登山の時と同様に苦手であることを知ってもらえば、必要なこと以外は話しかけてこないので気が楽である。

ちんぷんかんぷんのオリエンテーションが終わるとディナーの時間となったが、これも一般にイメージするような豪華な食事ではなく質素なものであり、アルコールも飲み放題ではなく有料で現金払いのようなので、クルーズ料金を現金払いしたために金欠病になりかかっている自分としては、休肝日が続いてもやむを得ないかなとも思えた。昨年のクルーズでは栄養過多となって一時的に体調を崩したが、今回はアコンカグアでも禁酒が続いたこともあり、普段よりも健康的な生活をしているかもしれない。また、この船には富裕層はまず乗ってないだろうから、富裕層に気を使う必要がないことはありがたい、

明日は問題のドレーク通路である。どれほど揺れるのか、半分心配、半分楽しみである。

2月28日

例によって早朝から目覚めたが、隣のオーストラリア人は熟睡している。船は既にドレーク通路に入ったようであるが、それほどの揺れではない。外が明るくなってきたので甲板に行ってみたが、女性が1人いただけで皆さんはまだお休みのようである。まわりには島影は全く見えない大海原である(後方にはフェゴ島方面が見えるはずだが、ボート等が積載されてるので見通しがきかない)。

8時に朝食なので、少し前からホールに出てコーヒーを飲む。やがてホールにいた連中も食堂の方に移動しはじめたので後に着いて行く。朝食はハム、チーズ、ベーコン、スクランブルエッグに果物が用意されている一般の朝食スタイルである。テーブルは狭いし会話には加われないので、食事が終わると早々に席を外して隣のホールに戻る。まあ十日間だからどうということもないが、これが世界一周で3ヶ月以上も続くとなると、ちょっと厳しいかもしれない。

ホールではタブレットの音楽を聞きながら(もちろんイヤーホーンで)、持参した関野さんの「グレートジャーニー」を再読していれば退屈することもないし、眠くなれば、そのままソファーでも部屋に戻ってベッドでも眠ってしまえばよいので極楽である。映写室では南極の自然についてのレクチャーがあり、説明は全然わからなかったが画像と説明の文字があったので、多少は理解できた。

危険防止のため甲板に出ることは禁じられているので窓から眺めるしかできないが、波は高いものの船の揺れはそれほどでもなく、この程度であれば船酔いの心配は全くない。大型客船ならば乗客を退屈させないために様々なアトラクションがあるのだろうが、この船ではそのようなサービスは期待出来ず、乗客個人々々の忍耐力が問われている。

昼食もサラダとお粥っぽい混ぜご飯の簡単なものであった。食後にホールでコーヒーを飲んだ後に充電したタブレットを取りに部屋に戻ると、相部屋のオーストラリア人は寝ていた。夜もあれだけ良く寝ていたのにまだ眠れるなんて若い証拠だ。年を取ると、眠るのも体力がいるということを痛感する。午後になって波は依然として高いものの青空が広がってきた。と言ってもまだドレーク通路の真っ只中でまわりには島影は全く見えない。GPS対応のオフライン地図アプリのmaps-meで見ると、行程の四分の一から三分の一ほどを消化した感じか。この調子ならば、明日中には大陸にかなり近づくことも可能か

しばらくしてから昼寝をしようと部屋に戻ると、オーストラリア人はまだ寝ていた。本当によく寝る人だ。自分は30分ほどウトウトしたが、あまり寝ると夜眠れなくなってしまうので起き上がってまたホールに戻る。ちょうどオヤツの時間だったので、どんなオヤツかと楽しみにテーブルを覗いてみたが、ケーキ類とは程遠い駄菓子のようなものがお皿に盛ってあるだけだった。まあ無いよりはましだけど。ランチが12時でディナー(と呼ぶには少々おこがましい内容だが)が8時だから、ちょっと間が空き過ぎる。事前にわかっていれば菓子類を持参したのだが、ネットで記録を読んた限りではその必要は感じなかったのだが。もっとも、ほとんど体を動かしてないので腹が減っているわけではなく、単に暇つぶしに小腹を満たしたいだけなんだけど。

夕食前に現在地を確認するとだいぶ前進していて、行程の三分の一は優に越えており、大陸の一部である半島ではなく、手前にある島までならば十分半分は達しているだろう。そういえば朝から1時間に1回は現在地確認をしているみたいだ。このブログを書くのも時間潰しには役立っている。夕方に薄ら寒く感じたので部屋に戻ってセーターを着てからホールに戻ったら誰もおらず、予定より30分ほど早くスタートしたディナーに出かけてしまったようなので、あわてて食堂に向かう。今日のディナーは昨晩よりも多少はグレードアップしたようである。決して安くはない費用を払っているのだから、このくらいの食事は出してもらわないと。

食後はスマホに保存してあった孫たちの写真や動画を見て楽しむ。普段はいつでも見られるということで見ることはなかったが、こういう機会に見てみると孫たちの成長の跡が追いかけられて実に楽しく、これで数日は楽しめそうだ。明日の航海を乗り切れば半島間近まで近づけるだろうから、明後日はいよいよ待望の南極上陸が実現できるだろう。待ち遠しいものである。

2月29日

今朝は珍しく目が覚めると外はもう明るくなっていた。緯度が高くなって夜明けも多少は早くなったのかもしれない。ホールに上がって地図を確認すると、南極はもう目の前である。ホールからは前方は見えないのでまだ大陸は見えないが、もうしばらくすると大陸手前の島を回り込むために旋回するだろうから、そうしたらホールからも大陸が真横に見えてくるはずだ。初めて見る南極大陸の姿が楽しみだ。

朝食の後に翌日の上陸に備えて貸与されるブーツのサイズの申告しなければならなかったので、通常よりも1センチ大きい27.5cmで申告しておいた。今日は曇っているせいもあるが、半島手前の島までは100キロほどに近づいているにもかかわらず、なかなか姿が見えずじらされているような気分になる。

ホールの隣の映写室は1人用の椅子がいくつかあって他人に煩わせずに寛げるので休んでいると、南極の観測の歴史についてのレクチャーがあり内容は全く理解できなかったが、参加者からは活発な質問が出ていて参加者は熱心な人ばかりなようなので自分も真剣に聞いているふりをしながらイヤホーンで音楽を聞いていた(ゴメンナサイ)。

昼食も前日よりもレベルアップした内容で、このレベルで続いてほしいものである。食後は翌日の南極大陸上陸を控えて注意事項とライフジャケットと長靴の貸与があった。その中で日本人がもう一人参加していることが判明。若い女性で8月から中南米の方から来て、クルーズ後は南米の北上を予定しているそうだ。

夕方になると船は島の間の狭い海峡を通るようになり、ナイフで切り落としたような岩壁と分厚い雪に覆われた島が迫ってくる。ついに南極に来てしまったんだという実感が湧いてくる。夕食前に最後のミーティングがあったが、翌日は朝食が1時間早まって7時になることと、荷物のチェックが8時過ぎにあることは聞き取れたが、あとは全然わからなかった。まあ皆に付いていけばなんとかなるでしょう。その晩は興奮したのかなかなか寝付かれなかった。

3月1日

なかなか寝付かれなかった割には5時前には目が覚めてしまった。緯度が高いせいかもう外は明るかった。部屋の窓は小さいのでホールに出てみると、まわりは流氷だらけで南極に来たんだなあという感を深くする。朝食を食べてしばらくすると、係の人が各部屋に荷物のチェックにやってくる。念入りに調べていき、パーフェクトのお墨付きをもらう。あとは小舟に乗り込んで上陸するだけだ。

9時過ぎに小舟に乗り移って少し離れた小島に向かう。1隻に乗客8人が乗って4隻でピストン輸送するが、かなり揺れるし水も浴びてしまう。上陸した地点は石だらけの浜辺であたりには全く雪がないので、南極に来たという感じがあまりしない。アザラシだかオットセイだかよくわからないがうじゃうじゃいるし、ペンギンもたくさん見られるが、環境保護のため近寄れないので動物園で見るのとあまり変わりはない気がする。せめて雪の上にいるペンギンを見てみたいものだ。今日は午後にも上陸があるのでそれを期待したい。

毎回のことだが、食事の時間は食事自体は楽しみだが会話についていけないのが辛い。今回のアコンカグア登山でも同様であるが、ただあちらの方は私の英会話能力(特に日常会話能力)がないことがわかってから、必要なこと以外は話しかけてこないのだが、クルーズ船の場合は4人席ないし2人席のメンバーは毎回変わるので、私に英会話能力がないことを毎回知ってもらわなければならないのが、辛いところである。クルーズの食事はまだ10数回あるが、それを乗り切ればあとはまた気楽な一人旅に移れるので、もうしばらくの辛抱である。クルーズは途中で離脱するわけにはいかないし、会話に入らないからといって別に危害を加えられるわけでもなく、ただ空気のような存在になればいいだけなのだか

午後からも上陸が予定されていたのだが中止のアナウンスがあって(ヒアリング能力の不足で理由は不明)、上陸予定地を離れて別の場所へ移動していく(多分、翌日の上陸予定地)。その途中で巨大な氷の島(浮いているだろうけど)がいくつも現れて目を楽しませてくれる。こういった景色を見ているとはるばる南極に来たんだなあという感を深くする。

夕食前に多分翌日の行動についてだと思うがレクチャーかあったけれど、例によってチンプンカンプン。ただ南極クルーズでは恒例になっているらしい海へのダイビングのことと、起床時間が5時半、朝食が6時と早いことだけはわかった。なお、ダイビングについては希望者の挙手を求めていて勿論挙手しなかったが、8割方(若い人はほぼ全員)が挙手していたのには驚いた。夕食も例によってまた蚊帳の外であるが、多少は私に気を使ってゆっくりとしゃべってくれる人もいたので、少しは楽だった。

3月2日

今日は5時半起床と今までで一番早かった。少し眠かったが起床時間前に起きてホールに行き、6時半からの朝食に備える。今朝は一つの作戦を考えた。朝はバイキングなので着席するとすぐに食べられる。そこで食堂が開く前の順番待ちの先頭近くに並び、食堂が開いて皿に料理を盛り付けたら一番遠くの4人席まで行ってすぐに食事を始めるのだ。私よりも後に並んだ人はだいたい手前の方から座って行くから、私の席は食べている間は同席者はなくて、会話に煩わせることがなく食事を終えることができる。日本では考えられない不必要なことだが、苦肉の策として考えつき大成功であった。

今日の午前中の上陸は内海のような所から取り付くので大型船では多分接近ができないだろう。ゴムボートに乗っている時間もわずかで浜辺に着く。浜辺には廃墟のような建物の残骸と居住していた当時に使用されていたと思われるタンクが残っている。これらについては前日のレクチャーで解説があったのだろうが、全く理解できなかったので分からずじまいである。

今日の上陸地は雪山に囲まれていて昨日の上陸地よりも南極らしいところである。近くにはペンギンやオットセイがたくさんいるが、自分とのツーショットを撮ろうとしても、近づきすぎるとガイドに注意されるので、ペンギン等は小さくしか写らないのが残念である。近くには小山があって皆が登っているので後を付いていくと、噴火でできた丘のようで噴火口の後は池になっていた。

上陸地点に戻ると皆は荷物を置いていっせいに脱ぎだした。南極クルーズ名物のダイビングの始まりである。私は寒さには強いが、冷たいのは苦手なので見物だけにとどめる。見回すと、私よりも年輩と思われる人まで結構ダイビングしているので驚く。ボートでクルーズ船に戻ると、ダイビングした人はすぐにシャワーで体を温めているため、まだ空いているホールでコーヒーを飲んだりリンゴをかじったりして時間を潰す。

昼食を終えて一休みしてからペンギンの営巣地に向かうと雪山の麓の乾いた浜辺がペンギンの大営巣地になっていた。今まで来た三か所の中で一番南極っぽい所のような気がする。これだけたくさんのペンギンを見ると、もうペンギンは見飽きたというと贅沢になるが、ペンギンを見てもあまり感動しなくなるような気がする。浜辺を小一時間ほど歩いた所にボートが待っててくれたので、道を戻らずにそのままボートでクルーズ船に帰ることができた。

夕食前にまたミーティングがあったが、今まで以上に内容が理解不能だったし、理解しようという気も起きなかった。まあ最悪の場合は場合は仮病を使ってベッドで休んでいれば船は間違いなくウシュアイアに着くだろうし、南極ではペンギンやアザラシ等の動物も見たし氷山や雪山も見たので、これ以上は見なくても心残りはないと思われる。それにしてもクルーズ船の旅が言葉の壁でこんなに苦労するとは乗船するまでは思っても見なかった。

ミーティングが終わると夕食時間となったので、皆は食堂に向かってぞろぞろ歩き出したが、私は時間差作戦を取るため部屋に戻り、三十分ほど経ってから食堂に向かう。すると、ほとんどの席は埋まっていたが、奥の別室のような所だけは空席があるようだった。まだ、その別室には行ったことはなかったが、4人席がまるまる空いていた。これはシメタと思い、これで日常会話の相手をする煩わしさから逃れられると喜んで座ってまわりを見回すとアフリカ系と思われる人ばかりであつた(1人は手で食べていたからインド人かもしれない)。これは隔離政策ではと一瞬思ったが、まあ自分も有色人種なんだからいいやと考え直した。この方法と朝1番でバイキングから離れた席に座ることとの併用で残る5日間もなんとか乗り切る目処が付いた。

夕食後に映写室で映画をやるということでちょっと覗いてみたが、期待していたような南極の自然を映し出すものてはなかったので、部屋に戻ってグレートジャーニーの続きを読むことにした。

3月3日

本日も朝食は一番乗り作戦で2人席を確保し、同席者なしで日常会話に答える煩わしさから解放される。食後間もなくして三日目の上陸が始まる。船の横には雪がべったりついた半島が見えて一体どこに上陸するのかと思ったら、船の後ろから出発して正面の小島に上陸するということである。これで上陸したのは島ばかりで大陸そのものにはまだ上陸していない。まあどうでもいいと言ったらどうでもいいのだが、今日の午後はボートによるクルージングで上陸はしないようなので、上陸のチャンスは明日の午前中が最後かもしれないが、果たしてどうなることやら。

今回の上陸では初めて雪の上を歩き、多少は南極らしさを味わう。ペンギンも相変わらずたくさんいたが、ペンギンは見飽きたというのが正直なところで早い順番のモーターボートに乗って本船に戻ってきてしまった。昼食は例によって「隔離室」の2人席に座るが、私の席の向かいは四方を他の座席で囲まれていて入りづらいので、まずは他人が座ることはないだろうという絶好の席を見つけたので、これからはここを自分の指定席とすることにしよう。さらに、この「隔離室」だけにはチャパティという北インドの主食である薄く焼いたパンが配られて、まるでインドにいるみたいな気がした。ひょっとして春節の頃は拉麺が配られたりして!と思ったら、乗客の1人が持ち込んだものが周りの人に配られていたようだ。ウシュアイアで焼いてきたのかな。

午後はモーターボートで1時間ほど氷山巡りをして本船に戻った。今回のクルーズの中でもっとも南極らしいところであったが、モーターボートの乗客がみな大騒ぎしている中で私だけ静かにしていたので、変な目で見られてしまった。夕食前にホールで休んでいると、みんなが大騒ぎしているのでなにごとかと思ったらクジラの出現であった。昨年の慶良間でクジラは堪能しているので、さほど珍しくはなかったが、あの時はクジラのウォッチングだけを目的に行ったのに対して、今回は副産物として見られるのだから、初めて見た人にとってはラッキーだと言える。

夕食は例によって指定席に座っていると、昼も私の後ろの2人席で食べていた日本人夫婦が、ここが居心地がいいと言って、また私の後ろに座ったので、ますます有色人種の溜り場になってきたようである。夕食のメニューは野菜炒めと豆のスープに白米というベジタリアンメニューだったが、意外とボリュームがあってこれで十分だと思ってたら肉団子にマッシュポテトを添えた料理が運ばれて、それを食べたら最近は小食傾向となっている自分の胃袋にとっては食べ過ぎらしく、南米に来て初めて胃薬を飲む羽目となった。

夕食後は明日の行動についてのレクチャーがあり、例によって細かいことは理解できなかったが、今までそれで困ったことはないので、わからなくても全然心配しなくなった、それが良いことかどうかはわからないが。

3月4日

相部屋のオーストラリア人はまだ暗いうちからどこかに出かけて行ったが、だいぶ経って明るくなってからホールに行ってみてもいなかった。夜も遅くなるまで部屋に戻ってこないので、きっとどこかの部屋の住人と仲良くなって、そちらの部屋に入り浸っているのだろう。自分の部屋に戻っても、言葉が十分通じない年寄りがいるだけでつまらないだろうから。

今日もまたどこかに上陸するのだろうが、正直もう飽きてしまったものの、昨日のレクチャーでは最後に半島そのものに上陸するような説明もあったのでそれに期待したい。せっかく南極に来ても島ばかりで大陸自体に上陸しないのでは物足りない気がするからだ。実は南極に着いた初日か二日目に半島の先端に上陸する予定であったが、上陸予定地の状態が悪いということで上陸が中止されていたのだ。

朝食後に本日のスケジュール表を良く見たら、午前午後ともモーターボートによるクルージングとなっている。1日に2回もクルージングに行くのは億劫だし、少し風邪気味で1時間ほどのクルージング中に強い風を受け続けるのは1日一回に抑えたいとも思ったし、昨日のクルージングの経験で、隣の女性客が喋り続けているのに少々うんざりしたという面もあった。

ところが今日は2回ともクルージングだと思ったのは私の勘違いで、午前中は対岸の半島にある観測基地の真下まで行って引き返してきたようである。観測基地を訪問することもできないことはないようだが、いろいろと手続きが面倒なようである。モーターボートのクルージングは午後一回のようなので、そちらも参加しないことを相部屋のオーストラリア人に告げて一寝入りしたが、彼はクルーズ用の服を着て部屋から出ていったものの、いつまで経っても救命胴衣を取りに来ない。変だなと思って外を見るとクルーズ船は動いているではないか。ということは、午後のモーターボートクルージングは中止になったということなのだろう。外はどんよりと曇っていたので、天候不良が中止の理由だろうか。まあずる休みが一回ですんだのは良かったが。

ところが5時過ぎに船が止まり、モーターボートを下ろし始めた。こんな時間に何事が始まるのかと思ったら、たしかに対岸の島は目の前なので午後の行動ができなかったので、希望者だけでも行動するということか。こんな時間に島に渡ってもしょうがないと思うが、フルに行動したいという熱心な連中が多いのだろうか。この分では夕食の時間が遅れてしまうかな。そろそろ空腹になってきたのだが

6隻のモーターボートが出発し、すぐに戻ってくるのかと思ったら1時間以上も対岸の島の近くを巡って戻ってきた。すると、先発のボートに乗り切れなかった人たちが入れ替わりに乗り込んで出発していった。雪まで降ってきたというのに元気な人たちである。私はもうウシュアイアどころかブエノスアイレスあたりの気温の高いところに戻りたくなってきたのにである。

8時過ぎには夕食たなって指定席に座ったが、周りのインド人たちの喧騒がたまらなくなり、早々と席を離れる。そういえば今夜は純粋のベジタリアン料理だった。まあウシュアイアに戻ったらたらふく肉を食おう。食後は翌日の予定の説明があるのだろうが、早くひとりになりたかったので部屋に戻ってしまった。明日の予定表はどうせ張り出されるだろうし、それ以上のことは聞いてもわからないのだから。

3月5日

朝目覚めると雨が降っていた。一応午前中は行動予定があり、午後はドレーク海峡に向かって進む予定となっているが、この天気では午前中の行動はないかもしれない。まあ、それならそれでいいけど。

朝食後にアナウンスがあり、天候が悪いので午前中の行動は中止となってドレーク海峡に向かうことになったようである。まあ南極は十分に堪能したので、これで無事にウシュアイアに戻れればそれで満足だが。あとはドレーク海峡での揺れが我慢できるほどのものであることを祈るだけである。

昼食後にいよいよドレーク海峡に向けて進んでいるようで船の揺れが激しくなってきた。通路を歩く時には物に掴まらないと進むことが困難になってくる。まだドレーク海峡のほんの入口でこれだけの揺れだから、これから先が思いやられるが、この洗礼に耐えないと楽園?には辿り着けないのか

夕方頃から揺れが一段と激しくなってきたせいか、夕食のテーブルも空席が目立った。同じ部屋のオーストラリア人も船酔いが激しいらしく昼頃からずっと寝たままで食欲がないようなのでリンゴを持ってきてやった。私はと言うとまったくへいちゃらで、自慢じゃないけど生まれてこのかた70数年で乗物酔になったのは、屋久島からの帰りに一度あっただけである。あの時は、今回のように単に横揺れするだけでなく、ジェットコースターのように高い所から奈落の底に突き落されるような揺れが続いて、さすがに少し気持ちが悪くなったことがあるが、このくらいの揺れならば1日中続いても平気で、まあ船が転覆さへしなければノープロブレムである。

3月6日

まだドレーク海峡の半ばには達してないが、揺れは多少は静まってきたようである。この調子で行けば、明日中にもウシュアイアに着いてしまいそうだが、そうなると明晩の宿も新たに確保しなくてはならないので、多分、その場合は港に停泊して朝まで待つことになるのだろう。早く下船したい人だけは下船させてくれるかもしれないけれど、その場合でも私は船にとどまるつもりだが、一方では、ネットに早く繋げたいので、案内所のWiFiが夜間にはクルーズ船内にまで届くとよいのだが

昼食後に地図を見たら行程の半分ほどは来ており、翌日中にウシュアイアに着く可能性は高くなってきた。揺れは多少は弱まった基がするが、隣のオーストラリア人はランチも食べずに寝ていて船酔いはだいぶ深刻なようなので、3時過ぎにりんごを二つ持ってきてあげた。だんだんと揺れも静かになってくるから、酔もおさまってくるだろう。

夕食の時間となり、オーストラリア人も空腹と言ってたので一緒に行こうと誘ったが、なんとかかんとか言って(実際は何と言ってるのか聞き取れなかったのだが)、来なかったので1人で行くと、またもやベジタリアン食であったのは食材が切れてきたためだろうか?まわりのインド人はベジタリアンが多いのか満足しているようだが、別室の西洋人はこんな食事で満足しているのだろうか(西洋人にもベジタリアンはいるだろうけど)。

私自身について言えば、クルージング中は野菜中心の食事に加えて、アルコール飲み放題の期待が外れて現金払いとなっており、金欠病の身としては断酒せざるを得ないので、きわめて健康的な生活を送っている気がする。もちろん下船すればカードでキャッシングはできるのだが千円ほどの手数料がかかる上、キャッシングし過ぎてアルゼンチンペソを余らすとチリでは両替できても価値が半減してしまうので、下船後の2日半のアルゼンチン滞在ではカード払いで済ませてアルゼンチンペソをなるべく使わないつもりでいるのだ。

ホールでコーヒーを飲み終えて部屋に戻ると、当然食堂に行っているであろうと思ったオーストラリア人はベッドで寝たままである。不審に思ったが理由はあえて聞かなかった。どうせ説明されても理解できない可能性が高く、想像するに空腹ではあっても食べると戻したりするかもしれないから食べないのだろうが(これだけのことをネイティブの言葉でしゃべられると、多分理解できない可能性が高い)、まあ、勝手にしやがれである。そういえば先ほど電話番号を聞かれて教えたんだけど、下船後に英語で電話をかけてこられても困るな。もっとも、日本からの不用の電話がかかってきて国際電話料金をこちらが負担することになってはかなわないので、海外旅行中は通信SIMは使用しない設定になっているため、仮に電話をかけてきたとしても繋がらないのだが

3月7日

ドレーク海峡の最も荒れる部分は通り過ぎたのかだいぶ揺れもおさまってきた。明るくなると同時にホールに上がって現在地を確認すると、ビーグル水道も間近であった。いつもは朝食は一番乗りしていたが、日本人の女性客と話をしていて出遅れてしまったため、食堂が空くのを待って入ると、さすがにこの時間になると四人席でも結構空いていた。これがクルーズ最後の朝食となるのか、最終日は8時下船だが早めの朝食があるのか、今のところは不明である。

午前中はバーで飲んだ飲物の精算をやっていた。私は無料のコーヒー以外は一切飲んでないので関係ないが、累計が100ドル以下はドルの現金払いで、それ以上はカード払いが可能と書いてあったので、もし利用していれば100ドル以上になって貴重な現金を使わなくて済むように細かく消費金額のチェックをしていなければならないところであった。またチップを任意の金額で払わなければならないのだが、そちらはカード払いが可能なようなので何とかなるが、こんなものは料金の中に含めてほしいものである。

ところがところかである。カードでチップを払おうとしたら、クルーズ申込みの時と同様にどのカードも使用不可のメッセージが出てチップが払えないのである。やむを得ず、チップの最低は150ドルらしいのだが、100ドルに負けてもらって現金で払うことにした。手持ちのドルが少なくなるのは寂しいことではあるが、100ドルを手放しても大勢に影響はないことなので、アルゼンチンではカード払いができる支出のみをすることにして、チリに行ったら手数料は高いがATMでキャッシングすれば何とかなるだろう。

その後、ホールで全員に南極上陸の証明書が手渡されシャンパンで乾杯してセレモニーは終わって夕食に移り、最終日の予定は全て終わった。いや、正しくは、預けてあるパスポートをまだ返してもらってないのでその手続きだけが残っている。これを忘れて下船してしまうと、たいへんなことになってしまうので、寝てしまう前に忘れずに返してもらわなければならない。なんでも全員の支払完了を確認してから返却するとのことで、私がカード決済不良で支払が遅れたことも原因の一つに無っているのかもしれないが。

間もなくしてパスポートも戻り、あとは翌日の朝食を食べて下船するだけとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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