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2024年5月

2024年5月31日 (金)

蓬莱山

金沢駅を始発の6時敦賀行きにどうしても乗らなければねらない。これに遅れると次は45分後であるが、敦賀から先の接続が悪くて志賀駅への到着時間が2時間も遅くなるからだ。敦賀までは1時間もかからずに到着。これで、今回の目的のひとつの北陸新幹線全線乗車が果たせた。


敦賀からは北陸線、湖西線と乗り継いで蓬莱山登山の最寄り駅である志賀駅に到着。大荷物だったので、駅に置いて行きたいが、ど田舎で駅員もおらず、乗降客もほとんどなければともかく、志賀駅はどちらにも該当しないので、どうしようかなと思案する。駅前に屋内のコインロッカーはあるのだが、4時50分までしか使えないというので、帰りが遅くなるとピンチである。すると、駅前からびわこバレーロープウェイの山麓駅行きのバスがもうすぐ出発するということで、山麓駅まで行けば荷物を置くことはてきるでろうと、バスに乗ることにした。


当初は駅から歩くつもりで、その場合は標高差が千メートル以上あって大変だと思っていたが、だいぶ楽になりそうだ。山麓駅にもコインロッカーがあって遅くまで利用できるので荷物の問題は解決した。最初は山麓駅から頂上まで往復するつもりであったが、日和って、蓬莱山の肩にあたる打見山までも歩かずに登りだけはロープウェイに乗ってしまったが、結果的には大成功であった。ロープウェイ終点の打見山は琵琶湖から北方の山々までの360度の展望が楽しめ、蓬莱山までの草原のハイキングも楽しめる。蓬莱山頂までもリフトが利用できるが、もちろん歩いて行く。


山頂には登山者はほとんどおらず観光客ばかりであったが、そのせいか山頂の標識もなかったので、測量の基点となる石標を山頂の標識に見立てて記念写真を撮っておいた。山頂からロープウェイ山麓駅に向かう道を探していたら、何パーティーかが下っていく道があったので、あまり考えもせず下りかけたが、どうもおかしいと思って地図で確認したら、ロープウェイ山麓駅に降りる道ではなく、当初予定していた湖西線の駅に直接降りる道に繋がっているコースであった。


それでは山麓駅へ降りる道はどこかなと探していたら、スキーシーズンにスキー場の外周を示すロープのつながりの中で一部切れている箇所がおり、なにやら標識らしきものも見えるので近寄ってみると、文字は古いが確かに山麓駅と書いてある一方で立入禁止の立て札もあって、小さな字で「ここから先はぴわこバレー施設の管理外」と書いてあった。要するに、往復ともロープウェイに乗ってもらい、この道は使って欲しくないがそれでもこの道を使いたい人は自己責任でどうぞと言うことらしい。


山麓駅への下山路はほとんど人は歩いてないような道で、標識はなく、マーキングもほとんどないが、一応踏み跡はあるので、道を踏み外さなければ進めるという程度の道である。ただ尾根が広くなっている所では、地図と磁石とGPSで進路を判断して行かなければならないので、経験の浅い人には難しいかもしれない。このまま山麓駅まで降りられるかなと思ったら、倒木帯となって前進を阻まれる。そして踏み跡も見失ってしまい、地図と磁石とGPSで辛うじて前進がでしるという有様である。


標高差からして2時間もあれば下れるかなと思ったのが、実際は四時間近くかかってしまったので、登りに取っていたならば、何時間かかったかわからない。登りはロープウェイを利用しておいて良かったと思った。時間があったら日帰り温泉にでも入って帰ろうと思っていたが、とてもそんな時間はなかった。三百名山の中では最も登りやすい山だと思っていたが、コースの取り方次第では難しくなることを思い知らされた。

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能登ボランティア

コロナでしばらく休んでいた災害ボランティアを能登地震の被災地で再開した。初日は内浦に向かうが、3時間ほどかかるので金沢駅の出発が6時と早いので大変である。この日の作業は午前午後とも震災ゴミの置き場への運搬だけの軽作業であった。

帰りは金沢まで戻らず、能登空港に隣接している日航学園の中にボランティアのためのベースキャンプが設けられているということで、一泊してみることにした。飲食のための設備がどの程度あるのか不明だったので、水だけで食べられるフリーズドライ食品を持参したが、全寮制の学生のための食堂があったので助かった。1人用のテントとベッドも用意されていて至れり尽くせりであった。ただ、校内のトイレが使えず屋外の仮設トイレを使用することになっていたため時間がかかることが玉にキズであった。

翌日は低気圧の接近で荒天が予想されたため、ボランティアセンターに向かうバスは予定どおり出発したが、それには乗らずに金沢に路線バスで戻り休養することにした。金沢ではカプセルホテルに泊まったが、宿泊客は外国人ばかりであった。雨が激しく食事に外出するのも億劫だったが、ホテルの隣の飲み屋が外に出ずに行ける所だったので、そちらで飲食を楽しんだ。

最終日はボランティアバスで半島最奥部の珠洲ボランティアセンターに向かう。午前中は家財の運び出しで終わりセンターに戻ったか、午後は仕事がなく帰りのバスを待つだけとなり、往復6時間近くをかけながら、ちょっと寂しい内容だった。

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2024年5月26日 (日)

金剛堂山

能登の災害ボランティアに行く前に二百名山の金剛堂山に登ることにした。非常にアプローチの悪い山ではあるが、コミュニティバスが登山口のすぐ近くまで通っていることがわかり、JR越中八尾駅からバスに乗ることにした。


越中八尾駅で下車して竜口谷口行きのバス停を捜したが、四つある停はすべて近場の行き先ばかりで、私の目的地に行くバスは見当たらない。そこでたまたまやってきた近場に行くバスの運転手に聞くと、近くの行き先がかいてある所の裏側に私の行き先が書いてあった。紛らわしいことをするなと言いたくなった。


定刻にバスは発車して1時間ほどに着く。あたりは人家が1軒もないど田舎である。運転手が言うには、この停留所は予約しないとバスは来ないが、下の集落ならば予約なしで乗れるとのことであった。私のスマホは圏外で予約ができないので、下の集落まではどのくらいかと聞いたら、500メートルほどだと言うので、それならば下まで歩こうと思った。


最初はバス停の建物の中で寝ようかと思ったが、ジメジメジメして気持が悪いので、登山口はすぐ近くだし、途中でテントを張る場所を探そうと思って歩きだすと、よい場所を見つけたのでテントを張ることにした。


翌朝は5時過ぎに目が覚めて6時半頃に出発したが、すぐそばの登山口には車がいっぱい停まっている。夜中に何台も車が通って、この奥で道は行き止まりのはずなのに何かとおもったが、夜からたくさんの人が登山口を目指してやってきたらしく、非常に人気のある山のようだ。


登り始めは調子が出ないのでゆっくり歩いていたら、抜かれっぱなしになる。その後、ペースを上げて歩いていても、やっぱり抜かれていく。後で計算すると、1時間当たり標高差300メートル近くは登っていたのて、そこそこのペースで歩いていたわけだが、それでも足の速い人には抜かれたということで、大勢の人が登っているので、抜かれっぱなしのように感じただけなのだろう。


登山道には登山口からの距離が1キロごとに表示されているので、地図を見なくても現在位置がわかりやすい。登山口から4キロの表示があるところで、MapsmeというオフラインのGPS対応地図で頂上までの距離を測ったら1.5キロとなっていたので、そのつもりでいたら、思ったよりも早く頂上に着いてしまった。変だなと思って5万図を見たら、隣に10メートルちょっと高いピークがあるではないか?近くの人に聞いたら、奥金剛という山で展望もないので、行ってもしょうがないですよとのことであった。五万図では今いる所が金剛堂山と記載れているし、金剛堂山という標識や石碑もある。一方、先ほどのMapsmeでは標高の高い方に金剛堂山の表示があるので、早く着きすぎたと思ってしまったのだ。どうすべきかしばらく思案する。奥金剛まで行くと往復で小一時間はかかるので、帰りのバスの発車時間まで余裕がなくなる。結論としては、今回は高みを目指しての登山ではなく、二百名山の登頂が目的なのだから、客観的に金剛堂山として考えられるピーク、すなわち今いる場所を金剛堂山と考えればいいという結論に達した。


ということで、パンを食べながらしばし展望を楽しむ。白山が正面に見えるが、まだ雪がずいぶんと残っている。北アルプスは立山方面の展望はあるが、剣岳はガスっていて見えなかった。


下山に移ると、夥しい人が登ってくるのには驚いた。さすがに登山口に近づく頃には登ってくる人もいなくなったが、登りの半分ほどの時間で登山口まで降りられたので、バスの発車時間までは十分時間があった。そして、昨日教えられた通り、下の集落まで降りてバスを待つことにした。


バス停で停留所に書かれている説明を読むと、9時から15時まではデマンド便となり、土日は運行しないとある。その説明が私の乗ろうとしている便に適用されるのかどうかがわからず、電話して確認しようにも圏外で確認もできず、やむを得ず遠くの方に人影が見えたので、そこまで行って「今日の駅行きのバスは予約する必要がありますか」と聞くと、ないという返事だったし、昨日の運転手の説明とも併せると、今日のバスに乗れることは間違いないと確信した。バスの出発まではしばらく時間があったので、休館している温泉まで出向き自販機があるかどうかを確認したが、結局なかったので八尾駅まで我慢することにした。


八尾駅までの1時間のバス乗車を行っても富山を経て金沢に着いた時はまだ明るい時間であった。なぜならば富山から金沢までを新幹線利用としたからであるが、富山~金沢間は在来線は第三セクターしか通ってないので、この間をJRを利用しないとジパング割引の適用を受けられないということで新幹線を利用したが、果たして得したのか損したのかはよくわからないというのが実際である。


とりあえずは金剛堂山に登れたということで、北海道を除く二百名山はあとひとつを残すのみとなった。なんとか予定をクリアして、明日からはボランティアに参加することになる。

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2024年5月23日 (木)

関東ふれあいの道 正丸峠他

ふれあいの道の埼玉コースを前回は子ノ権現から南下したので今回は北上する。ふれあいの道は前回のNo2も今回のNo3も子ノ権現までは吾野からのコースを登るようになっているが、同じコースを歩くのも能がないし、西吾野からのコースの方が若干短いようなので、こちらから行くことにする。

たしかに前回のコースよりも若干短いようだが、その代わり登りは急で前回のコースが子ノ権現のメインコースのなっているのは納得した。前回は土曜日だったので、子ノ権現は大賑わいだったが、今日は静まりかえっていた。

伊豆ケ岳までは思ったよりも時間がかかってしまった。伊豆ケ岳はこのあたりでは、一番登られているはずなので、頂上は賑わっているかと思ったら案に反して誰もいない静かな山頂であった。その代わりというか、正丸峠まで向かう途中では数人の登山者には出会った。

正丸峠から先は大した登りはないだろうと思ったら、意外と登りが多くて大変だった。ようやく虚空蔵峠に着いたら狩場坂峠まで1.5キロという標識が見えたので、そんなに近かったけと思ったら、山腹を巻く林道を進むようになっているからだった(ふれあいの道も林道を進むようになっていた)。

狩場坂峠に着いたのは五時で、残りの食料を食べて小腹を満たしながら、これからの予定を考える。予定では大野峠まで進んでから芦ヶ久保に降りるつもりだったが、大野峠までは1時間ほどかかるようなので、その場合は芦ヶ久保まで下る途中で暗くなる可能性が高く、道が悪い場合には苦労することになる。一方、ここから芦ヶ久保駅まで、あるいは正丸駅まで直接おりても、いずれも6キロと距離は変わらないが、次回のことを考えると芦ヶ久保駅に降りた方が楽である(一筆書きに拘らなければどちらでもよいのだが)。

芦ヶ久保駅へのコースを選んだが、なかなかの難コースで、注意していれば
踏み跡は見つけられるのだが、マーキングはほとんどなく、GPSがないと道を踏み外しやすいコースであった。

まっ暗くなる前になんとか正丸峠直下の自動車道に降り立ち、1時間ほどの歩きで芦ヶ久保駅に着くことができた。これで次回はNo5、6を踏破して親鼻駅まで到達し、秩父鉄道の東側はなんとかクリアできそうだ。

 

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2024年5月15日 (水)

関東ふれあいの道 神奈川県No12,17(仏果山、三増合戦の碑)

 関東ふれあいの道の神奈川県コースの派生コースであるNoとを併せて1日で歩くことにした。

スタート地点の半原行きのバスは本厚木発であるが、本厚木のバスターミナルは駅から少し離れた所にあるのを思い出してそちらに向かったが、該当するバスがない。運転手に聞いてみると、ここではなく、一番から発車すると言われる。しかし、一番を捜しても半原行きはない。ここでピーンと来たのは、バスターミナルから出るのではなく、駅前から出るに違いないということだ。では駅に戻るかと思ったが、グーグルマップの経路情報では、駅に戻らず市役所入口に向かうようになっている。ターミナルからだと、駅に戻るよりも市役所入口に向かった方が近いということなのだろう。市役所入口まで歩いて半原行きバスを待つことにしたが、次のバスまではしばらく待たなければならないと思っていたら、すぐに半原行きバスがやって来たので慌ててしまう。乗り過ごしたと思っていたバスが信号待ちのために遅れてやってきたので、予定どおりのバスに乗れることになったのだ。

半原までは小一時間で到着する。途中で皆下車してしまい、最後まで乗っていたのは私だけだ。半原からは沢沿いの道をしばらく進んだ後、尾根道に向かって登っていく。辿り着いた仏果山は誰もいない静かな山頂だった。


田代に降り立つとバス停はすぐ近くだったが、関東ふれあいの道の撮影ポイントである三増合戦の碑は少し先なので、そこまで歩いていく。戦国時代に武田と北条が激戦を繰り広げた跡である。

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仏果山から半原越へは急な痩せ尾根の下りが続き、尾根が広くなってくると半原越えに降り立つ。山登りを始めた頃に買った山日記に高名な登山家のエッセイが載っていて、少し前に登山していたコーカサスの5000メートルの荒涼とした峠と比べて、穏やかな半原越えは母に抱かれているようだと書かれた文章が印象に残り、いつか半原超えに行ってみたいと思っていたのが実現したが、ひなびた峠を想像していたのだが、実際は舗装された何の変哲もない場所でガッカリした。

峠からはひと登りで今回の最後のピークである経ケ岳に着く、こちらも無人の静かな山頂だったが、樹木に覆われて展望がきかなかったので、すぐに下山に移る。


田代に降り立つとバス停はすぐ近くだったが、関東ふれあいの道の撮影ポイントである三増合戦の碑は少し先なので、そこまで歩いていく。戦国時代に武田と北条が激戦を繰り広げた跡である。


 

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2024年5月14日 (火)

米山ほか

5月9日 米山

米山は三百名山の中では、比較的登りやすい山だと思われるが、実は過去に何度か計画しながら登れてない山である。と言うのも、登りやすい山ということで、他の山を登った後に最後に登る計画を立てたために、時間不足や体力消耗で断念したためである。ということで、今回は最初に米山を登る計画として、早朝に東京を出て昼前に米山駅に着くことにした。

初っ端から道を間違えて手前の道を進みだしたが、すぐにダートの道になったので、変だなと思って地図を確認したら、ひとつ手前の道をすすんでいることに気づいて後戻りして、正しい道を進んだが、ダートにならずに舗装路が奥まで続いていたら、もっと先まで進んでしまったかもしれない。

標高は千メートルに満たない山であるが、海抜ゼロメートル近くから登るので、結構登りがいのある山である。

登山口に自転車を置いて登りだすが、急登が続いてなかなかしんどい山である。30分ほど登ったところで、上から降りてくる人とすれ違う。この時間に降りてくるのは、相当早く登りだしたのだろう。結局、この日は彼一人しか登山者とは会うことがなかった。

急登はしんどいが、背後には日本海か眺められるので、気が紛れる。また米山山頂も見えてくるので、やる気が出てくる。千メートル未満の山とは思えないほどの堂々たる山容である。

最後の急登を終えると米山山頂である。時間は3時半で登山口までは1時間半、登山道は2時間半を要したことになる。頂上からは日本海が一望できる絶景である。

下りは同じ道を利用したが、米山駅までは2時間で登りの半分の時間で降りられた。その後、直江津駅で下車して駅前お店で、地魚の寿司とビールで一息ついた後、おでんと地酒で体を暖めて、1日目の夜を終えた。

5月10日 笹ヶ峰キャンプ場

春日山駅から妙高高原駅まで移動するために電車に乗ろうとしたら、通学の高校生で電車は満員で自転車を持ち込むことは無理なので、30分後の電車に乗ることにした。次の電車はさほど混んでなく乗ることができたが、次の駅でほとんどの乗客はおりてしまいがら空き状態となる。こんなことなら、次の駅まで移動してから乗車すれば良かったと思った。

車窓から眺めると、妙高はそうでもないが、火打から焼にかけてはかなりの雪が残っており、ストックと軽アイゼンだけで大丈夫か少し不安になるが、無理そうならば引き返すだけだと腹を決めた。

妙高高原駅から笹ヶ峰キャンプ場までは距離は20キロ、標高差は800メートルあり、そこを20キロ近い荷物を担いで自転車で登ることになるので、かなりの労力を要することになるが、急坂は自転車を降りて引いて行けばなんとかなるのではと考えた。

コースはオフラインでも使えるMapsMeの自転車モードを選択して、笹ヶ峰キャンプ場までの経路を進むことにしたが、途中で舗装路から砂利道に変わることが多く、そのたびに引き返すことになり、無駄な時間がかかってしまう。私の乗っているロードバイクの細いタイヤでは砂利道を長く走っているとパンクしてしまう可能性が高いけらである、舗装路限定の自転車モードというものが有ればよいのだけど。

ようやく、夏季は笹ヶ峰まで運行しているバスが通る道を探し出し、これで道に迷う心配はなくなったが、ノロノロペースのため行程が捗らず、二人連れのチャリダーにあっという間に抜かれる。当初の予定では今日は笹ヶ峰キャンプ場を通って四時間ほど歩いた高谷池でキャンプするつもりだったが、このペースでは笹ヶ峰キャンプ場が関の山と思われたので、今回は引き返して夏季のバスが運行している時に出直そうかと弱気になったが、とにかくやるだけやってダメなら諦めることにした。

休み休み登っていたら、先ほど抜かれたチャリダーが快適に下ってくるのとすれ違うが、他人のことを気にするこ
ともなくなり、黙々と登っていくと、やっと下りになってしばらくすると笹ヶ峰に着いた。

今日は金曜日だから、キャンプ場は賑わっているかと思ったら、まだ営業しておらずデントは皆無で、何台か泊まっている車の人も車内で泊まるようであった。何故かと思ったら炊事場の水道の水が出ないからのようだ。やむを得ず、10分歩いた先にある川に水を汲みに行く。広々としたキャンプ場に自分ひとりというのもいいものだ。明日は目的の焼山まで行けるかどうかは明日になってみないとわからないが、明日は明日の風が吹くである。

7月11日 高谷池

 五時前にキャンプ場を出発して高谷池に向かう。標高差は800メートルほどだが、重荷のためぺースが上がらず、次々と後続者に抜かれる。中にはスキーを担いだりして、私よりも荷物が重そうな人もいたが、体力が落ちた今の自分にとってはやむを得ないことである。おまけに夏道が雪に隠れてコースが判然とせず、さらに時間を要してしまう。

最後に斜面を横切って高谷池に向かう所では、部分的に踏み跡が狭く雪が崩れ安い所もあって、安全のために軽アイゼンを装着する。これで多少は快適となり、高谷池には12時に到着した。谷池周辺はGWの尾瀬からは想像できないような大量の雪で、雪用テントシートを持ってきてない自分は、予約していたキャンプのキャンセルをして、小屋に宿泊を依頼しようと思った。まだ時間は早いので、今回の目的地である焼山までは無理としても、火打岳までは往復しようと思っていたが、ベンチで休んでいた人から「山頂まで行くのですか?」と聞かれて「ええ、まあ」と答えたものの、他の人は全員山頂には行かずに、ここから下山することがわかった。火打の山頂まではべったり雪が付いていて、果たして軽アイゼンで安全に降りられるかどうか不安があった上に、ここで体力を使うと次の斑尾山を登る余力があるかどうか心配にもなったので、私も彼らの後を追って下山を始めた。

しばらく降りてから、小屋にキャンプ予約のキャンセル忘れていることに気づいたが、電話しようと思ったところ、圏外で連絡できないことがわかり、無断キャンセルとなるので予約金が没収されるだけのことだろうと考え、まさか警察と連動して、遭難の可能性に繋がるとは考えもしたかった。そのまま下山を続けて斜面の横断を終えて一安心したが、そこから先はコース取りが難しくGPSに頼りっぱなしで、十二曲がりの所まで下りた所で、たまたま見通しがよかったので自宅からの電話が繋がった。すると地元の警察から自宅に連絡があり、私に電話しても繋がらないので明日までに繋がらなければ捜索に入るとのことであった。そういえば、私のスマホには見知らぬ番号の受信歴があり、警察からかもしれないと思って電話してみても、圏外で繋がらないままだったので、何か連絡することがあるのかぐらいしか考えてなかったが、まさか遭難を疑われているとは思ってもいなかった。そこですぐに警察に連絡すると運よく電話が通じたので、無事であることを連絡して一件落着した。その際にキャンプ場の予約がキャンセル手続きがされてないことも、遭難の疑いを強めていることもわかり、キャンプ場にもキャンセルの連絡をしておいた。

今回の件を考えてみると、全く濡れ衣のような迷惑な話であった。なぜならば、登山届は各登山口に置いてあり、必要に応じて届け出を出しているが、下山の確認を地元からされたことは皆無であり、また谷川岳の岩場を登る際にも群馬県登山条例により登山計画書の提出を求められているが、その場合も下山届出の提出を求められることはなかったし、下山の確認もされたことはなかったので、今回、なぜ警察が下山の確認を行ったのか理解ができない。なお、今回、焼山登山については通常の登山届ではなく警察への届け出を求められたのは、焼山が火山活動による立入禁止の解除直後のためのようだが、スマホの圏外区域にいる登山者に下山確認の連絡をして、連絡がつかないから捜索に進むというのはナンセンスと言わざるを得ない。

それはさておき、当日は笹ヶ峰キャンプ場まで下山して翌日からの予定を考える。キャンプ場はスマホの圏外であるが、フリーWIFIが使えることがわかり早速確認してみると、翌日の午後から下り坂ということがわかったので、斑尾山登山はあきらめて帰京することにした。

 

 

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2024年5月 8日 (水)

関東ふれあいの道(子の権現と白孔雀の滝)

前回の棒ノ峰からの下山では道を間違えてふれあいの道を降りなかったため撮影ポイントの写真を撮れなかったため、NO2コースの子の権現を通ってNO1コースの撮影ポイントまで写真を撮りに行くことにした。NO2コース自体は数時間の短いものなので、家族連れで行くことにした。

吾野駅からは舗装道路を1時間ほど登ったところで山道に移るが、ここで妻がギブアップしてしまったので、娘夫婦と孫と一緒に子の権現まで登り、娘たちはそこから戻って妻と合流して吾野駅まで戻ってもらうことにした。子の権現まではそこそこの登りがあったので、妻に戻ってもらったのは正解だった。

子の権現で娘たちと別れて私は名栗側に降り、名栗車庫からさわらびの湯まではバスに乗り、そこからNO1コースの撮影ポイントである白孔雀の滝に達して、証拠写真を撮ってきた。

 

 

 

 

 

 

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2024年5月 3日 (金)

景鶴山敗退

景鶴山を登りに行きましたが、雪が少なくブッシュに阻まれて敗退しました。

尾瀬ヶ原には全く雪がなく水芭蕉も一部は見られるほどで、与作岳に続く尾根もプッシュが生い茂り1時間で100メートルほどしか標高が稼げず、雨も振出したのでとざんを断念した。

翌日は快晴だったが、疲労もたまっていたので往路を鳩待峠に戻った。

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