歩き

2022年6月21日 (火)

名古屋に戻る

今日は奥の細道の敦賀~大垣のうちの未踏部分である琵琶湖北岸までサイクリングするだけであるが、途中の小谷城と長浜城にも時間があれば立ち寄る予定だ。

 

敦賀駅周辺は新幹線工事の影響で迷路のようになっおり、迷いまくって30分ほど時間をロスする。迷路を抜けると峠を越える登りとなるが、たいしたこともなく峠を越えて琵琶湖北岸に達する。ここからしばらく南下してから進路を西に向けて小谷城を目指す。

 

小谷城は浅井三代の居城であったが、織田信長によって攻め滅ぼされたあと破却されて、建造物は一切残っていないが、お市の方と三姉妹の落城時の逸話は有名で、全国のお城の中でも人気では上位にある。中世特有の山城であるため、登り口で自転車を停めて急な山道をしばらく登ることになる。
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本丸跡まで登って引き返すが、その間にも何人かの観光客とすれ違った。自転車を停めてある所まで降りて、次は長浜城を目指す。こちらは豊臣(当時は羽柴)秀吉の最初の城で、小谷城と違って琵琶湖の水運を活かした平城である。
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長浜城に着いた時は、この後に名古屋での用件を済ますために乗る予定の列車の発車時刻が迫っていたため、道路から写真を撮っただけで列車に乗り込み、一週間に及ぶ旅に終止符を打った。

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2022年5月31日 (火)

二王子岳

新発田駅から二王子岳までは15キロ程度だが、真っすぐの道はなく大きな交差点ごとに地図と首っ引きで行き先を確認しなければならないので結構時間がかかる。二王子神社の手前で道が二つに分かれ、山と高原地図では右の急な登りを神社に向かうようになっているが、maps_me では左の道をしばらく行くと川を渡って対岸に渡れるようになっているので、こちらの方が近そうだと左の道を行くことにする。

 

ところが踏跡はすぐに消えて前進が困難になってくる。戻ろうかなと思ったが、飛び石づたいに対岸に渡れそうな地点があったので渡ってしまう。沢沿いに進むよりも尾根を登った方が楽そうなのでしばらくは登ってみるが、このまま登り続けると本来のコースとは離れてしまいそうなので、斜め下に進んで行くと間もなく本来のコースに合流したが、30分程度は時間をロスしてしまったようである。

 

コースを登り始めると、まだ11時だというのに下山してくる人がいるのには驚いた。よほど早く出発したのだろうか。その後も平日だというのにかなりの下山する人とすれ違ったのは、さすがに二百名山だけのことはある。五合目あたりからは雪も現れたが、大勢の登山者に踏み固められた道はしっかりしていたので、持参したアイゼンをつける必要もなかった。

 

2時半頃に八合目付近に着き、頂上の避難小屋も望めるようになった時にスキーをザックに付けたこの日最後の下山者とすれ違う。彼は「今から登るんですか」と咎めるような口調て尋ねるので、少しムッとして「よーし、頂上を往復して彼を追い抜いてやろう」と思ってペースを上げる。

 

頂上に着いたのは3時ちょうどだった。正面には飯豊連峰が屏風のように連なり圧巻の眺めであった。ゆっくりとしていたい気もしたが、先程の登山者を追いかけるためにすくに下山に移る。下山は一度も休まずに早足で下りたつもりだったが、やはり追いつくことはできなかった。
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二王子神社まで下り、maps-meに載っていた道を辿ろうとしたが、辿ることはできず地図の道は間違っていたことを知る。後は新発田駅まで下るだけであった。翌日の予定は信越線沿線の三百名山の米山であるが天気が心配であった。新発田駅に着いた時は翌日の予定はまだ決めていなかったが、天気予報では朝から雨とのことだったので米山登山は中止して新津経由で長岡まで行き、そこから最終の新幹線て一日早く帰京することにした。

 

ところが特急券を買った直後に新津行きの電車は運休になるとの放送があってびっくり、慌てて新潟発の特急券に買いなおして本日中に帰れることにはなった。なお、この運休のために米山の最寄り駅に行くこともできなくなったので、たとえ翌日の天気が良かったとしても米山は元々無理だったのである。

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2022年5月29日 (日)

粟ケ岳と八十里越え

新潟の山登りはまずは粟ケ岳からとなる。10年ほど前に山菜採りと粟ケ岳登山の催しがあっあのだが、天気が崩れて粟ケ岳登山は中止となったので、今回はそのリベンジでもある。

 

粟ケ岳登山だけならば、登山口付近に温泉があるためバスのほんすうも多いので便利だが、今回は登山後に八十里越えも予定しているため、歩くとなると15キロもあるので東三条から往復70キロのサイクリングとなる。

 

八十里越えは古くから越後と会津を結ぶ交通の要衝であり、実際の距離は八里(約30キロ)であるが、あまりの険しさからその10倍の長さに感じるということから名付けられたものである。この峠を有名にしたのは、幕末の戊辰戦争の際に長岡藩の家老河合継之助官軍にも奥羽;列藩同盟にも与せず中立の立場をとることを官軍との会談で表名したが、認められずに戦争が勃発し、長岡藩は善戦するも破れて、河合継之助等は会津方面を目指して八十里越えを敗走していった故事のためである。

 

粟ケ岳の登山口を出発したのは12時過ぎで、下山してくる人もちらほら現れる時刻であった。登りは急登の連続で、8合目あたりが森林限界のため、標高は1200メートルちょっとながら、高山の雰囲気を持った山である。
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明るいうちに下山し、それから夜道を八十里越えの登り口まで向かい、テントを張る。

 

翌日は早朝から八十里越えを目指して出発するが、さすがに八十里越えというだけあって険しさは格別で、四時間かかっても峠の半分以下の七キロ以下しか進めず、雪にも阻まれて断念して引き返す。

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自転車は下り一方で軽快なはずなのだが、真夏のような高温にやられたのか全く不調で、ランニングの人にも抜かれる有り様で、なんとか新発田駅まで辿り着き、ホテルでバタンキューとなる。

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2022年5月 7日 (土)

金北山

中断した福島~新潟のツーリングを再開したが、スタートは前回とは逆に佐渡ヶ島からとする。新潟港から高速船で一時間ちょっとで両津港に着く。昼食をとってから自転車で300名山の金北山の登山口に向かったが、登山口に着いたのは1時過ぎとなってしまった。

 

金北山の標高は先日の男鹿岳よりも600メートルほど低いが、海抜0メートルから登るので、登山口からの標高差は千メートルもあり、男鹿岳の倍もあるので、半日で往復するのはかなりたいへんだ。

 

4時登頂の予定だったが、途中で道を間違えたこともあり、四時半となってしまった。山頂からは日本海が一望できて素晴らしいのだが、風が強かったため直ぐに下降に移るが、下山路がわかりにくく30分くらい行ったり来たりしてようやく正しい道を見つけ、八時半には両津のホテルに戻ることがでした。
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2022年5月 6日 (金)

会津西街道と男鹿岳

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今回登った男鹿岳は本題に入る前に登山を計画した経緯を述べておきたい。大分以前に関東地方の外周の県境を踏破する計画を立てたことがある。群馬県から埼玉、東京、神奈川までは以前に踏破済みのものも含めて繋がったのだが、栃木・茨城両県については大きな問題があった。それは県境には縦走路がないことであった。もっとも群馬県も上越国境には谷川岳周辺を除くと縦走路はないが、こちらは豪雪地帯のため残雪期ならば薮に悩まされることなく行動できるが、栃木・茨城両県はそういう訳にはいかない。そこで、両県の関東地方外周県境から最も近い一般道を自転車で走るとともに両県境上の主要な山を麓から登ることとし、300名山でもある男鹿岳もその対象に選ばれ、10年ほど前に山頂の栃木側のさほど離れてない山腹を東西に走っている林道から取り付くことを考えて実行に移した。ところが、林道の入り口に巨大なゲートが作られていて左右も全く隙間がなく、完全に進入を拒んでいたので諦めて撤退した。あと考えられる方法としては、ゲートを空身で攀じ登って反対側に降りてランニングで往復することだが、実際にやった人の記録を読むと往復で40キロもあり、林道も相当荒れているとのことだったので二の足を踏んでしまって今に至っていた。ところが、会津側からはそこそこ登られていることを知るようになり、チャンスをうかがっていた。

前置きが長くなってしまったが、今年のGW に三年越しの計画であった北陸の毛勝岳が友人の怪我で又しても中止となったために、その穴埋めとして男鹿岳登頂と会津西街道及び阿賀野川下降して新潟に至り、さらに足を伸ばして佐渡一周もするといった欲張りな計画を立てた。ただ、途中で変更できない用事ができてしまったため、計画を二つに分けて、まずは会津西街道を会津田島まで行き、そこから男鹿岳登山を行うというものである。

会津西街道というのは、江戸時代に江戸と会津を結ぶ重要な交通路で観光地として有名な大内宿も通っている。東武線の湯西川温泉駅よりも南側は別の計画で走破済みなので、湯西川温泉駅がスタート地点となる。また前述した県境近くの一般道を走るという計画により走破済みの部分は省略することにしているので、自転車の解体と収納を各二回行うことになり、計画的に行動しないと運行本数の少ない路線だけに、大きな時間ロスを生じてしまうことになる、

会津田島で会津西街道を離れて男鹿岳方面に向かったのは2時半と遅めの時間であった。一時間半ほど走ったところで自転車をデポして林道歩きに移る。本当はもう少し先まで自転車で進むつもりだったが、意外に早く路面がダートとなったため、林道歩きが三キロ近く増えて10キロちょっととなってしまった。

林道歩きの半ば頃には暗くなってしまったが、かなり悪い道であった。道路の崩壊、落石の散乱、雪の堆積といった状態で4時間ちょっとで大川峠に着いたが、体力よりも神経の疲れるアブローチであった。

軽量化のため、ストックを支柱代わりにするシェルターを使用し、コンロは持参せず水でも戻せる乾燥米に夕方に水をいれておいたので、軽量化の対象外であるビールを飲み終えた頃には食べられるようになっている。ビールとつまみである程度は腹も膨れているので、ご飯の大半は朝食用に残しておく。寝袋カバーと軽羽毛服だけで寝たので、さすがに寒くて熟睡はできなかった。

翌朝は深夜から起き出して4時半には出発したが、登山口がわらずあちこち探してようやく見つける。登りだせば踏みあとは明瞭でマーキングもしっかりしているので迷う心配はない。峠から頂上までの標高差約500メートルの半分あたりまて登った頃から雪が現れる。通常はここでアイゼンを付けることになるのだろうが、この時期の中級山岳ならば、アイゼンを付けずともキックステップで雪面をけり込めば支障はないことは経験済みなので、昨日林道上に自転車をデポした際に補修用工具等とともに軽アイゼンもデポしてしまった。

登りの際のキックステップはつま先を雪面にけり込むのだが、久しい間キックステップなどやっていなかったので、長らく使うことがない筋肉を使用したためか思いの外体力を消耗し、行程は遅々としてはかどらず、頂上直下では今朝ゲートを出発してきたと思われる登山者に追い抜かれる始末であった(勿論、彼はアイゼンを付けていたが)。

頂上からは正面に那須連山が望め、頂上標識の背後には帝釈山脈とおぼしき峰々も見られる。
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そのいくつかは登っているはずなのだが、山座同定するにはいたらなかった。30分ほど休憩して下降に移り、急斜面をキックステップで降りる。下りのキックステップは登りと違い、腰を引かずに姿勢を正して踵から加重していくのだが、しばらく進んでいると、太ももに痙攣が走り休憩を余儀なくされる。その後も定期的に痙攣が起きて筋肉が老化していることを痛感する。それでも登りの三分の一ほどの一時間半で大川峠まで降りることができた。

峠から自転車のデポ地までは10キロほどの下りなのだが、久々のキックステップの後遺症で足に力が入らないのでゆっくり歩いていっため、登りの時と大差ない時間でデポ地に着く。ここからは会津田島駅まで10キロちょっとの下りのサイクリングだけだ。

会津田島駅まで降りて切符を買う時に念のために特急券なしで下今市まで乗車できるかをきいてみる。ところが、さ3月に規定が変わり鬼怒川温泉までしか乗車できなくなったと言うではないか。実は連休最終日ということで、特急券は終日満席だったが、この規定を使って下今市までは特急を利用し、そこから先は特急を利用しなくても当日中に帰宅できることは確認済みであったが、鬼怒川温泉で乗換えた場合でも同様かどうかは未確認だったので少々焦ったが、鬼怒川温泉で乗換えても大丈夫なことがわかり一安心であった。

今回は久々のキックステップで足の疲労が大きかったため、この後引き続きツーリングを続けるのは大変だったと思われるので、急用が出来て一度帰京しなければならなくなったのは渡りに舟であった。

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2022年4月18日 (月)

東海自然歩道番外編 武奈ヶ岳

ホテルで良く寝たら疲れも取れたので、予定どおり200名山 武奈ヶ岳を登りに行くこときにする。琵琶湖側から武奈ヶ岳に登る場合の最寄駅となる比良駅に向かうために山科駅で乗り換えるが、その際に駅構内にあるコインロッカーにキャンプ用品等の不用な荷物をしまって身軽な出で立ちとなる。

 

比良駅で下車して林道をしばらく行くと自動車道と合流し、その上の駐車場には近畿各府県の車が10台ばかり停まっている。さすが200名山だけあって平日であっても結構登られているようである。

 

登山口からは急登が続き、しばらく登ったので半分くらいは登ったかなと現在地を確認すると、まだほとんど登っていないことがわかりがっかりする、最近はこんなことでとも勘が鈍ってきたのかと寂しくなる。半分ほど登ったところで中学生くらいのグループがすごい勢いでかけおりてくる。若い連中は元気でいいなあと羨ましくなる。

 

じっと辛抱して登り続け、頂上の一角に着いたと思ったら、まだ北比良峠で頂上まではあと300メートル以上の標高差を登らなければならない。写真では見えないが、指導標のはるかかなたに武奈ヶ岳の優美な姿が望めて、もうひと頑張りを余儀なくされる。
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さらにもうひと登りして、今度こそ頂上だと確信した。というのは、ガスッていて遠くまでは見渡せないが、見える限りではここより高い地点らないからである。ただ頂上の標識が見当たらないので不審に思ってGPS対応地図で調べると、頂上は一度降りてから登り返さなければならないことがわかり、ガクーンである。

 

間もなくして本当の頂上に着くと、何人かの登山者が休憩していた、天気が良ければ琵琶湖を眼下に置いての素晴らしい眺望が得られるのだろうが、ガスに覆われて何も見えないのは残念である。とまれ通算76座目の(100名山を除く)200名山登頂である。
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帰りは頂上直下の八雲平に降りる道が登りの時と違って沢ルートに迷いこんでしまい、しばらくは踏み跡もマーキングもしっかりしていたのだが、雪に覆われて判然としなくなってきた。そこで途中から尾根コースに変更したのだが、そのために頂上に私よりも後に残っていた人たちにも抜かれてしまったようだが、それでも登り 5時間20分のところを下りは3時感40分とまずまずで予定よりも早い電車で帰ることができた。

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2022年4月17日 (日)

東海自然歩道 滋賀県踏破を達成

今朝は久しぶりの寒さで早くから目覚めてしまった。公園に人が来ないうちにテントをたたみ町を下る。今日は一日中町中を行くので気楽な半面、気合いが入らないためか、かえって疲れがでてしまった。

 

今日のコースは岩間寺、石山寺、三井寺といった名所を通るが、これらは西国三十三札所をめぐったときに訪れているので、今日は近くを通っても寄らずに先を急ぐ。

 

比叡山登山口まで行けば後は比叡山から京都大原の下り口までは歩いているので、滋賀県踏破を達成することになるが、連日の疲れかメタメタとなってしまった。明日は余力があれば、200名山の武奈ヶ岳を登るつもりだが、明日の元気次第である。
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2022年4月16日 (土)

東海自然歩道 滋賀県踏破にリーチ

彦根でリフレッシュして後半戦に移る。一昨日の終了点である紫香楽宮跡駅までは二時間ほどかかる上、列車本数も少ないので、接続がうまくいかないと時間のロスが大きくなるが、乗継駅の手前の駅で近江鉄道が停電のためしばらくストッてしまい、6分遅れで乗継駅に着いたので焦ったが、ギリギリで乗継はできた。。

 

下車した紫香楽宮跡駅は奈良時代、聖武天皇の御代に大仏を建立するためき一時遷都されたが、大仏は奈良に建立擦ることに変更となったため、奈良に都は戻されたため、短命の都の跡が発掘された地である。
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記念碑の写真を撮っていると、二人の女性がやってきたが、大阪方面から私と反対方向に自然歩道を歩いているとのことである。東京から歩きだして初めての同好の士である。お互いに情報を交換して別れる。

 

彼女らと別れてすぐに道が分かれている。右の道は急カーブでなりの登りとなっているが、真っ直ぐの道は、動物避けの柵で遮られているが開閉できる扉がついている。標識はなかったが、今までの経験から躊躇なく、真っ直ぐの道を選んだ。

 

歩きだしてしばらくはマーキングもあり、踏み跡も比較的しっかりしていたので、なんの疑いもなく前進を続けたが、マーキングも踏み跡も消えてきたので、GPS対応の地図で調べると、正しい道は少し北側を平行して延びているではないか!先程の急カーブしている道が正しい道だったんだ。セオリーは来た道を戻ることだが、このまま西に向かえば正しい道につながることを確信したので、そのまま進むと予想どおり正しい道にでられた。

 

その後は順調に進めて、予定どおり山を越えて暗くなる前に麓に降りることができ、公園の一角にテントを張ることができた。思いの外順調に進めたので、明日中に滋賀県踏破を達成できる目処がたった。

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2022年4月15日 (金)

東海自然歩道 番外編 城めぐりと近江鉄道

3日間歩き続けたので今日は休養日ということで、彦根近辺の観光をすることにた。まずは彦根城に向かう。彦根の町は以前にも中山道歩きや琵琶湖一周自転車走の時にも訪れたのだが、時間がなくて行かずじまいとなっていたものである。

 

東海自然歩道を歩いている際も、愛知県から西では城に立ち寄ることも何度かあったが、いつも時間の余裕がなくてゆっくり見学することがでしなかったので、今日は時間無制限で天守閣だけでなく、資料館その他の施設も見学できるセット件を購入した。

 

ちょうど修学旅行生と鉢合わせたので、彼らの見学が終わるまで外でゆっくり待ち、静かになってからじっくり見学した。観光客がほとんど行かない大手門の方にも足を伸ばした。
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見学後は城下町を散策し、近江牛のステーキならぬ牛丼を食べた。値段は吉野家の倍以上するが、味も倍とはいかないものの、まあ旨かった。
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午後は彦根の東側にある佐和山城跡に出かけることにした。関ヶ原の戦いで西軍を実質的に率いた石田三成の居城だったが、関ヶ原の戦いで石田三成が敗れた後は彦根城が完成するまでは井伊直政の居城となり、彦根城に移転後は取り壊されてしまった。

 

彦根城が近世の幕開けとなる典型的な平城なのに対して佐和山城は中世最後の山城である。標高差200メートル近くを一気に登るので、彦根城と違って観光客はまず行かないところだ。途中でおばさんたちを追い抜いたのだが、下りの時には出会うことがなかったので、諦めてしまったようだ。
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本丸があった頂上からは彦根の街と彦根城が眺められ、背後に は琵琶湖がひろがっていた。4時半前にには彦根駅に戻れたので、ついでにもうひとつ城めぐりをするつもりだった。それは、三成が絶対的な忠誠心を捧げた豊臣秀吉の最初の居城となった長浜城である。だが、ネットで調べると、隣接する資料館が5時に閉館することがわかったので、 他日を期すことにした。

 

その後は 二時間少々をかけて、近江鉄道の本支線を完乗して一日の観光をしめくくった。
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2022年4月14日 (木)

東海自然歩道 三重県とおさらば

明け方に雨が降りだしたが、東屋に張っていたために濡れずに済んでラッキーだった。雨は一日中降ったりやんだりしたが、昨日と違い山深い所には行かなかったので、さほど影響はなかった。

 

出発早々に失敗してしまった。公園前の道を西に進んで、踏切を渡ってから右折するところを渡る前に右折してしまったため、かなりの大回りをさせられて、一時間ほど時間をロスしてしまった。おまけに、歩道のない片道一車線の道を大型トラックと次々とすれ違うので神経がすり減ってしまった。

 

三重県最後の名所の神社を過ぎていよいよ滋賀県側に入って三重県とはおさらばするのだが、滋賀県最初の名所であるお寺までは、最短経路としては舗装道路経由ということになるが、それでは自然歩道上の県境を通ることにはならないかもしれないので、多少時間はかかるが自然歩道経由で県境越えすることにした。

 

自然歩道は細い道が続いているが、動物避けの柵と鉄条網で仕切られた方にも道があり、何ヵ所扉が開閉できて向こうにも移れるようになっており、どちらが自然歩道かの標識もないため、柵の外の方の道をしばらく歩いた。ところが、しばらく行くと、その道は下の方に下っていってしまうので、道なりに辿っていくと、また登りとなって、柵の開閉部の所で終わっており、開閉可能と書いてあるにもかかわらず、きつく施錠されていて開かない。そこでさきほどの開閉部の所まで戻って柵の内側に入ってそちらの道を進んでみる。

 

しばらくして、自然歩道と書かれた標識を見つけたので安心したが、なにか迷路を進んでいるようで、これでは自然歩道が廃れてしまうのもやむを得ないか。結局、山中の自然歩道には県境を示す標識はなかったが、自動車道に降り立ったところに県境の標識はあった。三重県側が伊賀市、滋賀県側が甲賀市で隣り合っているのが面白い。これで、三重県とはおさらばとなることになった。
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滋賀県側の最初の名所の寺には、自然歩道は途中で自動車道と分かれているが、そちらに進むと、なんと動物撃退用の電気柵で封鎖されているので、仕方なく自動車道に戻ることにした。どうも自然歩道 は地元では歓迎されないようである。

 

今日の目的地の紫香楽宮跡駅までの間には何ヵ所かの名所があるが、全部回っていると時間がかかりすぎるし、通行止めとなっているところもあると聞いていたので、全部ショートカットして、紫香楽宮跡駅まで自動車道を通っていくことにした。

 

午前中と同様に歩道はなく、時たま歩道が現れたかと思うと、その企業の敷地の前だけで終わっているので、大型車との対面すれ違いが続くことになる。滋賀県には歩道を歩くという文化?がないのだろうか?ただ慣れてしまったのか、それほど神経を使わなくても済むようになった。

 

四時間ちょっとの歩きで紫香楽宮跡駅に着く。あたりには遺跡関係の見るべきものが多数あるようだが、今日は時間がないので、後日としよう。連日の行動で疲労がたまってきているので、明日は彦根方面で観光がてらに体を休めることとしよう。

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