旅行

2021年8月29日 (日)

強制隔離

いよいよ十日間の強制隔離がはじまる。

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デルタ株流行国として指定された国からの帰国者に対する取扱は次のようになっている。

デルタ株流行国として指定された百カ国近い国からの入国は原則禁止となり、帰国者は例外的に次の条件を守ることを条件に帰国が認められることになった。
・出発72時間以内に献体採取したPCR検査についての陰性証明書(厚労省所定の書式を含む)の提出
・誓約書の提出、健康状態や現在地を報告するアプリのインストールと隔離期間中の報告
・空港での抗原検査が陰性であること
・10日間の施設隔離とその間の3回のPCR検査で陰性判定が得られた場合の公共交通機関を利用しない自宅への移動と四日間の隔離

71年生きてきて幸か不幸か塀の中で暮らした経験はなかったが、今の生活はそれに近いのではと思えてくる。飲酒が禁じられていることはまだ我慢できるが、部屋を一歩も出られないというのが、非常にストレスになっている。その結果、外部とのつながりらしきものはネットやテレビを除くと、窓から見える空港の景色だけである。隔離されているホテルは成田空港第三ターミナルに隣接しており、朝は日の出を臨め昼間は広大な空港が一望でき、夜になれば滑走路灯が幻想的な美しさを見せる。そして昼間は出払ってた飛行機が翼を休めに戻ってくると、我が子が帰ってきたようにホッとした気分にさせてくれるから妙なものである。

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部屋から見える日の出
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同じ経験をされる方のために参考となることを書いてみる。ただし、私の滞在した東横イン成田空港についての経験だけなので、他施設では違う取扱がされる可能性があることは承知ください。
・提供される弁当について私自身は特に不満はないが、それ以外には食料は調達できないので(出前も認められていないようだ)、嗜好品等を希望する人は出国前に用意するか、家族等に差し入れ(酒は没収)を頼む必要がある。
・テレビは利用できるが、テレビに組み込まれているオンラインビデオは利用できないようになっているので、時間つぶしの方法を考えておいた方がよい。
・健康状態報告や現在地報告が毎日義務づけられているが、それとは別にビデオ通話への応答が不定時に求められている。これに応じると、こちらの様子が相手方に筒抜けとなるので、それが気になる人は、慌てて応答せずに身だしなみを整えてから応答するか、普段からあまりリラックスしすぎないようにすることも必要かもしれない。

日々の生活は三食の弁当が最大の楽しみであり(だんだんと飽きてはくるが)、後はテレビとネットで時間つぶしはできる。特にkindleで本のダウンロードができるのはありがたい。さわりの部分だけならば無料なので立ち読み感覚で読めるのが良い。

そうこうするうちに(といっても長い時間だったが)強制隔離最終日である十日目の朝が来た。7時前にPCR検査の採取容器が配られる。ホテル隔離後、三日目、六日目に続く三回目の検査である。キルギス出国直前の検査から数えると、二週間の間に五回の検査である(うち一回は成田空港での抗原調査)。検査はこれでおしまいにしてほしいものだ。

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朝食後にゆっくり風呂に入ってから荷物の整理を行う。これでいつでも退所できる準備は整った。その後に昼食として入所後30回目となる弁当の配布を受ける。いやー、よくも飽きもせずに食べて来たものだ(そんなことを言ったら罰が当たるか)。
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1時前に昼食を食べ終わると、後は何もやることがないのでテレビを見ながら検査結果の通知を待つ。事前に確認したところでは2時半から3時の間くらいに連絡が来るということだったが、3時近くなっても連絡が来ない。しびれを切らしてコールセンターに館内電話するが誰も出てこない。よもや陽性判定(たとえ、そうでも僞陽性に違いないので、再検査で陰性となることは間違いないとは思ったが)で、今日は退所できないから連絡が遅くなっているのではと悪い方に考えが行ってしまう。

3時15分過ぎにようやく連絡があり、すぐに退室してキーを返してバスに乗るようにとのこと。あわてて1階に降りて退所手続きを取ってバスに乗り込むと間もなくバスは空港に向かって動きだす。そうだ、十日間も隔離されたホテルの外観くらいは写真に撮っておかなきゃと思ったが、バスの窓は行きと同様に全て目張りされて景色が見れない(まだ感染者扱いかよ)。仕方ないので、覆いの間から撮ったものだから、ピンボケしてしまった。

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バスはすぐに空港第二ターミナルに着き、ここで自宅隔離の注意事項の説明でもあるのかと思ったら、別に係の人がいるわけでもなく、ここで解散ということのようだ。自宅までは公共交通機関の利用は禁じられているので、ハイヤーを予約しておいたが、そのチェックがあるわけでもないので、公共交通機関で帰ろうと思えば帰れたようである。もっともあんな重い荷物を担いで、猛暑の中を帰るのは大変なので、ハイヤーで帰るのも悪くはない気がした。  

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ハイヤーはホテル隔離者専用みたいで、運転席と後部座席差透明シートで完全に仕切られていて、感染者扱いはまだ続いているようだ。成田空港を出発したのが4時ちょっと前という時間だったのが幸いして渋滞にも会わずに2時間もかからずに帰宅できるこどできた。こうして、コロナが下火になっている「安全な」キルギスから一定人口あたりでは、1日の感染者がキルギスの10倍となっている「危険な」東京への移動は何故か10日間の隔離を挟んでようやく果たすことができた。
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2021年8月13日 (金)

カラコル

8月13日
今日はイシク・クル湖の東端よりもさらに東よりの山岳地帯にあるカラコルを目指すということで7時にゲート前で落ち合うことになっている。ホテルの朝食は8時からとなっていて間に合わないので、昨夜のうちにランチボックスを頼んでおいた。ところが7時近くになってもロビーのカウンターには係員が現れるないので、しびれを切らしてホテルを出てしまった。

 

走り始めて間もなくしてチョルボン・アタの街に入り、お店がたち並びホテルも散在している。普通ならああいう所に泊まるはずなのに何故プライベートビーチのホテルを予約してあったのかが不思議である。

 

車がカラコルに近づくと天山の高峰も見えだししてきた。運転手
は何故私がカラコルに行きたがってるのか不思議がっていたので次のように説明しておいた。「10年前にカンテングリ山をカザフスタン側から登山したので、今度はキルギス側から見てみたいのでカラコルに行きたいのだ」と。ただカラコルからカンテングリが果たして見えるのかどうかについては自信はなかった。

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カラコルの手前まで来た時に山の合間からカンテングリとおぼしき山が姿を現した。方角的にもピラミダルな形からしてもカンテングリであることを確信したが、すぐに前山に隠れて二度と姿を現さなかった。カラコルは比較的大きな町で、たくさんあるお店の中から適当なカフェを選んで遅い朝食を摂る。また銀行もいくつかあったので両替もしておく。

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後はビシュケクに戻るだけなので、当然同じ道を戻るのかと思いきや悪路だと嫌がっていた湖南側の道を進んで行くではないか。これでカンテングリをもう一度見て写真をとるチャンスは失われたが、雲が厚くなってきたので、あのまま戻っても見られなかった可能性は高いと思う。今回は山国キルギスで南のパミールと北の天山の両方見られただけでも大満足であった。

 

湖南側の道は全然悪路ではなく、むしろ北側を走っている時よりもスピードを出しているようだった。想像するところでは、カラコルは遠いためできれは行きたくなかったので方便をついたが、来てしまった以上は客の希望を聞いてやりたいと思ったのかもしれないし、実際問題としてカラコルからならば南側の方が早いという面もあっただろう。

 

やかてイシク・クル湖を離れると湖の南北の道は合流して一路ビシュケクを目指すことになり、私のキルギスの旅もフィナーレが近づいてくるようだ。

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2021年8月12日 (木)

イシク・クル湖

 

08月12日
今日から二日間の予定でソ連時代は外国人立入禁止で「幻の湖」と呼ばれたイシク・クル湖に行く。本来は登山終了後は隣国タジキスタンに足を伸ばして、アフガニスタンとの国境地帯であるワハン回廊に行きたかったのだが、コロナの影響で陸路の国境越えは困難が予想されるために予定変更となったものである。

 

初日はイシク・クル観光の拠点となるチョルボン・アタで泊まり、翌日は湖の東端から少し上がった所にあって天山登山の基地となるカラコルまで足を伸ばした後にビシュケクに戻るというものである。チョルボン・アタまでは路線バスが頻発しているようであるが、途中寄り道してみたいプラナの塔は路線バスは素通りしてしまうようなので、行きだけは車をチャーターして翌日は路線バスで帰ってくることも考えていた。ただバスの混雑状況がわからず、PCR検査を翌日に控えて密環境の中で万一感染でもしようものなら何にもならないので、翌日もチャーターすることにした。またカラコルからの帰り道は同じ道を行くのは芸がないので、湖の南側を通っていくことを考えていたが、運転手から南側の道は悪路だという懸念も表明されたので帰りも湖の北側の道さを行くことにした。先日のベースキャンプまでの道ほどの悪路ではあるまいとも思われたが、格別南側の道に固執する理由もなかったからである。

 

車は市街地を抜けて田園地帯を走ってしばらくすると、急に路肩によって停車した。パトカーに停車を命じられたからのようである。スピード違反かなにかのようである。運転手が拘束されることさへなければ多少の遅れは構わないが、前途多難の船出である。運転手は警官の差し出す書類に次々とサインして握手を交わしていたから、これで一件落着のようである。車に戻った運転手は何の説目をするでもなく、素知らぬ顔でまた走りだした。まあ説明をされても多分私は理解できないだろうが

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その後、車は幹線道路から外れて南下し、プラナの塔を目指す。プラナの塔はシルクロードの往来が盛んであった頃には旅人のよき道しるべになったであろうと思われ、塔のてっぺんに登って四方を見渡すと、千年も昔に戻った気がしてくる。観光客もそこそこ来ており人気スポットのようてある。

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次におとずれるのはアク・ベシムという仏教遺跡である。ガイドブックには現地の人には知られていないと書いてあったが、本当に運転手は知らないという。私のGPS対応地図には載っているのだが、運転手の地図には載ってないようだ。そこで私がナビゲーションしていくことになり、左右に曲がる指示を出しながら進んでいったのだが、運転手も私の指示だけで進むことには不安を感じたのか、通りすがりの人に道を尋ねて、進行方向に目的地があることを確認してから安心して前進を続けた。

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ほどなく遺跡の横に到着したが、発掘現場がそのまま残っているような状態で他には観光客はおろか地元の人もいなかった。仏教と多少なりとも接点のある日本人にとっては玄奘三蔵も訪れた場所ということで馴染み深いものであるが、異教徒にとっては何の感心もない地なのであろう。そういえば以前にパキスタンのガンダーラ遺跡のひとつであるタキシラを訪れた時も、観光客は全くおらず、地元の子供達に付きまとわれたことがあったっけ。

 

その後、日本の道の駅のような所で昼食をとる。エージェントからの料金内訳にはツアー料金は食費込みとなっていたので、ホテルに着いてからの食事となると空腹となるかもしれないと思い、後部座席で早弁をしていたのである。そしてビュッフェスタイルで運転手があれもこれもとすすめるにもかかわらず最小のものしか頼まなかったので、えらく少食の奴だなと思われたかもしれない。

 

車はやがてイシク・クルの湖畔を通るようになり、天山の山並みも遠くに見えるようになる。イシク・クルはあまりにも大きいので海のようである。チョルボン・アタの少し手前で車は左折し、鉄の扉が閉ざされた所で停車する。どうもセキュリティの厳しいプライベートビーチの中に今夜のホテルはあるようだ。一人で来るには場違いの気もしたが、乗りかかった舟だからやむを得ない。
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夕食は「オンザビーチ」と言われるが、海に突き出た所にあるホテルなのでビーチはひとつではない。どこのビーチだかわからないが、一番可能性のありそうなビーチに行ってみる。それにしても、まさか砂浜で車座になって食べるわけではないだろうしと思ったら、砂浜の端にレストランがあったので、多分あそこだろうと思っていくと当たりであった。それならば「砂浜のレストラン」と言ってもらえればわかりやすかったのに
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2021年3月10日 (水)

常磐線沿線

今日3月10日は東京大空襲から76年目、明日3月11日は東日本大震災から10年目のそれぞれ記念すべき日である。東京大空襲は歴史上の一事件として風化させてはならないことであるが、東日本大震災は過去の出来事というにはあまりにも生なましい記憶が蘇る災害である。震災発生時は、日本列島徒歩縦断として冬の北海道を「最果ての地」宗谷岬を目指して歩いている最中だったが、この非常時にこんなことをしてていいのかという思いから、帰京後は石巻を皮切りに半年間で延べ1ヶ月以上を現地の災害ボランティアに従事したことが、その後のボランティア活動や市民運動参加に繫がったという意味で、自分にとっては原点ともいえるものなので、10年目の節目の際にはまた現地を訪れてみようと前々から思っていた。   

 

石巻に向かうには新幹線で仙台まで行けば早いのであるが、昨年春に常磐線が全線復旧したのに伴い立入禁止が解除された双葉周辺の状況を見ておこうと18切符を利用して行くことにした。水戸、いわきで乗り換えて原町田行きに乗車する。昨春よりも前は富岡から先は代行バスに乗り換えたものだが、オリンピック開催を控えて復興が進んだ印象を与えたいがために駅周辺だけの除染を行って、なんとか全線復旧の形だけは実現させたようである。とは言っても、原発から数キロしか離れていない途中駅では、駅のまわり以外は全て立入禁止区域なので、乗降客は皆無で駅の存在意義は全く無いといってよい。

 

双葉駅から先は海沿いに行けば立入禁止区域を通らずに歩けそうなので、双葉駅で下車することにした。現在、大詰めに差し掛かっている日本列島海岸線踏破のうち、太平洋側は福島第一原発周辺だけが未踏となつていて、山側を大回りしてなんとか繋げてはいるのだが、海岸線近くの未踏区間も可能な限り踏破しておこうと双葉駅から北上することにした。

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双葉駅では他に数人が下車したが、いずれも私と同様に立入禁止が解除された双葉の町を見に来た人のようである。双葉駅で放射線量を測定すると安全基準内の数値が示されるが、駅から少し離れると数値は安全基準(年間1ミリシーベル)をオーバーしてどんどん上がっていく。幹線道路も車の往来は可能だが、南へ向かう道は歩行者は立入禁止となっている。駅から1時間程度海側へ行くとなんと安全基準の10倍近くまでになってしまう。これでも立入禁止が解除されているのは、国が従来の安全基準の20倍の数値を住民帰還の安全基準としてしまったからであるが、この20倍の安全基準というのは原発作業員に適用されるもので、これを子供を含めた住民に適用するというのは無茶苦茶な話である。福島県では子供の甲状腺ガンが異常に高い割合で発生しているらしいが、こんな線量の高い地域に住民を帰還させるというのはとんでもないことである。もっとも、双葉町へ帰還した住民は皆無に近いらしいく、作業員以外には全く人影は見当たらず、目に入るのは、除染した汚染残土の山だけである。地元への執着の強い高齢者はともかくとして、若い人にとっては双葉は残念ながら帰るべき土地ではないように思う。補償も含めた対価で土地を東電が買い取り、そこに太陽光や風力といった一大再生エネルギー発電の供給地域を作るのが現実的ではないだろうか。

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前回、到達している磐城太田駅までは20キロ以上あるが、ジョギングも交えて進んでなんとか予定の電車に間に合った。今回の行動によって原発周辺の未踏部分は15キロだけを残すだけになったが、私の元気なうちに立ち入りが可能となる可能性は限りなく小さいであろう。石巻に向かう途中、乗り換えのために下車した仙台で名物の牛タン料理を食べるが、時間がなかったので初日の目標達成を祝う乾杯は石巻のホテルまでお預けとなった。
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2020年3月30日 (月)

中国地方西部旅行 11日目 帰京

自転車の不調で山口県最高峰の寂地山へのアプローチができなくなったので、1日早く帰京することになった。広島で新幹線に乗り換えれば早いのだが、未乗車である吉備線(愛称 桃太郎線、なおテレビゲームの桃太郎電鉄は別物)に既乗車の伯備線経由で乗車するため、倉敷までは18切符を利用した各駅電車で行く。岩国から乗車して、糸崎、福山、倉敷、総社と何度も乗り換えなければならないのが面倒だが、中国地方の感染症の危険度は都内と比べて格段に低いので、「不要不急」の旅行も許してもらおう。なお、感染リスクを避けるために集会やデモにはしばらく参加していないので、「アベ政治を許さない」のシールを安倍晋三のお膝元である山口県でザックにぶら下げておくつもりが、すっかり忘れていたので、岩国で電車に乗り込む時に慌てて輪行袋にぶらさげておいた。もっとも岩国を出るとまもなく広島県になってしまうが、今日1日はぶら下げておこう。
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桃太郎線は桃太郎のメロディが鳴る以外はこれといった特徴のないローカル線だが、途中で織田配下の羽柴秀吉が毛利軍と対峙して、水攻めを行ったことで有名な備中高松城があった近くを通る。駅からさほど遠くないようなので、時間があれば立ち寄りたい気もしたか、残念ながら今回は素通りとなった。もっとかも、現在は公園と看板があるだけで、遺構といったものは残っていないようだが。
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岡山からは新幹線で帰京し、10日以上にわたる旅を終えることとなった。今回行き損なった所は2022年度末に開業予定の長崎新幹線に乗った帰りにでも立ち寄ってみよう。なお18切符が一枚余ったので、いつもならば自分か家族が使うところであるが、流行地域の雑踏等では感染のリスクもあるので使用は止め、ヤフーのフリマに原価で出品したところ、30分以内に落札することができた。落札者の方は気をつけて出かけてください。

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2020年3月28日 (土)

中国地方西部旅行 九日目 秋吉台

今日1日は休養も兼ねて秋吉台の観光に充てることにしたので、美祢線の始発駅である厚狭駅まで自転車で行き、秋吉台観光の間は駅前に駐輪しておくつもりで、それにあわせた時間にホテルを出発すべく後輪に空気を入れようとしたところ、完全に空気が抜けていた。やはりパンクしていたようで、チューブの交換をせざるを得なくなった。久しぶりのチューブ交換にとまどって一時間近くを要してしまい遅い出発となってしまった。当初駐輪予定の厚狭までは無理だが、手前のどこかで駐輪するつもりで出発する。下関を出て海沿いに行くぬ)と、しばらくは鉄道を離れるので、鉄道との合流地点まで早く着かなければと気があせる。関門橋や長州藩の砲台跡を過ぎて間もなくすると、山陽線の長府駅の入口が見えてくる。もうひとつ先の駅までも行けるかもしれなかったが、安全のためにここに駐輪して山陽線に乗り込むことにした。

 

厚狭で美祢線に乗り換えて美祢まで行き、前日乗車した分も併せて美祢線の全線乗車は果たせた。その後はバスで秋吉台に向かうが、他の降車した人につられて一つ手前で降りてしまい、30分ほど余計に歩かされてしまった。秋吉台については事前調査が不足していて、秋吉台のカルスト台地を見るためには、もう一回バスに乗り換えなければならないことも現地に来て初めてわかった。土曜日だというのに秋吉台は閑散としていた。感染症予防の自粛の影響もあるのだろうが、設備の老朽化具合から見て、以前から客足は落ちているようにも思えた。
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秋吉台は天気が良ければ、雄大なカルスト地形を散策するのは楽しいだろうが、風雨の強い今日のような天気では長居をする気にはならず、早々に降りて秋芳洞の見学に移った。こちらの方は秋吉台に比べるとそこそこ観光客も見られた。鍾乳洞は国内のみならず、海外でも見ているが、そのどれと比べても秋芳洞のスケールは群を抜いているように思われた。ただあまりに大きくて最後の方は少し飽きてきて、早く外に出たいと思ったのも事実である。
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観光を終えて、バス電車を乗り継いで長府に戻る。相変わらず、雨が降り続いていて気合いが入らない。明日は天気も良さそうなので頑張って距離を稼ぎ、今日は適当な所まででお茶を濁すことにする。今回、広島まで到達すれば山陽路も走破したことになるが、どう頑張っても無理とおもわれるので、やり残した宿題が増えるだけなのだが・・・

数時間走ってお茶を濁すつもりが、適当な泊まり場がなく、やっとホテルを見つけたのは10時近かった。

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2020年3月24日 (火)

中国地方西部旅行 五日目 楽勝のはずが大慌て

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上の写真は浜田と益田の中間点の駅、下の写真は津和野駅前


今日は益田までの42キロを走破した後は、山陰線の幡生までと美祢線全線の未乗車区間を乗車するだけの楽な1日になるはずであったが、世の中は何が起こるかわからない「一寸先は闇」?であることを実感した。

途中までは順調に行き、中間点あたりの駅にはほぼ予定どおりの時間に着き、益田到着は乗車予定の一時間以上前になるだろうことを確信した。ところが、しばらく進むと、国道は山間部を突っ切って行くのに対して、鉄道は海側を迂回するようになっていた。その時は、時間も十分あることだし、海岸線を行った方か景色もよいだろうし、アップダウンも少ないだろうと考えて軽い気持ちで悪魔の囁きに乗ってしまった。

ところが、一歩海岸の方に足を踏み入れると道は迷路のようになりアップダウンの連続である。おまけにグーグルマップは高低差がわからないので、近道だと思ったら凄まじい登りで引き返さざるをえないといった有り様で、まるで蟻地獄のようである。なんとか抜け出して必死に頑張って、乗車時間の30分ほど前に駅近くに着いたのだが、駅舎の出入口が見つからない。グーグルマップを拡大して見たら、地下道を潜って反対側に行けば出入口があることがわかり、なんとか出入口まではたどり着けた。

改札口の上の時刻表を見ると、長門市行きの山陰線はかなり前に調べてあった時刻よりも17分も早く、後数分で発車予定ではないか。この時、今月のダイヤ改正の影響だとピーンときたが後の祭りである。次の発車は一時間以上後だし、未乗車区間を回って今晩中に帰って来る電車は、もうないのである。駅前に自転車を駐輪して飛び乗れば間に合うのだが、田舎の駅と違い、駅前に駐輪場は見当たらない。かといって自転車を解体して輪行袋に入れるのは時間的にとても無理だ。万事休すと思っていたら、山口線の臨時電車が20分後に発車するではないか。これなら間に合うと思って、自転車を解体し輪行袋に詰め込んで電車に乗り込んだ。山口線自体は以前に乗車したことがあるのだが、今回また乗車することについてはふたつのことを思い付いた。ひとつは終点の山口駅からバスで秋吉台に行き、今回の旅行の後半に予定していた観光を先にやってしまうことである。ただ、バス時刻を調べてみると、現地の滞在時間が一時間くらいしかとれないし、鍾乳洞も閉園時間ということで却下。もうひとつは新山口から山陽線で幡生まで行き、山陰線に乗り換えて益田駅まで戻ることである。美祢線は未乗車のまま残ってしまうが、山陰路を長門市までツーリングした夜に長門市から美祢を往復し、その後にぐるっと回って山陽道に入った時に厚狭から美祢経由で秋吉台に行けば(当初は新山口からの予定であった)、美祢線も全線乗車になるということで、かろうじて一件落着となる道筋が見えてきてほっとした。

山口線は途中の津和野で30分くらい停車したので下車してみる(前回乗車時は素通り)。一時は女性週刊誌の旅特集の定番だったが、最近はブームが去ってしまったのだろうか。駅前には観光客もほとんど見かけなかった。昔の町並みを見るには時間がなかったので、駅前で雰囲気だけを味わうに止めて、益田駅で食べ損なった昼食をと思ったか、結局ゲットできたのは、みやげ物屋で買ったビールとつまみだけであった。

その後は山口駅でも乗り換えのついでに駅前にでてみた。戦国時代の大内氏の城下町で西の京と呼ばれ、幕末には毛利氏の居城が防衛上の理由で海岸の萩から内陸のこの地に移転されたのであるが、駅前に立ったくらいでは歴史の重みを感じることは当然ながら無理である。

下関の手前の幡生で山陰線に乗り換えて日本海に沈む夕日を眺めた後は暗闇で展望のない長い旅が益田まで続いたが、ブログを書いたり、ホテルの予約を入れたりしていたので退屈することはなかった。だいぶドタバタはしたが、とにかく山陰線の全線乗車は果たすことができたのでホッとした。

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2020年3月21日 (土)

中国地方西部旅行 二日目 鉄道縦断

ホテルの朝食が6時半からだったので、ゆっくり食事をしていたら出発は7時をだいぶ回っていた。今日の行程をこなすには広島発11時5分の三次行きに乗らなければならないので、あまりゆっくりとはしていられないのだが。ただすぐに広島方面を目指すのではなく、一度南下して東広島駅に向かう。というのは前回は東広島駅まで来ているので、そこまで行かないと繋がらないからである。最初は東広島駅の入口で引き返すつもりだったのだが、前回はどういう経路で駅まで行ったか覚えていなかったので、たいした距離ではないからと駅前まで足を伸ばしてみることにした。

 

思わぬ寄り道で広島駅までの行程がきつくなってしまったが、山陽線に沿って走っている限りは、時間が足りなくなれば最寄り駅から乗車して広島駅に向かい、走り残した部分は最終日に岩国から広島に向かう際に(予定どおりに行程を消化していればの話しだが)少し足を伸ばせばいいだかである。結局、広島駅の二つ手前の海田市駅で電車に乗って、予定どおりの三次行きの乗車することになった。

 

広島駅からの芸備線は2年前の真備町ボランティアの帰りに乗るつもりだったのだが、水害で長らく不通となり昨秋ようやく復旧したものである。三次から先の新見までの芸備線はすでに乗車しているが、備後落合までは芸備線を経由して、未乗車である宍道までの木次線を乗車して山陽から山陰までの中国地方縦断をやろうというものである。なお出発間近に芸備線で脱線事故が起きて一部不通との情報が入って心配したが、不通区間は備後落合よりも先とのことで一安心した。
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三次で乗り換えて備後落合に向かう。芸備線は備後落合から先は不通のため代行バスが出ているようだが、木次線は通常どおり運行されているので乗り換える。備後落合駅は3年前に三江線の廃線直前に乗車した後に翌朝の新見方面の始発電車に乗るためにほとんど眠れないままに一夜を過ごした懐かしい所である。そういえば三江線の廃線の次にターゲットとされているのが木次線だそうで、そのせいか鉄っちゃんが大勢来ていて元JR職員らしいボランティアの人がホーム上で木次線の由来等を説明していた。

 

木次線は最近では珍しいディーゼルかーである。喘ぎながら高度を上げて行き、標高720メートルを最高点として日本海に向かって高度を下げ、急勾配の箇所はスイッチバックで降りていく
。途中の駅にはカメラを構えている人はいるが乗降客は皆無である。乗客もマスクをしている人はほとんどいなくなるが、鉄っちゃんはどこから来た人かわからないので警戒は緩めず、他人との距離は一定の間隔を保つように気を付ける。

 

木次線の総延長82キロを三時間近くかけて山陰線の宍道駅までのんびりと辿って行く。途中見るべきものも多数あり、退屈せずに鉄旅を楽しむことがでした。宍道からは宍道湖に沿って夕日を眺めながら旅情を誘う旅を松江まで続け、そこから先は中湖沿いに米子まで進むのだが、松江到着で終わりとはならない。数年前に鳥取から米子を目指した際に、米子まで達することはできずにやり残した部分を今回終えておかなければならないからである。米子で乗り換えた山陰線を大山の麓で降りて米子に向かってライトをつけて自転車で進む。ただ米子までだと遠いし、海岸線からは遠くなってしまうので、半島の付根あたりの駅に自転車を停め、米子市内に戻って明日またツーリングの続きを行うことにした。午前中は広島までのやり残しをやらされたし、変な1日だった。

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2020年3月20日 (金)

中国地方西部旅行 一日目 はるばる広島へ

前々から予定していた中国地方(チャイナではない)西部の旅行に出かける。こんな時期に移動するのは「非国民」であるとの批判を受けかねないこともないのだが、中国地方は新型肺炎の感染者が見つかっているのは、岡山・鳥取・島根三県は0、広島県は一人、山口県でも三人と国内では一番「安全」な地域なのである。問題となるのは新幹線の車内での感染でリスクであるが、乗車するのはひかり号なので、のぞみ号に比べて停車駅が多いため停車時に空気の入れ替えが頻繁に行われるため、感染リスクを軽減することができ、しかも1号車の先頭座席に座ったので人の移動も比較的少なく、停車時の空気入れ替えの影響効果を受けやすい場所を確保するといったリスクを最小限に抑えるようにも努めた。

今回の旅行の一番の目的は日本列島海岸線走破計画の本州の仕上げであるが、それとともにJR全線乗車達成のために未乗車区間のいくつかに乗車することもあり、まずは因美線の智頭以南から津山線経由で岡山までを乗車するために新幹線を姫路駅で下車して在来線と智頭急行を乗り継いで智頭駅に向かった。智頭急行線は数年前に山陰東部に行った時に岡山県最高峰の後山に登るために鳥取から因美線を経由して智頭から数駅先までは往復したことはあるのだが、今回の乗車により全線乗車になるのでJR線ではなく私鉄だはあるものの乗る価値はあると言える。乗車したのは1両編成の典型的なローカル電車であるが、不思議なことに鳥取~岡山の特急は智頭~岡山は遠回りになるにもかかわらず、智頭急行経由となるのである。乗車した電車の出発を待っている間にも鳥取行きの特急が通過するところであった。

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山間を縫って一時間半強で終点の智頭駅に着く。ここは新型肺炎感染者の報告がゼロの鳥取県内ということもあるのかマスクをしている人はほとんどいない(花粉症の人も少ないのかしら?)。数ヶ月前の日本に戻ったようである。先ほども書いたように智頭から津山に向う列車は本数が少ないので、一時間半も乗継時間がある。そこで、テレビの旅番組ではないが、町をぶらりと散策することにした。智頭宿は鳥取藩最大の宿場町として栄えた所で、智頭往来は往時には多くの人が行き交う道であったようだ。さらには戦国時代末期には織田信長配下の羽柴秀吉軍と毛利軍が対峙して番屋が置かれたということもあって、歴史オタク、街道オタクの自分にとっては、たまらないところである。
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さらには試飲のできる酒造も見つけて三種類ほど試飲させてもらう。自分としては最初に飲ませてもらったのが一番口にあったが、瓶売りしかないと言われてバック売りの大吟醸を買って車内で景色を眺めながらいただき、呑み鉄の六角青児と同じになってしまった。
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酒を飲んでひと眠りをしたら因美線の終点の津山駅に着いてしまった。再び岡山県に入ったせいか、またマスク姿が多くなる。津山駅では乗り換え時間が小一時間あったので町に出てみる。夕日に照らされた川を渡ると、そこは津山藩の城下町である。本能寺の変で討死した森蘭丸の弟が築城した津山城も川畔からよく望める。城のあたりは公園にもなっているそうだが、近くまで行く時間はなかったので、遠くから写真だけを撮って駅に引き返す。
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津山駅を電車が発車すると、まもなくあたりは暗くなり景色も楽しめなくなる。その後も岡山、福山、糸崎と乗り換えたが、いずれも乗り換え時間は短かったものの、18きっぷを利用した在来線の旅のため時間がかかったので、ブログを書いたり本を読んだりして時間を潰す。

 

広島の手前の西条駅で下車したのは10時を回っていた。広島まで行かずに西条で降りたのには訳がある。数年前の真備町の水害ボランティアの後に広島までの約60キロを夜間にジョギングして翌朝の原爆式典に出席しようと思っていたら、中間あたりの東広島あたりでリタイアしてしまったため、今回は明朝に広島までの残りの区間を今回は自転車で走破するためである。前回ももうしばらく先までは行く元気はあったのだが、水害によって在来線は広島駅近くまでは不通となっていたため、前進するのならば一気に広島駅近くまで行かねばならなかったため、たまらないところである。かろうじて動いていた新幹線の始発で東広島駅から乗車するために駅舎がオープンするまで、駅前のベンチでまんじりともせずに待ち続けたものである。なお、当時は呉経由の海岸線は道路が寸断されて通行不能ということで新幹線沿いに進んだため、今回もその続きを行くことにしたが、海岸線走破という目的からは呉経由で行くべきなので、可能であればそちらからも回っていきたい。

 

在来線の西条駅と新幹線の東広島駅とは五キロほど離れているが、今夜の泊まりはちょうど真ん中辺りにあるが、自転車を組み立てたりしてから出発したので、チェックインを済ませて入室したのは11時近くになっていたが、深夜でも温泉に入れたので、入浴後にビールを飲んで快適に眠ることができた。

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2020年2月11日 (火)

帰国

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最終日は午後の便で帰国するだけののんびりした行程である。午前中は自由行動という認識だったので、9時過ぎにネットで調べたチェジュ市内の朝食人気店のN01に紹介されていたお店に行ってみる。ホテルからは歩いて15分くらいの大通りに面した店だったので、すぐにわかった。一番人気のヘジャングッという汁物料理を注文する。二日酔いを抑える効果のある料理だとのことで、昨晩飲みすぎた翌朝には最適の食事である。韓国料理だけに辛さは半端ではないが、味は一番人気だけのことはあった。

 

帰りはバスカードのチャージ残が大分残っているようなので、最寄りのバス停から行き先も確認せずに最初に来たバスに乗り込む。ところが、次の信号でホテル方向とは逆の西側に曲がってしまう。あわてて最初のバス停で下車して、反対方向のバス停に移動し先ほどとは違う路線番号のバスに乗り込むが、どうしたことかまた最初のバス停まで戻ってしまった。、こんなことをしてもらちが明かないので、帰りも歩いて帰ることにした。

 

ホテルに戻って荷物を整理し、予定どおり11時にロビーに降りて皆が集合する。このまま空港に直行するのかと思ったらレストランに行くとのこと。そう言えば昨晩そのような予定を聞いたような記憶もあるが、酔っていたので記憶が飛んでしまっていたようだ。先程の朝食から一時間ほどしか経っていなかったが、軽めの麺類を注文して完食する。

 

ホテルに戻ってからタクシーで空港に向かいチェジュ島の旅は終わる。天候にも恵まれ予定もほぼ達成できて満足できる4日間だった。

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