旅行

2021年12月12日 (日)

ホリデイ イン ギフ

今日は休養日ということで8時過ぎまで寝て、コインランドリーで洗い物をしてからホテルを出る。今日は初日の小牧山城に続く「信長の城めぐり」第二弾の岐阜城巡りである。駅前から岐阜城公園行きのバスもでているが、時間はじゅうぶんあるので、市内見物がてらに1時間ほどかけて歩いていく。
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岐阜城公園は日曜日ということもあるのか、大にぎわいである。ここから金華山山頂の岐阜城までは標高差が数百メートルあってロープウェーも利用できるが、往時の面影を求めて歩いていく。岐阜城までの登りはメインの七曲がり道とサブの馬の背道があるが、今日は休養日ということなので、楽そうな後者を行く。
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城が近づくと昔の石垣な跡も現れて面白くなる。岐阜城の天守閣自体は比較的新しく再建されたもので歴史的価値はないのでパスするつもりだったが、近くにある岐阜城資料館に入ろうとしたら、天守閣のチケットを見せる必要があるというので、天守閣まで戻ってチケットを買う。だが肝心の資料館はNHKの大河ドラマ関係の展示が中心でガッカリであった。
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下りは本来ならばメインの七曲がり道を行くべきであるが、南側の道を降りる。というのは、南側の道を降りた先には岐阜では数少ないローソンの100円ショップがあるからである。明日からの自然歩道後半戦で使うレトルトご飯を温めるのに使う小さい容器でも可能な二つ折りのレトルトご飯は一般のコンビニでは売ってないからである。ローソンの100円ショップに着いた時は暗くなっていたが、振り返るとはるか彼方の岐阜城がライトアップされているのが印象的であった。

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2021年11月21日 (日)

蒜山

5、6年ほど前に日本百名山登頂を達成し、次は二百名山に向かう人も多いと思われるが、自分の場合はそういう気にはならなかった。というのは百名山の時は北海道の山でのヒグマの恐怖にはなんとか耐えたが、もう一度あの恐怖を味わう気にはならなかったので、はなから二百名山登頂達成はあきらめていたのだ。しかし、その後二百名山の山をいくつか登って、百名山を除く二百名山の登頂済みの山が70近くになったこともあって、北海道を除く二百名山を全て登頂することを目標にすることにした。そこで今回は少し足を延ばして中国・近畿地方の二百名山3山と都道府県最高峰のうち、本州で唯一登っていない山口県の寂地山を登り、併せて日本列島海岸線走破の旅のうち、山口県から広島県にかけてと大阪府から和歌山県にかけても自転車で走破しておくことにした。

 

旅の最初は伯耆大山の南東に位置する二百名山の蒜山である。山自体は1200メートルほどしかないが、中国地方のほぼ中央に位置しているため、登山口までのアプローチが非常に長いものになる。まずは岡山までは新幹線である。大人の休日倶楽部の三割引の切符のため、のぞみには乗れずにひかりとなるが、静岡や名古屋まで何回か利用した時は、のぞみに追い越されるのは停車駅では一回だけだったと記憶しているけれども、相生駅では二回も追い越されたのには驚いた。次の岡山駅がひかりの終点なのだから、岡山駅で追い抜いてくれよと言いたくなった。

 

岡山からは津山線で津山に向かう。去年の山陰行の際にも乗っているはずだが全然記憶になく、川に沿って奥深く入っていく情景が新鮮に感じられて旅情を誘うものであった。タレントの六角精児ならば、早速かばんからビールを取り出すはずであるが、残念ながら岡山でビールを買い忘れたので六角さんにはなれなかった。

 

津山駅周辺には津山城、電車庫など見るべきものはあるのだが、近くからじっくり見るにはそれなりの時間がかかり、今回は時間が足りないので遠くか眺めるだけにとどめた。残りの時間で津山駅のコンビニで翌日の行動食までまとめて買い、待合室で遅い昼食を食べる。姫新線に乗り換えて中国勝山で下車。ここからバスで蒜山高原に向かう。バスは学校帰りの高校生で満席て、乗車時に整理券が出ないので変だと思ったら一律200円であった。1時間以上の乗車でもこの料金というのは多分市が補助しているのだろう。
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バス停で下車したときは真っ暗になっており、今晩のホテルまでは1時間近く歩かなければならないのだが、幸か不幸か今晩は部分月食のため、ライトなしでは前進は困難であった。ホテルでは風呂に入った後、コンビニ弁当で夕食を済ませて明日のために早めにベッドに入った。

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翌日はコースタイムでは7時間程度の行程だが、12時過ぎのバスに乗らないといけないため、余裕を見て4時過ぎにホテルを出発する。月食は終わっており、満月の明かりの中を歩けたのはラッキーであった。登山口から中蒜山までの標高差は700メートルほどしかないが、そこに一合目から順番に合目の表示がされていて次の合目がさほど時間を置かずに現れるので精神的には楽であった。

 

八合目あたりで明るくなってきたのでライトを外してザックにしまっていると、かなり早いピッチで登ってくる後続者に追い抜かれる。この登山者には中蒜山の山頂で一度は追いついたが、その後は姿を見ることはできなかった。中蒜山の山頂に着いた時はあたりはすっかりガスに包まれて全く展望はなかった。最高峰の上蒜山まではなだらかな草原が続いていて、天気が良ければ気持ちの良い所だろうが、今日は残念であった。
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上蒜山山頂には8時半過ぎに着き、これで帰りのバスには余裕で間に合うことが確信できたので、山頂から少し離れた所にある三角点まで往復してくる。せっかく東京から来ながら三角点を踏んでないことを後で悔やみたくなかったからである(山頂1203メートルに対し、三角点は1199メートル)。
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上蒜山から蒜山高原まで下る途中では弱いながらも雨まで降り出す。雨が降るなんて聞いてなかったぞと言いたくなったが、上下雨具にザックカバーまで付けたので、少々の雨ならばへいっちゃらである。登山口までは一時間半ほどで下りられたが、バス停までは30分以上歩かされた。バス発車時刻までは一時間半ほどあったので、近くのレストランで食事をしたりして時間を潰して予定のバスに乗る。今日は学校がお休みなので、料金体系が違うのかと思ったが、やはり一律200円であった。

 

中国勝山まで帰る途中、いかつかの温泉街を通るが、途中下車して次のバスに乗ると予定の電車に乗れなくなるので、やむを得ず中国勝山まで乗っていく。ただ中国勝山では次の列車までは3時間近くの待ち時間があるので、時間潰しを考えなければならない。昨日ちらっと駅前を歩いたら「町並み保存地区」という看板を発見したので、そこに行ってみることにした。

 

全国各地にある昔の町並み風景と格別変わりはないが、時間潰しには最適だった。その中に作り酒屋があったので、六角さんではないが寄ってみた。あいにく試飲は感染対策で中止となっていたのは残念だった。かといって瓶で買うのはツーリングでは携行が無理なので諦めた(六角さんなら一列車で飲み干してしまうかもしれないが)。結構観光客も出ていて、何人かはレンタルサイクルを利用していたか、自分の自転車は早々と袋にしまってしまい、もう一度組み立てる気にはならず、午前中の山はハイキングに毛が生えた程度のもので疲れもほとんど残っていなかったので、歩いての観光はノープロブラムであった。
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その後は新見で乗り換えるため下車して街に出て、駅近くの店で備中そばなるものを食す。あんかけ風の肉野菜そばといったら良いだろうか。
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その後はコンビニで酒とつまみを買って駅に戻り、出雲市行きの特急に乗る。本当は今夜は明日の三瓶山の最寄り駅となる大田市駅まで行き最寄りのホテルに泊まりたかったのだが、大田市だけでなく出雲市でも今夜は全てのホテルが満室だった。感染が下火になってからの初の飛び石四連休の初日だからやむをえない。そこで今夜は出雲市駅近くで、コロナ流行以来、利用を控えてきたネットカフェの利用を解禁することにした。ネットカフェは熟睡はしがたいが、明日の三瓶山はコースタイムが今日の半分以下の本当のハイキングなので問題ないだろう。

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2021年11月13日 (土)

白峰南嶺の空白部分を埋める

湯の島温泉は今春の桜(タイミングが合わず)に続いて紅葉を狙ってやってきた。ただそれは表向きの理由で、本当の目的は日本アルプスを日本海に突き出た山稜から太平洋に落ち込む山稜の末端まで縦走する計画の仕上げとしてやってきたのである。

 

南アルプス第二位の高峰である間ノ岳から南に延びる稜線は白峰南嶺と呼ばれているが、赤石山脈という名前の起源ともなっている赤石岳を盟主として多数の三千メートル峰を連ねる南アルプス主稜と比べると訪れる人も少なく地味な存在である。しかし、南アルプス主稜は太平洋に近づく前に山稜の形が失われてしまうのに対して、白嶺南嶺は海岸線ちまで山稜の形を保っている貴重な存在である。

 

白峰南嶺は山伏より北は踏破してあるが、南側は踏破したところと未踏破がまだら模様となっているので、今回は青笹山より北側を全て踏破することを目的としている。先ずは山梨百名山ともなっている山伏と八紘嶺を結ぶ稜線については今春に片付けるつもりが、山伏の手前で時間切れとなってしまったため、その部分だけをトレースするために、わざわざ山伏を登る羽目となってしまった。

 

後半の食料等は登山口付近にデポしておくことにした。結果的にはその時間帯だけだったのだが、結構下山者が通ったので、万一デポ品を持ち去られたら大変なので、葉っぱや木の枝でカムフラージュしておいた。もっとも自分自身がわからなくなっては困るので、現場は写真を撮っておくのも忘れなかった。

 

デポして担ぐ荷物が軽くなったので、明るいうちには避難小屋に着けると思ったのだが、思ったほどにはペースは上がらず、小屋に着いた時は真っ暗になってしまった。最近は簡易テント(ストックシェルター)のことが多いが、やはり居住性は小屋が断然いい。ただ一人で無人小屋に泊まると薄気味悪いのも事実だ。出口の開き戸が固くて開け閉めに苦労していたことが記憶に残っていたのか、扉が独りでに開いてしまいゾッとしたら夢だった。そんなわけで熟睡はなかなかできなかった。

 

翌朝は3時半に小屋を出発、山伏山頂を経て未踏の尾根に足を踏み入れると問題が起きた。ネットからダウンロードした地図でも紙の地図でも稜線上に登山道が通っているのに、テープや布によるマーキングを辿っていく道をGPSで確認すると稜線を離れて支尾根に迷いこんでいるように見えるのである。山頂まで戻って「正しい」道を探すも発見できず、明るくなるまで待機することにした。

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明るくなってから、「正しい」道があるはずの稜線上を探すが踏跡さえ見当たらない。これはやはり、マーキングされた道が正しい道で、何らかの理由で地図上の道とは異なってしまったのだろうと考えたが確信が持てないので、とりあえず稜線上を進んでみて、マーキングされた道と合流するのを待つことにした。しばらく稜線上を進むと案の定マーキングされた道と合流したので、無駄な時間をかけてしまったが問題は解決されたことになった。

 

前回の到達地点までは間もなく到着したので、そこから引き返し山伏を経て来た道を戻り、デポ品も無事回収でき、予定したバスにも乗れて、湯の島温泉で妻と合流することとなった。
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翌日は朝は雨模様であったが午後には晴れるという予報なので、予定どおり安倍峠から南下する稜線歩きに向かう。雨のために出発を遅らせて様子を見るが、一向に止みそうもないので、予定より1時間遅れの9時半に宿を出発する。

 

安倍峠までの自動車道は崩壊のため通行止めだが(4年前から通行止めのままで復旧するつもりがないのかしら)、八紘嶺方面への登山道は登れるので、途中から安倍峠に向かうことにする。傘をさしながらストックを突いて登るが、どうも調子が上がらず、安倍峠手前までのコースタイム1時間20分のところを2時間もかかってしまう。こんなことては宿の夕食時間に間に合わなくなるのでぺースを上げることにした。

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林道から安倍峠に降り立つといよいよ本格的な登りがあ始まる。雨もほとんど上がり傘も必要なくなったので、ペースも上がってきてコースタイムの7~8割で歩くことができ、下降点である奥大光山の手前には3時に着いたので、宿には5時頃には着くかなと思えた。ところが気が緩んだわけでもないのにベースが上がらず、宿に着いたのは予定よりも1時間遅れの6時となってしまい妻からお目玉をくらう羽目となってしまった。

 

翌日は午前中のバスで妻と一緒に宿を後にする。今日中に帰京するため静岡まで行く妻と別れて、六郎木で下車し十枚山に向かう。昨日と異なり天気は良いし時間にしばられることもなく、のんびりと景色を眺めながら登っていく。だか、呑気な気分は長続きはしなかった。肝心の登山口が見つからないのである。紙の地図上で登山口と書いてある付近まで行って見るがそれらしきものは見当たらない。そこで手前に林道と交差していたのを思いだして戻って見る。だが林道の入り口には登山道についてのことが何も書かれてない。おかしいとは思ったが、登る尾根はわかっているので、林道の適当なところで尾根に取り付けば正しい道と合流するだろうと進んで行くと、案の定、正しい道と合流した。登山口は地図に書かれている地点よりももう少し奥の方にあったらしい。

 

一件落着と言いたいところだが、次の難題が待ち構えていた。尾根の途中で山腹を巻き気味に登る道が分岐しているが、そちらの方は沢を横切る所で水を補給できるようなので、炊事用の水は持たずにきていた。ところが、巻き道の方は崩壊箇所があるということで通行止めになっているでさないか、どうすべきか思案した結果、通行止めとなっていると言っても、今までの経験上では全く通れないという可能性は低いし、仮に通れそうもないと判断した時は、崩壊箇所は沢を横切る所だろうから、そこで水を補給してから戻って尾根コースを歩けば言いだろうということになった。

 

巻き道コースに入ると直ぐに一ノ沢の出合で、上流からの土石流が登山道を押し流したようで、あたりは岩が散乱していた。ただ下の方まで続く巻き道が作られていて、ローブも張り巡らされていたので通過は特に問題はなかった。「自己責任でご利用ください」との注意書きはあったが。巻き道からも水を汲むことは可能であったが、まだ時間は早かったし、次の沢で汲めばいいやと素通りする。

 

一ノ沢を過ぎるとジグザグの道が続いて高度を上げていき、なかなか二ノ沢に着かない。薄暗くなった頃にようやく二ノ沢に着いたが、そこには予期せぬサプライズで避難小屋があった。地図には記載されてなかったので、簡易テントを張るつもりだったのだが、いい意味での想定外だあった。

 

最終日は暗いうちに小屋を出る。夜道だとどうしてもベースが上がらず、コースタイムをだいぶオーバーして十枚峠に着く。重い荷物は峠に置いて軽装で十枚山の山頂を目指し、標高差200メートル弱の緩やかな登りで99座目の山梨百名山に登頂する。前二回は時間不足等から登れなかった山にようやく念願が叶って登ることができた。だが、前回は十枚山手前の所で引き返したので、そこまで行かないと白嶺南嶺の縦走はつながらないのである。

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前回の到達点の記憶は定かではないが、このあたりだろうという所で引き返し、十枚山を再び越えて峠を目指す。途中で軽装のパーティーとすれ違い、こんな早い時間にどこから来たのだろうと思って地図を見たら、これから向かう地蔵峠のすぐ下まで林道が延びていて、小一時間の登りで稜線に達することができるので、十分日帰り可能な山になるようだ。

 

十枚山のすぐ南には下十枚山という山があって、こちらの方が十枚山よりも20メートルほど高い上、地蔵峠からの眺めも雄大で立派な山容なのだが、なぜか山梨百名山には十枚山が選ばれてしまい、山名もおまけのような名前となってしまった不遇な山である。下十枚山から先は下り気味にアップダウンを繰り返して岩岳まで下りると、後は地蔵峠までは急降下が続く。その間にも二人の単独行者とすれ違った。

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地蔵峠から南下して青笹山に達するまでは以前に歩いているので安倍川方面に下山する。30分ほどの下りで林道に降り立つが、バス停まではまだ2時間近く歩かなければならない。バス停近くにわさび飯で評判となっている店があるとのことでぜひ行ってみたかったが、営業が3時までということでのんびりとはしていられない。途中、近道をしようと思ったら行き止まりとなっていて引き返すというアクシデントもあったが、なんとか閉店30分前に間に合い、看板メニューのサビ飯定食を注文し、
Dsc_0243_copy_430x242 食後は近くのバス停から静岡方面に向かうことができた。

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2021年8月29日 (日)

強制隔離

いよいよ十日間の強制隔離がはじまる。

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デルタ株流行国として指定された国からの帰国者に対する取扱は次のようになっている。

デルタ株流行国として指定された百カ国近い国からの入国は原則禁止となり、帰国者は例外的に次の条件を守ることを条件に帰国が認められることになった。
・出発72時間以内に献体採取したPCR検査についての陰性証明書(厚労省所定の書式を含む)の提出
・誓約書の提出、健康状態や現在地を報告するアプリのインストールと隔離期間中の報告
・空港での抗原検査が陰性であること
・10日間の施設隔離とその間の3回のPCR検査で陰性判定が得られた場合の公共交通機関を利用しない自宅への移動と四日間の隔離

71年生きてきて幸か不幸か塀の中で暮らした経験はなかったが、今の生活はそれに近いのではと思えてくる。飲酒が禁じられていることはまだ我慢できるが、部屋を一歩も出られないというのが、非常にストレスになっている。その結果、外部とのつながりらしきものはネットやテレビを除くと、窓から見える空港の景色だけである。隔離されているホテルは成田空港第三ターミナルに隣接しており、朝は日の出を臨め昼間は広大な空港が一望でき、夜になれば滑走路灯が幻想的な美しさを見せる。そして昼間は出払ってた飛行機が翼を休めに戻ってくると、我が子が帰ってきたようにホッとした気分にさせてくれるから妙なものである。

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部屋から見える日の出
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同じ経験をされる方のために参考となることを書いてみる。ただし、私の滞在した東横イン成田空港についての経験だけなので、他施設では違う取扱がされる可能性があることは承知ください。
・提供される弁当について私自身は特に不満はないが、それ以外には食料は調達できないので(出前も認められていないようだ)、嗜好品等を希望する人は出国前に用意するか、家族等に差し入れ(酒は没収)を頼む必要がある。
・テレビは利用できるが、テレビに組み込まれているオンラインビデオは利用できないようになっているので、時間つぶしの方法を考えておいた方がよい。
・健康状態報告や現在地報告が毎日義務づけられているが、それとは別にビデオ通話への応答が不定時に求められている。これに応じると、こちらの様子が相手方に筒抜けとなるので、それが気になる人は、慌てて応答せずに身だしなみを整えてから応答するか、普段からあまりリラックスしすぎないようにすることも必要かもしれない。

日々の生活は三食の弁当が最大の楽しみであり(だんだんと飽きてはくるが)、後はテレビとネットで時間つぶしはできる。特にkindleで本のダウンロードができるのはありがたい。さわりの部分だけならば無料なので立ち読み感覚で読めるのが良い。

そうこうするうちに(といっても長い時間だったが)強制隔離最終日である十日目の朝が来た。7時前にPCR検査の採取容器が配られる。ホテル隔離後、三日目、六日目に続く三回目の検査である。キルギス出国直前の検査から数えると、二週間の間に五回の検査である(うち一回は成田空港での抗原調査)。検査はこれでおしまいにしてほしいものだ。

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朝食後にゆっくり風呂に入ってから荷物の整理を行う。これでいつでも退所できる準備は整った。その後に昼食として入所後30回目となる弁当の配布を受ける。いやー、よくも飽きもせずに食べて来たものだ(そんなことを言ったら罰が当たるか)。
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1時前に昼食を食べ終わると、後は何もやることがないのでテレビを見ながら検査結果の通知を待つ。事前に確認したところでは2時半から3時の間くらいに連絡が来るということだったが、3時近くなっても連絡が来ない。しびれを切らしてコールセンターに館内電話するが誰も出てこない。よもや陽性判定(たとえ、そうでも僞陽性に違いないので、再検査で陰性となることは間違いないとは思ったが)で、今日は退所できないから連絡が遅くなっているのではと悪い方に考えが行ってしまう。

3時15分過ぎにようやく連絡があり、すぐに退室してキーを返してバスに乗るようにとのこと。あわてて1階に降りて退所手続きを取ってバスに乗り込むと間もなくバスは空港に向かって動きだす。そうだ、十日間も隔離されたホテルの外観くらいは写真に撮っておかなきゃと思ったが、バスの窓は行きと同様に全て目張りされて景色が見れない(まだ感染者扱いかよ)。仕方ないので、覆いの間から撮ったものだから、ピンボケしてしまった。

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バスはすぐに空港第二ターミナルに着き、ここで自宅隔離の注意事項の説明でもあるのかと思ったら、別に係の人がいるわけでもなく、ここで解散ということのようだ。自宅までは公共交通機関の利用は禁じられているので、ハイヤーを予約しておいたが、そのチェックがあるわけでもないので、公共交通機関で帰ろうと思えば帰れたようである。もっともあんな重い荷物を担いで、猛暑の中を帰るのは大変なので、ハイヤーで帰るのも悪くはない気がした。  

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ハイヤーはホテル隔離者専用みたいで、運転席と後部座席差透明シートで完全に仕切られていて、感染者扱いはまだ続いているようだ。成田空港を出発したのが4時ちょっと前という時間だったのが幸いして渋滞にも会わずに2時間もかからずに帰宅できるこどできた。こうして、コロナが下火になっている「安全な」キルギスから一定人口あたりでは、1日の感染者がキルギスの10倍となっている「危険な」東京への移動は何故か10日間の隔離を挟んでようやく果たすことができた。
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2021年8月13日 (金)

カラコル

8月13日
今日はイシク・クル湖の東端よりもさらに東よりの山岳地帯にあるカラコルを目指すということで7時にゲート前で落ち合うことになっている。ホテルの朝食は8時からとなっていて間に合わないので、昨夜のうちにランチボックスを頼んでおいた。ところが7時近くになってもロビーのカウンターには係員が現れるないので、しびれを切らしてホテルを出てしまった。

 

走り始めて間もなくしてチョルボン・アタの街に入り、お店がたち並びホテルも散在している。普通ならああいう所に泊まるはずなのに何故プライベートビーチのホテルを予約してあったのかが不思議である。

 

車がカラコルに近づくと天山の高峰も見えだししてきた。運転手
は何故私がカラコルに行きたがってるのか不思議がっていたので次のように説明しておいた。「10年前にカンテングリ山をカザフスタン側から登山したので、今度はキルギス側から見てみたいのでカラコルに行きたいのだ」と。ただカラコルからカンテングリが果たして見えるのかどうかについては自信はなかった。

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カラコルの手前まで来た時に山の合間からカンテングリとおぼしき山が姿を現した。方角的にもピラミダルな形からしてもカンテングリであることを確信したが、すぐに前山に隠れて二度と姿を現さなかった。カラコルは比較的大きな町で、たくさんあるお店の中から適当なカフェを選んで遅い朝食を摂る。また銀行もいくつかあったので両替もしておく。

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後はビシュケクに戻るだけなので、当然同じ道を戻るのかと思いきや悪路だと嫌がっていた湖南側の道を進んで行くではないか。これでカンテングリをもう一度見て写真をとるチャンスは失われたが、雲が厚くなってきたので、あのまま戻っても見られなかった可能性は高いと思う。今回は山国キルギスで南のパミールと北の天山の両方見られただけでも大満足であった。

 

湖南側の道は全然悪路ではなく、むしろ北側を走っている時よりもスピードを出しているようだった。想像するところでは、カラコルは遠いためできれは行きたくなかったので方便をついたが、来てしまった以上は客の希望を聞いてやりたいと思ったのかもしれないし、実際問題としてカラコルからならば南側の方が早いという面もあっただろう。

 

やかてイシク・クル湖を離れると湖の南北の道は合流して一路ビシュケクを目指すことになり、私のキルギスの旅もフィナーレが近づいてくるようだ。

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2021年8月12日 (木)

イシク・クル湖

 

08月12日
今日から二日間の予定でソ連時代は外国人立入禁止で「幻の湖」と呼ばれたイシク・クル湖に行く。本来は登山終了後は隣国タジキスタンに足を伸ばして、アフガニスタンとの国境地帯であるワハン回廊に行きたかったのだが、コロナの影響で陸路の国境越えは困難が予想されるために予定変更となったものである。

 

初日はイシク・クル観光の拠点となるチョルボン・アタで泊まり、翌日は湖の東端から少し上がった所にあって天山登山の基地となるカラコルまで足を伸ばした後にビシュケクに戻るというものである。チョルボン・アタまでは路線バスが頻発しているようであるが、途中寄り道してみたいプラナの塔は路線バスは素通りしてしまうようなので、行きだけは車をチャーターして翌日は路線バスで帰ってくることも考えていた。ただバスの混雑状況がわからず、PCR検査を翌日に控えて密環境の中で万一感染でもしようものなら何にもならないので、翌日もチャーターすることにした。またカラコルからの帰り道は同じ道を行くのは芸がないので、湖の南側を通っていくことを考えていたが、運転手から南側の道は悪路だという懸念も表明されたので帰りも湖の北側の道さを行くことにした。先日のベースキャンプまでの道ほどの悪路ではあるまいとも思われたが、格別南側の道に固執する理由もなかったからである。

 

車は市街地を抜けて田園地帯を走ってしばらくすると、急に路肩によって停車した。パトカーに停車を命じられたからのようである。スピード違反かなにかのようである。運転手が拘束されることさへなければ多少の遅れは構わないが、前途多難の船出である。運転手は警官の差し出す書類に次々とサインして握手を交わしていたから、これで一件落着のようである。車に戻った運転手は何の説目をするでもなく、素知らぬ顔でまた走りだした。まあ説明をされても多分私は理解できないだろうが

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その後、車は幹線道路から外れて南下し、プラナの塔を目指す。プラナの塔はシルクロードの往来が盛んであった頃には旅人のよき道しるべになったであろうと思われ、塔のてっぺんに登って四方を見渡すと、千年も昔に戻った気がしてくる。観光客もそこそこ来ており人気スポットのようてある。

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次におとずれるのはアク・ベシムという仏教遺跡である。ガイドブックには現地の人には知られていないと書いてあったが、本当に運転手は知らないという。私のGPS対応地図には載っているのだが、運転手の地図には載ってないようだ。そこで私がナビゲーションしていくことになり、左右に曲がる指示を出しながら進んでいったのだが、運転手も私の指示だけで進むことには不安を感じたのか、通りすがりの人に道を尋ねて、進行方向に目的地があることを確認してから安心して前進を続けた。

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ほどなく遺跡の横に到着したが、発掘現場がそのまま残っているような状態で他には観光客はおろか地元の人もいなかった。仏教と多少なりとも接点のある日本人にとっては玄奘三蔵も訪れた場所ということで馴染み深いものであるが、異教徒にとっては何の感心もない地なのであろう。そういえば以前にパキスタンのガンダーラ遺跡のひとつであるタキシラを訪れた時も、観光客は全くおらず、地元の子供達に付きまとわれたことがあったっけ。

 

その後、日本の道の駅のような所で昼食をとる。エージェントからの料金内訳にはツアー料金は食費込みとなっていたので、ホテルに着いてからの食事となると空腹となるかもしれないと思い、後部座席で早弁をしていたのである。そしてビュッフェスタイルで運転手があれもこれもとすすめるにもかかわらず最小のものしか頼まなかったので、えらく少食の奴だなと思われたかもしれない。

 

車はやがてイシク・クルの湖畔を通るようになり、天山の山並みも遠くに見えるようになる。イシク・クルはあまりにも大きいので海のようである。チョルボン・アタの少し手前で車は左折し、鉄の扉が閉ざされた所で停車する。どうもセキュリティの厳しいプライベートビーチの中に今夜のホテルはあるようだ。一人で来るには場違いの気もしたが、乗りかかった舟だからやむを得ない。
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夕食は「オンザビーチ」と言われるが、海に突き出た所にあるホテルなのでビーチはひとつではない。どこのビーチだかわからないが、一番可能性のありそうなビーチに行ってみる。それにしても、まさか砂浜で車座になって食べるわけではないだろうしと思ったら、砂浜の端にレストランがあったので、多分あそこだろうと思っていくと当たりであった。それならば「砂浜のレストラン」と言ってもらえればわかりやすかったのに
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2021年3月10日 (水)

常磐線沿線

今日3月10日は東京大空襲から76年目、明日3月11日は東日本大震災から10年目のそれぞれ記念すべき日である。東京大空襲は歴史上の一事件として風化させてはならないことであるが、東日本大震災は過去の出来事というにはあまりにも生なましい記憶が蘇る災害である。震災発生時は、日本列島徒歩縦断として冬の北海道を「最果ての地」宗谷岬を目指して歩いている最中だったが、この非常時にこんなことをしてていいのかという思いから、帰京後は石巻を皮切りに半年間で延べ1ヶ月以上を現地の災害ボランティアに従事したことが、その後のボランティア活動や市民運動参加に繫がったという意味で、自分にとっては原点ともいえるものなので、10年目の節目の際にはまた現地を訪れてみようと前々から思っていた。   

 

石巻に向かうには新幹線で仙台まで行けば早いのであるが、昨年春に常磐線が全線復旧したのに伴い立入禁止が解除された双葉周辺の状況を見ておこうと18切符を利用して行くことにした。水戸、いわきで乗り換えて原町田行きに乗車する。昨春よりも前は富岡から先は代行バスに乗り換えたものだが、オリンピック開催を控えて復興が進んだ印象を与えたいがために駅周辺だけの除染を行って、なんとか全線復旧の形だけは実現させたようである。とは言っても、原発から数キロしか離れていない途中駅では、駅のまわり以外は全て立入禁止区域なので、乗降客は皆無で駅の存在意義は全く無いといってよい。

 

双葉駅から先は海沿いに行けば立入禁止区域を通らずに歩けそうなので、双葉駅で下車することにした。現在、大詰めに差し掛かっている日本列島海岸線踏破のうち、太平洋側は福島第一原発周辺だけが未踏となつていて、山側を大回りしてなんとか繋げてはいるのだが、海岸線近くの未踏区間も可能な限り踏破しておこうと双葉駅から北上することにした。

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双葉駅では他に数人が下車したが、いずれも私と同様に立入禁止が解除された双葉の町を見に来た人のようである。双葉駅で放射線量を測定すると安全基準内の数値が示されるが、駅から少し離れると数値は安全基準(年間1ミリシーベル)をオーバーしてどんどん上がっていく。幹線道路も車の往来は可能だが、南へ向かう道は歩行者は立入禁止となっている。駅から1時間程度海側へ行くとなんと安全基準の10倍近くまでになってしまう。これでも立入禁止が解除されているのは、国が従来の安全基準の20倍の数値を住民帰還の安全基準としてしまったからであるが、この20倍の安全基準というのは原発作業員に適用されるもので、これを子供を含めた住民に適用するというのは無茶苦茶な話である。福島県では子供の甲状腺ガンが異常に高い割合で発生しているらしいが、こんな線量の高い地域に住民を帰還させるというのはとんでもないことである。もっとも、双葉町へ帰還した住民は皆無に近いらしいく、作業員以外には全く人影は見当たらず、目に入るのは、除染した汚染残土の山だけである。地元への執着の強い高齢者はともかくとして、若い人にとっては双葉は残念ながら帰るべき土地ではないように思う。補償も含めた対価で土地を東電が買い取り、そこに太陽光や風力といった一大再生エネルギー発電の供給地域を作るのが現実的ではないだろうか。

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前回、到達している磐城太田駅までは20キロ以上あるが、ジョギングも交えて進んでなんとか予定の電車に間に合った。今回の行動によって原発周辺の未踏部分は15キロだけを残すだけになったが、私の元気なうちに立ち入りが可能となる可能性は限りなく小さいであろう。石巻に向かう途中、乗り換えのために下車した仙台で名物の牛タン料理を食べるが、時間がなかったので初日の目標達成を祝う乾杯は石巻のホテルまでお預けとなった。
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2020年3月30日 (月)

中国地方西部旅行 11日目 帰京

自転車の不調で山口県最高峰の寂地山へのアプローチができなくなったので、1日早く帰京することになった。広島で新幹線に乗り換えれば早いのだが、未乗車である吉備線(愛称 桃太郎線、なおテレビゲームの桃太郎電鉄は別物)に既乗車の伯備線経由で乗車するため、倉敷までは18切符を利用した各駅電車で行く。岩国から乗車して、糸崎、福山、倉敷、総社と何度も乗り換えなければならないのが面倒だが、中国地方の感染症の危険度は都内と比べて格段に低いので、「不要不急」の旅行も許してもらおう。なお、感染リスクを避けるために集会やデモにはしばらく参加していないので、「アベ政治を許さない」のシールを安倍晋三のお膝元である山口県でザックにぶら下げておくつもりが、すっかり忘れていたので、岩国で電車に乗り込む時に慌てて輪行袋にぶらさげておいた。もっとも岩国を出るとまもなく広島県になってしまうが、今日1日はぶら下げておこう。
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桃太郎線は桃太郎のメロディが鳴る以外はこれといった特徴のないローカル線だが、途中で織田配下の羽柴秀吉が毛利軍と対峙して、水攻めを行ったことで有名な備中高松城があった近くを通る。駅からさほど遠くないようなので、時間があれば立ち寄りたい気もしたか、残念ながら今回は素通りとなった。もっとかも、現在は公園と看板があるだけで、遺構といったものは残っていないようだが。
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岡山からは新幹線で帰京し、10日以上にわたる旅を終えることとなった。今回行き損なった所は2022年度末に開業予定の長崎新幹線に乗った帰りにでも立ち寄ってみよう。なお18切符が一枚余ったので、いつもならば自分か家族が使うところであるが、流行地域の雑踏等では感染のリスクもあるので使用は止め、ヤフーのフリマに原価で出品したところ、30分以内に落札することができた。落札者の方は気をつけて出かけてください。

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2020年3月28日 (土)

中国地方西部旅行 九日目 秋吉台

今日1日は休養も兼ねて秋吉台の観光に充てることにしたので、美祢線の始発駅である厚狭駅まで自転車で行き、秋吉台観光の間は駅前に駐輪しておくつもりで、それにあわせた時間にホテルを出発すべく後輪に空気を入れようとしたところ、完全に空気が抜けていた。やはりパンクしていたようで、チューブの交換をせざるを得なくなった。久しぶりのチューブ交換にとまどって一時間近くを要してしまい遅い出発となってしまった。当初駐輪予定の厚狭までは無理だが、手前のどこかで駐輪するつもりで出発する。下関を出て海沿いに行くぬ)と、しばらくは鉄道を離れるので、鉄道との合流地点まで早く着かなければと気があせる。関門橋や長州藩の砲台跡を過ぎて間もなくすると、山陽線の長府駅の入口が見えてくる。もうひとつ先の駅までも行けるかもしれなかったが、安全のためにここに駐輪して山陽線に乗り込むことにした。

 

厚狭で美祢線に乗り換えて美祢まで行き、前日乗車した分も併せて美祢線の全線乗車は果たせた。その後はバスで秋吉台に向かうが、他の降車した人につられて一つ手前で降りてしまい、30分ほど余計に歩かされてしまった。秋吉台については事前調査が不足していて、秋吉台のカルスト台地を見るためには、もう一回バスに乗り換えなければならないことも現地に来て初めてわかった。土曜日だというのに秋吉台は閑散としていた。感染症予防の自粛の影響もあるのだろうが、設備の老朽化具合から見て、以前から客足は落ちているようにも思えた。
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秋吉台は天気が良ければ、雄大なカルスト地形を散策するのは楽しいだろうが、風雨の強い今日のような天気では長居をする気にはならず、早々に降りて秋芳洞の見学に移った。こちらの方は秋吉台に比べるとそこそこ観光客も見られた。鍾乳洞は国内のみならず、海外でも見ているが、そのどれと比べても秋芳洞のスケールは群を抜いているように思われた。ただあまりに大きくて最後の方は少し飽きてきて、早く外に出たいと思ったのも事実である。
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観光を終えて、バス電車を乗り継いで長府に戻る。相変わらず、雨が降り続いていて気合いが入らない。明日は天気も良さそうなので頑張って距離を稼ぎ、今日は適当な所まででお茶を濁すことにする。今回、広島まで到達すれば山陽路も走破したことになるが、どう頑張っても無理とおもわれるので、やり残した宿題が増えるだけなのだが・・・

数時間走ってお茶を濁すつもりが、適当な泊まり場がなく、やっとホテルを見つけたのは10時近かった。

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2020年3月24日 (火)

中国地方西部旅行 五日目 楽勝のはずが大慌て

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上の写真は浜田と益田の中間点の駅、下の写真は津和野駅前


今日は益田までの42キロを走破した後は、山陰線の幡生までと美祢線全線の未乗車区間を乗車するだけの楽な1日になるはずであったが、世の中は何が起こるかわからない「一寸先は闇」?であることを実感した。

途中までは順調に行き、中間点あたりの駅にはほぼ予定どおりの時間に着き、益田到着は乗車予定の一時間以上前になるだろうことを確信した。ところが、しばらく進むと、国道は山間部を突っ切って行くのに対して、鉄道は海側を迂回するようになっていた。その時は、時間も十分あることだし、海岸線を行った方か景色もよいだろうし、アップダウンも少ないだろうと考えて軽い気持ちで悪魔の囁きに乗ってしまった。

ところが、一歩海岸の方に足を踏み入れると道は迷路のようになりアップダウンの連続である。おまけにグーグルマップは高低差がわからないので、近道だと思ったら凄まじい登りで引き返さざるをえないといった有り様で、まるで蟻地獄のようである。なんとか抜け出して必死に頑張って、乗車時間の30分ほど前に駅近くに着いたのだが、駅舎の出入口が見つからない。グーグルマップを拡大して見たら、地下道を潜って反対側に行けば出入口があることがわかり、なんとか出入口まではたどり着けた。

改札口の上の時刻表を見ると、長門市行きの山陰線はかなり前に調べてあった時刻よりも17分も早く、後数分で発車予定ではないか。この時、今月のダイヤ改正の影響だとピーンときたが後の祭りである。次の発車は一時間以上後だし、未乗車区間を回って今晩中に帰って来る電車は、もうないのである。駅前に自転車を駐輪して飛び乗れば間に合うのだが、田舎の駅と違い、駅前に駐輪場は見当たらない。かといって自転車を解体して輪行袋に入れるのは時間的にとても無理だ。万事休すと思っていたら、山口線の臨時電車が20分後に発車するではないか。これなら間に合うと思って、自転車を解体し輪行袋に詰め込んで電車に乗り込んだ。山口線自体は以前に乗車したことがあるのだが、今回また乗車することについてはふたつのことを思い付いた。ひとつは終点の山口駅からバスで秋吉台に行き、今回の旅行の後半に予定していた観光を先にやってしまうことである。ただ、バス時刻を調べてみると、現地の滞在時間が一時間くらいしかとれないし、鍾乳洞も閉園時間ということで却下。もうひとつは新山口から山陽線で幡生まで行き、山陰線に乗り換えて益田駅まで戻ることである。美祢線は未乗車のまま残ってしまうが、山陰路を長門市までツーリングした夜に長門市から美祢を往復し、その後にぐるっと回って山陽道に入った時に厚狭から美祢経由で秋吉台に行けば(当初は新山口からの予定であった)、美祢線も全線乗車になるということで、かろうじて一件落着となる道筋が見えてきてほっとした。

山口線は途中の津和野で30分くらい停車したので下車してみる(前回乗車時は素通り)。一時は女性週刊誌の旅特集の定番だったが、最近はブームが去ってしまったのだろうか。駅前には観光客もほとんど見かけなかった。昔の町並みを見るには時間がなかったので、駅前で雰囲気だけを味わうに止めて、益田駅で食べ損なった昼食をと思ったか、結局ゲットできたのは、みやげ物屋で買ったビールとつまみだけであった。

その後は山口駅でも乗り換えのついでに駅前にでてみた。戦国時代の大内氏の城下町で西の京と呼ばれ、幕末には毛利氏の居城が防衛上の理由で海岸の萩から内陸のこの地に移転されたのであるが、駅前に立ったくらいでは歴史の重みを感じることは当然ながら無理である。

下関の手前の幡生で山陰線に乗り換えて日本海に沈む夕日を眺めた後は暗闇で展望のない長い旅が益田まで続いたが、ブログを書いたり、ホテルの予約を入れたりしていたので退屈することはなかった。だいぶドタバタはしたが、とにかく山陰線の全線乗車は果たすことができたのでホッとした。

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