旅行

2025年1月22日 (水)

ベトナム旅行記(後半)

1月21日

ベトナム旅行もいよいよ後半に入り、ホーチミンを拠点として各地を巡る旅が始まる。初日の本日は夕方涼しくなってから市内観光バスに乗るだけなのだが、午前中は妻は部屋で休養してもらって、私は空港まで行くバスの乗車体験をしておくことにした。

ホテルからバス停までは何度も曲がって10分以上歩かなければならないが、屋外でのインターネット接続を可能にするesimを設定してグーグルマップを利用すれば迷う心配はない。

バス停に着いてすぐに空港行きがやってきたので、乗車しようと立ち上がったが、素通りされてしまう。他の行き先のバスもたくさん停まるので、手を上げたりして合図しないと停まってくれないようだ。

10分以上待ってようやく空港行きのバスが来たので乗車する。均一料金ではないらしいので、乗車したバス停を表すチケットはどうやって入手するのかと思ったら、車掌がいて30円でチケットをくれた。タクシー料金の何十分の安さである。

終点まで乗って下車したら、そこは国際空港前で、国内空港はひとつ手前で降りる必要があった。といっても歩いても5分くらいの距離であるが。

帰りもバスを利用し、昼食用のおにぎりと寿司をコンビニで買ってホテルに戻る。部屋で昼食を摂ってから郵便局に行き、孫にエアメールを出した後、高島屋の冷房の効いたレストランで氷を食べたらすっかり身体が冷え、夏日の暑さも大してこたえなかった。

その後は、先月開通したばかりのベトナム初の地下鉄で郊外の公園まで行ってみる。事前の情報では、開業後しばらくは無料とのことだったが、無料期間は過ぎてしまったのか有料となっていた(といっても片道120円程度だが、バス代の4倍はする)。終点には公園があるとのことであったが、草ボウボウの広場があるだけだったので、往路をそのまま帰ることにした。

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ベンタイン駅に戻ってオペラハウスに移動して、予約してあった二階建てバスに乗って市内観光を行う。45分程度の観光であったが、日没を挟んで夕闇にそまっていくホーチミン市内の風景が眺められたので正解であった。

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バスから降りてホテルに帰る途中、日本人向けの居酒屋風レストランがあったので、寄ってみる。カツカレーを注文したが、カツが少し固かったのは減点対象であったものの、数日前に隣のテーブルで見て羨ましかったイカのリングのフライは美味った。ホーチミンに来るまではベトナム料理ばかりを食べていたが、ホーチミンでは各国の料理が何でも食べられそうなので、ベトナム料理からは足が遠のいてしまうもしれない。

1月22日

本日は日本から予約しておいたメコンデルタの1日ツアーである。ガイドさんはフエからダナンまで同行してくれたガイドさんよりは日本語が上手そうなので安心した。一昨日、駅からホテルまで送ってくれたガイドさんの話ではこのツアーは我々二人だけの参加と聞いていたが、もう1人日本人の女性も参加していた。妻と1週間べったりだったから、気分転換にはなるかな。

2時間ほど走ってメコン川の支流に着き、船で島に渡る。養蜂が盛んな島で、ロイヤルゼリーから蜂蜜まで各種製品を販売していたが、日本での売値の5分の1という言葉につられて、ロイヤルゼリーのセットを購入する。

その後は南国の果物を味わったり、ニシキヘビを首に巻いて記念撮影をしたり、ボートでマングローブに囲まれた川を進んだりした後、島を後にして陸地に戻り、レストランで食事を済ませてから、ホーチミンに帰ることとなった。

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1月23日


本日の訪問地であるクチトンネルはベトナム戦争の際にベトコンが隠れて米軍を攻撃した戦跡である。ホーチミン中心部から50キロ程度の距離なので路線バスでも行ける距離なのだが、グーグルマップで調べると3時間以上もかかるようだし、格安の現地ツアーもあったので、ツアーを利用することにした。

連絡を受けた案内ではホテルで7時半にピックアップしてもらえるはずだったが、7時から8時まで待っても迎えが来ないため、旅行社にキャンセルと返金請求の通知をして、妻は部屋に戻ってしまった。私はもうしばらく待ってみようとフロントにとどまっていると、しばらくして迎えがやってきて、遅れたことを詫びるでもなくピックアップしてクチに向かってはしりだした。

乗客は30人弱で西洋人ばかりで日本人は他にはおらず、我々が最後のピックアップ対象であった。バスは途中でトイレ休憩を兼ねて貝を加工した壁掛けの工房を見学してからクチに向かう。グーグルマップで史跡クチトンネルと表示されている所よりもだいぶ手前に施設はあって、そこでガイドからチケットを渡される。

施設に入って全体的な説明を受けてから、個々の施設の見学に移る。有名な草でカムフラージュされた穴や底が剣山となっている落とし穴などを見た後にトンネルの中を匍匐前進させられて見学は終わる。終了後にタロイモがお皿に並べてあったので、ツアーの説明にあった軽食というのは、このことかなと思ったが、バスに乗ってから菓子パンは別に配られた。

帰りも渋滞があり、ホーチミンの中心街にもどったのは3時過ぎとなってしまったが、土産物を買う時間もあって、有意義な時間の潰し方ができた。

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1月24日

実質的にベトナム観光の最終日となる本日はベトナム南部のリゾート地であるフーコック島に日帰りで足を延ばすことにした。フーコック島へは午前中に2便のフライトがあるので、早い方の9時55発を予約して7時前にホテルを出てバスで空港に向かったのであるが、1時間弱の遅れでホーチミン空港を飛び立つこととなった。まあフーコック島に行っても、これと言った予定があるわけではなく、海を見ながら食事をする程度なので、このくらいの遅れは全然問題とならないなのであるが。

フーコック空港には1時間ほど遅れて到着。空港からはタクシーで最も近いビーチであるロングビーチに向かい、ちょうどお昼時だったのでレストランに入り、海の見える席でランチを食べる。ちょっぴり豪華なランチだったが、二人で二千五百円程度と割安だった。

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このあたりの海岸は人気のビーチが連続しており、このロングビーチも家族連れで賑わっていて、我々もせっかく来たのだから、ビーチサンダルで水際を少し歩いてみた。時間は、まだ十分あったが、手持ち無沙汰になってきたので、少し早めに空港に戻ることとし、東南アジアで普及しているタクシーアプリのGrabの利用してみることにした。一昨年、マレーシアでもトライしたが、アカウントを作るところまではやったが、カードを認証させるところでつまずいてしまった過去がある。今回はタクシーを呼べないと戻れなくなってしまうので背水の陣で臨んだところ、なんとか成功して空港に戻れたし、行きのタクシー(メーターで動いていたはずだが)よりも、かなり安い料金で済むことができた。

フーコック空港ではかなりの待ち時間があったが、行きの時のような大幅な遅れはなかったので、8時半頃にはホーチミン空港に着き、そこからはまたグラブを利用したタクシーで10時前にはホテルに戻ることができ、今回の旅行の全ての行程はほぼ予定どおり終えることができた。 

1月25日

本日は空港に向かう以外は予定がないので朝はめずらしくゆっくりと起きる。チェックアウトの正午まではホテルに滞在していたが、正午前にホーチミンからハノイまでバイクでツーリングするという日本人の10人ほどのグループがホテルに到着した。きっとテトの休みを利用してのことだろうが、この時期はさぞ空港は混雑するだろうと覚悟する。

今回もグラブを利用して空港までタクシーを利用したが、空港は思ったほどではないものの混んでいた。我々のチェックインできる時間まではまだ8時間以上あるので、時間のつぶし方が悩ましい。何軒かの喫茶店をハシゴするしかないが、一度離席してしまうと次の喫茶店で空席が見つかるかどうかわからないので、見せの人に退席を迫られるまでは座席に留まっているつもりである。本当は荷物はホテルに預けて昼中は観光をしていればいいのだが、ホーチミンの市内や近辺の観光はあらかた終えているし昼間は暑いので、混んでいても涼しい空港内の方がマシなのである。

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2025年1月18日 (土)

ベトナム旅行記(前半)

 昨年はマレー半島からタイ北部までの鉄道による縦断を行ったので、今度はベトナム統一鉄道を利用してベトナムを南北に縦断することにした。ただ今回は妻と一緒なので前回のような貧乏旅行ではなく、個室寝台による「豪華」旅行に格上げされ、さらには避寒を兼ねてホーチミンに数日滞在してから帰国することにした。

 1月15日 

 羽田空港ではプライオリティパスを利用してラウンジでビールとつまみで出発間際までのんびり過ごす(ただし、パスは本人しか無料にならないので、妻は自分のカードで利用できるラウンジで飲物だけで過ごしたようである)。ハノイまでの空路はベトナム航空のプレミアムエコノミーを利用したので快適なフライトが楽しめた。ハノイの空港には約6時間のフライトでほぼ定刻通りの21時(日本よりも時差2時間遅れの現地時間)前に着いたが、イミグレが混んでいて通過には三十分ほどを要する。ただその後は両替した所でタクシーの手配までやってくれたのでスムーズに事が運び、22時頃にはホテルに着いて旅の第一日を終えることとなった。 

 1月16日

 宿泊したホテルはネットで適当に選んだもので、小ぢんまりしているが食事も設備も良くて当たりであった。本日は夜行列車まで時間が十分あるので、ホテルでのんびりしてから市内観光に出かける。ハノイの観光としては郊外にある世界遺産のハロン湾が有名であるが、10年ほど前にクルーズ観光をしたことがあるので、今回はもうひとつの世界遺産であるタイロン城に行くことにした。ホテルからは徒歩で二十分ほどの行程と聞いていたので、時間も十分あることだしと、荷物はホテルに預けて軽装で歩いていくことにした。ところがGoogleマップで検索した経路通りに進むと、城の敷地に入れるはずの入口の扉にはカギがかかっていて入ることがてきない。やはり同じ所で立ち往生している西洋人のカップルが来た道を戻って別の所から入るような仕草をしていたので戻りかけたが、別の観光客と思われるグループがそのまま前進していくので、戻るのもしゃくなので、後をついて行くと城の敷地に入れる道があり、チケット売り場もあった。ところか敷地に入ったにも関わらず、世界遺産らしき建造物は全くなく、見すぼらしい建物が続くばかりで拍子抜けであった。おまけに休憩しようとしたレストランでは、空席が十分あるにもかかわらず、休憩を断られる始末で散々であった(旧正月であるテトを控えて忘年会の貸切りとかち合ったためか?)。仕方なくそのまま進むと敷地の端まで来てしまい、いったん道路に出ざるをえなくなった。道路に出てみると観光客のグループが歩いていたので後をついて行くと、前方には城の敷地への入口と思われるところがあり、そこでチケットを見せて入場すると、今度は多少は世界遺産らしい景観に出会うことができた(先ほどまで歩いてきた敷地はいったん何だったのだろうか)。今度はレストランでの食事もできたが、出されたのはインスタントのようなラーメンでガッカリした。他に見るべきものもないので、城跡を後にしてハノイ駅に向かう。途中、踏切があってテレビによく出てくるような線路の両側に店がある風景であったが、テレビでは線路の両側に露店が並んで列車が近づくと商品を片付け、列車が通り過ぎると商品を線路の上に並べ直すというのが定番となっているが、目の前に展開しているのは、それとは違って線路の両側には観光客相手の店が立ち並び、露店の代わりに飲食する観光客の椅子が並んでいた。テレビで見られる定番のシーンは別の場所なのだろうか?

その後、ハノイ駅まで移動して、市内周遊のバスが発着していれば、市内観光がてらに乗ってみようと思ったが、駅からはバスは発着せず、1キロほど離れたところから発着していることがわかったので、そちらに移動しようと思ったが、ハノイ駅はwifiが使えることがわかったので、やりかかっていたesimの設定の続きを行い、wifi環境がなくても現地のネット回線を利用できる環境を目指すことにした。 

esimの設定が一段落したので、バスターミナルに移動してみると、最終の市内周遊バスは既に終わってしまっていたので、旧市街まで歩いていってしまうことにした。旧市街は土産物屋が林立しているが、荷物になるので買うのはホーチミンでとし、見るだけにした。夕食には少々早かったので、一度ホテルに戻り、妻は併設しているスパに行き、私はesimの設定の仕上げをすることにした。1時間ほどで両方とも完了したので、ホテルの近くのレストランで食事をしてホテルに戻り、しばらくすると迎えの車が来てハノイ駅に移動し、フエに向かう夜行列車に乗り込んた。ぜいたくにも個室の2人部屋を予約したので、他人に気兼ねすることもなく、のんびりと過ごすことができた。 

1月17日 

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夜中に何度も目覚めながらも朝を迎える。朝食はフォー(ベトナム風のそば)が配られる。前日のホテルの朝食でも食べたが、日本人の口に合う味で毎日食べても飽きないようだ。食後は荷物の整理をしたりしていると、まもなく目的地のフエに着く。駅にはガイドが迎えに来ていて、運河の船着場に向かう。船の帆先が龍の頭の形になっているドラゴンボートに乗って下流に向かう。下流の船着場で降りて寺に向かうのだが、ここでアクシデントが発生する。足元にロープが張られていたのだが、妻がそれに気づかずに足を引っ掛けてしまい、うつ伏せに転んて左手を強打してしまったのである。幸い大事には至らなかったように見えたので、そのまま行動を続けることとなった。

寺院をひととおり見学した後、レストランで宮廷料理を楽しむ。写真にあるようなメニューのコース料理だが、個人旅行ではなかなかお目にかかれないような味だけでなく目も楽しませる料理であった。

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午後は本日のハイライトである世界遺産の王宮見学である。昨日に続く世界遺産であるが、その見事さは比較にならないものであった。ガイドも詳しく説明してくれるのだが、その日本語にはやや難があり、半分ほどしか聞き取れなかったのは残念であった。

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ひととおり見終わってホテルに向かったが、ホテルに着くと、妻が腕の痛みを訴えるので、薬局に湿布薬を買いに行く。かなり遠くまで歩いて薬局に辿り着いたが、湿布薬は置いてないという。仕方ないので、別の薬局を教えてもらって行くと、その薬局には湿布薬があるばかりか、痛み止め等の薬も用意してくれるだけでなく、アフターケアのためのLINE交換の手続きもしてくれるという親切な対応であった。帰り際にホテルの近くにピザの持ち帰りができる店があったので、腕の痛みで食事に外出するのもしんどそうな妻のために持ち帰りをすることにした。夕食を食べて薬も使用すると、腕の痛みも多少は和らいだようで、まずは一安心である。

1月18日

本日はダナン駅乗り継ぎで世界遺産の町ホイアンまで移動するだけのゆっくりした行程である。妻の腕の状態もだいぶ良くなったようなので、旅行は予定どおり続けられそうである。予定どおり10時20分に迎えにきたガイドとともに車でフエ駅に向かう。ホイアンは世界遺産観光だけでなく湿布薬を求めて町中を歩き回ったので思い残す所はない。

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列車は昨日のガイドを帯同して小一時間遅れてフエ駅を出発する。ダナンまでは90キロ程度の距離だが、3時間ほどかかるという。なぜ、そんなにかかるのだろうと思ったが、電車が山間部にかかると理由がわかった。自転車に毛の生えた程度のスピードしかでないのである。地盤の問題なのか登板力の問題なのかはわからないが、海岸線近くまで進むとまたスピードアップしてきた。

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ダナンはベトナム第五の人口を有する百万都市だが、私の世代にとってはベトナム戦争の際の米軍の北爆基地としての記憶が生々しい。現在はベトナム屈指のビーチリゾートとして世界的にも知られているらしいか、今回はそちらには寄らずに小一時間南下した所にある世界遺産のあるホイアンに向かう。

ホテルに到着したのは4時頃で夕食には早かったので、しばらくはベッドに横になって寛ぐ。今日は車に乗っているだけで、ほとんど歩いてはいないのだが、連日の行動となると知らないうちに疲れがたまってきているようである。2時間近く休んでから夕食を食べに外に出る。海岸近くなので魚を食べたいと思い魚料理で検索した店に行ってみるが、やはり肉料理が中心で、エビのサラダと魚のすり身のフライが辛うじて魚料理と言えるものであった。

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帰りは夜市の露店を見ながらホテルに戻った。

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1月19日

午前中はホイアン中心から車で1時間ほど西に行ったところにあるチャンバ王国のミーソン遺跡を見学に行く。駐車場から遺跡の入口までは歩くと1時間はかかりそうだが、連絡カートが運転されているため歩きはわずかで済む。仏教国のベトナムにあってチャンバ王国はヒンズー教国のため、遺跡の印象は前に訪れたことがあるカンボジアのアンコールワットの規模を小さくしたようなものに感じられる。

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一通り見学し終わって入口に戻ったのは正午を過ぎていたので、この近くでランチかと思ったが、また1時間ほどかけてホイアンまで戻り、旧市街のレストランでコース料理を食べることになった。初日の宮廷料理ほどではないが、珍しいベトナム料理を味わうことができた。

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食後はしばらくガイドと一緒に町を散策した後、夕方まで世界遺産の町ホイアンでのフリータイムとなったが、土産物屋を覗いてもホーチミンに着くまでは荷物を増やしたくなかったので、買い物はせずにをベンチで休んで町を眺めるだけであった。ホイアンはかっては交易の町として栄えた所で中国風の建物が立ち並び、御朱印船が行き交った頃は日本人が1000人以上も住んでいたそうである。今は欧米人や中国人が多数観光に訪れる外、地元のベトナム人も若い女性はアオザイで着飾って目を楽しませてくれる。

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ガイドと落ち合って絹織物の工場兼売り場を見学した後、ダナンに戻るが、駅に着く前に夕食を摂ることになる。ランチからさほど時間が経ってないので、あまり食欲はなかったが、無理やり詰め込み、食べきれない分は車内用として持ち帰ることにして駅に向かった。駅には出発の2時間以上前に着いてしまったので、まだ閑散としていて退屈な時間を過ごすことになる。

ガイドの説明では列車は1時間ほど遅れているとのことでさらに待ち時間が長くなるようだ。待合室では次第に改札待ちの乗客も多くなり、ガイドに改札口を通るように言われる。ここでガイドは自分は改札内に入れないので、後は自力で乗車するようにと言われるが、これは早く帰りたいがための言い訳のようだ。何故なら、ハノイから乗車した時は、ガイドが個室まで案内してくれたからである。まあ、こちら側としても、ガイドがついていると、聞き取りにくい日本語に付き合わされて疲れるので、早めに別れた方が楽でもあるのだが。

改札内の待合室も満室になり、やがて列車の到着を告げているのであろうアナウンスの後に皆が動き出したので、我々も列車に乗り込むことになる。切符に印刷された寝台個室に辿り着くが、今まで乗ってきた車両よりも明らかに設備が悪い。そういえば、日本での旅行会社とのやりとりで、予定していた寝台の確保ができなかったので、連結している私鉄の車両にせざるを得なかったと言われたのは、このことだったのかと気がついた。まあ4人分のベッドを二人で使用するので、他人との同室がないだけでも良しとしなければならないだろう。後はホーチミンまでの長い旅を楽しむ(苦しむ?)だけである。

1月20日

夜中に何度も目が覚めたが、朝が近づいているようである。といっても、まだ外は真っ暗であるが。当座の問題は、朝の弁当が予定どおり支給されるかどうかである。ハノイからフエに向かった時は朝はフォーが支給されたので、今回も同様だと思われるが、寝台車のランクが落ちているので、一抹の不安はある。もっともホームに降りれば露店はたくさんあるのだが、停車時間もわからないので、列車に乗り遅れることなく買い物ができるかが問題である。

幸い車内販売があって弁当、水といった当座の必要なものは買えたので、ホームに降りる必要はなくなり、まずは一安心である。ネットでベトナム鉄道の時刻表を検索してみたが、ここまでの所ではダナン時点での遅れ1時間は取り戻せているどころか、むしろ拡大しているようである。

昼飯は持参したカップ麺で済ませればよいと思っていたら、昼前にまた弁当を売りに来たので一人分だけを買い、これでホーチミンまでは心配がなくなり、結局は1時間少しの遅れの18時ちょっと前にホーチミンに到着することができた。延々19時間をかけてのダナンからの、そして5日間をかけてのハノイからの長旅はピリオドを迎えることができた。

迎えの車でホテルまで送られて旅装を解いたあと、連日のベトナム料理に少し飽きがきていたこともあり、日本から進出しているラーメン屋で妻はチャーハン、私はラーメンを食して元気を取り戻して明日からの後半戦に向かうことにした。

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2024年7月16日 (火)

小樽からの帰京

7月15日

ガイド登山ツアーを離脱して今日は函館まで行くだけで余裕があるので、マッサンで有名になったニッカ余市工場に寄ってみる。

前に来た時と異なり、予約がないと正面入口からは入れず、10分以上遠回りする裏口まで歩かされた。しかも、無料試飲には予約が必要とのことで踏んだり蹴ったりだった(3連休なので予約は一杯)。まあここ1週間は飲み過ぎた気がするので、今日は休肝日とすることにした。

その後は倶知安乗り継ぎで長万部に到着。ここで遅めの昼食として駅前で名物のかに飯弁当を買う。以前にも買ったことがあり、見た目ほどカニの風味はしないことはわかっていたが、昼時を過ぎていて営業している飲食店もないことはわかっていたが、他に選択肢はなかった。ただ前回は気がつかなかったが、売店の隣の建物の中には特急の座席の再利用で自由席が設けられていて、壁にはスクリーンがあって先頭車両の風景やドライブやフライトの動画が流れていて旅気分を味わえるようになっていた。

長万部からは室蘭本線と合流するので特急もそこそこ走っているのだが、早く函館に着いてもやることがないので、各駅を待ったものだから2時間も待つことになってしまった。

 

函館ではホテルに荷物を置いてから函館ラーメンを食べに外に出る。居酒屋系のラーメン屋はたくさんあるが、みな騒がしそうだし、今夜は休肝日なので、酒の臭いのしない所で食べたいと思い、ラーメン専門店に入る。本当は海鮮ラーメンを食べたかったんだけど、入った店にはなかったので海鮮は明朝の海鮮丼で我慢することにした。メニューには海鮮のものは見つけられなかったが、注文した後に海老ワンタンというのがあるのを発見したが、後の祭りだった。

 

7月16日

 

早起きが習慣になってしまってきるので、早朝の朝市に向かう。海鮮料理の店はたくさんあるけど、一番手前の店に入って特上の海鮮丼を注文する。メニューの写真ほど豪華じゃないけど、まあいいか。

函館から新函館北斗まで戻って新幹線に乗るが、そのまま東京まで直行せず奥津軽いまべつで下車してタクシーで津軽中里まで移動し、津軽鉄道に乗車する。東日本の私鉄の中では唯一未乗車となっているからである。

 



ただひとつ合点がいかないのは、津軽中里よりも数10キロ北方の海沿いにある小泊という港町から秋田方面に向かって自転車でツーリングした際に、そこまでどういう経路で行ったのかはブログを読み返しても書いてなく、記憶にも全く残っていない。ひとつの可能性としては、津軽鉄道を利用して中里まてわ行き、そこから小泊まで自転車で移動したということも考えられるが、それならば日本海を南下中にわざわざ海岸線を離れて津軽鉄道の金木駅近くにある太宰治記念館に立ち寄ったりせず(この時は閉館後だったため入場できなかったが)、行きに金木駅で途中

下車して立ち寄ったはずだし、津軽鉄道経由で小泊に行くのは非常に時間がかかるので、合理的に考えれば先ほどタクシーに乗ってきた経路で奥津軽いまべつから小泊まで自転車で移動してきたはずで、そうであるならば津軽鉄道は東日本で唯一の未乗車として残されている私鉄であるという記憶は正しいことになる。

 

津軽鉄道は津軽中里から五所川原までを繋ぐ鉄道であるが、途中の金木駅で下車して、前回は入館し損ねた太宰治記念館を見学してくることた。記念館は太宰治(本名は津島修二)の生家を改修したものであり、戦前は大地主であった津島家も戦後は没落して邸宅も人手に渡り、一時は旅館として使われた後に現在に至っている。記念館には津島家時代の遺品が多数展示されていて、3連休後の平日であるにもかかわらず、多くの見学者が訪れていた。

金木駅に戻って終点の五所川原駅まで行き、後は五能線、奥羽線と乗り継いで新青森まで行き、そこからは新幹線で帰京することになった。

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2024年7月15日 (月)

釧路から旭川への移動

釧路から網走行きの列車に乗ると間もなく車窓から釧路湿原が見えてくる。釧網線は逆コースで冬に通ったことがあるが、夏には小型の遊覧船も運航されているようで(写真参照)、機会があったら乗ってみたいものである。


その後、摩周駅で下車して摩周湖に向かうが、天気は良くないのが気がかりだったところ、案の定、霧の摩周湖であった(昔、来て全く何も見えなかった時と比べると、外輪山の中腹までは見えるだけマシであったが)。

摩周湖の麓の駅に戻ったけれど、網走行きは1日4本しかなく3時間半の待ちあわせとなる。駅前のレストランは豚丼とラーメンがメインらしいが、豚丼は帯広、釧路と食べてきたし、ラーメンは山では毎朝カップ麺だったし、今晩の旭川が本場なので、ジンギスカンとする。食後にオレンジーナコーヒーという不思議なものを飲んだが、もう一回飲みたいとは思わないものだった。

食後に駅に戻るが、駅周辺には見事になにもない。バスを一緒に降りた人はみんな同じレストランに入ったが、食後にホテルからの送迎バスに乗ってしまい、待合室は私一人となる。まだ次の電車まで2時間もあるから、往復30分近くかかるけどコンビニまで行ってビールでも買ってこようかなと歩き出す(待合室の観光案内所兼売店にはサッポロビールのショーケースはあるというのに水しか入ってなかった)。しばらく歩くと酒屋を発見してビールとつまみを買い、コンビニまで歩くのは避けられた。さらに駅前に足湯があるのも発見してなんとか時間を潰すことができた。

 

網走までは各駅停車しか走ってないので時間がかかる。それでもオホーツク海が見えてくると気が紛れる。さらに進むと原生花園にさしかかり、今が盛りと花が咲き乱れる様は車窓の風景としては見事なものであった。

列車はやがて網走に近づくが、旭川行きの特急列車との乗り継ぎ時間がわずかしかないので、果たして夕食が買えるかどうかが気がかりだったが、やはり無理であった。後は車内販売に期待したが、これもないようだったので、後は酒屋で買ったつまみの残りで我慢するしかなかった。

 

すっかり暗くなってしまい、外の景色も見えなくなってしまったので、ブログの原稿書きで時間を潰したが、旭川に近づいた辺りで、床下に衝撃を感じて列車は急停車する。しばらくして車内放送があり、熊と接触したので点検をするためにしばらく停車するとのことであるが、あの床下の衝撃からすると、絶対に接触などという甘いものではなく、ひき殺してしまったに違いない。おかげで旭川到着が1時間遅れとなってしまったが、まあ山で熊に会わなかっただけでよしとしよう。到着遅れで旭川ラーメンが食べられるかどうかが気がかりだったが、なんとか深夜まで営業している店を見つけて、これで本当に旭川に到着した気分になることができた。

 

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2024年4月25日 (木)

ひたち海浜公園 はとバスツアー

はとばすでひたち海浜公園にネモフィラを見に行った。

大洗の水産業者直営の回転寿司での食べ放題の後、海浜公園に向かう。平日だというのにすごい人出だったが、わざわざ出掛けるだけの価値がある壮観な眺めだった。

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2024年4月13日 (土)

ロサンゼルス滞在と帰国

ロサンゼルスの1番の観光名所と言ってもいいハリウッドサインに行ってみる。宿がハリウッドの街にあるので歩いても行けない距離ではなさそうだ。グーグルマップで経路を検索すると、真東にかなり進んだ後に北に転ずるようになっている。そこで経路に従って歩きだしたが、曲る地点よりもだいぶ手前で左側の奥の方にハリウッドサインが見えて来たので、こちらから行った方が近いのではないかと思って進路を変更する。

その後は一本道が続いているように思えたので、地図で確認もせずに進み続けるが、しばらくしてどうもおかしいと思って確認すると、反対側の方にむかっているようだ。フリーウェイをくぐる前に分岐していた道をフリーウェイへの進入路だと勘違いして通り過ぎでしまったためのようである。やむを得ないので戻って正しい道を進むと、傾斜がだんだんとキツくなる。

ハリウッドサインから遠かったときは見えていたHollywood の文字が前景のために見えなくなってきたために、正しい道を外していたので、少し戻って正しいと思われる道を選んだらまたhollywoodの文字が見えてきた。傾斜はますますきつくなってきたが、なんとか頑張ってビューポイントまで上がることができた。ほとんどの人は車で上がったのだろうが、大勢の人が見物に来ていた。

下りは楽チンで三十分ほどで地下鉄駅までおりられた。ここから地下鉄の始発駅であり昨夜にグレイハウンドのバスで下車した地点でもあるユニオンステーションに向かう。日本のように現金で地下鉄の切符を買えるところは今回訪れた国には一つもなく、みな交通カードにチャージして利用するのが一般的であるが、そのやり方が各地域で微妙に違っているので、慣れるのが大変だ。ロスでは昨夜到着時に近くを清掃していたおばさんの助けを駆りて、最低運賃込のカードを買ったのだが、今回これにチャージしようと券売機で操作を試みたところ、どうしても上手くいかない。一回分のチャージはできるのだが、その都度手続きするのが面倒だなと思っていたら、老人向けの一回分利用料金は半額程度になることを発見、これを使わない手はないと複数回分をチャージするのはやめることにした。事前にチャージすると必ず使い残してしまうのが通例だったし。

ユニオンステーションから少し歩いた所にリトルトーキョーと言われる場所があり、日本料理店がたくさんあるというのでいってみる。下調べなしで店に入り、海老の天ぷらというのがあったので注文してみた。ブエノスアイレスで入った和食店でも天ぷらは今ひとつだったから、試してみたかったのだ。ところが出された料理は天ぷらとは名ばかりで単なる巻き寿司で期待はを裏切られた。これならば、サンティアゴの日本人が経営している寿司屋の方が美味かった。他の店に入っていないでこんなことをいうのもなんだが、リトルトーキョーの日本料理店は恐らく「海外の和食店」のレベルを超えるものではないのだろう。

宿に帰って、フライトの日程変更を依頼した代理店からメールが来てないかチェックしてみるも音沙汰なしである。全く対応の悪い代理店である。今夜中に納得できる返事がない場合は、フライトをキャンセルして、新規に予約を取らざるをえないだろう。この予約はアメリカ入国に際して、出国の手立てを証明しないと不法就労を疑われて入国拒否される可能性もあるということで、安いLCCのチケットを購入したもので、いわば役目を果たしたとも言えるので、キャンセルしても惜しくはないと言えるだろう。

昼食は和食店で失敗したので、夜は近くのインド料理店で口直ししようと行ってみると、サンティアゴの「最後の晩餐」で行ったような高級店ではなく、たくさんの料理の中から自分で選択するスタイルの大衆食堂的なものであったが、それでもビールともで料金が四千円程度になるという馬鹿げたもので、こんな物価高の国には長居は無用だとつくづく思った。

日本時間では営業時間終了となる5時に相当するロスの深夜1時になっても代理店からの連絡がないので、その予約はキャンセルして、別の航空会社の直近のフライトを予約することにした。これで早々に日本に帰れるということで嬉しくなった。

4月11日

実質的に今日が旅の最終日であるが、特に予定はない。宿の前に市内周遊の遊覧バスが停まっていたので少し興味をそそられたが、料金を確認すると2時間で約八千円とのことで即座に却下。お昼は近くのハンバーガー屋で済ませるが、あちこちでハンバーガーを食べたので帰国しても当分は食べたくないだろう。

ロサンゼルスは暑いので、夕方になって日差しが弱まってから大谷選手が今期から所属するドジャースのホームスタジアムを見に行くことにした。昨期まで所属していたエンジェルスのホームスタジアムは同じロサンゼルスでも郊外の時間がかかる所だったが、ドジャースの場合は市の中心部に近くて行きやすいし、それに帰りにはチャイナタウンで食事ができるというメリットもある。

本日のドジャースは敵地でのプレーで明日からはホームスタジアムでの試合なので、もう1日帰国を引き延ばせば大谷選手のプレーを見られるチャンスもあったが、日本と違って自由席はなく全て指定席で安い席でも8千円程度と、先ほどの遊覧バスと同程度するが、こちらの方は払ってもいいかなと思ってた。ところが、申込み方法等を調べると、単にカード会社を通した払込だけではだめで、スマホへ通知されたコード番号の入力で完了とのことである。ここで問題となるのは、私のスマホの電話番号である。音声通話の場合は日本の国番号の次に最初の0を除くのだが、データ通信の場合も同様かどうかがわからない。ここで間違えるとチケットが届かず宙に浮いてしまうかもしれない。今回はグランドキャニオンのバス予約に際してもコードの問題で失敗した前科があるので、止めておくことにした。特別に大谷選手のファンというわけでもないし、単に話のタネにするためなのだから。

ところが、地下鉄駅の終点から30分ちょっと歩いてスタジアムのゲート手前まで来ると、係員に前進を阻止される。やむを得ないので球場近くまできたことの証拠写真だけをとって引き返す。

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帰り道のチャイナタウンで店に入って最初の行き違いはビールを注文したところ、酒を置いてない店だったことである。次に炒飯と小籠包を注文すると、その量がどうみても二人分あることだった。小籠包はなんとか食べたが、炒飯は海老は全部食べて残りは半分近くは残してしまった。となっあようである。


帰りの地下鉄は途中で長時間停車した上、やっと走り出したと思ったら逆戻りを始めた。すぐには気づかなかったので数駅は損をしたが、明日はそうならないで願いたい。

4月12日

6時半頃に宿を出ればいいと思っていたが、4時過ぎには目覚めてしまった。そこで気になっていた空港バスのことを調べてみた。ネットの情報では、バスの切符はオンラインでの事前申込みか下車時のカード払いで現金払いはできないとなっていたので、カード払いのつもりだったが、そこには気になることが書いてあった。それは近いうちに事前申込みだけになるかもしれないという一文である。すでにそのようになっていて、事前申込みをしてないと乗車ができなくなっているとたいへんなので、事前申込みをしておくことにした。カードの情報を入力して承認をうけたので、これで終わりかと思ったらチケットのアクティベイトもしなくてはいけないようなのだ。アクティベイトって何だ?あちこち画面をいじってたら、また申込みの画面に戻ってしまい、元の画面には戻れなくなってしまった。ここで、また申込みをすると二重払いになってしまうだろうから作業は止め、領収済のメールを見せれば乗車できるだろうと考えた。

今日の地下鉄はスムーズに動いて終点に到着し、いよいよ空港バスである。しばらく待つと空港バスがやってきたので、運転手にアクティベイトに失敗したと告げて領収済の画面を見せた。ところが、運転手はアクティベイトしなければダメだと言い張り、私のスマホを取り上げると画面を切り替えて自動的にダウンロードされていたらしい空港バスのアプリを開きアクティベイトの画面を出してアクティベイトし、それをバスの乗車口の読み取り機にかざすと、OKになったようである。申込みをすると専用アプリが自動的にダウンロードされ、そのアプリの中ででないと処理が完結しないとは、なかなかわからないことであるか、若者には常識なのだろうか。

空港までの高速道路は逆コースのため渋滞はなかったが、ターミナルの手前あたりからこみだした。ロサンゼルス空港は巨大な空港でターミナルが10近くあるが、私の乗る便はユナイテッドとの共同運行で第7ターミナルのため、グーグルマップで経路を検索すると、第1ターミナルから歩くようになっていたので変だなと思っていた。その疑問はすぐに解決した。第1ターミナルから先は大渋滞で歩いた方が早いのである。

チェックインは完全に自動化されていて荷物受け入れの所に人がいるだけである。イミグレや保安検査もスムーズに終わり、ラウンジに直行だと思ったら、ネットにはあると書いてあったプライオリティパスで入れるラウンジは見当たらなかった。他の空港でもそのようなことがあり、プライオリティパスで使えるラウンジは世界的に縮小しているようである。まあラウンジといってもプライオリティパスで使えるものは、大したサービスはないので、年会費を払ってまでカードを持つ必要はないかなと思えてきた。

搭乗券に印刷されている座席はB席なので、長時間両側を挟まれているのは窮屈だなと思っていたら、最後尾の座席だったので、両側の席は二席ずつでラッキーであった。これから東京までの11時間の飛行時間は長いと言えば長いが、イクアスからブエノスアイレスまでの20時間近い夜行バスに比べればたいしたことはないようにも思われる(アメリカ横断ではさすがにそこまで長いバスはなかったように記憶しているが)

4月13日

日付変更線を越えて日本は目前に迫ってきた。長かった旅もあと少しでピリオドである。楽しかったことも多かったが、大変だったことのほうが多かったような気もする。しかしそれらのことも全て過去のことになってしまうが、ひとつだけ過去のことではおわらないことがある。それは帰国便の日程変更についての代理店の対応を究明することである。どうもこの代理店はネットで調べてみると、いろいろとトラブルを起こしている評判の悪い会社のようである。なかには10ヶ月も争ってようやく返金に応じたというケースもあったようである。今回も予定日に搭乗していれば、何も問題は起きなかったかもしれないが、日程変更権を行使したために、そこをつけねらわれたようだ。詐欺についての状況証拠は保存してあるので、違約金を要求することはもちろん、消費者庁や国土交通省に訴えて、行政罰を与えてもらう必要があると思った。

最後の最後になってトラブルに巻き込まれてしまったが、それはそれとして事故もなく無事に終えられたことを喜びたい。読者の方にはここまで長い間お付き合いをいただいてありがとうございました。

 

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2024年4月10日 (水)

アメリカ大陸横断後半戦

4月7日

デンバーからグランドキャニオンの入口であるフラッグスタッフまでは直通はなくアルバカーキーで乗り換えるのであるが、昨日ターミナルで自動券売機で検索した際には、ネットではアルバーキーからフラッグスタッフ方面のバスは2時間ほどの待ち合わせで接続するようになっているにもかかわらず、フラッグスタッフ行きはないと表示されてしまう。どうも、この機械はおかしいようなので、とりあえずアルバーキーまでの切符だけでも買おうとターミナルに向かう。す

今日はちゃんとフラッグスタッフまで乗り継ぐ切符が表示されるのでまともな状態になったかなと思われたが、1枚目の切符が最後の所で尻切れトンボになって出てきて、2枚目は出てこなかった。画面にはエラーで印刷できない旨と予約番号が表示されていたので、その画面はスマホで写真をとっておいた。近くにいた係員にそれを見せるとOKだというので、このまま前進することにした。それにしても2日続きの不具合が起きる自販機に巡り合わせてしまったものだ。

バスの発車待ちの間にターミナルの上にあるアムトラック鉄道のデンバー駅の待合室で朝食をとったが、12年前にここからサンフランシスコに向かって列車に乗り込んだところである。やっとその時の思い出に巡り会えた気がした。朝食を終えて戻ってくると、バスは発車直前で危ないところであった。

12年前にデンバーを目指した時は、ロッキーの山岳地帯を登ってきたものだが、今回は一転してロッキーの山裾を通って平原地帯を進んで行く。バスは南に向かって進路を取り、ロッキー山脈の雪景色もも次第に見えなくなってしまった 。単調な景色が延々と続くのは、シベリア鉄道に乗車した時とどこか似ている気がする。6時でもまだ日は高いが、アルバカーキーに着く頃には日は地平線に沈んでいるだろう。

時間は7時でだいぶ日は傾いてきたが、日没まてにはまだ1時間くらいはかかるだろう。終点のアルバーキーに着く頃と日没は同じ頃になるか。今、車が通っている少し北の方には観光地として有名なサンタフェがあり街並みも見えるが、バスはサンタフェは通らず南側を通過して一路アルバカーキーに向かう。

日没よりも30分ほど遅れてアルバカーキーに到着する。ここで2時間の待ち合わせでフラッグスタッフ行きに乗り換えるが、ターミナルには菓子類の自販機しかないので、街まで出てスーパーに入ったらすしが売られてたので、明日の朝食分も含めて買って戻るとターミナルの扉はロックされてたので、しょうがないから外で食べることになる。

フラッグスタッフまでのバスに乗るのに心配だったのは、デンバーで券売機の故障で2枚目の切符が印刷されてなかったため、はたしてちゃんと乗車できるかどうかという点であったが、使用済みの1枚目の切符と印刷失敗の表示がされている券売機の画面の写真を見せたら問題なく乗車できた。あとは最後の経由地フラッグスタッフに向かうだけだ。

4月8日

明け方と言うよりも、まだ深夜のフラッグスタッフターミナルで下車。ターミナルの本体には鍵がかかってて入いれないが、手前の部分だけは入れる。ただ完全密閉はされてないので多少は寒い。

夜明けまではまだしばらく時間がかかりそうだったが、出遅れるとまずいので、荷物を置くためにモーテルに向かう。方向や道を間違えたため、モーテルまでは意外と時間がかかり、身軽になってモーテルを出たときはグランドキャニオン行きのバスの発車時間までは30分となっていたが、駆け足で行けば十分間に合うと思っていた。

グランドキャニオン行きのバスは先ほど下車したターミナルよりも少し先の鉄道の駅から出るのだが、そこまで行くのに意外と時間がかかり、駅に到着したのは発車時間ギリギリとなってしまった。

駅前でバスを探すが見当たらない。しまった!間に合わなかったか。次の発車は五時間後となってしまい、現地滞在時間がほとんどなくなり、行ってきましたというだけになるが、やむをえまい。もう一日帰国を延ばして翌朝出直すということも考えられるが、早く帰国したいという気持ちの方が強かった。

次のバスまで十分時間があるので、昨夜の残りのすしを食べたり、街中を歩いたりしていたが、ふと街角の時計を見ると1時間遅れているのに気づく。さらに進むと次の時計を見つけたが、やはり1時間遅れている、あ!時差修正が必要なんだと気づく。

アメリカ入国の時にスマホの時差は自動修正に切り替えており、2回の時差修正も自動的に行われていたし、デンバーからの移動は南北が主で東西の移動距離はそれほどでもないので油断していたのだ。しかも時差修正が必要なことに気づいたのは、始発バスが出てから後のことだったのだ。

始発バスに乗れなくて現地滞在時間が短くなってしまうことは残念だが、もし時差修正の問題がなくて滑り込みでセーフになった場合には別の問題が発生したかもしれないのだ。それは往復のバス代と国立公園入園料で125ドルが現金で必要となるが、手持ちのドルはそれを若干下回っていたのだ。アメリカ入国以来、支払はほとんどカードでおこなっていたので、現金のことはついつい忘れがちであった。現地にATMがあれば問題はないが、そうでない場合には立ち往生しかねなかった。もちろん、現地にもホテルはあるが、空室があったとしても馬鹿高い料金を払う羽目になっていたことだろう。万事塞翁が馬とはこのことか

昼の便に乗るつもりで待っていると、やはりキャニオン村に向かうと思われる人が二人待っていたので、発車時間が近づいたので、私もそちらに移ったが、彼らは空港シャトルの車にのりこんでしまった。一人残された私はキャニオン村行きのバスが来るのを待ったが、ついにくることはなかった。

案内所でたずねると、空港シャトルの車が空港経由でキャニオン村に行くとのことで、一日を棒に振ってしまったことになった。それでは翌日は間違いなく乗れるだろうと思ったところ、車内で現金払いではなく、事前にオンラインで申し込まねばならないということで、アクセス先をきいておいた。

宿に戻ってから、予約しようと必要事項を入力したら、最後にクーポンコードの入力を求められた。クーポンコードとは何のことかわからないので予約も断念した。どうもこのことで、糸が切れてしまったようで、グランドキャニオンには行かずにロスにむかい、早目に帰国することした。

今夜の宿はドミトリーではなく今回初のモーテルだ。12年前に自転車で来た時は街の外れで泊まることが多かったのでモーテルに泊まることも多かったが、今回は街の中心に泊まることが多かったためモーテルに泊まる機会がなかったが、今回はたまたまターミナルが街の外れにあったためモーテルに泊まる機会を得たが、ドミトリーに比べるとはるかに居住性は優れている。

モーテルの隣はマクドナルド、そしてさらに隣はサブウェイだったが、ファストフードの店はもう食べ飽きてしまったため、さらに隣のレストランに行く。もうアメリカ滞在もわずかなので、値段は気にせずに食べたいものを食べることにした。選んだのは野菜と肉を煮込んだものをトルティーヤとともに食べるものであったが、このあたりになるとメキシコ文化の影響をかなり受けているようで、いろいろな表示にも英語とともにスペイン語も使われるようになってくる。

4月9日

早起きしたので、洗濯するとともにシャワーも浴びようと思ったが、いつまで待ってもお湯にならないので諦める。南極の梅に入る人の気がしれない。その後は帰国が早まることに伴う航空券とロサンゼルスの宿泊の変更手続きをしようとしたが、航空券については代理店での受付はされたが、要望にそえられるかどうかはわからないとのことで、帰国がいつになるかは今のところ未定である。また宿の変更は申し込んであった宿では対応できないとのことだったのでキャンセルし、別の宿を予約することにした。

久しぶりのモーテルを引き払ってフラッグスタッフのターミナルに戻る。歩いて30分くらいの距離だが何度往復したことか。結局、フラッグスタッフはなんのために滞在したのだろうか、気を揉むことだけに終始した1日であった、ターミナルでは出発まで1時間以上あったので、朝の洗濯物を柵に干して半乾きにすることができた。

フラッグスタッフに降りたときは、わずかの乗客しか降りなかったが、今回はかなりの乗客が乗り込んだ。私の席は今まで経験したことがないほどの肥満体の人と隣り合ってしまった。自分の座席から弾き出されそうなほどで、早く次のバスストップに着かないかなと待ち遠しかった。2時間ほどでフェニックスのターミナルに着き、喜んで下車した。ところがトイレに行ってからバスに戻ろうとすると、ドアに鍵がかかって戻れない。係の人に言ってもダメだと言われる。ところが、バスは動き出すではないか。置き去りにされるのではないかという恐怖心から反対側から道路に出てバスが停まっている所に回り込もうとしたが、フェンスで囲まれていて入れない。ここでネットで検索すれば、途中停車ターミナルの到着時間と停車時間が分かることに気付き、調べるとフェニックスでは80分も停車することがわかり安心する。そこで飲み物でも飲もうと自販機の所に行くが、カードで課金はされているようだが、品物の番号を押しても品物が出てこない。現金でも買えるようなので、1ドル札は切らしていたので、2ドル札をいれるが、1ドル札しか使えないようだ。飲み物は2ドル50セントのものと1ドル50セントのものがあるが、手持ちのコインは1ドル25セントしかなくて結局飲み物は買えなかった。フェニックス大嫌い!(咲)

ロサンゼルス行きの前に別の行き先のバスが発車したが、ターミナルにいた乗客のほとんどがそちらに乗ってしまい、ターミナルに残った乗客はわずかになってしまったので少し心配したが、ロサンゼルス行きの改札が始まって乗車すると車内はガラ空きであった。おかげで隣の席に半乾きの洗濯物を干すことができた。これからは下車する前にネットで停車時間を確認しておこうと思ったが(他の乗客は車内アナウンスで知っているのだろうが)、そんなことに気づくのかまグレイハウンドの旅の最後の最後になってからとは、少し遅すぎたかな。

夕方にスーパーの横に停車し食料の買出しに下車したが、今までとは明らかに違う南国の陽気であった。ここはもうカリフォルニア州でロサンゼルスまで300キロちよっとのところである。長かったアメリカ大陸横断もいよいよラストスパートである。バスに揺られる毎日が日常となってしまったが、こんな生活もあと少しで終わりかと思うと少し寂しい気もする。一生のうちで二度とできない生活だろうから、残された数時間をじつくりと味わっていきたい。

 今日は東西にかなり移動したので時差修正が必要かと思ったが、結局その必要なかったようだ。国土が広いのでしかたがないとはいえ時差修正というのはやっかいなものだ。バスは間もなく市街地に入り、ユニオンステーションと直結しているターミナルに入る。これで正味6日間に亘るアメリカ横断旅行はピリオドを打つことができた。移動総距離5500キロ、9台のバスを乗り継ぎ、時差修正3回を数える大移動だった。しかし、今晩の宿に辿り着くまでは本当のフィナーレとは言えない、ロサンゼルスは治安が悪いと聞いていたので、今回のように夜遅く着く場合はタクシー利用もありかなと思っていたが、地下鉄の始発駅がバスターミナルと直結しており、下車駅から通りに上がった向かい側に宿があるそうなので、タクシーの利用は不要と判断したが、その通りであった。

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2024年4月 7日 (日)

アメリカ大陸横断前半戦

4月3日  

ボストンのバスターミナルを夕方の4時半にバスは出発して真西に向かわず、一度ニューヨークに戻ることになる。ニューヨークまでは一度通った道なので、特に景色を見るまでもなく、ブログ書きで時間を潰す。ニューヨークに戻ると、バッファロー行きに乗り継ぐ(最終の目的地はカナダのトロントなので、トロントに行く人はパスポートチェックを受けていた)。出発時にはかなり空席があり、二人席を一人占めできたのであるが、途中でかなりこ人が、乗り込んできて満席状態になってしまった。


4月4日

深夜から明け方にかけてかなりの乗客が降りてしまい、バッファローに5時半過ぎに着いた時はがら空きになってしまい、しかもほとんどの乗客はバッファローで下車したので、終点のトロントまで行く乗客はわずかであった。バッファローのターミナルでは10数人のバス待ちの人がいたので、私もシカゴまでの切符を買おうと販売機に向かうが、メンテ状態となっており窓口もまだ係員がいないので切符が買えず、ならばネットで買おうと思ったらインターネットも通じない有り様だった(回線はつながっているようなので、ルーターの電源が入っていないのか)。こんなことなら昨夜ニューヨークのターミナルでバス待ちをしている時にネットで予約しておけばよかった。ネットの情報では、ネットで予約しても紙に打ち出さないといけないように書いてあるが、現在は改善されていて半分くらいの乗客がスマホを見せて、係員がスマホに表示されているQRコードを読み取ってそれでOKになっているようだ。

7時前にようやく係員が現れて、これで自販機が使えるようになるのかと思ったら、依然としてメンテモードのままなので、係員に言うと窓口で発行をしてくれた。間もなく発車時間になるので水と菓子類を買って車内に乗り込む。早朝のため車内はガラ空きで、料金も昼の便よりも1割以上安く設定されている、ただシカゴへの直行ではなく、途中で乗り換えが必要となるが、乗り継ぎ時間が昼時の1時間なので好都合ではある。ルートはエリー湖の南岸付近を通るようになっているので湖が見られるかと思ったら、少し離れた所を通っているようで、樹林帯の中を通っていく景色が続いていく。ちょうど東海道線が滋賀県を通っていても琵琶湖が見られないのと同じことか。ただ一瞬だけエリー湖を望める箇所はあった。琵琶湖でも淀川との分岐あたりは東海道線が通るが。

乗り継ぎ地点のクリーブランドが近づくとまたエリー湖が見えてきた。昼前に終点のクリーブランドのバスターミナルに着く。このターミナルは今までのターミナルの中で最低だ。ネットが通じるかと期待したが相変わらず繋がらず、レストランは休んでいるしターミナルの近くには店は皆無、時刻表もないしインフォメーションやカストマーサービスには誰もいないのでバスの発車に関する情報が全く得られない。係員が大きな声でがなりた立てているが何を言っているのか全く聞き取れない。シカゴ行きは何番ゲートかと聞いても明確な答えはなく何かわからないことを言っている。出発時間が間近に迫ってもシカゴ行きの乗車の列はできないので、何らかのトラブルが発生したのだろうが、残念ながらその内容はわからない。

すると、しばらくしてシカゴがなんたらかんたらというアナウンスがあり列が動く。さっき私が問い合わせした係員か私の方を見て向こうに行けと指さしている。出発ゲートではなく、到着ゲートの方から出て、グレイハウンドではない他社のバスに誘導される。やはり何らかの車両トラブルがあったのだろう。15分ほど出発が遅れたが、なんとかシカゴに向けて出発できることになった。

ニューヨークを出てから、バスもターミナルも電波自体は受信しているもののネットには繋がらない状態が続いていたが、どういうわけかある時点からネットに繋がるようになり、今晩の宿も予約できることとなった。予約なしで宿に行って泊まれなかったらどうしようと思ったが、その心配はいらなくなった。以前に自転車でアメリカを旅していた時は予約などしなかったものだが、その時は仮に泊まれなくても別の宿に自転車で移動したものだが、今は大荷物で歩きなので、そういうわけにはいかない。

また5時過ぎにファストフードの店が集まった建物にバスが停まって皆は食料を買い出しに出かけたので、私も後を着いていく。ハンバーガーやピザの店の前にはずいぶんと列ができていたので並ぶ気にはなれなかったが、その向かいにはドーナツ屋があってほとんど列はできてなかったが、甘いものは夕食代わりにはならないのでどうしたものかと思っていたら、1番奥にセブン-イレブンがあり、温めたパンがあったので買うことにした。肉を挟んだ大きなパンで、それだけで十分1食分となるボリュームだったし、朝売店で買ったパンは冷えていたが、やはり温められていると美味しく食べられる。

その後にまたネットに通じなくなる。今度は先ほどと違い、設定上は繋がっているはずなのに繋がらないという状態である。先ほど繋がっていたのは何だったのかと思ったが、一時的にせや繋がったのはよかったといえる。もう少しして宿に入れれば、ボストンで泊まったドミトリーと同一系統だから間違いなく繋がるはずなので、それまでの辛抱である。

ボストンからシカゴまでは総計1900キロにも及び、これは宗谷岬から佐多岬までの距離に匹敵するもので、これを3箇所の乗り継ぎ場所で各1〜2時間の乗り継ぎ時間でトータル28時間で走破してきたのである。アメリカ横断の中ではもっともハードな部分を終えたわけなので(その割には疲れは格別感じてないが)、明日以降はもう少し楽な行程になるだろう。

ターミナルから宿までは大した距離ではないので歩けないことはなかったが、シカゴには1時間遅れて着いたと思ったら、1時間の時差があったので予定時間に着いたことになる。暗くなっており知らない道を歩く危険もあるのでタクシーに乗ることにした。乗る前に料金を確認すると15ドルだという。すこし高いなとは思ったが、まあいいやと思って乗車する。降りる時に20ドル札を出したら釣りがないと言われる。ヤラレタと思ったが、まあしょうがない金持ち?喧嘩せずで、そのまま下車する。

4月5日

今日は寝坊しようと思ったが、やはり早起きしてしまった。いよいよ懸案となっている横断後半戦の詳細を詰める時である。まずはグランドキャニオンで予定していたキャンプをどうするかである。キャンプ場はたくさんあるようだが、ほとんどが予約が必要なので申込むサイトを調べると、まずはアカウントを取らなければならないということでアカウントをとると、なにやらたくさんの選択項目がでてきて、内容を理解するだけで丸一日かかるんしゃないかと想うほどの分量である。最初の計画的時点では、キャンプ申し込みがこれほど大変であるとは知らずにいたが、日帰りでも現地の滞在時間は8時間ほどはあるのだから、無理にキャンプすることもないかなと思えてきた。

次にモニュメントバレーについてはグランドキャニオンと並んで行きたいと思っていたが、こちらは公共交通機関がないので、レンタカーを利用できなければツアーに参加するしかない。しかし、日帰りツアーで5万円は半端でなく高いので二の足を踏んでいたが、まあ今回は人生最後の大旅行ということで、南極クルージングやイースター島訪問などに金を使ってきたのだから、こんなところで金をケチってもしょうがないと申込むことにした。ただ主催者への直接申し込みでなく、代理店への申込みをしただけなので、最終的に参加できるかどうかは、もうしばらくたたないとわからない。

下調べが一段落したので近くの喫茶店に行き、サンドイッチとコーヒーで昼食にする。食後にさらに足を延ばしてセブン-イレブンに行き夕食のパンも買ってから宿には戻り、預けてあった荷物を受け取ってからバスターミナルに向かう。ターミナルには電光掲示板は何台もあるのだが、みな午前の便のしか表示しておらず、夕方の便の情報は得られない。知りたいのは、ただひとつ何番ゲートからどのバスが発車するかということだけなのだが、こんな基本的な事項の情報提供もしないのはサービス業としては失格だと思うのだが、日本人とは考え方が違うのかな。

今回もデンバーまでの直行ではなくオマハで乗り換えるのだが、行先表示にオマハと書いてあるバスがあったので、このバズかなとも思ったが、グレイハウンドのチケットなのにそのバスは他社のバスだったので今ひとつ自信がなく、運転手に恐る恐るチケットを見せると問題がないようであった。その時、運転手の指示に従わない乗客がいたが、運転手は実に堂々とした態度で叱りつけていた。昔アメリカのバスの運転手を保安官になぞらえる記述を読んだことがあるが、まさにそれと同じ情景が見られ、古きアメリカに出会えたような気がした。

乗客は定員のほぼ半分で二人席を一人占めできていたが、発車間際におばさんが乗車してきて何処にすわるのかなと思ったら、よりによって私の横に座るではないか。まあしょうがないやと思ったら機関銃のように喋りだすではないか。もちらん何を言っているのか全然わからないが、わかったふりをしてると更に喋り続けるだろうと思い、知らん顔をしてるとつまらなくなったのかほかの席に移って行ってくれて一安心した。そちらに移ってからも、ひとしきり喋っていたが、それで気が済んだのか大人しくなってしまった。

その後、コンビニの横にバスは停まり、乗客は食料を買うために下車した。私は、一応食料は持っていたが、明日の朝の分を買い足すために下車した。買い物が終わり下車した所に戻ると、なんとバスがいないではないか。他の乗客もみな寒空で待っているので、特に心配はしなかったが、30分ほど待ってようやくバスは戻ってきた。事前に説明はあったのだろうが、ヒアリングができないと、いろいろと不都合はあるものだ。ただ、この不自由さもあと一週間ほどの辛抱だ。

4月6日

バスは深夜のハイウェイを疾走するが、いつしか眠りに落ちてしまう。気がつけばバスは一般道を走っていて次第に減速していく。終点のオマハに近づいているようだ。ターミナルは深夜にもかかわらず大勢の客が次のバスを待っている。椅子には空席はあったが、一つずつ仕切られているので横になれない。そこで、マットレスを敷いて床に寝たので多少は眠ることができた。明け方が近づいてくると、バス待ちの人が増えてきて椅子の空席がなくなりそうだったので椅子に移る。ひと眠りしようと思ったら、私の乗るバスの発車時間まではまだ時間があったが乗客の列ができていた。シカゴに戻るバスが先に出るようだ。シカゴ行きのバスが発車してしまうとターミナルは寂しくなった。ここからデンバーまで乗る客は多くないようだ。デンバー行きのバスもしばらくして発車したが、車内はガラ空きである、これから9時間のロングドライブが始まる。残念ながら今回のバスはWiFiが効かないが、モニュメントバレーのツアーに行けなくなったことによるフラッグスタッフの宿の変更の連絡は今日中にすればキャンセル料はかからないようなので、宿についてから行なうこととしよう。

昼時にマックの前にバスが停まったので、ハンバーガーとコーヒーをテイクアウトする。こちらの店員はチリのマックと違い、日本のマックと同様に手ぎわがよい。まあ本場なんだから当たり前か。バスに戻ったら運転手の後ろにWiFiのパスワードが張り付けてあるのに気付いた。そう言えば朝方に運転手がWiFiがどうのこうの言ってたのは、このことだったのか。早速、フラッグスタッフの宿のキャンセルをしようと思ったが、WiFiが完全な状態ではなく何らかの制限がかかっているようでアクセスできなかった。またモニュメントバレーのツアーも1日ツアーではなく、夕日だけを見るツアーがあることを発見したのでアクセスしようと思ったら、こちらもアクセスできなかったので、やはり宿についてからアクセスしてみよう。

時間的にはデンバーにだいぶ近づいているはずなのに距離はまだだいぶあるなあと思ってたら、時差があってデンバーの手前で1時間戻ることになっていた。アメリカに入ってから2回目の時差修正である。アメリカはさすがに大きな国である。日本との時差が何時間なのかもわからなくなってしまった。昼過ぎに通じていたネットも繋がらなくなってしまった。もしかしたら、WiFi環境に障害が発生したのではなく、端末ごとに利用できる通信量に上限があってそれに達してしまったためかもしれない。

デンバーまで70キロほどになっても依然としてあたりは平原が続いている。デンバーはコロラドの州都ではあるが、大都会というほどではないようだ。デンバーまでの距離が路肩に表示されるが、こちらは全てマイル表示なのでキロ換算するには1.6倍しなければならない。12年前にデンバーまで自転車でツーリングした時も何回騙されたことか。あと10キロだと思っていたら実際は16キロで、そのことに気がつくとガッカリしたものである。

平原の中にポツポツと家が見えてくると、遠くの方には山並みが見えてくる。ロッキー山脈の前衛の山である。12年前にはサンフランシスコ方面から一ヶ月近くをかけてロッキーの3500メートル近くの峠を越えてデンバーまで自転車でやってきたのである。それを思うと今回はバスに揺られる単調ささへ我慢すればよいのだから楽なものである。まあ当時と比べると体力もガタ落ちだから今はこれはこれで大変であるとも言えるのだが。まもなく市街地に入ると、さほど時間もかからずにターミナルに着いた、12年前に来た時はもうちょっとこじんまりとした街という気がしたが、全く違った印象を受ける街となっていた。それはともかく、ボストンから3500キロ、6台のバスを乗り継いで、丸3日間、2回の時差修正を行って辿り着いたのである。ゴールのロサンゼルスまではまだ2千キロほどもあり、もうひと頑張りが必要だ。

その晩はアメリカ横断前半戦の終了を祝ってささやかなお祝いをするつもりだったが、最初はバスから牛角の店が見えたのでそこを目指す。ところが、入口を入った所から人が溢れかえっている。これではいつ食事にありつけるかわからないので、別の店に行く。そこはNBA ロッキーズのホーム球場の前にあり、この日は試合があるため、大勢のファンが押し寄せて店の中に何台もあるテレビを見ながら応援で盛り上がっていた。少しうるさいなとは思ったが、ほかに店もないので我慢する。何店かの店があり、注文があると各テーブルに料理が運ばれるが、私はラーメンを注文し、うるさいテーブル席ではなく、カウンターで食事した。なかなか豪華版のラーメンで味もまずまずであったが、これで三千円はいかにも高い。早く物価高のアメリカを抜け出して日本に帰りたくなってしまった。









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2024年4月 4日 (木)

ボストン

4月2日

今日はボストンへの移動の日だが10時発なので、1時間前に着くとして8時にドミトリーを出るつもりだッたが、15分近く遅れてしまった。さらにバスターミナルの最寄り駅のひとつ手前の駅で10分近く停車したままになったので焦ってしまった。バスターミナルに着いたのは40分前であったがまだそれほどの行列はなかったので、上の階に食料を買いに行って帰ってきたら、係の人がチケットをチェックしてまわっていた。そこで、私もチケットをを見せると、隣の列に移れと言われる。理由もわからないまま渋々従ったが、最初の列にそのまま残った人はバスに乗り込んで行き、後から来た人まで乗っていくのに何故なんだという気がしないでもなかったが、隣の列に並ばされた人(最初からそちらに並んでいる人もいたが)からも別に不満は出てなかったので、恐らく増発のバスに乗れるんだろと思ったし、念のために前の人に「ボストン?」と聞くと、そうらしかったのでひとまず安心した。

10時少し過ぎにそのバスは発車し、それから我々は隣のバスに誘導された。こちらのバスはがら空きで1人で二人席を占領でき、結果的には大成功であった。6時間近くの行程だが、特に見所があるわけではないので、WiFiが使えることもあってNHKプラスのテレビを見ていたりしたら退屈することはなかった。

ボストンに夕方に着き、すぐに翌日向かうバッファローの切符を買うが、ここで私が買うつもりの切符よりも30ドルも安い切符を見つけて思わず買ってしまう。ところが、後から気付いたのだが、一度ニューヨークに戻ってからバッファロー行きに乗り換えるものであった。同じ道を戻るのもなあとは思ったが、キャンセル料5ドルも払って高い切符を買うのも馬鹿らしいので、ボストンは最初から往復するつもりで来たと思うことにした。

ターミナルから宿までは近いのだが、道を間違えてしまったため思いがけず時間がかかってしまった。宿はチャイナタウンに隣接しているので、久しぶりに中華料理を食べることとし、まずは荷物を宿に置いていく。宿はドミトリーではあるが、ロビーなどは先日泊まったヒルトンと遜色ないもので、ランドリー設備も備えられていた。

一休みしてから中華料理を食べに行くが、どこも客でいっぱいで値段もかなり高い。少し大通りから外れた所にあって値段も割安の店を見つけて、三品とビールを頼んだが味もそこそこであったし、値段9千円も日本から考えると高いが、現地の相場からすると安い方である。ただ最近は腹八分目を守っているので胃が小さくなってしまったのか完食はできなかった。

4月3日

昨夜はランドリーが混んでたので、今朝ランドリーを使用することにした。だが初めてなので使い方がわからない。QRコードからアプリをダウンロードするよう説明されているが、そのアプリを起動してもそれから先のやり方がわからない。すると、他の人がやってきてカードだけで簡単に動かしている。私も見様見真似でやってみるが上手くいかない。音をあげてしまい、彼にやり方を教えてもらいやっと動いたが、カードを画面にタッチさせるところがポイントのようだった。しばらく動きを見ていたが、どうもおかしい、洗濯ではなく乾燥をしているからだった。上下に4台ずつ機械があるので、上が乾燥機、下が洗濯機だと思っていたら、下の4台のうち3台は洗濯機だが、1番右は乾燥機だったのだ。そこで左隣の洗濯機に洗濯物を移して、そちらを動かしたが、右の乾燥機はまだ空で動いたままである。やがて洗濯機は停止したが、乾燥機は後20分以上動くようなので、そちらで乾燥をすることにした。ただ20分では乾燥の時間が足りなかったようで、ズボンや上着はまだ湿っていたが、着ているうちに乾くだろうと着てしまう。こうして2ヶ月半もの間、着た切り雀であった服をようやく洗えることができた。

今回、ボストンを北米横断の出発点に選んだのは、ボストンがニューヨークよりま東に位置しているということの他にボストンが自分にとって大きな意味を持っていたからである。それはマラソンを走っていた頃、走り始めの時期には、たまたま旅先でアテネマラソンに参加したことなどはあったが、記録更新を狙いだすと、わざわざ海外のレースに出ようなどという気はなかったが、記録が落ち目になってくると、海外のレースにも目がいくようになった。そんな時、ボストンマラソンには年齢別に参加資格があって、当時の自分は4時間を切れば参加資格が得られることがわかった。自己ベスト更新を狙っている頃ならば問題なくクリアできる記録だったが、落ち目になっている頃にはなかなか厳しい記録であった。当時、市民ランナーが参加できるレースとしては大田原マラソンが制限時間4時間と最も厳しいもので、これを完走できればボストンマラソンの参加資格が得られるということで、3年連続で出場したが、いずれも37キロの関門を時間内に突破できず、ボストンマラソン参加資格は得られなかった。

そんなわけでボストンマラソンには強いこだわりがあったので、全コースは無理だがゴール付近だけでもトレースしてみたいと思い、35キロ付近からゴールまでを歩くことにした。最寄りの地下鉄駅までは宿の近くの駅から乗り換えずにいけたのであるが、バスターミナルまで戻ってしまったので、だいぶ遠回りとなってしまった。名物の心臓破りの坂というのはここよりも少し手前にあるようだが、そこからだとゴールまでは遠すぎるのでカットしてしまった。35キロから先は比較的なだらかで、カーブのない一本道で走りやすそうであった。松坂大輔が所属していたレッドソックスのホーム球場があるあたりからコースがわからなくなり、グーグルマップで場所はわかっているゴール地点に向かって適当に進んでいく。

ゴール地点にはなにか標識でもあるのかと思ったら何もなく、ただ3週間ほど後に開かれる今年のボストンマラソンのポスターが掲示されているだけであぅた。

そこから比較的近かったので、そのまま歩いて荷物を回収してからバスターミナルに向かい、私のボストンの旅は終わった。世界四大博物館のひとつとされているボストン博物館にも行かなかったが、パリでもルーブル美術館には行ってない人間なのでよしとしましょう。

 

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2024年4月 2日 (火)

アメリカ入国とニューヨーク市内観光

4月1日 

 

サンティアゴを飛び立った飛行機は日付が変わって睡眠の時間になろうとしているのに夜食を運んできた。当然完食したが、まわりの連中しっかり食べていた。その後は歯も磨かずに熟睡した。

翌朝になると軽食ではあるが、朝食を運んできた。さすが国際便である。機はキューバ上空を越えてマイアミ空港に着陸。いよいよ第二部の始まりである。

ニューヨーク便の乗り継ぎ時間は1時間50分あり、余裕があったらラウンジにでも行こうかなと思ってたら、入国手続きと保安検査に思いのほか時間がかかり、手続き終了後に搭乗口までダッシュして出発8分前に着いたのであるが、既にクローズされていた。ただ便数は多いし、今日中に着けば良いのでそれほど焦らなかったが、45分後の便に空席待ちで乗ることができ、ニューヨーク空港には昼前には着いた。

ニューヨーク空港でやるべきことは二つ、サンティアゴからの荷物の回収とATMでのドルのキャッシングである。預け荷物に関しては18年前にボリビアに行った時に、最初の乗り継ぎのシカゴでは荷物の積み替えが必要だったのだが、マイアミでは積み替えが必要かどうかがわからず空港の中を走り回ったものだが、荷物のタグに受け取り空港が書いてあるということを知らなかったのである。今回はちゃんとケネディ空港と書いてあるので問題ないはずである。

またフライトに関する書類の中には荷物に関する記述が見当たらなかったので、預け荷物に関して果たして別料金が必要になるのかどうか、必要な場合はカードでも払えるのかどうか(手持ち現金が少なかったため)が気がかりと言えば気がかりであった。南米ではLCCまたはそれに類したものに乗ることも多く、荷物は別料金というケースもあったからである。ブエノスアイレスからサンティアゴに飛んだ時はLCCではなかったが、超過料金をとられたので、今回は15キロ以下となるように冬物はだいぶ処分してしまった。たださすがにAmerican AairlineはLCCではないので別料金は必要なかった。

キャッシングに関しては南極クルーズ料金を現金払いせざるを得なかったために、手持ちのドルが最終的には65ドルしか残らず心細い状態が続いており、その後にATMでキャッシングしても現地通貨が引き出せるだけだったが、アメリカのATMでは当然のことだがドルが引き出せるので、今までの心細さはようやく払拭できることになった。ただアメリカは100パーセントカード社会のようなので、多額に引き出しても使い道がないため(さらなる円安による為替差益を狙う?)、とりあえず100ドルだけキャッシングしておいた。

預け荷物に関してはもうひとつ問題があった。それは出発直前に乗る便が変わったため、私の預け荷物はどちらの便で運ばれてくるかということである。常識的に考えれば、一度積み込んだ荷物を乗客が乗り遅れたからと言ってわざわざ取り出すなどという手間をかけるということは考えられない。だから、私が乗り遅れた便で私の荷物が運ばれてくるものと思い込んでいた。それで、私が次の便で到着して荷物の受け取り場所に行った時に、前の便の荷物受取時に持ち主が現れない荷物として置き去りにされているのだろうと思っていた。ところが、そのような荷物は見当たらなかったので、係の人に聞いたところ、私の乗った便の他の荷物と一緒に出てくるというではないか。半信半疑でいたら、本当に他の荷物と一緒にでてきた。多分、荷物番号のタグでコンピューターが管理していて、私の荷物は前の便ではターンテーブルには回さず、次の便でターンテーブルに回すような仕組みになっていたのだろう。真相は不明であるが

空港から市内にでるのも大変だった。ケネディ空港は巨大な空港なため、どこから外に出るかによって、事前にグーグルマップで予定していた経路どおりにはいかないということがおきた。さらに鉄道も空港鉄道、地上鉄道、地下鉄とあり、それぞれ別に切符を買わなければならないと面倒くさい。また地下鉄は非常に入り組んでいて慣れるまではなかなかたいへんである。そんなわけで、ケネディ空港に着陸してから市内のドミトリーに入るまで4時間近くもかかってしまった。

ドミトリーでチェックインしようと思ったら、調整に時間がかかるようなので、市内見物をしてくることにした。まずはエンパイアステートビルを見て、そのあとに翌日乗るボストン行きのバスの切符を買い、次に南端まで行って9.11跡地であるグラウンドゼロを見学し、次に自由の女神を見るつもりだったが、自由の女神がある島まで行く船は予約をしないと乗れないようなので、カメラを最大限アップにして写真を撮るだけでお茶を濁した。帰りの地下鉄も迷いに迷ってしまった。

 

 

 

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