アルパインクライミング

2020年8月 2日 (日)

ブログ開始前の山行記録アップ

当ブログは2009年6月から開始したのだが、それ以前の山行記録もアップしておいた。
ブログ右端の一番下のHPリンクの中の一番下にある「ブログ開始前の山行記録」をクリックしてもらうか、以下のサイトを直接
呼び出してもらってもよい。

http://vibram.world.coocan.jp/kako.htm

なお、2004年前半までは以前契約していたプロバイダーのサイトにあったデータを自分のPCに保管してあったのだが、それもリンクを張りなおしてニフティのサイトに登録しておいたので、上のリンクから見れるようになっている。

2014年後半から約5年間の記録は今回新たに書いたのだが、改めてその当時の記憶が蘇り、コロナ渦で遠出がしにくい中での絶好の疑似山行ができたようで楽しかった。これでネット上で自分の過去の山行のほとんどを見ることができるようになったので、もっと年をとって山に行けなくなっても退屈することはないだろう。

また、ブログ右端の一番下のHPリンクの中にある「海外山行の履歴」についても最新のものに更新しておきましたので、よろしかったらご覧ください。

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2020年7月29日 (水)

空白記録の復元

このブログは2009年6月から開始しているが、それ以前の記録については2004年6月までは以前契約していたプロバイダーのホームページに掲載してあったものは、ハードディスクに保存してあったのだが、それ以降の約5年間については海外登山以外については記録をつけてなかった。だが、よく考えてみると、自分の拙いアルパインの記録の中ではまあまあの記録を残していたのもこの時期であった。パミール登山中止、コロナ、長雨といった条件が重なった今、記録しておかなければ、忘れてしまいそうな気がしたので、錆びつきかけた記憶を呼び起こして年月とアルパインの記録の概要だけは以下のように書くことができた(一部はトレランを含む)。記録の詳細についてはおいおい書き出して、機会があれば発表していきたい。 

 

200410 瑞牆 ベルジュエール(ガイド山行) 

200504 瑞牆 調和の幻想 

200506 丹沢ボッカ駅伝 5位入賞 1区3区ダブルエントリー 

200508 瑞牆ベルジュエール 核心である大フレークは越えるも次のチムニーで敗退 

200508 ボリビア ワイナポトシ登頂

200510 錫杖二ルンゼ 

200510 大台ケ原 サマーコレクション登攀及び登頂 

200510 二子中央稜 上部の簡単な所で先行パーティーが墜落して救出

200512 涸沢岳西尾根 滝谷を狙ったが、涸沢岳登頂のみ、下山時に雪洞を見失い荷物を残置

200602 小同心クラック

200603 権現岳東稜

200605 屏風雲稜  前穂までの縦走はならず

200606 涸沢岳西尾根(前年末に残置した荷物回収)、錫杖敗退(増水で渡渉不可)

200607 富士山 高所訓練及び登山競争 

200608 シャモニ 赤い針峰群、ミディ南壁

200610 日本山岳耐久レース  自己ベスト 14時間23秒

200610 明星南壁  マニフェストの上部城塞で敗退、その翌日のフリースピリッツは完登

200704 丸山東壁右岩稜

200705 白馬主稜 強風の中での完登 

200707 グランドジョラス北壁ウォーカー稜を狙うも大量の降雪直後のため、取付き手前で敗退

200708 南アルプス シレイ沢(単独) 

200712 剣岳早月尾根 豪雪のため、早月小屋で敗退、手の指を第二度の凍傷に見舞われるも切断は回避

200802 阿弥陀岳 広河原沢右俣

200803 一ノ倉沢 一ノ沢二ノ沢中間リッジ~東尾根

200805 富士山での高所訓練(数回)

200806 富士山での高所訓練(数回) 

200807 ガッシャーブルムⅡ無酸素登頂 

200808 妙義 谷急沢(単独)

200809 北岳バットレス ピラミッドフェース~4尾根主稜

200811 富士山 頂上で吹雪に遭いまたもや同じ指に凍傷を負う

200903 鹿島槍北壁 天狗尾根~正面尾根(悪天のため、天狗のコルで敗退) 

200905 唐沢岳幕岩 S字状ルンゼ(流水のため敗退

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2017年4月 2日 (日)

岩と雪ベストセレクション

先日、本屋で「岩と雪ベストセレクション」という本を見つけて思わず買ってしまった。岩と雪というのは1958年に創刊され1995年に廃刊となった本格的な山岳雑誌である。若かった頃に夢中で読んだ本であるが、今でいうクライミングに自分が打ち込んでいたのは1975年頃から198*年くらいまでの短い間だったので、現役としてこの雑誌を購入していたのは同じ期間でしかない。当時入手可能であったバックナンバーは全て購入したはずなので、もう少し前からのものも所有していたが、クライミングを中断していた時期に引っ越しのために全部破棄してしまったことを悔やんでいた。

2000年にクライミングを再開する少し前に後継雑誌であるrock&Snowが創刊されていたが、掲載内容が時代を反映してフリークライミングの比重が高まってしまったためか、岩と雪ほどの興奮を与えるものとはならなかった。また中断していた時期にあった日本のフリークライミング黎明期(当時はハードフリーと呼ばれていたのも懐かしい)のエボックメーキングの数々もクライミング再開後に断片的に知っただけで、当時の実際の記事を読めるのは嬉しいことである。パラパラと眺めているだけでも楽しめるので、当分は退屈せずにすみそうだ。

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2016年4月17日 (日)

滝沢第三スラブ

アルパインのルート図集の出版が途絶えてから久しいが、このたびガイドの菊地氏から「日本の岩場」上下が出版されたことを本屋で知った。同氏は以前に同名のルート図集を世に出しているので、今回はその改訂版かと思ったら、そのような表示はない。その理由は本をめくってみてすぐわかった。

それは従来と異なりフリークライマーの視点から書かれているからである。従来はⅥのピッチグレードが含まれているだけで高いルートグレードが与えられていたが、フリークライマーのレベルアップもあり、Ⅵのピッチグレードは高いルートグレードには結びつかないとされたようで、「高難度」フリーのロングルートとして脚光を浴びた明星の各ルートも軒並みグレードダウンされている。

極めつけは比叡山のニードル左岩稜が5級下から2級に大幅グレードダウンされていることである。たしかに自分もこのルートを登った印象としては従来のグレードは過大である感は否めないが、いくらなんでも2級というのは、それはないだろうというのが実感である。

これにたいして、従来は5級下とされていた滝沢第三スラブが一挙に3段階アップして6級下とされたことが特筆に値する。これはⅣ〜Ⅳ+という気の抜けないピッチが30ピッチも続くことや、確保条件の悪さとルートファインディングの困難さがフリークライマーにとっては大きなプレッシャーになるからであろう。

私が滝沢第三スラブを登ったのは30年以上も前のことであるが、朝一番に取り付きドームを登りきったときには夜のとばりがおりてきて、暗闇の西黒尾根をかけ降りてきたことを昨日のことのように覚えている。当時ですら日曜日の滝沢スラブ全体が貸切状態となるほど登る人の少なかったルートだったが、その後はさらに減って、ルートは自然の状態に近づいて困難性が増してしまったことは考えられる。そういえば比較的新しい記録ではビバークしているものも多かったのもそのせいかもしれない。自分が登ったときに、格上げされたグレードだったらよかったのにと思う反面、このグレードではビビってしまって取りつこうとはしなかったかもしれないとも思ってしまう。

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2015年8月25日 (火)

思い出のアルパインルート   海外編

海外のアルパインルートとしては、アルプス、ヒマラヤの外にフリークライミングのメッカとされるヨセミテや東洋のヨセミテと呼ばれる韓国のインスボンのクラックのマルチルートも登っており、その中での困難性の高いものとしては八千メートルを無酸素で登ったガッシャーブルムⅡ峰や高度差800メートルの5級の大岩壁であるモンブランドタキュルのジェルバズッチ稜があげられるが、前者はシェルパが同行したものであるし、後者はガイド山行であるので、それらよりもスケールでは劣るものの、自力で苦労して登ったエギュードミディ南壁をあげたい。

前年のアンデス6千メートル峰速攻に成功後、次の目標としてアルプスの大岩壁が浮かび上がってきた。最初はどうせ行くなら目標は大きくということで、以前から山行をともにしていた友人と互いに身の程も知らずにグランドジョラス北壁のウォーカー稜を狙うことになった。ところが、そのトレーニングとして予定していた冬の滝谷や一ノ倉が諸事情で登れず、12月の小同心、3月の権現東稜、5月の屏風雲稜くらいしか登れなかったので、ミックス壁のトレーニングが絶対的に不足しているということで、フラットソールだけで登れるところとしてグランカピュサン東壁とミディ南壁が候補に上がった。ただ出発直前は天候不順が続き、外岩がほとんど登れない週末が続いたので、やむをえず比較的お手軽な(と、その時は思っていた)ミディ南壁に最終的に決定したので、かなりモチベーションが下がってしまったのは事実だ。

シャモニ到着後はアルプスの岩に慣れるためと天候待ちを兼ねて赤い針峰群等を登った後に、ミディ南壁に向かう。6時のミディ行きの始発のロープウェーを待つため1時間前に駅に着くと、既に先客がいて、その後も続々と人が集まってくる。この時間帯はまだ観光客がおらず登山者ばかりだが、いずれも縦走者のようでクライマーはいないようだった。6時過ぎにロープウェーに乗り込み、途中1回乗り換えて一気に3800メートルの頂上に向かう。頂上の建物の出口で運動靴にアイゼンを付けて歩き出そうとしたが、その道はプランの方に向かう縦走路のようで南壁に行けるかどうか確信が持てない。そこでまたアイゼンを外して展望台の方に行ってみると、やはり先ほどの道から途中で右に別れる道があるに違いないと思われ、戻って歩き出す。案の定、途中から道が別れてモンブラン方面に向けてミディを巻いていく道があった。しばらく行くと圧倒的なスケール(といっても200メートル程度だが)の南壁が現れてくる。
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取り付きまでの踏跡はかなり古いもので、やはりここしばらくは誰も取り付いていないことがわかる。我々はレビュファールートを行く予定だったが、相棒はトポを見ながらずっと左の方まで行ってしまう。私はレビュファーの本の概念図からみてもっと右の方だと主張して戻ると、取り付きと思われるところに着くことができた。

 レビュファールートはトポだと1ピッチ目はIV、2ピッチ目がVI、それからはV+が続いた跡、後半はVからIVと易しくなってくるとあり、一方、インターネットの情報ではオールフリーでVIIとある。いずれにしても我々はアブミを持参しておりオールフリーで登るつもりなど最初からなかった。取り付きまでの雪の斜面にステップをつけてからクライミングシューズに履き替えて8時に相棒が登りだすが、私がフォローするとなかなか登り甲斐があり、とてもIVとは思えない。

前夜、シャモニのスポーツ店でレビュファールートの支点の状況を確認したところ、支点が豊富でカムは不要だという情報を真に受けてしまい、中型のカム2個とナッツ1ダースを持参しただけとったが、どうもそれは昔のことのようで、現状はほとんど支点が見あたらない。

 2ピッチ目のⅥはほんのワンムーブでそれほど難しくもなく、そこから先は横に走るクラック沿いにトラバースをしていくが、ナッツが良く決まり安心して登れる。

2ピッチ目の終了点に着くと後続パーティーが追いついてきたが、彼らは我々よりも右の方のルートに向かう。

 3ピッチ目はオーバーハングの左の急なクラックを行くV+のピッチだ。相棒はナッツを決めるとアブミを取り出す。フリーで行くと充分10台はあると思われるところで、エイリアンを持ってこなかった我々としてはやむをえないところだ。相棒は人工にはあまり慣れていないと見えて、えらい時間をかけて登っている。その間に隣のルートに行ってしまった後続パーティーが結局はあきらめて取り付きに降りてしまった。代わって別パーティーのトップが1ピッチ目のビレー点まで登ってくる。相棒は相変わらず苦戦していて、たてつづけに2回もアブミを落とすので、思わず「何をやってるんだ!」と声を荒げてしまった。いずれも私がキャッチできたので、振り分けたザイルを降ろして回収してもらい人工を続けてなんとかこのピッチを終えたが、なんと1時間以上も時間をかけてしまいました。フォローの私はそんなに時間をかけるわけにはいかないので、A0で登り、ナッツはテンションをかけながら回収して登っていく。後続パーティーがそろそろ来るかなと思って下を見ても姿を見せないので、2ピッチ目で難渋しているのかもしれないと考えたが、後続パーティーに追い上げられないのは、精神的にはいいものだ。

 4ピッチ目は左上するV+のピッチで、ここを終えれば難しいところはあらかた終えたことになると思い、気合いを入れて登り出す。最初の数歩がデリケートな登りで、その後、ナッツで人工で登って行くのだが、ここでナッツが外れて数メートル墜落。幸いケガはなかったが、ナッツはやはりこわい。下を見ると後続パーティーは取り付きまで降りてしまっている。時間的に見て他のパーティーが来ることも考えられないので、壁は我々の貸し切り状態となった。順番待ちも珍しくないというレビュファールートでこんな状態になるというのは、コンディション不良を懸念して、みな取り付くのを控えたからだろうか。

ルートは易しいランペを登っていくが、カンテ気味のところを回り込むところがバランスを要して踏ん切りがつかない。ナッツがなかなか決まらず、ボルトははるか右下で大きくランナウトしており、ここで落ちたら振られて相当な墜落距離になると思うと、どうしても体が先に進まない。エイリアンでもあれば固め取りして突っ込んだかもしれないが、あきらめてランペの下まで戻る。ここから直上するワイド気味のクラックを見上げると途中に1本の古いクサビが残置してある。手持ちのカムでも奥の方にセットすれば使えるのではないかと考え、下で使ったカムを回収しながら登るという方法でなんとか手持ちのカムだけで登り切る(もちろん人工だが)。相棒にフォローしてもらうが、出だしでいきなりショックがかかる。墜落した際に小指の靱帯を切ったみたいで、小指が曲がらなくなってしまったといってくる。相棒が降りたいと言い出すのではないかとヒヤヒヤしながらも、小指を使わずに登ってくるように指示する。このピッチはなんとか登り切ってもらったが、もうリードはできそうもないというので、私がリードを続けることにする。

 レビュファールートだったら、そろそろ易しくなってくるはずだが、この直上するルートは人工はいやらしいところが多いし、フリーも非常に難しいものだ。必死で登っていたのでピッチ数がわからなくなってしまったが、相棒の話だと3ピッチあったそうだ。被り気味の深いコーナーに不安定な体勢でカムをセットするピッチでは非常に疲れたし、あるピッチでは途中でギアを使い果たしてしまい、きわどいバランスで下まで降りてビレーするなどの大奮闘で手の甲はキズだらけとなって血が吹き出し、ギアや服にも血のりがべっとりついてしまった。

 ようやくテラスに着き上部を見上げると、傾斜も少し落ちて終了も間近という感じとなった。時刻は7時過ぎだが、まだ充分明るい。振り返れば憧れのグランドジョラス北壁が夕日に照らされて眼前に眺められる。ウォーカー稜にはべったりと雪がついていて、とても我々の力では登れる状態とは思えなかった。

 ずっとリードを続けてきて精神的にも相当疲れたので、相棒にリードをお願いすることにした。ここからはやさしいだろうと思ったにもかかわらず、相棒はものすごい時間をかけて登っていく。9時を過ぎてあたりは暗くなってきたが、すぐに満月が現れたのでライトを着けなくても登れるほどだった。このピッチのフォローを終えると、また私がリードする。雪まじりの壁を登っていくが、途中のトラバースするところでバランスを崩してこの日2回目の墜落をしてしまう。こんなところで落ちるはずはないのだが、肉体的にも精神的にも相当消耗してしまったようだ。カムはしっかり効いていたので事なきを得たので、登り返すよりも左にトラバースする方に活路を求めることにしたが、その結果、ザイルが激しく屈曲する形となって、えらい苦労することになる。トラバースすると残置があり、そこからやや登ったところに小さい足場があったので、ピッチを切ることにしたが、ここでザイルが極端に重くなってしまった。墜落を止めてくれたカムのところで大きく屈曲していること、新品のザイルでキンクしやすいこと、二本とも同じカラビナを通していることのザイル同士の摩擦が重なって、ザイルの引き上げだけでもクタクタになってしまった。下からは相棒にガミガミ文句を言われるし、時間だけが空費していく。相棒がビレー点まで上がってきた時にはなんと零時を回っていた。

 このピッチのザイルの引き上げで精魂を使い果たしたので、ここでビバークして朝を迎えることにした。ビレー点の岩と隣の岩との間がチムニーのようになっていて風も当たらないように思えたので、その雪のつまった割れ目がビバークに適しているのではないかと話すと、相棒は整地してくると言って下へおりていく。相棒が整地している間、半ば放心状態で下の一般登山路脇のテント場を見ていると、いっせいに明かりがついて、モンブラン目指して列をなして登っていくのが見える。富士山で御来光を拝むように、モンブラン頂上で日の出を迎えようとしているのだろうか。

 整地をしていた相棒から声があり、足元に大きな穴があって、そこから風が吹き込んでくるのでビバークには適してないし、その穴から垂れ下がった私のザイルがどこかにひっかかってしまい回収できないと言う。相棒はビレー点でビバークするというので、交代で私が下に降りる。下でザックを降ろして中身を取り出しているときに、セーターとペットボトルが例の不思議な穴に吸い込まれて消えてしまった。朝から飲まず食わずに近い状態だったので、ショックは大きかったが、朝になってから少し頑張ればいいんだと思い直すと、少しは気楽になった。どうも疲れと脱水状態が加わって高度障害にかかったみたいで何度も吐き気をもよおすが、何も食べてないのでもどすものもないようだ。明るくなるまでの間、自分のザイルをなんとか回収しようと努めるが、ひっかかってしまたザイルはビクともしない。やむをえず、自分のザイルは放置して、残りのピッチはシングルザイルで行くことにした。

 まんじりともせず立ったまま胴ぶるいを続けていたが、明けない夜はない。やがて明るくなってきたので相棒のリードで出発することになった。暗闇の中では遠くに見えたヘッドウォールも明るくなってみると、すぐ真上だ。もうルートも困難なところはない。相棒のところまで達して、多分これが最終ピッチになるだろうと期待しながら私のリードに代わる。簡単な人工を登ってフリーに移るとどんどん傾斜が落ちて絶頂が見える。右手には展望台の観光客がこちらに手を振ったり写真をとったりしている。実働17時間でなんとか完登することができた。スタイルはどうであれ今回の目的をとにかく達成できたという喜びがジワっと湧いてくる。

 頂上から展望台へは途中の何カ所かの支点を利用して斜めに懸垂で降りるのが正解なのだが、なにも考えずに真っ直ぐ降りてしまったので、展望台よりもずっと下の方に降りてしまい、岩を利用しながら雪の斜面を這い上がるという無駄な努力をしてしまった。

展望台でガチャの整理を済ませてからロープウェーに乗ってシャモニに戻り、駅前のレストランで例によってビールで乾杯したが、食欲旺盛な相棒に対して私はほとんど食べられず、ただ脱水状態だったのでビールだけは3杯も飲んでしまった。早くテントに戻って横になりたかったが、相棒が帰りのバスを確認するために駅まで行くというので、しかたなくトボトボと後をついていく。結局、駅までいっても何も情報を得られず無駄足に終わった。相棒が明日の朝、駅にまた確認しに行ってくれるというので、その日はキャンプ場に戻り、バタンキューで寝てしまった。

 この登はんの後にグランドジョラス北壁ウォーカーバットレスへの憧れは増すばかりで、同行してくれるパートナーを求めたりしたが、結局はガイド山行となって2度チャレンジしたが、1回目は大量の降雪のため、2回目は逆に高温によって下山路の氷河の状態悪化のために断念せざるをえなくなり、その憧れは墓場まで持っていかざるをえなくなってしまった。

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思い出のアルパインルート  国内編

アルパインクライミングを止めることにしたのを機会に今まで登ってきたルートの中から思い出に残るルートについて書いてみることにした。国内編と海外編の2回に分け、今回は国内編である。 数多く登ったルートからこれ1本に絞ることは至難の業なので3本のルートをあげることとした。

1.屏風東稜冬季登攀

二十代後半になり、冬壁も八ヶ岳西壁や宝剣岳東壁を経験して、もっと本格的な冬壁を登ってみたいと思っていた頃、たまたま知りあった人から冬の屏風東壁に誘われて躊躇することなく話しに飛びついた。 大きな冬壁は初めてなので、それなりの準備をして本番に臨むこととした。当初は雲稜ルートを目指していたので11月下旬に偵察を兼ねて同ルートを登りに行った。核心部自体はそれほど苦労もなく終えたが、傾斜が落ちて雪のない時ならば易しくなるはずの上部の東壁ルンゼの部分が氷雪にまとわれて極端に悪くなっていて、そこを突破するのに消耗してしまい、終了点に辿り着いた時は疲労困憊状態となってしまった。その結果、さらに条件が厳しいことが予想される正月頃に登るには雲稜よりも東稜の方が現実的だろうとルートを変更することにした。

東稜は人工中心なので、同じく人工主体の大同心の雲稜ルートを本番を想定した装備で登ることにした。あいにくあまり雪がついておらず、冬壁トレーニングとしてはやや物足りなかったが、重い荷物を背負いながら、最後は夜間登はんとなってしまい、それなりに苦労して登りきることができ、いよいよ本番を迎えることとなった。

当時は冬場は沢渡までしか車が入らず、徳沢までは丸一日の歩きを余儀なくされた。パートナーの都合で正月明けの出発となってしまったため、行き交う人もなく静かな入山となった。 翌朝、徳沢でパートナーと合流するが、今回は彼の仲間も同行して3人バーディーで登ることとなった。横尾を経由して1ルンゼを雪崩を警戒しながら詰めていき、T4尾根の取り付きからローブをつけていく。
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今回は3人なのでオーダーは固定し、雲稜の時の相棒がトップ、私がセカンド、もう1人がラストとなる。 傾斜の緩いT4尾根には雪がベッタリとついていて11月の時以上に難渋し、結局T4まで到達することができずに雪稜でビバークすることとなる。翌朝、T4まで登ってみると正月に掘ったと見られる雪洞を発見する。中に入って休んでいると、あまりにも快適なため気持ちが緩んでしまい安易な方向に引きずられてしまう。行程が遅れていることもあり、慶応尾根経由で下山することはあきらめ、荷物はこの雪洞にデポし、身軽な装備で明日、1日で東稜をラッシュし、懸垂で戻ってくるというものであった。

東稜の取り付きまでは不安定なトラバースが続くので、ザイルをフィックスしてから雪洞に戻り、明日の登はんに備えて鋭気を養う。  翌日は薄暗いうちから行動開始、ザイルをフィックスしたおかげでスピーディーに東稜取り付きに達する。ここから本格的な登はんが開始する。するとリスが現れて我々が登ろうとするルートをササット駆け登っていく。「あんな風に登れたらいいのに」と笑いあう。T4尾根と違い、アブミの懸け代えだけなので順調にピッチを稼ぐ。だが3人のうち1人しか行動できないため、やはり時間がかかる。私は自分が登っている以外はトップかラストの確保のため寒風にたたきつけられても身動きすることもできず、つらいものがあった。

最終ピッチ前の左上にトラバースするピッチでラストをグリップビレーで確保していると、激しくザイルが流れグリップでかろうじてとめる。1個所フリーに移っていやらしいところがあったので多分そこで落ちたのだと思われる。けがはしていないようであるが、振られて空中にぶらさがっていているようである。そこで、プルージックでザイルを固定し、ラストにはアブミ用と腰用のプルージックをセットしてもらってボルトの地点まで自己脱出をしてもらう。ボルトの地点でセルフビレーをとってもらい、プルージックを外した上で再び登ってきてもらう。一連の作業は夢中だったのでわからなかったが、思ったより時間がかかってしまい、ラストを迎えたときには夕方となっていた。後1ピッチ、終了点の立木がすぐ頭上に見えるのだが、明るいうちに往復するのは無理と判断し、ようやく腰をかけられるだけの狭いテラスであるが、ここでビバークして翌日に終了点に到達後、懸垂で下降しようということになった。アイゼンや靴をつけたまま、かろうじて座っている状態でツェルトを被って一晩を耐え忍ぶことになったが、足が凍傷にやられないよう足の指は一晩中動かし続けた。夜半から天気は悪くなって降った雪が背中の後ろに積り、体を前に押しだそうとするのをこらえた。ツエルト1枚の外は確実に死の世界であることを感じた。日帰りの予定であったため、ろくな食料がなかったので、下界へ降りたら、天ぷらを食いたい、寿司を食いたい、ステーキを食いたいと食べ物の話で退屈を紛らわした。

朝になっても天候は回復せず、このまま登はんを続けることは論外であった。直ちに懸垂にとりかかる。途中、ハング下に支点があるところでは、空中懸垂のままハング下の支点まで振り子をしなければならず、少々苦労した。数ピッチの懸垂でT4まで降り、そこで荷物を回収してからさらに懸垂を続けて、下のルンゼにようやく降りることができた。これでやっと生還できたのだという実感が湧いてきた。上高地までの道のりはこの時期では通る人も少なく、場所によってはラッセルが必要となるところもあった。上高地を過ぎたあたりから我々と抜きつ抜かれつする一人の登山者がいた。真剣な顔つきで歩ているようであったが、特に気にとめることもなかった。我々の方が先に沢渡に着き、茶店でさっそくビールで乾杯しようとしているまさにそのときに、さきほどの登山者が入ってきて奥にいた街の服装をしている人たちに向かって「申し訳けありません」と言って深々と頭をさげた。遭難事故だったのである。それまで談笑していた我々もシュンとなってしまった。松本についてからは、美食に飢えていた我々3人はステーキ、天ぷらと店をはしごしたが、さすがに寿司まで食べる胃袋は持ち合わせていなかった。そのときはすべてに満足しきって幸せであったが、最後の1ピッチが登れなかった悔しさがこみあげてきたのはしばらくたってからのことである。

東稜は最後の1ピッチを残してしまったが、その数年後に別のメンバーと中央壁のダイレクトを登りに行った際に、途中でルートを間違えて東稜の取り付きであるT2にでてしまった。正しいルートに戻るのも面倒だし、相棒は東稜を登ったことがなく、自分も最終ピッチを登り残していたので東稜を登ったが、3時間もかからずに完登してしまい、冬登った時に苦労したこととの違いに驚いてしまった。以来、夏の東稜はイージールートであるとの印象が焼きつけられてしまったが、まさか後年にここで事故を起こし、ここが最後のアルパインルートになるなどとは知るよしもなかった。

なお、冬の東稜で終始トップを頑張った相棒とは、その後も、甲斐駒や屏風の継続とか冬の滝谷等にも出かけたが、いずれも尻切れトンボに終わってしまい、また冬壁自体も、より困難を求めて滝谷や一ノ倉にも何度か通ったが、たいした成果はあげられず、いずれも屏風東稜を超えることができなかったという点で、思い出のルートの一番に挙げるべきものと考えている。

2.幽ノ沢中央壁左フェース

30歳目前のその年は谷川岳の雪が遅く、11月中旬というのにまだクライミングができそうであった。一ノ倉のめぼしいルートは登ってしまい、残された大物というと滝沢第三スラブくらいしかないが(三スラはその年も2回挑戦したが、雨で登れず、翌々年にようやく登れた)、同行する会の後輩(年齢も会の在籍年数も私より上だが、経験が浅いという意味で後輩と記す)には荷が重いと考え、私がまだ足を踏み入れてない幽ノ沢を登ることにした。幽ノ沢はフリー主体のルートが多いのでバランスクライミングが比較的得意な後輩ならば、かなりのルートまで登れるであろうと考えて中央壁の初登ルートである左フェイスを登ることとする。同行者の実力、初めての岩場であることを考えれば、せめて正面フェースぐらいまでにグレードを落とすべきであったのだが。

紅葉の名残りのカールボーデンを経て左フェースに取り付く。下部を登って核心部のZピッチに入る。Zピッチの特長は頭にたたき込んでいたはずなのに、右にトラバースするラインをみつけられず、そのまま左上し続けてしまった。
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赤線はルート、黒線はZピッチでルートを間違えた部分

壁の傾斜は増し、ホールドは細かくなっていく。ルートを誤ったことに気づいたが、降りることもかなわず絶望的な登攀を続けた。後で知ったのであるが、初登者の名クライマー古川純一さんもこのピッチで最初は左上を続けたが、登れないので引き返してきたと、その著書で書いてあった、そのピッチを私はそのまま登り続けてしまったのである。今のデシマルでどのくらいのグレードかはわからないが、対実力比では間違いなく「生涯、最悪のピッチ」であった。おまけに20メートル以上もランナウト(途中で支点がとれなく、落ちれば大墜落となる箇所のこと)し、ザイルいっぱいとなったところでピッチをきったが、不安定な場所でハーケンも気休めに打った程度なので後輩がスリップすれば引きずりこまれる可能性が高かった。後輩も決して岩登りが下手ではないが、このピッチは完全に実力オーバーであり、さりとて直上するルートではないので強くザイルを張るわけにもいかず、後輩の一挙手一投足に合わせてザイルを微妙に引き上げていった。ザイルを通じて一心同体になるとはまさにこのときの状態であった。結局、後輩は一度もスリップせずにこのピッチを登りきったが、今もって何故後輩がこのような難しいピッチを登り切れたのかがわからない。  

そこから上部は今までと比べれば格段にやさしく、数ピッチでリッジに出た。中芝新道を下降したが、途中で真っ暗となってしまった。二度とやりたくない山行であった。

このルートは10数年前にZピッチの部分が崩壊して登れなくなったらしいが、最近は崩壊部分を避けてまた登られるようになったと聞いている。ひょっとして、私が登ったところを登っているのかもしれない。

3.明星南壁マニフェスト

体力技術ともにベストであった50代前半に、当時は最難ではないにしても、第1級の呼び声高かったこのルートを自分の究極の目標として挑戦したルートである。
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赤線はマニフェスト、黒線はフリースピリッツ
実線は登った部分、破線は未登部分

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左はフリースピリッツ、右はマニフェストルート(「日本のクラシックルート」より転載)

1ピッチ目はさほど難しくはないはずなのだが、ルートを間違えてしまいパワー全開となってしまう。2ピッチ目からもⅥを超えるピッチが連続して緊張が続く。やがて核心部の上部城塞に達する。グレード的にはここの10bよりも鷹ノ巣ハングの10dの方が難しいが、あちらは支点はたくさんあるようなのでフリーにさへこだわらなければさほど難しくはないようだ。それに対してこちらは10メートルほどランナウトしても次の支点が見当たらない。一度登ったことがあって支点の位置がわかっていれば、必死になってそこまで登るのであるが、どこまで登ればいいのかわからない状態でジリジリと伸びていくランナウトの恐怖にはついに勝てずに悔しいがクライムダウンを余儀なくされる。

後になって思えば、エイリアンをいくつか持っていたので、クラックに固め取りすれば、上部の支点まで行けたのではないかという気もするが、ランナウトするものだという思い込みがあったためにエイリアンを使うということに思いが至らなかった。 翌日は隣のフリースピリッツを登ったが、ワングレード違うだけで格段に易しく感じた(マニフェストは攻めまくるルート、フリースピリッツは逃げまくるルートとも呼ばれている)。その時のパートナーとはどういうかわけか一緒に登らなくなってしまったので、その後はマニフェストを登れるだけのパートナーを得られずに再チャレンジを行わないままに終わってしまった。

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2015年8月23日 (日)

さらばアルパイン

今年65歳になるのを機会に今年いっぱいでアルパインから足を洗うことを決めていたが、今回の事故でようやく足を洗うふんぎりがついたといってよい。

若い時と通算すると、アルパインをやっていた時期は25年間と四分の1世紀にもなる。その間には家族や関係者に心配や迷惑をかけ続けてきたことを深くお詫びをしたい。それと同時に長い間よく無事に登ってきたものだと思うとともに、その間に経験した喜び、辛さなどすべてのものが、自分にとっては珠玉のように大事なものとなっているし、自分の人生に計り知れない影響を与えてきたといってよいだろう。

自分が登ってきたルートの数を数えたことなどないが、100を優に越えていることは間違いない。そのうち、ガイドとともに登った数本を除くと、おおよそ3分の1は自分と力量がほぼ同等のものと、残りは自分より経験の浅い人と登ったことになると思うが、いずれの場合も1度もパートナーを死なせることなく、アルパイン人生を終えられたことをまずは喜びたい。このことは、全く幸運の賜物としか思えないが、自分としてはある意味で誇りに思っている。どんな素晴らしいルートを登ろうが、死んでまってはなんにもならない。パーティーが無事生還してこそ、なんぼであることを今回の事故を通して痛感した。

これからしばらくは年寄の繰りごとだが、今まで行ってきたアルパインの思い出に浸りたいので、よろしかったらお付き合いください。

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2015年6月28日 (日)

アクシデントのためマッターホルン撤退

アクシデントのためマッターホルン撤退 朝一番近くのゴンドラでシュバルツゼーに上がり、3時間半でヘルンリ小屋に到着する。ところが小屋周辺の様子がどうもおかしい。小屋が本年から改築されたことは知っていたが、昨年までは黙認されていたらしいキャンプ場が小屋が拡張されてスペースがなくなっったためか、見当たらなくなってしまったのだ。幸い、小屋はまだオープン前で小屋の人も入っていないようなので小屋の前に強引にテントを張ってしまう。以前のキャンプの記録では近くの流水を利用しているとのことだったが、登ってきた道を少し戻った所でしか流水はなかったようなので、水汲みとルート偵察の二組にメンバーを分けることにした。

 

ルート偵察の方は、取りつきの固定ローブを越えてしばらく進んでみたが、ソルベイ小屋直下のモスレイスラブが雪に覆われている以外は雪のない道を進められることを確認し、登頂成功の鍵は雪の付いているモスレイスラブが突破出来るか否かにあることがわかってヘルリン小屋前に戻った。
小屋に戻ってみて、水汲みメンバーの報告を聞いて愕然とした。流水は石灰分を大量に含んでいて飲用には適さないというのだ。こうなっチた以上は小屋の上部にある積雪を融かして水を得るしかない。流水利用を前提とした燃料の用意しかないため、果たして必要な量を確保出来るかどうかが不明であったが、とにかくやってみるしかなかった。

 

まずは第一回目の水を作ってみると、なんとその中にも多少の石灰石が混じっているではないか。風で飛ばされた小石が堆積したものだろうが、この程度ならば飲用には差し支えないという気はしたものの、メンバーの中には不安を訴える者がいる以上は、この方法もとり得ない。となると結論はマッターホルンは断念して下山するしかない。

 

その晩はパンとスープにサラダの極力水を使わない夕食で済ませて、明朝は始発のロープウェイに間に合うように下山することとして早めに寝てまうことにした。

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2014年11月 6日 (木)

ミズガキ山ハイピークルート

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ミズガキ山ハイピークルートを登りたいという友人のリクエストに応えて12年振りに登ってきた。先週登った屋根岩神奈川ルートよりもかなり易しいルートで昼前に終了。帰りの渋滞もなく順調に終わるかと思いきや、便乗させてもらった車から下車する予定の拝島駅の2キロ程度手前で前方の車両に追突。相手の車のナンバープレートが少し凹んだ程度の事故ですんだのだが、不幸中の幸いであった。その結果、相棒は警察に向かうことになり、私は駅まで重荷を背負って歩く羽目になってしまった。

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2014年8月28日 (木)

パタゴニアの映画上映

今、世界で一番行ってみたいところといえば、南米最南端のパタゴニアであるが、その地の最難峰のひとつとされるセロトーレでのクライミングを撮影した映画が今週末から上映される。
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今年は山岳映画の当たり年で多くの作品が上映される(た)が、その中でもこの映画は最も興味のある作品である。というわけで、先日近くを通りかかったので、前売券を1400円で購入したが、後から知ったのであるが、シニア割引だと1100円だったのである。とんだ先走りをしてしまったが、まあいいか

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