海外のアルパインルートとしては、アルプス、ヒマラヤの外にフリークライミングのメッカとされるヨセミテや東洋のヨセミテと呼ばれる韓国のインスボンのクラックのマルチルートも登っており、その中での困難性の高いものとしては八千メートルを無酸素で登ったガッシャーブルムⅡ峰や高度差800メートルの5級の大岩壁であるモンブランドタキュルのジェルバズッチ稜があげられるが、前者はシェルパが同行したものであるし、後者はガイド山行であるので、それらよりもスケールでは劣るものの、自力で苦労して登ったエギュードミディ南壁をあげたい。
前年のアンデス6千メートル峰速攻に成功後、次の目標としてアルプスの大岩壁が浮かび上がってきた。最初はどうせ行くなら目標は大きくということで、以前から山行をともにしていた友人と互いに身の程も知らずにグランドジョラス北壁のウォーカー稜を狙うことになった。ところが、そのトレーニングとして予定していた冬の滝谷や一ノ倉が諸事情で登れず、12月の小同心、3月の権現東稜、5月の屏風雲稜くらいしか登れなかったので、ミックス壁のトレーニングが絶対的に不足しているということで、フラットソールだけで登れるところとしてグランカピュサン東壁とミディ南壁が候補に上がった。ただ出発直前は天候不順が続き、外岩がほとんど登れない週末が続いたので、やむをえず比較的お手軽な(と、その時は思っていた)ミディ南壁に最終的に決定したので、かなりモチベーションが下がってしまったのは事実だ。
シャモニ到着後はアルプスの岩に慣れるためと天候待ちを兼ねて赤い針峰群等を登った後に、ミディ南壁に向かう。6時のミディ行きの始発のロープウェーを待つため1時間前に駅に着くと、既に先客がいて、その後も続々と人が集まってくる。この時間帯はまだ観光客がおらず登山者ばかりだが、いずれも縦走者のようでクライマーはいないようだった。6時過ぎにロープウェーに乗り込み、途中1回乗り換えて一気に3800メートルの頂上に向かう。頂上の建物の出口で運動靴にアイゼンを付けて歩き出そうとしたが、その道はプランの方に向かう縦走路のようで南壁に行けるかどうか確信が持てない。そこでまたアイゼンを外して展望台の方に行ってみると、やはり先ほどの道から途中で右に別れる道があるに違いないと思われ、戻って歩き出す。案の定、途中から道が別れてモンブラン方面に向けてミディを巻いていく道があった。しばらく行くと圧倒的なスケール(といっても200メートル程度だが)の南壁が現れてくる。
取り付きまでの踏跡はかなり古いもので、やはりここしばらくは誰も取り付いていないことがわかる。我々はレビュファールートを行く予定だったが、相棒はトポを見ながらずっと左の方まで行ってしまう。私はレビュファーの本の概念図からみてもっと右の方だと主張して戻ると、取り付きと思われるところに着くことができた。
レビュファールートはトポだと1ピッチ目はIV、2ピッチ目がVI、それからはV+が続いた跡、後半はVからIVと易しくなってくるとあり、一方、インターネットの情報ではオールフリーでVIIとある。いずれにしても我々はアブミを持参しておりオールフリーで登るつもりなど最初からなかった。取り付きまでの雪の斜面にステップをつけてからクライミングシューズに履き替えて8時に相棒が登りだすが、私がフォローするとなかなか登り甲斐があり、とてもIVとは思えない。
前夜、シャモニのスポーツ店でレビュファールートの支点の状況を確認したところ、支点が豊富でカムは不要だという情報を真に受けてしまい、中型のカム2個とナッツ1ダースを持参しただけとったが、どうもそれは昔のことのようで、現状はほとんど支点が見あたらない。
2ピッチ目のⅥはほんのワンムーブでそれほど難しくもなく、そこから先は横に走るクラック沿いにトラバースをしていくが、ナッツが良く決まり安心して登れる。
2ピッチ目の終了点に着くと後続パーティーが追いついてきたが、彼らは我々よりも右の方のルートに向かう。
3ピッチ目はオーバーハングの左の急なクラックを行くV+のピッチだ。相棒はナッツを決めるとアブミを取り出す。フリーで行くと充分10台はあると思われるところで、エイリアンを持ってこなかった我々としてはやむをえないところだ。相棒は人工にはあまり慣れていないと見えて、えらい時間をかけて登っている。その間に隣のルートに行ってしまった後続パーティーが結局はあきらめて取り付きに降りてしまった。代わって別パーティーのトップが1ピッチ目のビレー点まで登ってくる。相棒は相変わらず苦戦していて、たてつづけに2回もアブミを落とすので、思わず「何をやってるんだ!」と声を荒げてしまった。いずれも私がキャッチできたので、振り分けたザイルを降ろして回収してもらい人工を続けてなんとかこのピッチを終えたが、なんと1時間以上も時間をかけてしまいました。フォローの私はそんなに時間をかけるわけにはいかないので、A0で登り、ナッツはテンションをかけながら回収して登っていく。後続パーティーがそろそろ来るかなと思って下を見ても姿を見せないので、2ピッチ目で難渋しているのかもしれないと考えたが、後続パーティーに追い上げられないのは、精神的にはいいものだ。
4ピッチ目は左上するV+のピッチで、ここを終えれば難しいところはあらかた終えたことになると思い、気合いを入れて登り出す。最初の数歩がデリケートな登りで、その後、ナッツで人工で登って行くのだが、ここでナッツが外れて数メートル墜落。幸いケガはなかったが、ナッツはやはりこわい。下を見ると後続パーティーは取り付きまで降りてしまっている。時間的に見て他のパーティーが来ることも考えられないので、壁は我々の貸し切り状態となった。順番待ちも珍しくないというレビュファールートでこんな状態になるというのは、コンディション不良を懸念して、みな取り付くのを控えたからだろうか。
ルートは易しいランペを登っていくが、カンテ気味のところを回り込むところがバランスを要して踏ん切りがつかない。ナッツがなかなか決まらず、ボルトははるか右下で大きくランナウトしており、ここで落ちたら振られて相当な墜落距離になると思うと、どうしても体が先に進まない。エイリアンでもあれば固め取りして突っ込んだかもしれないが、あきらめてランペの下まで戻る。ここから直上するワイド気味のクラックを見上げると途中に1本の古いクサビが残置してある。手持ちのカムでも奥の方にセットすれば使えるのではないかと考え、下で使ったカムを回収しながら登るという方法でなんとか手持ちのカムだけで登り切る(もちろん人工だが)。相棒にフォローしてもらうが、出だしでいきなりショックがかかる。墜落した際に小指の靱帯を切ったみたいで、小指が曲がらなくなってしまったといってくる。相棒が降りたいと言い出すのではないかとヒヤヒヤしながらも、小指を使わずに登ってくるように指示する。このピッチはなんとか登り切ってもらったが、もうリードはできそうもないというので、私がリードを続けることにする。
レビュファールートだったら、そろそろ易しくなってくるはずだが、この直上するルートは人工はいやらしいところが多いし、フリーも非常に難しいものだ。必死で登っていたのでピッチ数がわからなくなってしまったが、相棒の話だと3ピッチあったそうだ。被り気味の深いコーナーに不安定な体勢でカムをセットするピッチでは非常に疲れたし、あるピッチでは途中でギアを使い果たしてしまい、きわどいバランスで下まで降りてビレーするなどの大奮闘で手の甲はキズだらけとなって血が吹き出し、ギアや服にも血のりがべっとりついてしまった。
ようやくテラスに着き上部を見上げると、傾斜も少し落ちて終了も間近という感じとなった。時刻は7時過ぎだが、まだ充分明るい。振り返れば憧れのグランドジョラス北壁が夕日に照らされて眼前に眺められる。ウォーカー稜にはべったりと雪がついていて、とても我々の力では登れる状態とは思えなかった。
ずっとリードを続けてきて精神的にも相当疲れたので、相棒にリードをお願いすることにした。ここからはやさしいだろうと思ったにもかかわらず、相棒はものすごい時間をかけて登っていく。9時を過ぎてあたりは暗くなってきたが、すぐに満月が現れたのでライトを着けなくても登れるほどだった。このピッチのフォローを終えると、また私がリードする。雪まじりの壁を登っていくが、途中のトラバースするところでバランスを崩してこの日2回目の墜落をしてしまう。こんなところで落ちるはずはないのだが、肉体的にも精神的にも相当消耗してしまったようだ。カムはしっかり効いていたので事なきを得たので、登り返すよりも左にトラバースする方に活路を求めることにしたが、その結果、ザイルが激しく屈曲する形となって、えらい苦労することになる。トラバースすると残置があり、そこからやや登ったところに小さい足場があったので、ピッチを切ることにしたが、ここでザイルが極端に重くなってしまった。墜落を止めてくれたカムのところで大きく屈曲していること、新品のザイルでキンクしやすいこと、二本とも同じカラビナを通していることのザイル同士の摩擦が重なって、ザイルの引き上げだけでもクタクタになってしまった。下からは相棒にガミガミ文句を言われるし、時間だけが空費していく。相棒がビレー点まで上がってきた時にはなんと零時を回っていた。
このピッチのザイルの引き上げで精魂を使い果たしたので、ここでビバークして朝を迎えることにした。ビレー点の岩と隣の岩との間がチムニーのようになっていて風も当たらないように思えたので、その雪のつまった割れ目がビバークに適しているのではないかと話すと、相棒は整地してくると言って下へおりていく。相棒が整地している間、半ば放心状態で下の一般登山路脇のテント場を見ていると、いっせいに明かりがついて、モンブラン目指して列をなして登っていくのが見える。富士山で御来光を拝むように、モンブラン頂上で日の出を迎えようとしているのだろうか。
整地をしていた相棒から声があり、足元に大きな穴があって、そこから風が吹き込んでくるのでビバークには適してないし、その穴から垂れ下がった私のザイルがどこかにひっかかってしまい回収できないと言う。相棒はビレー点でビバークするというので、交代で私が下に降りる。下でザックを降ろして中身を取り出しているときに、セーターとペットボトルが例の不思議な穴に吸い込まれて消えてしまった。朝から飲まず食わずに近い状態だったので、ショックは大きかったが、朝になってから少し頑張ればいいんだと思い直すと、少しは気楽になった。どうも疲れと脱水状態が加わって高度障害にかかったみたいで何度も吐き気をもよおすが、何も食べてないのでもどすものもないようだ。明るくなるまでの間、自分のザイルをなんとか回収しようと努めるが、ひっかかってしまたザイルはビクともしない。やむをえず、自分のザイルは放置して、残りのピッチはシングルザイルで行くことにした。
まんじりともせず立ったまま胴ぶるいを続けていたが、明けない夜はない。やがて明るくなってきたので相棒のリードで出発することになった。暗闇の中では遠くに見えたヘッドウォールも明るくなってみると、すぐ真上だ。もうルートも困難なところはない。相棒のところまで達して、多分これが最終ピッチになるだろうと期待しながら私のリードに代わる。簡単な人工を登ってフリーに移るとどんどん傾斜が落ちて絶頂が見える。右手には展望台の観光客がこちらに手を振ったり写真をとったりしている。実働17時間でなんとか完登することができた。スタイルはどうであれ今回の目的をとにかく達成できたという喜びがジワっと湧いてくる。
頂上から展望台へは途中の何カ所かの支点を利用して斜めに懸垂で降りるのが正解なのだが、なにも考えずに真っ直ぐ降りてしまったので、展望台よりもずっと下の方に降りてしまい、岩を利用しながら雪の斜面を這い上がるという無駄な努力をしてしまった。
展望台でガチャの整理を済ませてからロープウェーに乗ってシャモニに戻り、駅前のレストランで例によってビールで乾杯したが、食欲旺盛な相棒に対して私はほとんど食べられず、ただ脱水状態だったのでビールだけは3杯も飲んでしまった。早くテントに戻って横になりたかったが、相棒が帰りのバスを確認するために駅まで行くというので、しかたなくトボトボと後をついていく。結局、駅までいっても何も情報を得られず無駄足に終わった。相棒が明日の朝、駅にまた確認しに行ってくれるというので、その日はキャンプ場に戻り、バタンキューで寝てしまった。
この登はんの後にグランドジョラス北壁ウォーカーバットレスへの憧れは増すばかりで、同行してくれるパートナーを求めたりしたが、結局はガイド山行となって2度チャレンジしたが、1回目は大量の降雪のため、2回目は逆に高温によって下山路の氷河の状態悪化のために断念せざるをえなくなり、その憧れは墓場まで持っていかざるをえなくなってしまった。
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