高所登山

2020年7月29日 (水)

空白記録の復元

このブログは2009年6月から開始しているが、それ以前の記録については2004年6月までは以前契約していたプロバイダーのホームページに掲載してあったものは、ハードディスクに保存してあったのだが、それ以降の約5年間については海外登山以外については記録をつけてなかった。だが、よく考えてみると、自分の拙いアルパインの記録の中ではまあまあの記録を残していたのもこの時期であった。パミール登山中止、コロナ、長雨といった条件が重なった今、記録しておかなければ、忘れてしまいそうな気がしたので、錆びつきかけた記憶を呼び起こして年月とアルパインの記録の概要だけは以下のように書くことができた(一部はトレランを含む)。記録の詳細についてはおいおい書き出して、機会があれば発表していきたい。 

 

200410 瑞牆 ベルジュエール(ガイド山行) 

200504 瑞牆 調和の幻想 

200506 丹沢ボッカ駅伝 5位入賞 1区3区ダブルエントリー 

200508 瑞牆ベルジュエール 核心である大フレークは越えるも次のチムニーで敗退 

200508 ボリビア ワイナポトシ登頂

200510 錫杖二ルンゼ 

200510 大台ケ原 サマーコレクション登攀及び登頂 

200510 二子中央稜 上部の簡単な所で先行パーティーが墜落して救出

200512 涸沢岳西尾根 滝谷を狙ったが、涸沢岳登頂のみ、下山時に雪洞を見失い荷物を残置

200602 小同心クラック

200603 権現岳東稜

200605 屏風雲稜  前穂までの縦走はならず

200606 涸沢岳西尾根(前年末に残置した荷物回収)、錫杖敗退(増水で渡渉不可)

200607 富士山 高所訓練及び登山競争 

200608 シャモニ 赤い針峰群、ミディ南壁

200610 日本山岳耐久レース  自己ベスト 14時間23秒

200610 明星南壁  マニフェストの上部城塞で敗退、その翌日のフリースピリッツは完登

200704 丸山東壁右岩稜

200705 白馬主稜 強風の中での完登 

200707 グランドジョラス北壁ウォーカー稜を狙うも大量の降雪直後のため、取付き手前で敗退

200708 南アルプス シレイ沢(単独) 

200712 剣岳早月尾根 豪雪のため、早月小屋で敗退、手の指を第二度の凍傷に見舞われるも切断は回避

200802 阿弥陀岳 広河原沢右俣

200803 一ノ倉沢 一ノ沢二ノ沢中間リッジ~東尾根

200805 富士山での高所訓練(数回)

200806 富士山での高所訓練(数回) 

200807 ガッシャーブルムⅡ無酸素登頂 

200808 妙義 谷急沢(単独)

200809 北岳バットレス ピラミッドフェース~4尾根主稜

200811 富士山 頂上で吹雪に遭いまたもや同じ指に凍傷を負う

200903 鹿島槍北壁 天狗尾根~正面尾根(悪天のため、天狗のコルで敗退) 

200905 唐沢岳幕岩 S字状ルンゼ(流水のため敗退

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2019年5月 6日 (月)

帰途

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チュルー登山も終わり後は帰るだけだが、日本帰国となると気が遠くなるほど先のことである。先ずはベースキャンプまでの帰還である。前回は高山病でフラフラの中での下降であっただけに、絶対に事故を起こしてはならないと慎重に下降したが、今回はかなりフィックスが張られているし、ガイドも同行しているので、それほどの緊張感はない。ベースキャンプへの帰着時間いかんによっては、マナンまで一気に降りたいと思ったが、時間的にきつくなってきたので、今日はベースキャンプに止まり明日マナンに降りることとして、ノンビリとベースキャンプで過ごした。

 

翌朝にガイドの方から、「マナンまで降りてしまうと、翌日のティリッツォ湖までの行程が長くなりすぎるので、マナンには寄らずに近道してティリッツォ湖に向かう道に向かいたい」との話があった。ただ自分としては、電波が通じるマナンに立ち寄って、家内に無事を伝えるとともに、仕事上の急ぎのメールの確認もしたかったし、あわせて大きく変わったと言われる現在のマナンの様子も見てみたかったので、コックとポーターは近道を行き、ガイドが私に付き合ってマナン経由で行くことにした。

 

マナンでの電波状態は期待していたほどは良くなく最低限のことしか出来ず、一方、かつてのマナンは草原の中に数軒の家があるだけだったものが、現在のマナンは多くの家が建ち並んではいるものの、それは近隣の村よりも多少規模が大きい程度で、思っていた「街」に変貌しているわけではなかった。コックたちが多分先行しているだろう今夜のキャンプ地までは、標高差で500メートル近くもあり、短時間なからも今回の行程で一番疲労を感じるものであった。ポーターたちは少し前に着いたようであるが、私のテントがすでに張られていて中に入れるのは助かった。と言うのは今回初めて雪模様となり、テント設営完了まで待たされるのは辛いものがあるからである。明日は雪中歩行かと懸念したが、夜中にテントから外に出て見ると満天の星空でとんだ杞憂であった。

 

翌朝は予想通り雲ひとつない好天であった。南側にはアンナプルナⅡ、ガンガプルナ、ティリッツォピークと巨峰が屏風のように連なり壮観である。今日の登りが今回最後となるはずだが、標高差は900メートルもあり、なかなかのアルバイトである。午前中は大斜面の下を延々とトラバースしていくので、上部からの落石には気を遣うものの、体力的にはさほどきつくない。午後からは富士山の斜面を登るやうな感じの登りでグイグイと高度を上げていく。背後にはチュルー連山の峰々が眺められた。

 

たくさんのロッジがあってトレッカーで賑わうトロンパス越えと異なり、ティリッツォ・レイク越えは山頂から離れた所にしかロッジがないので、トレッカーも少ないのだろうと思っていたら、我々が湖近くまで登って下を見ると、多数の人が登って来るようだ。ロッジをベースにレークをピストンしようとするのだろう。空身で登っている人が多いので、たちまち我々に追い付き追い越して行く。彼らのお目当てはレイクの東端にある標識のようで、そこまで行くと引き返していく。ただ残念ながら、湖面は雪の下で神秘的な眺めは得られない。おまけに雪まで降りだして対岸の山も隠れ出した。雪はますます激しくなってきたが、我々のキャンプ予定地はもう少し前方なので、そのまま進んでいたところ、雪のために前の人の踏み跡がわからなくなってしまった。最後尾は私とコックが歩いていたが、コックが前に出てあちこち捜して他のメンバーと合流でき、最悪の事態になることは避けられた。その晩は五千メートルの平原の岩陰でテントを張って過ごすという快適とは言い難いキャンプ生活である。

 

その晩は暴風雪にもかかわらずコックは料理を作ってくれたが、スタッフたちのテントは屋根型のため、煽られたり物が吹き飛ばされたりとたいへんだったようだ。幸い私が利用させてもらったテントはドーム型のため、強風の際は押し倒されたポールが顔のすぐ前まで迫ることはあったが、まあ快眠することはできた。

 

翌朝には天気もまあまあ回復して行動は可能になったが、湖のまわりを西側まで進んでからジョムソンを目指して下降するのかと思ったら、300メートル以上の高みを目指して
新雪をかき分けて登らされる羽目に。やがてチベット仏教の経文が書かれた旗が飾ってある丘の上まで登ると、ガイドから「これで登りは終わりだ」と言われてホッとしたのも束の間、その後は雪の尾根をいくつも越えていくために神経が疲れる雪壁の横断が続き、一向に下降が始まらない。午後になって極めつけともいうべきは高さ100メートルに達する急な雪渓の下降で、そこを下りきって初めて「トレッキングコース」がようやく始まる(といってもティリッツォ湖からジョムソンまではトレッキングしか経験のない人には無理だが)。そこからはトレッキング気分だと言っても、ジョムソンまでは水平距離にして約15キロ、垂直距離で2千メートルもあってかなりのアルバイトである。

 

最初は2~3グループに分かれて行動し、休憩点ですれ違っていたが、私とガイド(多分私に付き合ってくれているんだろうけど)は次第に遅れて休憩点でも他の連中とはあうことがなくなってしまった、日没を過ぎて暗くなり始めた頃はジョムソンまではまだ12キロほどあったが、ゴールが山の中にあるわけでもあるまいし、全然焦りは感じていなかった。私の場合は水が切れていたのが問題と言えば問題だが、数時間のどの渇きを我慢すれば済むだけの話である。

 

ジョムソンまで3キロの地点まで達し、もうゴールまでは時間の問題だと思った途端に難題に出くわした。道路が工事のために通行止めになっているではないか。周辺に迂回道路の情報を調べてもらうが何もないという。途中で分岐する道はなかったように思うし、通行止めの手前で反対側からの道と合流していたので、一応その道も少し進んでみたが、反対方向にさに進むばかりだし地図にも載っていない道だったので、諦めて元にもどる。そこで気が付いたのは、先行した連中は今はジョムソン手前の町のホテルにいるそうだが、我々がいる場所をどうやって突破したのかを聞き出すことだった。幸い、ガイドとコックの携帯を通じ会うようだ。私が直接コックに質問すればよいのだが、片言の日本語しか話さないコックとの間には会話が成立しないので、これまた怪しげな日本語を話すガイドから聞き出してもらうしか方法がない。靴の上から掻くようなもどかしさで知り得たことは、何らかの方法で、ここを突破したということである。となれば、さきほどの反対方向に向かう道以外には、この袋小路から抜け出る術はないということで、さらに先の方まで進んで行くと、果たして道は高度を下げて半周して、元の道と同じ方向に向かっていて、この道が通行止めの迂回路であることは明らかだった。結局そのまま進むと、迎えに来たポーターと合流でき、ジョムソンの手前の町のホテルに我々も泊まることになった。

 

翌日は30分ほど歩いてジョムソンに到着。今回歩いた中では格段に大きな町である(飛行場まである!)。とあるホテルの中庭にテントを張らせてもらって明朝の出発に備えることになったわけだが、時間はまだ午前中でもったいないので、ジョムソンの町を観光することにした。その際に私が戻る前にポーター二人が先に帰ってしまうということでチップをわたす。歯が欠けるようにスタッフが減っていくことには一抹の寂しさも感じてしまう。

 

ランチはコックのものを待っていると遅くなるのでキャンセルして、レストランでヤクステーキとビールで済ませる。ヤクはネパールやチベットの高地に住む牛で、肉は固くて旨くはないのだが、こちらにくるとついつい注文してしまう。食後は町を散策しても小一時間もあれば終わってしまうのだが、郊外に湖があるらしいので行ってみる。片道一時間くらいの半日観光にはもってこいの所である。湖というよりも池といった方がいい規模だが、遠くのヒマラヤの連山とともに眺められる湖面はポカラの観光名所であるペワタールとも似ていて結構人が訪れていた。

 

その晩は最後の晩餐ということで、私もスタッフと一緒に食事をとる。きついリンゴ酒にほろ酔い気分で町に出て水を買ってからテントに戻るためにホテルの中を通ると、今日はやけに日本人が多い。一組目は団体の観光客のようだったので敬遠したが、二人グループに話しかけてみると、我々が通ってきたトロンパスの隣にあるトロンヒークからの帰りの日本人ガイドと客で(登頂はならなかったようだが)、そのガイドは私が若いころに初めてヒマラヤ登山をする機会を作ってくれた山岳団体の現責任者の人だった。ヒマラヤの話や共通の知り合いの話で大いに盛り上がったが、山の世界は狭いものである。

 

翌日は1日がかりでポカラに戻るために早朝にジョムソンを出発する。行きはポカラ先はチャーター車だったのに帰りはバスである。一応はツーリストバスとは書いてあるが、行きにカトマンズからポカラまでに乗ったバスとくらべると随分とショボいバスである。ポーターも乗るということでランクを下げたのだろうか?

 

行きの際には氷雪をまとった峰々の勇姿に感動し、ガードレールもない断崖絶壁の連続に恐れをなしたものだが、帰りは本当に無感動、無神経になってしまった。ただ早くポカラに戻りたいの一心であった。

 

ポカラでは久しぶりに日本料理でも食べてみたいなと思ったが、場所がわからず中華料理店に入る。まぼう豆腐と餃子を注文するが、味も辛さも連日のネパール料理と大差ない。明日こそはカトマンズであっさりした和食を食べたいものである。

 

翌日のポカラからカトマンズまでのバスは昨日と同じツーリストバスだが、ずっと豪華で乗客もほとんどが欧米人である。午前中に立ち寄った休憩所にも欧米人向けの軽食が販売されていたので、今日のランチはネパール料理から解放されるかなと思ったら、バスが立ち寄ったのはりネパール料理の店だった。これが最後のネパール料理か?

 

ポカラからカトマンズまでは200キロちょっとの距離だから、高速道路ならば数時間というところだが、道路事情が悪いため優に半日以上はかかってしまう。一方ら同区間を飛行機ならば25分ほどの時間で着くし料金も10倍程度なので、裕福でせっかちな日本人がバスに乗ろうとしない事情もわかるが、ノンビリと地元の人の生活に触れながら行くバスの旅もよいものである、そうこうしているうちにバスは最後の峠を越えてカトマンズ盆地に入り、今回の旅もフィナーレを迎えることになった。

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登山活動

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ベースキャンプ出発の日はまずまずの天気となった。頂上を目指すのはガイドと私の二人だが、高所キャンプまではコックとポーターも付いてきてくれて私の荷物を持ってくれるという。空身登山は自分のプライドが許さないが、それが今の実力と悟り大名登山をさせてもらうことにする(三浦雄一郎さんみたいな気分だ)。

 

前回は核心部の20メートルくらいにロープを張っただけだったが、今回は前日に100メートル近くも張ってくれてあったので、電車ゴッコのお客さんのような気分だ。おまけに稜線に上がると、前日のうちにテントまで張ってくれてあり、至れり尽くせりである。本当はもっと山頂に近い方にテントを設営してもらいたかったのだが、テントを移動してくれとは言いづらく、この地点からでも皆は山頂往復しているのだろうからと思い直したが、これが思わぬ失敗に繋がってしまった。

 

ハイキャンプの高度はベースキャンプやりも約700メートル高い約5500メートルで頂上までは約900の標高差である。前回はもう少し先にテントを設営したが、前回かかった高山病のようなアクシデントでもない限り、1日で十分に往復できる距離である。朝出発時の脈拍は68回/分だったのが、80までに増加はしているものの正常な範囲内ではあるし、特に高山病の自覚症状らしきものはない。強いて言えば、頭が心もちボワーッとしているかなということと、用足しの回数が減っているくらいである。できるだけ水分補給に努めることにしよう。

 

ポーターがベースキャンプに戻ってもコックは戻らず夕食を作ってくれた。ハイキャンプではフリーズドライ食品と相場が決まっているのに、ベースキャンプ並みの食事が味わえるとは予想外だった。コックは寝袋も持参しているようなので、明日一緒に登頂するのかもしれない。

 

翌朝は天気も良く39年前のような高山病の症状もなく、登頂できない理由を探す方が難しかった(その時はそう思ってた)。出発してしばらくは小さいアップダウンはあるものの、概ね平坦な道が続いていく。途中何ヵ所かクレバスがあるが、三人でロープて結びあっているので底まで落ちる心配はないし、クレバスを避けるために迂回しながら進んで行くので、
体力的には助かる。だが後半戦に入って頂上に向かっての雪壁まじりの急な登りとなってくると、何度も休みを入れないと登り続けられなくなってくる。

 

ちょっとした雪壁を登りきると、稜線に出て初めて山頂が間近に見えてくる。ここからだと二時間余りらしいが、時間は4時を回っており、山頂到達は日没前後となるだらう。それから、長い道程を無事に戻ってこれるかどうかは自信がなかった。そこでガイドに登頂断念を伝え、写真を撮ってから下降を開始する。明るいうちは先ほど登ってきた道を降りていることはわかったのだが、暗闇に包まれてしまうと踏み跡を伝っていくガイドの背中を追うだけで精一杯で、おまけに平坦地まで降りてしまってからは、高度によって現在地を確認することもできず、精神的な焦りも加わった疲労は極限に達したが、やがて高度はハイキャンプより、やや高い高度まで下がったのでハイキャンプまではもう少しの辛抱だと思ったその時に、ガイドが雪の斜面にスノーバーを打ち込んで、「ここから30メートルほど斜面を降りると、ハイキャンプに繋がる近道がある」という。半信半疑だったが下に降りて道とは云えない緩い斜面を横切っていくら行ってもハイキャンプに着かない。最後はスリップしそうな不安定な道を通ってハイキャンプにたどり着いたが、時間は2時前で全然近道ではなかった。何故そんな悪い道を近道だと偽って通らせたのか理由を尋ねても答えない。私の怒りも爆発して、明確な回答が得られなければ、エージェントの社長に報告するとまで思ったが、しばらくして気を取り直し、騒ぎを大きくして人間関係を悪くするのは得策ではないので、私のわからない理由については詮索しないことにした。

 

今回はハイキャンプをもう少し前進させるか、出発時間を数時間早めれば登頂できたのではないかと思うが、(6年振り、ネパール初の)六千メートルラインを越えるという最低の
目標は達成できたのでよしとしましょう。また39年ぶりのリベンジという点も、完全リベンジこそはできなかったが、前回進めなかったハイキャンプから先の道も頂上近くまで進むことができ、前回は高山病にかからなければ間違いなく登頂できたことを確認したことが収穫であると云えよう。

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トロンパス

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今朝は昨日の遅れを取り戻すため暗いうちから出発する予定だったが、明るくなってもモーニングコーヒーの連絡がないので、どうしたのかと思ったら予定時間を大幅に遅れてガイドがやって来て言うには「ポーターの1人が高山病にかかって吐いてしまったので、出発が遅れている」とのこと。「ガ~ン」である。そう言えば、39年前に同じ山に挑戦しながら、ポーターが原因で登頂できなかった悪夢(キャラバンの途中で祭りのためにポーターが集まらす、結果的に隊員に負荷がかかったことが、ハイキャンプでの高山病発症に繋がって登頂できなかった)が蘇ってきた。高山病の治療は低い場所に下ろすことが第一であり、今日はここから更に7百メートルの標高差のある峠(トロンパス)を越えることでもあり、上部で症状が悪化して1人では降りられなくなると一大事なので、そのポーターには下山してもらい、彼が運ぶ荷物は私も含めた7人で分担してはどうかと提案したが、ガイドは「本人が行きたがっている」の一点ばりなので、しばらくは荷物を担いでもらって様子を見ることにした。

 

昨日は運動靴で通したが、スリップ事故と思われる怪我人と多数すれ違ったので、慎重を期して登山靴に履き替える。朝のうちは雪が氷化して滑りやすくなっていたので、登山靴にしたのは正解だった。件のポーター君はスパイク付きの運動靴を履いており、他のポーターよりも遅れがちだったか、大幅な遅れにはならなかったので、なんとかなりそうだ。

 

5412メートルのトロンパスは39年前にチュルー登山の帰りに今回とは反対にチュルーベースキャンプを朝出て夕方にはムクチナートに着いているので、ムクチナートからスタートしても倍の二日間で行けると思ったのが甘かった。ポーター同行だとペースが落ちることを忘れていたことと、加齢により高所での行動力が低下していることを等閑視していたことである(低酸素室は万能ではないのだ!)。峠が近づくにつれて、歩行速度が目に見えて減退していくのは嫌になってくる。それでも12時過ぎには着いたので、自分1人なら今日中にチュルーのベースキャンプに着くことは可能であったが、最後のポーター(例の高山病になったポーター)が着いたのは2時過ぎになったので、今日中にベースキャンプに着くことは不可能になった。まあ後は下り一方だから、なんとかポーターの職務を果たすことができるだろう。峠には二時間近くいたので、それなりの高所順化にはなったろうし、記念写真をとったりもした。

 

下りだしてしばらくすると下から呼び掛ける声がする。近づいてみると、下から登ってきてムクチナートまで行こうとしていたパーティーの1人が高山病にかかって歩けなくなってしまったということで、助けを求めてきたものだった。下に下ろすことが先決なので、ガイドが協力して、そのパーティーの人と一緒に両側から抱き抱えて下山させたが、うちのポーターがこのようにならなくて良かったと思った。遭難救助の手助けに時間をとられたこともあり、ベースキャンプの登り口までは達せられなかったので、明日1日はベースキャンプまでとなり、丸1日行程が遅れることになるが、予備日もあるので、なんとかなるだろう。

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ムクチナートから上部

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ムクチナートのロッジの前に張られたテントから外に顔を出すと、ダウラギリの連山が1峰を筆頭にずらりと並んだ豪勢なながめであった。今朝はモーニングティーから始まって洗面用のお湯のサービスと続いて朝食につながるキャラバンのお決まりのスケジュールが始まる。夜中にポーター二人が遅れて到着したので、我がパーティーは客1人に対して、ガイド及びコックが各1人、ポーターが5人の総勢8人となった。自分1人のために、こんなに大勢の人間が付き従うのは日本では考えられないが、ヒマラヤ登山では普通のことである。ただ生活のためとは言え、外国人の遊びに尽くしてくれる人がいるからヒマラヤ登山も成り立つわけで感謝しなければならない。

 

出発してしばらくは大勢の巡礼客に混じって寺院の間を巡って行く。ここムクチナートはチベット仏教とヒンズー教両方の聖地なので、前者の信者はマニ車を回し、後者の信者は沐浴をするなど大にぎわいであった。寺院を抜けるとすぐにトロンパスを目指しての標高差1800メートルの急な登りが始まる。荷物の重いポーターは遅れぎみになり、ランチを作る予定のロッジでポーターの到着を待つ(ポーターが到着しないと食材が手に入らない)。昼食は野菜ラーメンとチャーハンで普段の食事量の倍近くあったが、何故か完食してしまった。食後はしばらくは動くのも億劫で、スタッフが食事の後片付けで忙しい間、休せてもらった。

 

食後の行動も急な登りが続くが、ポーターたちのペースは遅くて、トロンパスは越えられず、だいぶ下の方までしか行くことはできなかった。日程には余裕があるので心配はしていないが、明日にはベースキャンプに入りたいものだ。それよりも気になったのは降りてくる人の何人かが足を引きずっていることであった。どこで怪我をしたのかと思ったら、今日のキャンプ地まで来てわかったのだが、キャンプ地の上は傾斜のある雪の斜面となっていたので、そこでスリップして怪我をしたのだろう。私も今日は運動靴で登ったが、明日は用心して登山靴を履くことにしよう。

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2018年5月31日 (木)

ある遭難

このブログは他人に見てもらうというよりも、自分が後で読むための記録としての意味が多いので、アクセス数などはあまり気にしてないのだが、たまたま管理画面を見ていたら先週始めにアクセス数が急増しているので何でだろーと考えたら原因が思い当たった。「登山家」栗城氏がエベレスト遭難したからに違いない。というのは彼が初めてエベレストに行った後に「インチキ登山家」なる一文をブログに載せたことがあり、その後もよくアクセスされているらしいからである。
そのブログの趣旨は、彼は七大陸最高峰単独無酸素登頂を謳っているが、エベレスト以外では酸素を使用した登頂など聞いたことはないし、撮影隊を連れた登山では万一の場合には救出してもらえる可能性があるわけだから、真の意味での単独登山ではないというものである。この意見は今ても正しいものと考えてるし、ヒマラヤ登山をわかっている人からは共感を得られるものだと思うが、ひとつ想定外のことがあった。それは彼が多くの人から勇気をもらったとして称賛を受けているということであった。称賛している人のほとんどはヒマラヤ登山というものを知らない人だと思われるが、だからと言って無知な人間を騙してとケシカランは思わない。どのような方法を使ったにせよ他人に勇気を与えられたということは素晴らしいことではあると思う。
そのブログの最後に「彼の実力では、エベレストの単独無酸素は無理」と書いたが、その後の経過はまさにその通りになってしまった。凍傷で手足の指のほとんどを失い、さすがにエベレストは断念したのかと思ったら、南西壁という彼の実力からすれば、自殺行為とも思える暴挙に出るとは予想できないことであった。支援者からの期待に押し流されてしまったのであろうか
とまれ、今となっては彼の冥福を祈るばかりである。

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2017年12月 1日 (金)

登頂ならず

3時出発とのことであったが、零時前に目が覚めてしまったので、カメラの低温によるバッテリー低下の対策を試みていたら、なにかの手違いでデータが全部飛んでしまった。タブレットでも結構撮っていたので写真なしという最悪の事態は免れることができたが、どうも朝から幸先の悪いスタートとなった。

 

3時きっかりにガイドと一緒に登り出すが、どうも調子が出ず一時間の登高高度が200メートルに達しない。一昨日の高所順応トレーニングをもう少し高い所でやっていれば多少違っていたのだろうが、そんなことを言っても始まらない。今のスピードでは1500メートルの標高差を1日で往復するのはとても無理だと薄々感じ始めるが、とにかく頑張って登るしかない。

 

登りだして5時間たって、ようやく頂上直下の急な雪の斜面に達する。同宿していた人からデインジャラスなアイスバーンだとは聞いていたが、まるで冬の富士山のような山で、私が今までに登ったヒマラヤ、アンデス、アルプスの中で、こんなに危険な所は初めてだ。

 

ガイドとはコンテ(ローブで結びあいながら同時に行動すること)で登るが、こんな硬い氷の斜面をコンテで本当に止められるのか疑問を感じるものの、富士山のように突風があるわけではないので、アイゼン技術さへしっかりしていれば、まずは滑落はしないものだ。

 

100メートルほど登ったところでガイドが降りようと言い出す。頂上が目と鼻の距離ならば頑張る気も起きるが、もう少し頑張ったところで時間切れで戻らざるをえないことは明らかなので、同意して下山することになった。下りも結構たいへんだったが、2時には小屋に戻り、そこから車で2時間ほどでトラチチュカの宿舎に帰った。夕食まではしばらく時間があったのでトラチチュカの町を散策するが、片田舎だと思っていたのは大違いでなかなかの町並みであった。

 

今回登頂できなかったのは、直接的にはアイスバーンのためだが、本当の理由は頂上アタック時の標高差が1500メートルもあったためだろう。私くらいの年齢になると1000メートル以内に抑えないと無理なのかもしれない。
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ベースキャンプの小屋まで

当初の予定よりも1日遅れでベースキャンプに向けて出発できることとなった。今日もいい天気だ。明日の午前中一杯は天気がもってくれることを祈る。

 

今日は小屋まで上がるだけだから急ぐことはないのだが、なかなか姿を現さないガイドにイライラする。同宿していたパラグライダーの人も先に降りてしまう。これで宿に泊まっている人は私以外にはいなくなる。

 

11時に宿舎を出発し、途中でガイドをピックアップする。初日に宿舎まで連れてきてくれた人はガイドではなく単なるドライバーだった。本物のガイドは私より英語が堪能なので意思疏通には問題はないだろう。その先でさらにもう一人乗り込んでくるので何かと思ったらコックであった。どうも今回も大名登山になりそうである。

 

13時に4200メートルのベースキャンプとなる小屋に到着し、コックの料理でランチを食べるが、食欲も旺盛であり、脈拍も67/分とほぼ正常の範囲内である。唯一問題があるとしたら、カメラが低温のためローバッテリとなり、充電もできないことである。先日の富士山でも同じ現象が生じたが、どうも低温に弱いカメラのようである。とりあえずはカメラは抱いたま寝袋に入れて充電し、行動中はバッテリーは抜いて胸ボケットに入れて体温で暖めておこう。まあタブレットの方のカメラ機能には今のところ問題はないようなので、登頂写真なしという最悪の事態はまぬがれそうだが・・・

 

今はまだ午後3時頃で、普段は寝る時間ではないが、深夜に頂上を目指して出発するので、もうしばらくしたら仮眠をとることになるだろう。
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2017年11月29日 (水)

高所順応ハイキング

今日はベースキャンプとなる4200メートルにある小屋まで行くのかと思ったら、そこよりもやや低い4000メートル弱の高さまで高所順応を兼ねたハイキングを行って、また昨夜泊まった宿舎に戻ってくるとのことである。富士山くらいの高度は今までの経験の蓄積でほぼ順応ができているので、高度の影響が出やすい睡眠時以外にはわざわざ出かけてもあまり効果はないのだが、郷に入っては郷に従えで大人しく従うことにした。好天続きで予備日も必要なさそうだし、早く下山したからと行って特別行きたいところがあるわけでもないので、田舎で1日多く過ごすのも悪くはないか。そんなわけで朝食も9時と遅めの時間となった。朝食を待っていると一人の若いクライマーが入ってくる。こんな時間に何かと思ったら、今朝登頂してここまでパラグライダーで一気に飛び降りてきたそうである。凄いヤツがいるものだ。

 

朝食後には小屋まで荷物を回収に行くさきほどのクライマーと一緒に車に乗り、途中で待っていた地元の案内人の所で私だけが下車して、案内人に連れられて標高差600メートルほどを登り、標高3900メートル弱のオリザバが正面に見える所まで登った。高度の自覚症状は全く見られなかったので順応は取りあえずは問題ないようだ。

 

下りは別コースから降りて車の通れる道(と言ってもかなりのダートだが)に出たが、迎えの車は来ていないようだ。待ち時間の最初は汗をかいて暑かったので日陰に入っていたが、そのうちに汗が引いて寒くなってきたので、日向に移動する。

 

かなり待ってから車が来たが、下からではなく上からだったので妙だなと思ったら、とうに下に降りてしまったと思っていた朝のクライマーも乗っているではないか。こんな時間まで、上で何をしていたのか聞きたかったが、語彙が不足していたので、聞かずじまいであった。

 

その晩は若いクライマーと一緒の食事だったが、見知らぬ人との会話は日本語でも疲れるのに英語ではなおさらだった。
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2017年10月22日 (日)

高所登山靴ゲット

長らく使用していたプラブーツは今年の初めに壊れてしまい、もう一つの3シーズン用の靴も今月の裏剣山行でソールが剥がれてしまったので、来月に予定しているメキシコのオリサバ峰(5636メートル)に履いていく靴がなくなってしまった。履きならしも含めると時間の余裕がなく至急に代替の靴を求めなくてはならなくなり、今日、新しい靴を買い求めてきた。
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スポルティバのG2という高所登山靴である。6~7000メートル級の登山用として開発されたものだが、ガッシャーブルムⅡ峰(8035メートル)でも充分に使用可能であることが実証されて、その略称であるG2の名を付して登場したものである。今回のメキシコ登山ではオーバースペックではあるが、まだしばらくは高所登山は続けるつもりなので、この靴ならば買ってから後悔することはないだろう。それに自分が登った唯一の8000メートル峰であるガッシャーブルムⅡ峰の名が付されていることも正直言って心惹かれるものがあった。

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