7月31日
ABCに戻って一夜明けて、体の調子はだいぶ戻ったようである。ガイドの情報では二日間は悪天候が続くとのことであったが、今日もいい天気である。ガイドの奨めで医者の健康チェックを受けることになったが、酸素飽和度、脈拍、血圧、聴診のいずれも異常はなかったようである。
二日間の休養ということで時間を持て余してしまうので、タブレットに転送してきた「アラビアのロレンス」を見た。4時間以上に及ぶ長編だが時間潰しにはよかった。タブレットの小さい画面では、字幕が読みづらいところもあったが、なんとか話の筋は理解できた。ビデオもkindle も全部見てしまったし、明日は一日どうやって過ごそうか
8月1日
午前中は前に登ったパノラマピークの途中まで登ってレーニン峰の写真をタブレットでなくカメラで撮ろうと思ったのだが、朝のうちは良かった天気も雲が出てきてレーニン峰は隠れてしまったため諦めてBCの方に向かって歩き出した。というのは、BCの方に近づけばDOCOMOと提携している地元の電話会社の回線に繋がるかもしれないと思ったのだが、少々歩いたくらいでは全く繋がる気配かないので諦めて引き返す。
昼食後にガイドにレーニン峰は体力的に諦めて手前のラズデルナヤ峰に変更することを伝える。ガイドも「賢明な判断だ。明日も天気が悪そうだけど、6千メートル峰ならば日程的にも充分余裕がある」といったが、そうであってくれるといいのだけれど
テントに戻ってタブレットを見てたら、kindleからダウンロードしたうち、司馬遼太郎の街道シリーズで読みかけのものがあるのを発見し、これでしばらく暇つぶしはできそうだ。
夕方から雪が降りだし、夜中にはずいぶんと降ったようだ。日程的には余裕が乏しくなり、レーニン峰は当初どおり実行するつもりだったとしても日程的にも厳しくなってしまったかもしれない。
8月2日
朝方には雪も止んだので、このまま天気が良くなってくれるのかと思いきや、しばらくしてまた降り出したので、何時になったら行動が再開できるのか全く読めない状態となった。まあ自然相手のことだから、どうしようもないのだが
午後になってガイドから「明朝2時起きで出発」との知らせがあり、ようやく出発が決定した。前回の教訓から朝食はしっかりと食べ、行動食はいつでも取り出せる所に携行し、装備は極力軽くすることに留意した。
8月3日
前回同様に2時起床3時出発となったが、前回の反省を踏まえて朝食はしっかりと食べていくことにした。行程も前回よりはスムーズに進み、難場の梯子のある所も前回は明るくなってから通過したが、今回は暗いうちに通過でき、キャンプ1が見渡せる小高い所には出発してから七時間半で到達できたので、キャンプ1までの標準時間とされる6~8時間内でぎりぎり到達できるかと思ったものの、緩いアップダウンが続くだけなのに体が全く自由が利かず、キャンプ1に到達するのに1時間半もかかってしまい、ABCからの行程時間は9時間となってしまった。
出発前にネットで読んだ72歳の人のレーニン登頂記でも高所順化がうまくいかずに私と同じくラズデルナヤ峰に変更したのだが、キャンプ1まで9時間かかってしまい、ラズデルナヤ峰は5800メートルまでで敗退したという記録があったことを思い出し、いやな予感がした。
8月4日
7時半にキャンプ1を出発したが、その際にガイドより時間の条件をつけられる。すなわち、ラズデルナヤ峰直下のキャンプ2に2時までに到達しなければ、その時点で引き返すというものであった。その時はそれほど厳しい条件とは思わなかったのだが・・・
キャンプ場の裏手から稜線を目指す。いきなりの急登に加え、前夜降った雪が登路を隠して歩きにくい。稜線に出ると傾斜も落ち道幅も広くなって、歩きやすいはずなのだが一向にベースが上がらない。ガイドから「そのペースでは制限時間内には登頂できない」といわれるが、「とにかく2時までは歩く」と答える。ただ歩幅を広げて歩き、ストックに体重をかけるようにして少しでもスピードがでるようにして歩いても、キャンプ2に泊まるために大きな荷物を背負った人に抜かれてしまう。自分の高所順応力が落ちていることは明らかである。
頂上目指しての最後の急登が始まるが、この時点では制限時間まで3時間あり登頂を確信していた。だが、いくら登っても頂上は近づかず時間ばかりが過ぎていき、ついに非情のガイドの声が「2時になったので下山!」。到達高度は丁度六千メートル、頂上までは標高差145メートルであった。
下山は気持ちの張りを失ったこともあり、フラフラの状態でキャンプに戻る。その晩は頭が冴えてなかなか寝付かれなかった。今回、高所順応力が低下したのは、六千メートル以上の高所登山を目指すときは利用している三浦雄一郎さんの低酸素室がコロナのために休業で利用できず、5~6千メートルの高所順応を国内で事前に終えておけなかったことが敗因であると考えたいが、年齢的に六千メートルを越える登山はもう無理なのてはないかという気持ちも拭いきれないものである。
8月5日
今日は通い慣れたはずのABCまでの下山だけであるが、ほとんど下り一方にも関わらず苦しい歩きの連続であった。滞在日数の長さにも関わらず最後まで5千メートル台には順化しきれなかったようである。
キャンプ1を見渡せる小高い地点は絶好の撮影ポイントであるにも関わらず、写真を撮る気にもならずにシャッターチャンスを逃してしまった。最後の小川を渡りきってABCに帰り着いた時は、登頂した訳でもないのにスタッフ総出で歓迎してくれたが、手を振るのがやっとであった。
8月6日
本日はABCで一日休養するのも手であったが、ベースキャンプまで下れば電話が通じるので、心配しているであろう妻(それほどでもなかったりして)に無事を伝えたくて、ベースキャンプまで下りることにした。
そのおかげかどうかは知らないが、下っている途中で10年前のカンテングリ登山の国際チームで苦楽を共にしたアイルランド人とバッタリ出会う。国内の登山でも知り合いに会うことは珍しいのに、海外で出会うとはなんという奇遇なのだろう。
ベースキャンプ近くまで降りてくると富士山と同高度になるので
元気が出てくる。行きは体力温存のために登り口手前まで車に乗っていたので、そこまで下りると、カイドは車に乗ることを奨めたが、最後まで歩き通しガイドに遅れを取ることもなかった(この歩きが山の上でもできれば良かったんだけど)
ベースキャンプに着くとすぐに妻に電話をかけたが、何度かけても電話にでなかったのて、留守電に無事下山のメッセージだけは残したが、果たして聞いてくれたことやら。その後キャンプ場をうろうろしていたら、ABCまでの荷物の運搬をしてくれる馬子に呼び止められる。彼は前から私のソーラーバッテリーに興味深々だったので、それが欲しいらしい。発電量が少なくお荷物と感じていたので、「使いものにならない」と断った上でプレゼントした。すると、馬子は奥さんにキルギスの民族帽をとって来させる。多分、土産店相手の奥さんの内職の品なのだろうが、この取引果たしてどちらが得をしたのだろうか
8月7日
二日間の完全休養をベースキャンプで過ごすことになる。ここまで下りてくればもう少し暖かくなるのではと期待したが、朝晩の寒さは上と変わらない。まあ富士山と同高度なのだからやむを得ないことではあるのだが。かといって早めにオシュに下りても暑いだけで出かけるところがあるわけではないし、当初のベースキャンプ出発日までここにいる限りは、出費は特にはないのだ。
朝明るくなってからテントの周りをうろついていたら、昨日の馬子夫婦の子供が家(と言っても倉庫のようなものだが)から出てきて近くで用を足している。キャンプ場のトイレはずっと遠くにあるのだ。こんな辺鄙な所でどうやって子供を育てるのかと思ったが、馬方の仕事があるのは夏の限られた期間だけなので、他は麓で別の仕事をしているのだろう。
今日は日本の早朝に女子マラソンがあるはずなので、他の競技はともかくとして結果が気になっていたが、キャンプ場の食堂で放映しているオリンピック放送は自転車、男子レスリング、新体操といった日本ではまず放映されない競技ばかりで、マラソンの結果は分からず仕舞いであった。
放映されている競技に興味が湧かなかったことと、そもそもオリンピック反対の立場から競技は無視するつもりだったことを思い出して、その場を切り上げ散歩に出かける。普段は外出するとじっとしていられないたちであるが、何もしないというのが最高の贅沢ではないかと思ってしまう。そういう傍から、石柱が小高い所に立っているのを見ると、その先がどうなっているのか知りたくて登ってしまうのは性なのだろう。
石柱は山に関係した人々を記念するもののようだが、ロシア語で書かれている以上のことはわからない。道はさらに先わまで続いているので、明日天気が良かったら行ってみよう。寝袋を外に干している関係で空模様を気にしながら帰途に着くと、テントの目前まで来た時にパラパラと降ってきた。危ないところであった。
小休止して食事をしに食堂に向かうと、昨日の馬子が家の前に立っている。さては仕事にあぶれたなと思って食堂に入ると、一角に数人が集まって打ち合わせをしている。そこへ件の馬子が入ってきて打合せに加わり、契約書を真剣に読んでいる。およそ法律の世界とは無縁な人間だと決めつけていた自分が浅はかだった。丁度そこへ馬子の奥さんが着飾って現れて打合せに参加したのには二度びっくり。私には理解不可能な世界であった。
午後になって携帯と固定電話の両方で妻に連絡するも相変わらず呼び出しのままなので、何かあったのではないかと心配になり娘の所に電話をすると、特に変わったことはないそうで一安心する。途中から孫が出てきて長電話になりそうだったので途中で切り上げる。娘から妻に連絡がいったようで、しばらくして妻に電話すると今度は通じた。国外から電話すると発信番号の始めに国別番号がつくが、見かけない番号なので不審電話だと思って出なかったそうである。どうも困ったものだが、懸念材料の一つが解決して一安心である。
その後、サッカーの3位決定戦であるブラジルースペイン戦を見る。まあどちらが勝ってもいいので気楽な見物であるが、世界水準のサッカーを楽しむというほど知識があるわけでもないけど・・・。そしたらやはりサッカーを観戦していたスタッフと思われる人からビールをたらふくご馳走になる。この前ビールを飲んだのは、ベースキャンプに上がってくる前の晩の中華料理店だったから、二週間ぶりのビールが五臓六腑に染み渡った。前の泊まり場のABC (4400メートル) でも3ドルで缶ビールを売っていたのだが自重していたものの富士山と同じ高度のベースキャンプならば大丈夫だろうと解禁とした。だんだんと下界の世界に戻っていくようである。
8月8日
今日はオリンピックの最終日で暑さ対策から早朝に男子マラソンがあるはずなので、日本との時差3時間を考慮して3時過ぎに食堂に向かう。入口の紐で留めてある部分を外して中に入り、テレビのプラグをコンセントに差し込んでもテレビはつかない。試しに別のコンセントにバッテリー充電用のプラグを差し込んでも充電されない。というなとはコンセントまで電気が来ていないことなので回線を追っていくと、隣の母屋の方へ回線は延びている。おそらくソーラーパネルで発電した電気が蓄電池に貯められて食堂にも供給されているが、元のスイッチが切られているのだろう。万事休すなので、入口を元通りにしてテントに戻ることにする。隣のテント村までは電線か延びているというのに電線を引き込む費用をケチッたのだろう。
一眠りして6時過ぎに目が覚めてテントから出てみると、レーニン峰に連なる雪山が朝日を浴びて真っ赤に燃えている。これは露出を手動で調節できるカメラでなければ写せないとカメラを取り出したところ、「充電してください」のメッセージがでて起動しない。昨夜カメラのフタがあきっぱなしとなっていたため電力が無駄に消費されてしまったらしい。あわててタブレットで撮影しようとしたが、燃え上がる赤みは消えてしまい、シャッターチャンスを逃がしてしまった。
電気を巡るトラブルは終わらない。極めつけは7時半頃に朝食を食べに食堂に行った時だった。スタッフの人が言うには「今日は電気は使えない。テレビも見れない」とのことである。先ほどのマラソンが見れなかったのは、スイッチを切ったためではなく、そもそも電気系統の故障があったためかもしれない。でも、これじゃABC以下、高所キャンプ並の文化生活に逆戻りだ。
今日は暇なのでオリンピック最終日の放映を終日楽しもうかなという目論みは見事に外れ、日本選手をライブで見ることもないようだ。まあ元々今回のオリンピック開催には反対の立場だったのだし、実質的にはパミール最後の日となる今日はパミールの自然を味わい尽くせという神の思し召しかもしれない。
朝食にはパンの上にウリとオイルサーディンが乗ったものが出されて美味しかったが、ひょっとしたらキルギスに来て以来初めての魚かもしれない。首都のビシュケクには日本料理店もあるそうだが、山国のキルギスだから江戸前の寿司というわけにはいかないだろう。今まではこちらの料理は皆おいしく満足していたが、里心がついたのか、急に寿司や天麩羅が食べたくなってきた。
一休みしてからハイキングに出かけて標高差にして200メートル弱登っただけだが、これが大成功てあった。草原に咲き乱れる高山植物と遠くの雪山との対比がパミールの山旅をしている実感をいやおうなく高めてくれた。高所の登山活動とは別の意味の山の楽しさである。オリンピック放映をさせなかった神様の思し召しに感謝である。
帰りは登ってきた道を通らず、真っすぐ谷間に降りる道を行ったが、踏み跡はあるものの細い道なので両側の高山植物を踏まずに歩くことは難しく、日本では考えられないような所である。足下にユルタ(移動式の家)が見えてきて間もなく谷間に降り立つと思った時、突然犬の吠える声が聞こえ、数匹の犬が走り回っているのが見えた。狩猟民族に飼われている犬は、飼い主以外は敵と見なして、襲ったりすることもあると聞いたことがあるので、山腹を横に巻いて進み、ユルタのないところで谷間に降り立った。
そこは神秘的な青い池のほとりでキャンプ場まではすぐそこの所であった。キャンプ場まで続く電線(だのにうちらのキャンプ村の手前で終わっている)の下の踏み跡を進み、あともう少しという所まで来た時に、右手の斜面にマーモットの巣穴を発見、二匹が上半身だけ出していたので、全身を出すのをじっと待っていたが、ついに穴に隠れてしまったので諦めてキャンプ場に戻る。おかげで腹ペコになってしまったが、思わぬ自然観察もできた。これも神様の思し召しか。
昼食に食堂に戻った時も電気はまだ回復してなかったようなので、午後は対岸のキャンプ村に行ってみる。私のいるキャンプ村は現在の利用者は自分一人で、明日からは利用者がいなくなるかもしれないというのに、対岸の各キャンプ場はみな盛況そうだったのは、電気もそうだけどサービス面に差があるからだろうか・・・・。ただ高台にあって一番立派そうに見えるキャンプ村だけは周囲をすべて金網に囲まれていて入ることはできなかった。こんなことは初めてだ。一体何を考えているんだろう。
橋を渡って手前に戻り、隣のキャンプ村にあるバーに寄って馬乳酒(クムズという)はあるかと聞くと妙な顔をして「ない」と言われる。棚にはジンとかバーボンといったいわゆる「洋酒」しか置いてない。考えてみれば当たり前で、欧米人相手の店に地元民が飲むクムズを置くはずがないか。周りに馬がたくさんいるからと供給面のことしか考えてなくて需要面のことを考えてなかったのは失敗であった。クムズは山を降りてから、地元民相手の飲食店で注文してみよう。
キャンプ村に戻り、喉が渇いたのでお茶でも飲もうと食堂に入ると天井の電気がついているではないか。もしやと思ってテレビをつけると閉会式をやっていた。閉会式だけでも見ろという神の思し召しかと思って見ることにした。セレモニーが延々と続くので、そろそろテントに戻ろうかと思ったら男女のマラソンの表彰式をやるというではないか。今回もっとも結果を気にしていた種目だけに画面に釘づけとなる。残念ながら日本選手は表彰台には届かなかったが、男子のキプチョゲ、女子のコスゲイといった実力者かメダルを獲得しているのはさすがである。どうも今日一日は自分の意思ではなく、神の思し召しによる一日であったような気がしてらい。
それはともかくとしてパミールにおける活動は全て終了したことになる。単なる思い出で終わるのか、今後に生かす術はあるのかをじっくり考えていきたい。拙い長文にお付き合いいただきましてありがとうございました。
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