高所登山

2024年2月 4日 (日)

アコンカグアとの別れ

1月29日

 

いよいよアコンカグアと別れる日が来た。今回はアコンカグアは通過点のひとつとして来たにすぎないので、それほど残念という気持はない。それよりも、次の目的に向けての期待の方が大きい

 

ガイドの見送りを受けてヘリポートに向かう。出発時間は8時半と聞いていたのに、次々と他の客に抜かされて私がヘリに乗れたのは9時半になっていた。別に他の客がインチキをしているわけではなく正確な情報が伝わっていなかっただけかもしれないが

やがて自分の順番が来てヘリに乗り込むと、二日間かけて歩いて来た所をヘリはあっという間に通りすぎてしまい駐車場に降り立つ。たった七分間のフライトであるが、冬の気候から初夏の気候への様変わりである。

ヘリの着陸場から行きにも泊まったペニテンテスのテルまでの短い距離を多分ヘリ会社の車で移動し、そこでヘリの支払と出発時に預けた荷物の回収を終えたのが昼前で、午後過ぎのバスに乗ってメンドーサに比較的早い時間につけるはずだった。

 

バス停にはなにも目印となるものがなく、数人の旅行者が荷物を持っていたことと、旅行社の人がメンドーサまで同乗してくれることになっていたから問題はなかったが、そうでもなければ、乗車するにも苦労するところであった。

 

ところが発車の時間を過ぎても一向にバスが現れない。すると待ち続けている人の中から、バスが事故を起こして遅れるとの情報がもたらされた。そのうち何人かはわからないが知り合い思われる人の車に拾われたが、後の人はそのまま待ち続けているので、まだバスが遅れても来るのだろうと待ち続けた。

 

やがて四時間ちょっと待ったところで、待望のバスが現れた。ところが、最初に着いたバスの運転手は後ろのバスに乗れという。多分事故運休となっために増発した方に誘導したものと思われるが、こんなに遅れても減便してないのは内外を通じて初めてである。

 

メンドーサにエージェントが予約してくれたホテルは悪くはないが、値段の割にはシャワーのお湯が出ないなどサービスが今ひとつだった。またホテルの近くにはめぼしいレストランがなく、久々の下界の食事がハンバーガーというのも寂しいものだった。

 

 

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2023年6月22日 (木)

キナバル登頂

朝7時前に登山口まで送迎してくれる車に乗り込む。別のホテルで二人が乗り込むということで中心街の方に向かう。停車したホテルは私の泊まったホテルよりもだいぶグレードが高いようであった。しばらくして二人連れが車せに乗り込んでくる。顔が良く見えなかったが、外人であることに疑い差し挟む余地がなかったので、「グッドモーニング」と挨拶をかける。その後もしばらくは気がつかなかったが、トイレ休憩で下車して車に戻ってきた時に日本語で話し掛けられてビックリする。船橋在住で現在はクアラルンプールに駐在している夫婦であった。
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10時頃に登山口に着き、入山手続きを済ませてからガイドと一緒に登りだす。日本人夫妻とは別のガイドで私の方が先行する。登山口の標高は2000メートル弱で山頂は4000メートル強だから標高差は2000メートル強となる。国内の山では最近は一人で登ることが多く、抜かれぱなしとなるのが珍しくないが、今日はガイドのペースに合わせて登ったので、抜きっばなしとなった。私の体力もまだ捨てたものでもないようだ。

天気は今ひとつて途中から雨が降り出したが、樹林帯の登りなのでさほど気にならない。一応上下の雨具を着けたが、傘だけでもいいくらいであった(ガイドはそうしていた)。展望もなく単調な登りで、途中で小屋が現れるたびに泊まり場に着いたかとぬか喜びしたが、外国人が泊まれる小屋ではなかった。

標高が3000メートルを越えると疲れが出てきたのかいつものペースに戻ってしまい、途端に抜かれっぱなしになってしまった。少し登った3200メートルを越えた地点に泊まり場の小屋があった。キナバルの岩壁を背後に控えた素晴らしい立地条件である。小屋到着は3時で、濡れた衣類を着替えたり、荷物の整理をしてから食堂兼ホールに下りて、外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでのんびりする。小屋の夕食はバイキング形式で5時頃に食事する。明日の朝食は1時で2時出発なのでその間の睡眠はほとんど仮眠のようなものである。6時近くになってそろそろ部屋に戻ろうかと思った時に日本人夫妻が小屋に到着するが、奥さんはだいぶお疲れのようであった。私の隣の席で夕食を食べられたので、マレーシアについてのいろいろな情報を教えてもらった。

夕方から深夜にかけてかなり雨が激しく降ったが、1時に起床して外に出ると雨は止んでいて星さへ見えている。朝食を食べ終わり、2時半にガイドと出発するが、かなりの数の登山者が行列状態でキナバル山に向かっている。歩き始めは毎度のことながら調子が出ないので抜かれっぱなしになる。しばらくは樹林帯を登るので風も当たらず、厚着をしてきたために暑いくらいであった。

樹林帯を抜けて岩壁に入るが、太いロープが切れ目なく張られているので安心である。ただ夜中に降った雨で足もとがかなり濡れていたので、滑りやしないかとおっかなびっくりだったが、思ったよりも摩擦が効いているようであった。

夜が明けてくると前方にセントジョーズピークの鋭い岩峰が見えてくる。岩登りの対象で一般道はなく、めったに登られないようである。それに対して今回の目標であるロウズピークは五メートル高いだけであるが、一応は最高峰であり登りやすいということもあって四季を問わず多くの登山者が訪れているようである。

ロウズピークは稜線近くまで登ると見えてくるが、こちらも威圧感のある立派なピークである。最初に姿を現した時は夜明け前だったので登山者のヘットランプが点々と繋がっていたのが印象的であった。私が登った時はすっかり明るくなっていたが、相変わらず登山者は数珠繋ぎであった。登山路は明瞭で特別の苦労もなく登頂できたが、格別の感慨はなかった。長年暖めてきたわけではなく、ふっと思いついた計画だからだろうか。ただ知り合いにも話していたので、登頂できてホッとしたというのが実感である。
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登頂のお決まりである記念写真を撮ってから下山を開始したが、すぐに例の日本人夫妻のご主人とすれ違う。奥さんは調子が悪く断念したとのことである。もう少し下りたあたりで今日往復したコースを振り返って眺めると、すごい所にコースを作ったものたと感心する。その後は小屋に戻って今日二度目の朝食を食べる。といっても深夜用と同じメニューであるが(作り置きしておいたのだろう)

朝食後に登山口目指しての下降を開始する。小屋まで降りてきて登山は終わったような気分に一瞬なりかけたが、標高差1300メートルをまだ降りなければならないのだ。この標高差は富士山山頂から五合目までの標高差に匹敵するので、今日の行程は五合目から富士山までを往復して五合目に降りてきてバスに乗らずに浅間神社まで降りていくようなものである。小屋までの登りは5時間かかったので、登山口までの下りは1時間以上短縮できるかと思ったが、雨で濡れているヶ所が多く滑らないように慎重に下ったので、30分短縮できただけである。登りはもちろんだが、下りでも滑りやすいヶ所ではストックを用意しておいてよかったと思ったが、翌日からの旅行では無用の長物となるため、ガイドにチップ代わりにプレゼントしておいた(ストックの値段とチップの相場がほぼイコール)。

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2021年8月10日 (火)

パミールの山 後半

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7月31日
ABCに戻って一夜明けて、体の調子はだいぶ戻ったようである。ガイドの情報では二日間は悪天候が続くとのことであったが、今日もいい天気である。ガイドの奨めで医者の健康チェックを受けることになったが、酸素飽和度、脈拍、血圧、聴診のいずれも異常はなかったようである。   

 

二日間の休養ということで時間を持て余してしまうので、タブレットに転送してきた「アラビアのロレンス」を見た。4時間以上に及ぶ長編だが時間潰しにはよかった。タブレットの小さい画面では、字幕が読みづらいところもあったが、なんとか話の筋は理解できた。ビデオもkindle も全部見てしまったし、明日は一日どうやって過ごそうか

 

8月1日
午前中は前に登ったパノラマピークの途中まで登ってレーニン峰の写真をタブレットでなくカメラで撮ろうと思ったのだが、朝のうちは良かった天気も雲が出てきてレーニン峰は隠れてしまったため諦めてBCの方に向かって歩き出した。というのは、BCの方に近づけばDOCOMOと提携している地元の電話会社の回線に繋がるかもしれないと思ったのだが、少々歩いたくらいでは全く繋がる気配かないので諦めて引き返す。

 

昼食後にガイドにレーニン峰は体力的に諦めて手前のラズデルナヤ峰に変更することを伝える。ガイドも「賢明な判断だ。明日も天気が悪そうだけど、6千メートル峰ならば日程的にも充分余裕がある」といったが、そうであってくれるといいのだけれど

 

テントに戻ってタブレットを見てたら、kindleからダウンロードしたうち、司馬遼太郎の街道シリーズで読みかけのものがあるのを発見し、これでしばらく暇つぶしはできそうだ。

 

夕方から雪が降りだし、夜中にはずいぶんと降ったようだ。日程的には余裕が乏しくなり、レーニン峰は当初どおり実行するつもりだったとしても日程的にも厳しくなってしまったかもしれない。

 

8月2日
朝方には雪も止んだので、このまま天気が良くなってくれるのかと思いきや、しばらくしてまた降り出したので、何時になったら行動が再開できるのか全く読めない状態となった。まあ自然相手のことだから、どうしようもないのだが

 

午後になってガイドから「明朝2時起きで出発」との知らせがあり、ようやく出発が決定した。前回の教訓から朝食はしっかりと食べ、行動食はいつでも取り出せる所に携行し、装備は極力軽くすることに留意した。

 

8月3日
前回同様に2時起床3時出発となったが、前回の反省を踏まえて朝食はしっかりと食べていくことにした。行程も前回よりはスムーズに進み、難場の梯子のある所も前回は明るくなってから通過したが、今回は暗いうちに通過でき、キャンプ1が見渡せる小高い所には出発してから七時間半で到達できたので、キャンプ1までの標準時間とされる6~8時間内でぎりぎり到達できるかと思ったものの、緩いアップダウンが続くだけなのに体が全く自由が利かず、キャンプ1に到達するのに1時間半もかかってしまい、ABCからの行程時間は9時間となってしまった。

 

出発前にネットで読んだ72歳の人のレーニン登頂記でも高所順化がうまくいかずに私と同じくラズデルナヤ峰に変更したのだが、キャンプ1まで9時間かかってしまい、ラズデルナヤ峰は5800メートルまでで敗退したという記録があったことを思い出し、いやな予感がした。

 

8月4日
7時半にキャンプ1を出発したが、その際にガイドより時間の条件をつけられる。すなわち、ラズデルナヤ峰直下のキャンプ2に2時までに到達しなければ、その時点で引き返すというものであった。その時はそれほど厳しい条件とは思わなかったのだが・・・

 

キャンプ場の裏手から稜線を目指す。いきなりの急登に加え、前夜降った雪が登路を隠して歩きにくい。稜線に出ると傾斜も落ち道幅も広くなって、歩きやすいはずなのだが一向にベースが上がらない。ガイドから「そのペースでは制限時間内には登頂できない」といわれるが、「とにかく2時までは歩く」と答える。ただ歩幅を広げて歩き、ストックに体重をかけるようにして少しでもスピードがでるようにして歩いても、キャンプ2に泊まるために大きな荷物を背負った人に抜かれてしまう。自分の高所順応力が落ちていることは明らかである。

 

頂上目指しての最後の急登が始まるが、この時点では制限時間まで3時間あり登頂を確信していた。だが、いくら登っても頂上は近づかず時間ばかりが過ぎていき、ついに非情のガイドの声が「2時になったので下山!」。到達高度は丁度六千メートル、頂上までは標高差145メートルであった。 

 

下山は気持ちの張りを失ったこともあり、フラフラの状態でキャンプに戻る。その晩は頭が冴えてなかなか寝付かれなかった。今回、高所順応力が低下したのは、六千メートル以上の高所登山を目指すときは利用している三浦雄一郎さんの低酸素室がコロナのために休業で利用できず、5~6千メートルの高所順応を国内で事前に終えておけなかったことが敗因であると考えたいが、年齢的に六千メートルを越える登山はもう無理なのてはないかという気持ちも拭いきれないものである。

 

8月5日
今日は通い慣れたはずのABCまでの下山だけであるが、ほとんど下り一方にも関わらず苦しい歩きの連続であった。滞在日数の長さにも関わらず最後まで5千メートル台には順化しきれなかったようである。 

 

キャンプ1を見渡せる小高い地点は絶好の撮影ポイントであるにも関わらず、写真を撮る気にもならずにシャッターチャンスを逃してしまった。最後の小川を渡りきってABCに帰り着いた時は、登頂した訳でもないのにスタッフ総出で歓迎してくれたが、手を振るのがやっとであった。

 

8月6日
本日はABCで一日休養するのも手であったが、ベースキャンプまで下れば電話が通じるので、心配しているであろう妻(それほどでもなかったりして)に無事を伝えたくて、ベースキャンプまで下りることにした。

 

そのおかげかどうかは知らないが、下っている途中で10年前のカンテングリ登山の国際チームで苦楽を共にしたアイルランド人とバッタリ出会う。国内の登山でも知り合いに会うことは珍しいのに、海外で出会うとはなんという奇遇なのだろう。

 

ベースキャンプ近くまで降りてくると富士山と同高度になるので
元気が出てくる。行きは体力温存のために登り口手前まで車に乗っていたので、そこまで下りると、カイドは車に乗ることを奨めたが、最後まで歩き通しガイドに遅れを取ることもなかった(この歩きが山の上でもできれば良かったんだけど)

 

ベースキャンプに着くとすぐに妻に電話をかけたが、何度かけても電話にでなかったのて、留守電に無事下山のメッセージだけは残したが、果たして聞いてくれたことやら。その後キャンプ場をうろうろしていたら、ABCまでの荷物の運搬をしてくれる馬子に呼び止められる。彼は前から私のソーラーバッテリーに興味深々だったので、それが欲しいらしい。発電量が少なくお荷物と感じていたので、「使いものにならない」と断った上でプレゼントした。すると、馬子は奥さんにキルギスの民族帽をとって来させる。多分、土産店相手の奥さんの内職の品なのだろうが、この取引果たしてどちらが得をしたのだろうか

 

8月7日
二日間の完全休養をベースキャンプで過ごすことになる。ここまで下りてくればもう少し暖かくなるのではと期待したが、朝晩の寒さは上と変わらない。まあ富士山と同高度なのだからやむを得ないことではあるのだが。かといって早めにオシュに下りても暑いだけで出かけるところがあるわけではないし、当初のベースキャンプ出発日までここにいる限りは、出費は特にはないのだ。

 

朝明るくなってからテントの周りをうろついていたら、昨日の馬子夫婦の子供が家(と言っても倉庫のようなものだが)から出てきて近くで用を足している。キャンプ場のトイレはずっと遠くにあるのだ。こんな辺鄙な所でどうやって子供を育てるのかと思ったが、馬方の仕事があるのは夏の限られた期間だけなので、他は麓で別の仕事をしているのだろう。

 

今日は日本の早朝に女子マラソンがあるはずなので、他の競技はともかくとして結果が気になっていたが、キャンプ場の食堂で放映しているオリンピック放送は自転車、男子レスリング、新体操といった日本ではまず放映されない競技ばかりで、マラソンの結果は分からず仕舞いであった。

 

放映されている競技に興味が湧かなかったことと、そもそもオリンピック反対の立場から競技は無視するつもりだったことを思い出して、その場を切り上げ散歩に出かける。普段は外出するとじっとしていられないたちであるが、何もしないというのが最高の贅沢ではないかと思ってしまう。そういう傍から、石柱が小高い所に立っているのを見ると、その先がどうなっているのか知りたくて登ってしまうのは性なのだろう。

 

石柱は山に関係した人々を記念するもののようだが、ロシア語で書かれている以上のことはわからない。道はさらに先わまで続いているので、明日天気が良かったら行ってみよう。寝袋を外に干している関係で空模様を気にしながら帰途に着くと、テントの目前まで来た時にパラパラと降ってきた。危ないところであった。

 

小休止して食事をしに食堂に向かうと、昨日の馬子が家の前に立っている。さては仕事にあぶれたなと思って食堂に入ると、一角に数人が集まって打ち合わせをしている。そこへ件の馬子が入ってきて打合せに加わり、契約書を真剣に読んでいる。およそ法律の世界とは無縁な人間だと決めつけていた自分が浅はかだった。丁度そこへ馬子の奥さんが着飾って現れて打合せに参加したのには二度びっくり。私には理解不可能な世界であった。

 

午後になって携帯と固定電話の両方で妻に連絡するも相変わらず呼び出しのままなので、何かあったのではないかと心配になり娘の所に電話をすると、特に変わったことはないそうで一安心する。途中から孫が出てきて長電話になりそうだったので途中で切り上げる。娘から妻に連絡がいったようで、しばらくして妻に電話すると今度は通じた。国外から電話すると発信番号の始めに国別番号がつくが、見かけない番号なので不審電話だと思って出なかったそうである。どうも困ったものだが、懸念材料の一つが解決して一安心である。

 

その後、サッカーの3位決定戦であるブラジルースペイン戦を見る。まあどちらが勝ってもいいので気楽な見物であるが、世界水準のサッカーを楽しむというほど知識があるわけでもないけど・・・。そしたらやはりサッカーを観戦していたスタッフと思われる人からビールをたらふくご馳走になる。この前ビールを飲んだのは、ベースキャンプに上がってくる前の晩の中華料理店だったから、二週間ぶりのビールが五臓六腑に染み渡った。前の泊まり場のABC (4400メートル) でも3ドルで缶ビールを売っていたのだが自重していたものの富士山と同じ高度のベースキャンプならば大丈夫だろうと解禁とした。だんだんと下界の世界に戻っていくようである。

 

8月8日
今日はオリンピックの最終日で暑さ対策から早朝に男子マラソンがあるはずなので、日本との時差3時間を考慮して3時過ぎに食堂に向かう。入口の紐で留めてある部分を外して中に入り、テレビのプラグをコンセントに差し込んでもテレビはつかない。試しに別のコンセントにバッテリー充電用のプラグを差し込んでも充電されない。というなとはコンセントまで電気が来ていないことなので回線を追っていくと、隣の母屋の方へ回線は延びている。おそらくソーラーパネルで発電した電気が蓄電池に貯められて食堂にも供給されているが、元のスイッチが切られているのだろう。万事休すなので、入口を元通りにしてテントに戻ることにする。隣のテント村までは電線か延びているというのに電線を引き込む費用をケチッたのだろう。

 

一眠りして6時過ぎに目が覚めてテントから出てみると、レーニン峰に連なる雪山が朝日を浴びて真っ赤に燃えている。これは露出を手動で調節できるカメラでなければ写せないとカメラを取り出したところ、「充電してください」のメッセージがでて起動しない。昨夜カメラのフタがあきっぱなしとなっていたため電力が無駄に消費されてしまったらしい。あわててタブレットで撮影しようとしたが、燃え上がる赤みは消えてしまい、シャッターチャンスを逃がしてしまった。

 

電気を巡るトラブルは終わらない。極めつけは7時半頃に朝食を食べに食堂に行った時だった。スタッフの人が言うには「今日は電気は使えない。テレビも見れない」とのことである。先ほどのマラソンが見れなかったのは、スイッチを切ったためではなく、そもそも電気系統の故障があったためかもしれない。でも、これじゃABC以下、高所キャンプ並の文化生活に逆戻りだ。

 

今日は暇なのでオリンピック最終日の放映を終日楽しもうかなという目論みは見事に外れ、日本選手をライブで見ることもないようだ。まあ元々今回のオリンピック開催には反対の立場だったのだし、実質的にはパミール最後の日となる今日はパミールの自然を味わい尽くせという神の思し召しかもしれない。

 

朝食にはパンの上にウリとオイルサーディンが乗ったものが出されて美味しかったが、ひょっとしたらキルギスに来て以来初めての魚かもしれない。首都のビシュケクには日本料理店もあるそうだが、山国のキルギスだから江戸前の寿司というわけにはいかないだろう。今まではこちらの料理は皆おいしく満足していたが、里心がついたのか、急に寿司や天麩羅が食べたくなってきた。

 

一休みしてからハイキングに出かけて標高差にして200メートル弱登っただけだが、これが大成功てあった。草原に咲き乱れる高山植物と遠くの雪山との対比がパミールの山旅をしている実感をいやおうなく高めてくれた。高所の登山活動とは別の意味の山の楽しさである。オリンピック放映をさせなかった神様の思し召しに感謝である。

 

帰りは登ってきた道を通らず、真っすぐ谷間に降りる道を行ったが、踏み跡はあるものの細い道なので両側の高山植物を踏まずに歩くことは難しく、日本では考えられないような所である。足下にユルタ(移動式の家)が見えてきて間もなく谷間に降り立つと思った時、突然犬の吠える声が聞こえ、数匹の犬が走り回っているのが見えた。狩猟民族に飼われている犬は、飼い主以外は敵と見なして、襲ったりすることもあると聞いたことがあるので、山腹を横に巻いて進み、ユルタのないところで谷間に降り立った。

 

そこは神秘的な青い池のほとりでキャンプ場まではすぐそこの所であった。キャンプ場まで続く電線(だのにうちらのキャンプ村の手前で終わっている)の下の踏み跡を進み、あともう少しという所まで来た時に、右手の斜面にマーモットの巣穴を発見、二匹が上半身だけ出していたので、全身を出すのをじっと待っていたが、ついに穴に隠れてしまったので諦めてキャンプ場に戻る。おかげで腹ペコになってしまったが、思わぬ自然観察もできた。これも神様の思し召しか。 

 

昼食に食堂に戻った時も電気はまだ回復してなかったようなので、午後は対岸のキャンプ村に行ってみる。私のいるキャンプ村は現在の利用者は自分一人で、明日からは利用者がいなくなるかもしれないというのに、対岸の各キャンプ場はみな盛況そうだったのは、電気もそうだけどサービス面に差があるからだろうか・・・・。ただ高台にあって一番立派そうに見えるキャンプ村だけは周囲をすべて金網に囲まれていて入ることはできなかった。こんなことは初めてだ。一体何を考えているんだろう。

 

橋を渡って手前に戻り、隣のキャンプ村にあるバーに寄って馬乳酒(クムズという)はあるかと聞くと妙な顔をして「ない」と言われる。棚にはジンとかバーボンといったいわゆる「洋酒」しか置いてない。考えてみれば当たり前で、欧米人相手の店に地元民が飲むクムズを置くはずがないか。周りに馬がたくさんいるからと供給面のことしか考えてなくて需要面のことを考えてなかったのは失敗であった。クムズは山を降りてから、地元民相手の飲食店で注文してみよう。

 

キャンプ村に戻り、喉が渇いたのでお茶でも飲もうと食堂に入ると天井の電気がついているではないか。もしやと思ってテレビをつけると閉会式をやっていた。閉会式だけでも見ろという神の思し召しかと思って見ることにした。セレモニーが延々と続くので、そろそろテントに戻ろうかと思ったら男女のマラソンの表彰式をやるというではないか。今回もっとも結果を気にしていた種目だけに画面に釘づけとなる。残念ながら日本選手は表彰台には届かなかったが、男子のキプチョゲ、女子のコスゲイといった実力者かメダルを獲得しているのはさすがである。どうも今日一日は自分の意思ではなく、神の思し召しによる一日であったような気がしてらい。 

 

それはともかくとしてパミールにおける活動は全て終了したことになる。単なる思い出で終わるのか、今後に生かす術はあるのかをじっくり考えていきたい。拙い長文にお付き合いいただきましてありがとうございました。

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パミールの山 前半

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7月24日
いよいよレーニン峰に向けて出発の日である。と言っても今日はベースキャンプ(以下、BCと略)まで行くだけであるが。7、8人のグループが乗っている車に便乗してホテルを10時頃に出発する。なかなか騒々しい連中で、コロナ対策という意識はないようである。もっとも私は最前列に座ったので、ソーシャル・ディスタンスは取れていたが。

 

車はタジキスタンとの国境を目指して一路南下する。峠に着いて見晴らしのいい所でトイレタイムとなる。遠くの方には雪山も見えてくる。それからしばらく進むと、国境への道と別れて西に向かう。左側にはレーニン峰に連なる国境の山々が屏風のように聳えてなかなかの迫力である。道はなおも舗装路を進むが、どこで南に進路を変えるのかと思ったら、突然左折して踏跡のような完全なダート道を進んで行く。次第に高度を上げて3000メートルを越えるようになると、レーニン峰が目前に迫ってくるが、頂上付近は雲に覆われれて望むことはできない。

 

3時近くなってテント村が見えてくると待望のBCである。いくつかの会社があちこちにテント村を作っているようで、とあるテント村で私だけ降ろされてガイドと落ち合う。ガイドの名はアンドリーという30代のバリバリという感じである。遅いランチを食べてからガイドと装備やタクティックスの打合せをする。私の海外登山歴のリストも出したので、ある程度は私の力量も分かってくれたようである。ただし、体力は落ちてることも伝えておいたが。

 

BCでは背の高い広いテントが私専用に用意されていた。辺りは広い草原で、正面にはレーニン峰が聳えているという素晴らしい立地条件である。ネットこそ繋がらないが、電源もあり、サウナまで用意されているという至れり尽くせりの環境である。これから二週間の登山生活が始まることになる。

 

7月25日
今日は前進ベースキャンプ(以下、ABCと略。なおそこをキャンプ1として、以下キャンプの番号をひとつづつ多く表記しているものもあるが、ここではそれは採用しない)まで標高差800メートルの登りであるが、重い荷物は馬に運んでもらうし、最初の比較的平坦な所は車をチャーターしたので、実際に登る標高差は600メートルに過ぎない。

 

ガイドは非常にゆっくり歩いてくれるので助かるが、他のパーティーには次々と抜かれていく。結構重そうな荷物を担いでいる人がスイスイと抜き去っていくのは心中穏やかではないが、自分は年なんだし、ゆっくりと登るのが高度順化の秘訣なんだと言い聞かせる。その代わり、ほとんど休まずに登ったので行動時間自体はそれほどは多くかからなかったかもしれない。

 

ABCの手前で、かなり流れの激しい沢を横切るところがあった。この程度の沢は国内でも渡ったことはあるので、靴を脱いで渡るつもりだったのだが、ガイドは私を背負って渡るという。断りたい気持ちもあったが、郷に入りては郷に従えという諺もあることだし、大人しく従うことにした。他の登山者はどうするのかと思ったら、少し上流に馬を引いて待っている人がいて、渡し船ならぬ渡し馬で渡っていた(もちろん有料だろうけど)。

 

最後の急登を越えるとABCのテント村が見えてきて、今まで隠れていたレーニン峰も間近に現れてくる。やれやれテント村についたぞと気がゆるんだが、ガイドはテント村を素通りして先に進む。遠くの方に別のテント村が見えてきたので、ガイドの所属する会社のテント村はあちらの方なのだろうと思って進むと、今度は正解であった。こちらも個人専用の大きなテントが用意されていて、ユルタという遊牧民の移動式住居のなかで食事が食べられるのはBCと同じであるが、電源サービスはなく、テレビも見れないのは異なっている。まあオリンピックボイコットのつもりで、この時期に来たのだから、その方が好都合でもあるのだが。明日はいよいよ雪山装備をつけての本格的な登山がスタートすることになる。

 

7月26日
今日からレーニン峰に向けての登山が始まると思いきや、ガイドは裏山に登るという。まあ日程的には充分余裕はあるんだけと・・・。

 

ガイドは相変わらずゆっくりととしたベースて登っていく。昨日の登りで私の力量はわかっているはずなのにペースを落としたままなのは、私の年齢に配慮してのことたろうか。おかげで今日も他のパーティーに次々と抜かれていく。富士山でも使用したくたびれたランニングシューズに変えて高所靴を履いていくようにガイドが言うもんだから、滑りやすいザレ道を足首を固定された高所靴で登るのは非常に苦労した

 

1時間ほどの登りで裏山の頂上に着いた。300メートルほどの
登りでモンブランとほぼ同じ高さまで登ったことになる。ここはパノラマピークと名付けられているだけあって、正面にレーニン峰の大パノラマが望めるほか、後ろには稜線には雪のついている5000メートル級の裏山も見える。ここでガイドから信じられない言葉を聞かされる。明日は5000メートル級の裏山に一泊してからABCに戻ってレストすると言うではないか。一応、日程的には可能だが、予備日がほとんどなくなってしまうので、登頂の確率が減ることになってしまう。

 

30分ほど休んで下山に移る。登りは歩きにくかったが、下りはそれほどでもなく、ほどなくABCに着き、自分のテントに入ろうとした時だった。背中に違和感を感じて腰痛が悪化したようである。今まで山から下りてきて腰痛が悪化したことなどは一度もないが、これも高所の影響であろうか。とにかく背中の前後への屈伸を繰り返して改善を試みるが、もし明日になっても改善しなければ明日は休養として、その後に改善が見られれば、裏山登山は止めてレーニン峰に向けての登り下りという本来の高所順化を行うことを提案したいと思う。

 

7月27日
腰の調子は快方には向かっているが、まだ完調ではないのて本日は休養とする。ただガイドに対しては腰の調子が悪いと言うと心配するだろうから、日本出発以来休みなしで行動してきたから休養を取りたいと言い訳をする。ただテントの中で一日じっとしていることは、腰のためにも高所順化のためにも良くないので、テントの周りをぶらついたりする。もっともテントの中は暑くて長くはいられないので、涼しいユルタの中にいることが多かった。
 
午後になって日が陰ってきたのでテントに戻る。今はKINDLEの本が何冊分かと、ビデオ録画を転送したものが何本か入っているので退屈することはない。昨日は「日本沈没」、今日は「ラストエンペラー」を見た。タブレットを長時間つけっぱなしにすることはタブレットの電力消耗を早めることになるが、ここABCでもコンセント数は少ないながら充電サービスがあることを発見したので、争奪戦となる時間を外せば、電力の心配はしなくてすむのはありがたい。

7月28日
今日もまた裏山に高所順化トレーニングである。昨日登った山よりも更に裏手の山であるが、高度は5100メートルあるユーヒン峰とかいう山である。

 

昨日登ったパノラマピークの頂上直下までは同じ道を行く。腰の痛みを心配したが、ストレッチを充分やったせいか大丈夫のようである。昨日は歩きにくいと感じた道だったが、慣れてきたのか昨日ほどは歩きにくくはなかった。

 

パノラマピーク頂上への道と別れてしばらくは平坦な道を行くが、ユーヒン峰への登りにさしかかると、傾斜が増すだけでなく道も崩れやすくて極端に悪くなってくる。今日は誰も登って来ないのかと思ったら、下の方に小さく見えた人影がどんどん近づいてきて、頂上の手前で抜かれてしまう。こんな悪い道をよくもこれほどのスピードで登ってくるものである。まるでトレランランナーのようである。ウサギと亀の昔話にあるように自分は亀の歩みで行こう。

 

頂上に着くと高所順化のためにしばらく滞在してから下降に移るが、登りでも悪く感じた道が更に悪く感じる。今にも崩れるのではないかという道を慎重に下る。パノラマピークとの鞍部の平坦地まで下りるとホッとする。パノラマピークからの下りは昨日は
悪く感じたものが、今日はいい道に思えてくる。

 

ABCまで下りついて、ガイドから明日はレーニン峰登山道のC1で一泊することが告げられる。ようやく仮免まで辿り着いたと言えるのだろうか。

 

7月29日
朝2時起床とのことだったが、12時過ぎから目が覚めてしまう。予定時刻となってガイドと落ち合うと、テーブルにはチーズやハムが並べられているが、早朝から食べるにはつらいものがあったので、少しつまんだだけで出発したが、これが大失敗であった。

 

暗闇の中をガイドとロープをつないで登って行くがペースは遅々として進まず、後続パーティーに次々と抜かれていく。ガイドからはベースアップを再三迫られるが、まったく体に力が入らない。どうも出発以来何も食べていないので(行動食はガイドが持っているため)、いわゆるシャリバテ状態になったようである。そしてそれが誘因となって高度障害も引き起こしたようである。カザフの時もそうだったが、どうも狩猟民族系の人たちは、農耕民族と違って食いだめが出来るらしく、一食くらい抜かしても平気らしい。

 

高度障害が次第にひどくなって何度も吐いたり(何も食べていないので胃液しかでてこないが)、歩みもますます遅くなって標準時間を大幅にオーバーしてキャンプ1に到着した。頭痛こそなかったものの、酸素飽和度は危険水域の76まで下がり、ほとんど食べられない状態であった。

 

7月30日
症状は多少改善されたものの高度障害は治りきっておらず、高度を下げてもさほど変わりはなかった。今日も後続パーティーに抜かれっぱなしで時間をかけて下っていくが、足下に見えるABCが少しずつではあるが近づいてくるのが慰めではある。やがてABCの一角には降り立ったが、我々のABCはもうひとつ氷河を渡った先である。そこまで達するのも実に長かった。その晩も疲れきっていて夕食はほとんど食べられなかった。

 

このような状態になってしまった以上はレーニン峰に向かうことは論外であるが、手前の6千メートル峰であるラズデルナヤ峰ならば登頂の可能性はなきにしもあらずである。C1までのあの苦しみをまた味わうのかと思うとウンザリしてしまうのも事実であるか

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2020年7月29日 (水)

空白記録の復元

このブログは2009年6月から開始しているが、それ以前の記録については2004年6月までは以前契約していたプロバイダーのホームページに掲載してあったものは、ハードディスクに保存してあったのだが、それ以降の約5年間については海外登山以外については記録をつけてなかった。だが、よく考えてみると、自分の拙いアルパインの記録の中ではまあまあの記録を残していたのもこの時期であった。パミール登山中止、コロナ、長雨といった条件が重なった今、記録しておかなければ、忘れてしまいそうな気がしたので、錆びつきかけた記憶を呼び起こして年月とアルパインの記録の概要だけは以下のように書くことができた(一部はトレランを含む)。記録の詳細についてはおいおい書き出して、機会があれば発表していきたい。 

 

200410 瑞牆 ベルジュエール(ガイド山行) 

200504 瑞牆 調和の幻想 

200506 丹沢ボッカ駅伝 5位入賞 1区3区ダブルエントリー 

200508 瑞牆ベルジュエール 核心である大フレークは越えるも次のチムニーで敗退 

200508 ボリビア ワイナポトシ登頂

200510 錫杖二ルンゼ 

200510 大台ケ原 サマーコレクション登攀及び登頂 

200510 二子中央稜 上部の簡単な所で先行パーティーが墜落して救出

200512 涸沢岳西尾根 滝谷を狙ったが、涸沢岳登頂のみ、下山時に雪洞を見失い荷物を残置

200602 小同心クラック

200603 権現岳東稜

200605 屏風雲稜  前穂までの縦走はならず

200606 涸沢岳西尾根(前年末に残置した荷物回収)、錫杖敗退(増水で渡渉不可)

200607 富士山 高所訓練及び登山競争 

200608 シャモニ 赤い針峰群、ミディ南壁

200610 日本山岳耐久レース  自己ベスト 14時間23秒

200610 明星南壁  マニフェストの上部城塞で敗退、その翌日のフリースピリッツは完登

200704 丸山東壁右岩稜

200705 白馬主稜 強風の中での完登 

200707 グランドジョラス北壁ウォーカー稜を狙うも大量の降雪直後のため、取付き手前で敗退

200708 南アルプス シレイ沢(単独) 

200712 剣岳早月尾根 豪雪のため、早月小屋で敗退、手の指を第二度の凍傷に見舞われるも切断は回避

200802 阿弥陀岳 広河原沢右俣

200803 一ノ倉沢 一ノ沢二ノ沢中間リッジ~東尾根

200805 富士山での高所訓練(数回)

200806 富士山での高所訓練(数回) 

200807 ガッシャーブルムⅡ無酸素登頂 

200808 妙義 谷急沢(単独)

200809 北岳バットレス ピラミッドフェース~4尾根主稜

200811 富士山 頂上で吹雪に遭いまたもや同じ指に凍傷を負う

200903 鹿島槍北壁 天狗尾根~正面尾根(悪天のため、天狗のコルで敗退) 

200905 唐沢岳幕岩 S字状ルンゼ(流水のため敗退

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2019年5月 6日 (月)

帰途

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チュルー登山も終わり後は帰るだけだが、日本帰国となると気が遠くなるほど先のことである。先ずはベースキャンプまでの帰還である。前回は高山病でフラフラの中での下降であっただけに、絶対に事故を起こしてはならないと慎重に下降したが、今回はかなりフィックスが張られているし、ガイドも同行しているので、それほどの緊張感はない。ベースキャンプへの帰着時間いかんによっては、マナンまで一気に降りたいと思ったが、時間的にきつくなってきたので、今日はベースキャンプに止まり明日マナンに降りることとして、ノンビリとベースキャンプで過ごした。

 

翌朝にガイドの方から、「マナンまで降りてしまうと、翌日のティリッツォ湖までの行程が長くなりすぎるので、マナンには寄らずに近道してティリッツォ湖に向かう道に向かいたい」との話があった。ただ自分としては、電波が通じるマナンに立ち寄って、家内に無事を伝えるとともに、仕事上の急ぎのメールの確認もしたかったし、あわせて大きく変わったと言われる現在のマナンの様子も見てみたかったので、コックとポーターは近道を行き、ガイドが私に付き合ってマナン経由で行くことにした。

 

マナンでの電波状態は期待していたほどは良くなく最低限のことしか出来ず、一方、かつてのマナンは草原の中に数軒の家があるだけだったものが、現在のマナンは多くの家が建ち並んではいるものの、それは近隣の村よりも多少規模が大きい程度で、思っていた「街」に変貌しているわけではなかった。コックたちが多分先行しているだろう今夜のキャンプ地までは、標高差で500メートル近くもあり、短時間なからも今回の行程で一番疲労を感じるものであった。ポーターたちは少し前に着いたようであるが、私のテントがすでに張られていて中に入れるのは助かった。と言うのは今回初めて雪模様となり、テント設営完了まで待たされるのは辛いものがあるからである。明日は雪中歩行かと懸念したが、夜中にテントから外に出て見ると満天の星空でとんだ杞憂であった。

 

翌朝は予想通り雲ひとつない好天であった。南側にはアンナプルナⅡ、ガンガプルナ、ティリッツォピークと巨峰が屏風のように連なり壮観である。今日の登りが今回最後となるはずだが、標高差は900メートルもあり、なかなかのアルバイトである。午前中は大斜面の下を延々とトラバースしていくので、上部からの落石には気を遣うものの、体力的にはさほどきつくない。午後からは富士山の斜面を登るやうな感じの登りでグイグイと高度を上げていく。背後にはチュルー連山の峰々が眺められた。

 

たくさんのロッジがあってトレッカーで賑わうトロンパス越えと異なり、ティリッツォ・レイク越えは山頂から離れた所にしかロッジがないので、トレッカーも少ないのだろうと思っていたら、我々が湖近くまで登って下を見ると、多数の人が登って来るようだ。ロッジをベースにレークをピストンしようとするのだろう。空身で登っている人が多いので、たちまち我々に追い付き追い越して行く。彼らのお目当てはレイクの東端にある標識のようで、そこまで行くと引き返していく。ただ残念ながら、湖面は雪の下で神秘的な眺めは得られない。おまけに雪まで降りだして対岸の山も隠れ出した。雪はますます激しくなってきたが、我々のキャンプ予定地はもう少し前方なので、そのまま進んでいたところ、雪のために前の人の踏み跡がわからなくなってしまった。最後尾は私とコックが歩いていたが、コックが前に出てあちこち捜して他のメンバーと合流でき、最悪の事態になることは避けられた。その晩は五千メートルの平原の岩陰でテントを張って過ごすという快適とは言い難いキャンプ生活である。

 

その晩は暴風雪にもかかわらずコックは料理を作ってくれたが、スタッフたちのテントは屋根型のため、煽られたり物が吹き飛ばされたりとたいへんだったようだ。幸い私が利用させてもらったテントはドーム型のため、強風の際は押し倒されたポールが顔のすぐ前まで迫ることはあったが、まあ快眠することはできた。

 

翌朝には天気もまあまあ回復して行動は可能になったが、湖のまわりを西側まで進んでからジョムソンを目指して下降するのかと思ったら、300メートル以上の高みを目指して
新雪をかき分けて登らされる羽目に。やがてチベット仏教の経文が書かれた旗が飾ってある丘の上まで登ると、ガイドから「これで登りは終わりだ」と言われてホッとしたのも束の間、その後は雪の尾根をいくつも越えていくために神経が疲れる雪壁の横断が続き、一向に下降が始まらない。午後になって極めつけともいうべきは高さ100メートルに達する急な雪渓の下降で、そこを下りきって初めて「トレッキングコース」がようやく始まる(といってもティリッツォ湖からジョムソンまではトレッキングしか経験のない人には無理だが)。そこからはトレッキング気分だと言っても、ジョムソンまでは水平距離にして約15キロ、垂直距離で2千メートルもあってかなりのアルバイトである。

 

最初は2~3グループに分かれて行動し、休憩点ですれ違っていたが、私とガイド(多分私に付き合ってくれているんだろうけど)は次第に遅れて休憩点でも他の連中とはあうことがなくなってしまった、日没を過ぎて暗くなり始めた頃はジョムソンまではまだ12キロほどあったが、ゴールが山の中にあるわけでもあるまいし、全然焦りは感じていなかった。私の場合は水が切れていたのが問題と言えば問題だが、数時間のどの渇きを我慢すれば済むだけの話である。

 

ジョムソンまで3キロの地点まで達し、もうゴールまでは時間の問題だと思った途端に難題に出くわした。道路が工事のために通行止めになっているではないか。周辺に迂回道路の情報を調べてもらうが何もないという。途中で分岐する道はなかったように思うし、通行止めの手前で反対側からの道と合流していたので、一応その道も少し進んでみたが、反対方向にさに進むばかりだし地図にも載っていない道だったので、諦めて元にもどる。そこで気が付いたのは、先行した連中は今はジョムソン手前の町のホテルにいるそうだが、我々がいる場所をどうやって突破したのかを聞き出すことだった。幸い、ガイドとコックの携帯を通じ会うようだ。私が直接コックに質問すればよいのだが、片言の日本語しか話さないコックとの間には会話が成立しないので、これまた怪しげな日本語を話すガイドから聞き出してもらうしか方法がない。靴の上から掻くようなもどかしさで知り得たことは、何らかの方法で、ここを突破したということである。となれば、さきほどの反対方向に向かう道以外には、この袋小路から抜け出る術はないということで、さらに先の方まで進んで行くと、果たして道は高度を下げて半周して、元の道と同じ方向に向かっていて、この道が通行止めの迂回路であることは明らかだった。結局そのまま進むと、迎えに来たポーターと合流でき、ジョムソンの手前の町のホテルに我々も泊まることになった。

 

翌日は30分ほど歩いてジョムソンに到着。今回歩いた中では格段に大きな町である(飛行場まである!)。とあるホテルの中庭にテントを張らせてもらって明朝の出発に備えることになったわけだが、時間はまだ午前中でもったいないので、ジョムソンの町を観光することにした。その際に私が戻る前にポーター二人が先に帰ってしまうということでチップをわたす。歯が欠けるようにスタッフが減っていくことには一抹の寂しさも感じてしまう。

 

ランチはコックのものを待っていると遅くなるのでキャンセルして、レストランでヤクステーキとビールで済ませる。ヤクはネパールやチベットの高地に住む牛で、肉は固くて旨くはないのだが、こちらにくるとついつい注文してしまう。食後は町を散策しても小一時間もあれば終わってしまうのだが、郊外に湖があるらしいので行ってみる。片道一時間くらいの半日観光にはもってこいの所である。湖というよりも池といった方がいい規模だが、遠くのヒマラヤの連山とともに眺められる湖面はポカラの観光名所であるペワタールとも似ていて結構人が訪れていた。

 

その晩は最後の晩餐ということで、私もスタッフと一緒に食事をとる。きついリンゴ酒にほろ酔い気分で町に出て水を買ってからテントに戻るためにホテルの中を通ると、今日はやけに日本人が多い。一組目は団体の観光客のようだったので敬遠したが、二人グループに話しかけてみると、我々が通ってきたトロンパスの隣にあるトロンヒークからの帰りの日本人ガイドと客で(登頂はならなかったようだが)、そのガイドは私が若いころに初めてヒマラヤ登山をする機会を作ってくれた山岳団体の現責任者の人だった。ヒマラヤの話や共通の知り合いの話で大いに盛り上がったが、山の世界は狭いものである。

 

翌日は1日がかりでポカラに戻るために早朝にジョムソンを出発する。行きはポカラ先はチャーター車だったのに帰りはバスである。一応はツーリストバスとは書いてあるが、行きにカトマンズからポカラまでに乗ったバスとくらべると随分とショボいバスである。ポーターも乗るということでランクを下げたのだろうか?

 

行きの際には氷雪をまとった峰々の勇姿に感動し、ガードレールもない断崖絶壁の連続に恐れをなしたものだが、帰りは本当に無感動、無神経になってしまった。ただ早くポカラに戻りたいの一心であった。

 

ポカラでは久しぶりに日本料理でも食べてみたいなと思ったが、場所がわからず中華料理店に入る。まぼう豆腐と餃子を注文するが、味も辛さも連日のネパール料理と大差ない。明日こそはカトマンズであっさりした和食を食べたいものである。

 

翌日のポカラからカトマンズまでのバスは昨日と同じツーリストバスだが、ずっと豪華で乗客もほとんどが欧米人である。午前中に立ち寄った休憩所にも欧米人向けの軽食が販売されていたので、今日のランチはネパール料理から解放されるかなと思ったら、バスが立ち寄ったのはりネパール料理の店だった。これが最後のネパール料理か?

 

ポカラからカトマンズまでは200キロちょっとの距離だから、高速道路ならば数時間というところだが、道路事情が悪いため優に半日以上はかかってしまう。一方ら同区間を飛行機ならば25分ほどの時間で着くし料金も10倍程度なので、裕福でせっかちな日本人がバスに乗ろうとしない事情もわかるが、ノンビリと地元の人の生活に触れながら行くバスの旅もよいものである、そうこうしているうちにバスは最後の峠を越えてカトマンズ盆地に入り、今回の旅もフィナーレを迎えることになった。

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登山活動

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ベースキャンプ出発の日はまずまずの天気となった。頂上を目指すのはガイドと私の二人だが、高所キャンプまではコックとポーターも付いてきてくれて私の荷物を持ってくれるという。空身登山は自分のプライドが許さないが、それが今の実力と悟り大名登山をさせてもらうことにする(三浦雄一郎さんみたいな気分だ)。

 

前回は核心部の20メートルくらいにロープを張っただけだったが、今回は前日に100メートル近くも張ってくれてあったので、電車ゴッコのお客さんのような気分だ。おまけに稜線に上がると、前日のうちにテントまで張ってくれてあり、至れり尽くせりである。本当はもっと山頂に近い方にテントを設営してもらいたかったのだが、テントを移動してくれとは言いづらく、この地点からでも皆は山頂往復しているのだろうからと思い直したが、これが思わぬ失敗に繋がってしまった。

 

ハイキャンプの高度はベースキャンプやりも約700メートル高い約5500メートルで頂上までは約900の標高差である。前回はもう少し先にテントを設営したが、前回かかった高山病のようなアクシデントでもない限り、1日で十分に往復できる距離である。朝出発時の脈拍は68回/分だったのが、80までに増加はしているものの正常な範囲内ではあるし、特に高山病の自覚症状らしきものはない。強いて言えば、頭が心もちボワーッとしているかなということと、用足しの回数が減っているくらいである。できるだけ水分補給に努めることにしよう。

 

ポーターがベースキャンプに戻ってもコックは戻らず夕食を作ってくれた。ハイキャンプではフリーズドライ食品と相場が決まっているのに、ベースキャンプ並みの食事が味わえるとは予想外だった。コックは寝袋も持参しているようなので、明日一緒に登頂するのかもしれない。

 

翌朝は天気も良く39年前のような高山病の症状もなく、登頂できない理由を探す方が難しかった(その時はそう思ってた)。出発してしばらくは小さいアップダウンはあるものの、概ね平坦な道が続いていく。途中何ヵ所かクレバスがあるが、三人でロープて結びあっているので底まで落ちる心配はないし、クレバスを避けるために迂回しながら進んで行くので、
体力的には助かる。だが後半戦に入って頂上に向かっての雪壁まじりの急な登りとなってくると、何度も休みを入れないと登り続けられなくなってくる。

 

ちょっとした雪壁を登りきると、稜線に出て初めて山頂が間近に見えてくる。ここからだと二時間余りらしいが、時間は4時を回っており、山頂到達は日没前後となるだらう。それから、長い道程を無事に戻ってこれるかどうかは自信がなかった。そこでガイドに登頂断念を伝え、写真を撮ってから下降を開始する。明るいうちは先ほど登ってきた道を降りていることはわかったのだが、暗闇に包まれてしまうと踏み跡を伝っていくガイドの背中を追うだけで精一杯で、おまけに平坦地まで降りてしまってからは、高度によって現在地を確認することもできず、精神的な焦りも加わった疲労は極限に達したが、やがて高度はハイキャンプより、やや高い高度まで下がったのでハイキャンプまではもう少しの辛抱だと思ったその時に、ガイドが雪の斜面にスノーバーを打ち込んで、「ここから30メートルほど斜面を降りると、ハイキャンプに繋がる近道がある」という。半信半疑だったが下に降りて道とは云えない緩い斜面を横切っていくら行ってもハイキャンプに着かない。最後はスリップしそうな不安定な道を通ってハイキャンプにたどり着いたが、時間は2時前で全然近道ではなかった。何故そんな悪い道を近道だと偽って通らせたのか理由を尋ねても答えない。私の怒りも爆発して、明確な回答が得られなければ、エージェントの社長に報告するとまで思ったが、しばらくして気を取り直し、騒ぎを大きくして人間関係を悪くするのは得策ではないので、私のわからない理由については詮索しないことにした。

 

今回はハイキャンプをもう少し前進させるか、出発時間を数時間早めれば登頂できたのではないかと思うが、(6年振り、ネパール初の)六千メートルラインを越えるという最低の
目標は達成できたのでよしとしましょう。また39年ぶりのリベンジという点も、完全リベンジこそはできなかったが、前回進めなかったハイキャンプから先の道も頂上近くまで進むことができ、前回は高山病にかからなければ間違いなく登頂できたことを確認したことが収穫であると云えよう。

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トロンパス

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今朝は昨日の遅れを取り戻すため暗いうちから出発する予定だったが、明るくなってもモーニングコーヒーの連絡がないので、どうしたのかと思ったら予定時間を大幅に遅れてガイドがやって来て言うには「ポーターの1人が高山病にかかって吐いてしまったので、出発が遅れている」とのこと。「ガ~ン」である。そう言えば、39年前に同じ山に挑戦しながら、ポーターが原因で登頂できなかった悪夢(キャラバンの途中で祭りのためにポーターが集まらす、結果的に隊員に負荷がかかったことが、ハイキャンプでの高山病発症に繋がって登頂できなかった)が蘇ってきた。高山病の治療は低い場所に下ろすことが第一であり、今日はここから更に7百メートルの標高差のある峠(トロンパス)を越えることでもあり、上部で症状が悪化して1人では降りられなくなると一大事なので、そのポーターには下山してもらい、彼が運ぶ荷物は私も含めた7人で分担してはどうかと提案したが、ガイドは「本人が行きたがっている」の一点ばりなので、しばらくは荷物を担いでもらって様子を見ることにした。

 

昨日は運動靴で通したが、スリップ事故と思われる怪我人と多数すれ違ったので、慎重を期して登山靴に履き替える。朝のうちは雪が氷化して滑りやすくなっていたので、登山靴にしたのは正解だった。件のポーター君はスパイク付きの運動靴を履いており、他のポーターよりも遅れがちだったか、大幅な遅れにはならなかったので、なんとかなりそうだ。

 

5412メートルのトロンパスは39年前にチュルー登山の帰りに今回とは反対にチュルーベースキャンプを朝出て夕方にはムクチナートに着いているので、ムクチナートからスタートしても倍の二日間で行けると思ったのが甘かった。ポーター同行だとペースが落ちることを忘れていたことと、加齢により高所での行動力が低下していることを等閑視していたことである(低酸素室は万能ではないのだ!)。峠が近づくにつれて、歩行速度が目に見えて減退していくのは嫌になってくる。それでも12時過ぎには着いたので、自分1人なら今日中にチュルーのベースキャンプに着くことは可能であったが、最後のポーター(例の高山病になったポーター)が着いたのは2時過ぎになったので、今日中にベースキャンプに着くことは不可能になった。まあ後は下り一方だから、なんとかポーターの職務を果たすことができるだろう。峠には二時間近くいたので、それなりの高所順化にはなったろうし、記念写真をとったりもした。

 

下りだしてしばらくすると下から呼び掛ける声がする。近づいてみると、下から登ってきてムクチナートまで行こうとしていたパーティーの1人が高山病にかかって歩けなくなってしまったということで、助けを求めてきたものだった。下に下ろすことが先決なので、ガイドが協力して、そのパーティーの人と一緒に両側から抱き抱えて下山させたが、うちのポーターがこのようにならなくて良かったと思った。遭難救助の手助けに時間をとられたこともあり、ベースキャンプの登り口までは達せられなかったので、明日1日はベースキャンプまでとなり、丸1日行程が遅れることになるが、予備日もあるので、なんとかなるだろう。

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ムクチナートから上部

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ムクチナートのロッジの前に張られたテントから外に顔を出すと、ダウラギリの連山が1峰を筆頭にずらりと並んだ豪勢なながめであった。今朝はモーニングティーから始まって洗面用のお湯のサービスと続いて朝食につながるキャラバンのお決まりのスケジュールが始まる。夜中にポーター二人が遅れて到着したので、我がパーティーは客1人に対して、ガイド及びコックが各1人、ポーターが5人の総勢8人となった。自分1人のために、こんなに大勢の人間が付き従うのは日本では考えられないが、ヒマラヤ登山では普通のことである。ただ生活のためとは言え、外国人の遊びに尽くしてくれる人がいるからヒマラヤ登山も成り立つわけで感謝しなければならない。

 

出発してしばらくは大勢の巡礼客に混じって寺院の間を巡って行く。ここムクチナートはチベット仏教とヒンズー教両方の聖地なので、前者の信者はマニ車を回し、後者の信者は沐浴をするなど大にぎわいであった。寺院を抜けるとすぐにトロンパスを目指しての標高差1800メートルの急な登りが始まる。荷物の重いポーターは遅れぎみになり、ランチを作る予定のロッジでポーターの到着を待つ(ポーターが到着しないと食材が手に入らない)。昼食は野菜ラーメンとチャーハンで普段の食事量の倍近くあったが、何故か完食してしまった。食後はしばらくは動くのも億劫で、スタッフが食事の後片付けで忙しい間、休せてもらった。

 

食後の行動も急な登りが続くが、ポーターたちのペースは遅くて、トロンパスは越えられず、だいぶ下の方までしか行くことはできなかった。日程には余裕があるので心配はしていないが、明日にはベースキャンプに入りたいものだ。それよりも気になったのは降りてくる人の何人かが足を引きずっていることであった。どこで怪我をしたのかと思ったら、今日のキャンプ地まで来てわかったのだが、キャンプ地の上は傾斜のある雪の斜面となっていたので、そこでスリップして怪我をしたのだろう。私も今日は運動靴で登ったが、明日は用心して登山靴を履くことにしよう。

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2018年5月31日 (木)

ある遭難

このブログは他人に見てもらうというよりも、自分が後で読むための記録としての意味が多いので、アクセス数などはあまり気にしてないのだが、たまたま管理画面を見ていたら先週始めにアクセス数が急増しているので何でだろーと考えたら原因が思い当たった。「登山家」栗城氏がエベレスト遭難したからに違いない。というのは彼が初めてエベレストに行った後に「インチキ登山家」なる一文をブログに載せたことがあり、その後もよくアクセスされているらしいからである。
そのブログの趣旨は、彼は七大陸最高峰単独無酸素登頂を謳っているが、エベレスト以外では酸素を使用した登頂など聞いたことはないし、撮影隊を連れた登山では万一の場合には救出してもらえる可能性があるわけだから、真の意味での単独登山ではないというものである。この意見は今ても正しいものと考えてるし、ヒマラヤ登山をわかっている人からは共感を得られるものだと思うが、ひとつ想定外のことがあった。それは彼が多くの人から勇気をもらったとして称賛を受けているということであった。称賛している人のほとんどはヒマラヤ登山というものを知らない人だと思われるが、だからと言って無知な人間を騙してとケシカランは思わない。どのような方法を使ったにせよ他人に勇気を与えられたということは素晴らしいことではあると思う。
そのブログの最後に「彼の実力では、エベレストの単独無酸素は無理」と書いたが、その後の経過はまさにその通りになってしまった。凍傷で手足の指のほとんどを失い、さすがにエベレストは断念したのかと思ったら、南西壁という彼の実力からすれば、自殺行為とも思える暴挙に出るとは予想できないことであった。支援者からの期待に押し流されてしまったのであろうか
とまれ、今となっては彼の冥福を祈るばかりである。

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