海外

2021年8月18日 (水)

帰国

8月17日
未明にドバイ空港から成田行きのエミレーツ航空に乗り込む。搭乗直前に防護服を着た航空会社職員から陰性証明を中心にチェックを受ける。おいおい、もう感染者扱いかよ!陰性証明は現地医療機関発行のものだけでなく、日本政府所定の様式の提示も求められる。日本大使館に事前に相談に行って必要な準備をしてきたからよいようなもの、そうでなけれは、この段階で搭乗拒否されていたかもしれない。機内に入ると、異様なほどのがら空き状態にびっくり。どこかの国のパラリンピック選手・関係者しか乗っていなんじゃない。混雑してたら感染防止のために機内食は遠慮するつもりだったが、これじゃ堂々と食べられるぞ!それにしても、この時期に二週間の隔離覚悟で日本に入国しようとする人ってどんな人だろう

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トバイの夜景を楽しみ、夜食を終えて一眠りして、はッと目覚めて窓の覆いを開けたら、そこは夜明けのカラコルム上空であった。しかもK2が間近に見えているではないか!もう大感激であった。さらには機体はタクラマカン砂漠の上空を横切っていく。何たる絶景か!飛行機に乗ってこんなに興奮したことはない。今日は71回目の誕生日であるが、最高の誕生日プレゼントとなった。

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飛行機は日本を目指して一路東に向かう。入国時のコロナに関する諸手続き、その後の14日間の隔離と初めてのことが続くが、心配半分、楽しみ半分である。そして隔離開けの晴れて自由の身となることを楽しみに待つとしよう。

 

やがて二回目の機内食が運ばれてくる。そこでアルコールを注文するかどうかが大問題だ。アルコールを飲むと検査で陽性がでやすいということで隔離中は禁酒になっているようだが、考えてみるとビシュケクでPCR検査をした前夜もそうとは知らずにウィスキーを痛飲してしまったが陰性判定が得られたんたから、少量飲むくらいは問題ないかなと思う反面、帰国直後に行う抗原検査は⑥PCR検査よりも疑陽性が出る可能性が高いらしいので自重することにしよう。

 

空港到着後、パラリンピック組とその他組に分けられ、その他組は抗原検査、陰性証明、誓約書、健康居所確認アプリのインストール等で2時間以上足止めされる。検査結果待ちの会場に通され、これで結果を聞いてすぐにホテルに入れるのかと思ったら、さらに1時間以上待たされる。しかも一切の状況説明がない。抗原調検査は通常30分くらいで結果が出るというのにこれだけ時間がかかっているのは何故なのか。お盆明けで検査が集中しているのかもしれないが説明がないのには、ぷんぷんである。

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私が結果待ちで待機させられた部屋の人は全員が抗原検査は陰性だったようで、その後もなんやかんや時間かかかってしまい、ホテルに着いたのは着陸してから実に5時間後のことであった。

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2021年8月16日 (月)

マナス空港とドバイ空港

8月16日
当初の予定では午後発のフライトであったが、航空会社の都合で早朝便に変更となったため、前夜から空港に向かうことになった。ただ寝過ごしてはいけないという思いから一睡もできない結果となる。真夜中から各地に向かうフライトごとの行列ができるが、私の向かうドバイ行きも3時前から行列が始まる。ここでひとつ心配となったのは電光掲示板に表示されているフライト便名と私が持っているチケットデータのそれとは異なることである(ただし、日時は同じ)。変更が度重なった便なので、便名も変わったのだろうと考えたが、ちょっといやな点であった。チェ空港ックイン自体は問題なく行えたので、便名が違って表示されていたのは共同運航のためではないかと思われるが、それならそれで共同運航であることを電光掲示板かチケットのいずれかに記載すべきではないか(日本ではそうなっているはずだが)。なおドバイから成田までの乗り継ぎ便は私の誕生日である翌日の未明発であるが、その便の座席まで指定済みだったので、ドバイでのチェックインはなくなり誕生日サプライズも期待できなくなっだ(10年前にカザフのアルマトイからインチョン乗り継ぎで帰った時は、出発空港では乗り継ぎ便の座席指定がされてなかったため、インチョンでの座席指定時に誕生日サプライズとしてビジネスクラスへの無料アップグレードがされたことがあり、今回も密かに期待していたのだが)。

 

ビシュケクのマナス空港は中央アジアでは唯一プライオリティパスによるビジネスラウンジが使える空港としてプライオリティパス初体験となるはずだったのだが、チェックインに時間がかかったため搭乗時刻まで30分ほどしかなく、ほとんど行く意味もない気がしないでもないか、何事も経験だと行くだけ行ってみることにした。

 

まずは入室であるが、パスや搭乗券の確認もなかったのは拍子抜けであった。次に驚いたのは部屋があまりにも雑然としていることである。前の利用者の散らかした跡をスピーディーに片付けないからこうなるので、以前に利用したことのある成田やモスクワのビジネスラウンジでもこんなに酷くはなかった。無料で提供されるのは軽食と紅茶くらいでかなりしょぼい内容だが、たまたま徹夜で空腹を感じていたので、ないよりはましだった。

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ラウンジを出ると、ドバイ便はまだ搭乗ゲートが表示されてない。搭乗10分前でまだゲートが決まってないということはありえないことで、出し惜しみをしているのだろうか。ソ連時代の
悪癖を引き継いで利用者ファーストならぬお上ファーストの考えが続いているのだろう。
ようやく機内に乗り込むと満席であった。行きは空席が目立ったが、減便して稼働率を高める努力が効をそうしたのだろう。ただ満席状態では感染リスクを考えて食事はしたくないのでドバイのラウンジまで我慢することにしよう。

 

ドバイ空港に降り立つと改めてその大きさに驚嘆させられる。空港が大きいだけに利用できるラウンジもたくさんあるようだ。行きの短い乗り継ぎ時間の中で見つけたラウンジが場所がわかる唯一のラウンジなので、そこに行ってみる。ただ、その時は閉鎖中で中に入れなかったのだが、それから一ヶ月近くもたっており、今度は入れるだろうと思ったら、引き続き閉鎖中であった。そこで別のラウンジにむかったのだが、ネットの紹介記事ではラウンジの場所のせつめいとしてターミナルコンコースが書いてあるか、コンコースの端から端までJRの一駅分は優にあるので゜搭乗口の番号も書いてもらえればありがたかった。、

 

一駅分ほどを歩き、別のラウンジにようやく辿りつく。そこは最大4時間の滞在が可能で、そこそこの食事と無料のアルコールまでとれるというものであり、私が利用したことがある成田やモスクワのビジネスラウンジよりも勝っていると感じられた。ただ搭乗券に大きなスタンプが押されてしまうので、ラウンジをハシゴしてきたことがバレバレにはなるのだが

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次に最大3時間仮眠できるラウンジがコンコースAにあるというのでコンコースAまでの移動手段である電車の発着場に行ってみた。ところが電車はいつまで待っても来る気配がない。ここでハット気付いて出発便一覧のボードを確認して納得する。現在コンコースAは閉鎖されているのだ。コロナに因る減便のためであることは間違いない。これでコンコースAにあるラウンジは利用できないことは明らかになった。

 

残るは第一ターミナルにあるラウンジにどうやって行き着くかであるが、ネットでは両ターミナル間は歩いていけるとは書いてあるもののその具体的な方法を記述したものはなく、第三ターミナルにおいて第一ターミナルへの誘導マーク等は一切ないので、第一ターミナルには事実上は行くことはできいと判断される。となると、まだ利用してないラウンジは一カ所が残されているに過ぎず、とてもラウンジのハシゴをするというわけにいかず、ドバイ空港滞在時間約18時間の大半を無駄にすごさざるをえない。

 

こんなことなら、空港で簡単にビザが取れるそうだから、市内に出て世界一の建物を見にいった方がよかったかなとは思う半面、乗り継ぎではないことになると、出発時間の遅れによっては陰性証明の効力にも影響しかねないかもしれないので、自重したのはやはり賢明であったと言えるだろう。

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キルギス最終日

8月15日
いよいよ旅の最終日だ。陰性証明も土産も手に入れて、外には特にやるべきことはない。唯一困ったことと言えば、現地通貨が日本円で1万円近く残ってしまい、これを使い切らなければならないことだ。それにはもう一度オシュバザールに行くことだが、乗り込んだバスが途中で故障してしまい、乗り換えようと思ったら、手持ちの小銭がなくなり、タクシーに乗ろうと思ったら近すぎるためか乗車拒否されてしまった。歩いて行けばいいようなものだが、あいにくの雨降りでザックの中にはパソコンやカメラといった濡らしてはいけなものもあり(一応、ビニールて包んではあるか)、カフェで雨が小降りになるのを待つことにした。

 

なかなか止まないので雨の中を歩きだしたら、バザールはすぐであった。ただ、先日いった土産物がひしめき合っている一帯には辿りつけない。あちこち探し回っていると、大きな建物の周囲にテントの屋根のようなものが張り巡らされた所があったので近づいて見ると、先日いった土産物屋の集まっている一帯であった

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お土産を買い足して、お昼を食べに市の中心部に移動する。現地通貨が余っているので、タクシーを利用することにした。いくらか聞いてみると200ソムだという。距離的にみて明らかにぼられている。だが、金持ち喧嘩せずで値切らなかった。それで相手も拍子抜けしたのか、レストランの入り口まで案内してくれるサービスぶりであった。

 

旅の終わりは中央アジア料理ということでネットで検索したお店を選んだのだが、食欲が今ひとつだったこともあり、あまり油っこいものは避け、「困った時のラグマン(うどんに似た味)」でいくことにした。食後に少し足を伸ばしてマナス王というキリギスの英雄叙事詩の主人公の碑を訪れることにした。ビシュケクという街はソ連時代に作られた新しい街で歴史的建造物らしきものがない中で例外的な観光名所ということで訪れようと思ったが、私の古いガイトブックに記載してある場所にはそのようなものは見当たらないのである。次の用件もあり、あまり時間もなかったことから、あきらめてタクシーでホテルに戻る。

 

次の用件というのはランニング仲間とのZOOMによるオンライン飲み会である。私にとっては久しぶりに日本人にあって、日本語を話せたというのが収穫であった。ただNHK+は毎日見ていたし、ブログも日々更新していたので、日本語に飢えているという感じはほとんどなかった。チェックアウトは朝済ませていたのでロビーの隅でzoomをおこなったため電波が弱かったためか、映像かしばしば中断した。

 

その晩の9時に空港に向けてホテルを発つ予定なので、それまでの間に近場で夕食をとることにした。ビシュケク到着初日に行った店にまた行ってみようと思ったのだが、道を一本取り違えたために辿りつけず、結局別の店に行く。ケバブの文字に惹かれてはいったのだか、店の名前はイスタンブールでキリギス料理でなくトルコ料理専門店だった。広い意味では同じトルコ文化圏内だから、まあいいか。帰りに公園を通って帰ったら、なんとそこにマナス王碑が君臨しているではないか!なぜここにあるのか理由は不明ながら、ここで見ることができてよかった

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ホテルに戻ってから空港まで小一時間をホテルの車で送ってもらった。千円以上の支払いは覚悟していたが、代理店から支払い済みのようで新たな支払いは求められなかった。空港でも若干の買い物はしたが、日本円で七千円相当の現地通貨が残ってしまった。ただここで無駄な買い物をして使い切るのではなく、そのまま残しておくことにした。というのは、今回はコロナ禍で陸路による国境越えが困難なため、キルギス国内だけの移動に止めたか、コロナが収束した時点での隣国タジキスタンへの国境越えを考えており(アエロフロートの3年間有効のチケット代金も残っていることだし)、今回の余った現地通貨はその時に使えばいいのだから

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2021年8月15日 (日)

PCR検査

8月14日
いよいよ運命の日であるPCR検査の日である。結果もさることながら、まずは検査がうけられるかどうかが第一のハードルである。受付で予約済みとの文言のロシア語訳を表示したタブレットを見せると、別の受付場所の建物の外にに連れていかれる。何人かの先客がいるが、順番がどうなっているのかがわからない。適当な時に受付の建物の中に入ると、パスポートの呈示を求められ、いくつかの質問が行われる(もちろん、翻訳アプリを介してだが)。その中に電話番号というのがあった。そこでスマホの番号に国別番号をつけたら、海外の番号はダメだと言われる。弱ったなと思ったらホテル名でもいいことがわかった。実際問題として、スマホにロシア語で連絡事項が来ても対応できないんだけどね

 

いよいよ、その後は隣の部屋で献体採取に移る。日本では唾液によったが、こちらでは鼻と喉の粘膜の採取だ。奥の方に細い棒を突っ込まれる時に一瞬だが違和感はあるが、唾液の場合は必要量を集めるのがなかなかたいへんなので、一概にどちらがどうとは言えない。これで今夜には結果がでるそうだが、ワクチン接種済みでるし、他人との濃厚接触は避けてきたので、陰性は間違いないとは思うものの、万一ということもあるので、不安が全くないわけではない。

 

その後は昨日は素通りしたオシュバザールで土産物を買う。全く迷路のような所に夥しい数のお店が集まっている。一割くらいしか値引きしてくれないが、元々高価なものを買うわけではなので言い値に近い値段で買う。時間があればまた来てみよう。

 

バザールから少し歩いた先からトロリーバスに乗って市南部のファイザーというレストランに向かう。何やらワクチン製造会社名みたいな名前でPCR検査結果を前にしてゲンカツギみたいな気もするが、地元料理店としてはビシュケク一の人気店だそうである。ビシュケク初日の日も捜したのだが、古いガイドブックに載っている場所からは移転したようで、今回ようやく訪れることができた。

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注文したのは一番人気のブロフである。炊き込みご飯とチャーハンをミックスしたような料理で中央アジアで広く食べられている定番料理である。さすがに人気店であるだけに空席か出来ると廊下で待っていた人がすぐに座ってしまうという状態である。私も長居せずに店を出る。

 

帰りもまたトロリーバスに乗る。ビシュケク市内の主要な交通機関は路線タクシーのようであるが、路線番号がわかってないといけないし、小回りかきくだけにどこへ連れていかれるかわからなという不安もあるし、使いやすさの裏返しで、どの車も密状態というのも、利用には二の足を踏まざるを得ない。それに対してトロリーバスは電線が必要なため幹線道路しか走らないので、GPS対応地図で路線が違ったことがわかれば、次の停留所で降りて戻り乗り換えるだけである。なにしろ料金は8ソム(約10円)なのだから。ただひとつ難点は車内だとGPSの効きが悪くなって地図上の現在位置がわかりにくくなることである。これに対してはスマホとタブレットの両方の地図を開いて現在位置の信頼性の高い方をとることによって対応せざるを得ない。。

 

ホテルの近くの停留所で下車し、食料と酒を買ってホテルに向かう。今晩はNHK+でもみながら夕食をとり、PCR検査発表前の「最後の晩餐」を迎えることになる。やがて定刻となり、至近距離にある医療機関に向かう。当然のことながら陰性判定だったが、これで日本に帰れると思うとやはり嬉しかった。夕方からしこたま飲んではいるのだが、お祝いということで、帰り道でさらにビールの小瓶を買ってしまった。
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2021年8月13日 (金)

カラコル

8月13日
今日はイシク・クル湖の東端よりもさらに東よりの山岳地帯にあるカラコルを目指すということで7時にゲート前で落ち合うことになっている。ホテルの朝食は8時からとなっていて間に合わないので、昨夜のうちにランチボックスを頼んでおいた。ところが7時近くになってもロビーのカウンターには係員が現れるないので、しびれを切らしてホテルを出てしまった。

 

走り始めて間もなくしてチョルボン・アタの街に入り、お店がたち並びホテルも散在している。普通ならああいう所に泊まるはずなのに何故プライベートビーチのホテルを予約してあったのかが不思議である。

 

車がカラコルに近づくと天山の高峰も見えだししてきた。運転手
は何故私がカラコルに行きたがってるのか不思議がっていたので次のように説明しておいた。「10年前にカンテングリ山をカザフスタン側から登山したので、今度はキルギス側から見てみたいのでカラコルに行きたいのだ」と。ただカラコルからカンテングリが果たして見えるのかどうかについては自信はなかった。

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カラコルの手前まで来た時に山の合間からカンテングリとおぼしき山が姿を現した。方角的にもピラミダルな形からしてもカンテングリであることを確信したが、すぐに前山に隠れて二度と姿を現さなかった。カラコルは比較的大きな町で、たくさんあるお店の中から適当なカフェを選んで遅い朝食を摂る。また銀行もいくつかあったので両替もしておく。

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後はビシュケクに戻るだけなので、当然同じ道を戻るのかと思いきや悪路だと嫌がっていた湖南側の道を進んで行くではないか。これでカンテングリをもう一度見て写真をとるチャンスは失われたが、雲が厚くなってきたので、あのまま戻っても見られなかった可能性は高いと思う。今回は山国キルギスで南のパミールと北の天山の両方見られただけでも大満足であった。

 

湖南側の道は全然悪路ではなく、むしろ北側を走っている時よりもスピードを出しているようだった。想像するところでは、カラコルは遠いためできれは行きたくなかったので方便をついたが、来てしまった以上は客の希望を聞いてやりたいと思ったのかもしれないし、実際問題としてカラコルからならば南側の方が早いという面もあっただろう。

 

やかてイシク・クル湖を離れると湖の南北の道は合流して一路ビシュケクを目指すことになり、私のキルギスの旅もフィナーレが近づいてくるようだ。

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2021年8月12日 (木)

イシク・クル湖

 

08月12日
今日から二日間の予定でソ連時代は外国人立入禁止で「幻の湖」と呼ばれたイシク・クル湖に行く。本来は登山終了後は隣国タジキスタンに足を伸ばして、アフガニスタンとの国境地帯であるワハン回廊に行きたかったのだが、コロナの影響で陸路の国境越えは困難が予想されるために予定変更となったものである。

 

初日はイシク・クル観光の拠点となるチョルボン・アタで泊まり、翌日は湖の東端から少し上がった所にあって天山登山の基地となるカラコルまで足を伸ばした後にビシュケクに戻るというものである。チョルボン・アタまでは路線バスが頻発しているようであるが、途中寄り道してみたいプラナの塔は路線バスは素通りしてしまうようなので、行きだけは車をチャーターして翌日は路線バスで帰ってくることも考えていた。ただバスの混雑状況がわからず、PCR検査を翌日に控えて密環境の中で万一感染でもしようものなら何にもならないので、翌日もチャーターすることにした。またカラコルからの帰り道は同じ道を行くのは芸がないので、湖の南側を通っていくことを考えていたが、運転手から南側の道は悪路だという懸念も表明されたので帰りも湖の北側の道さを行くことにした。先日のベースキャンプまでの道ほどの悪路ではあるまいとも思われたが、格別南側の道に固執する理由もなかったからである。

 

車は市街地を抜けて田園地帯を走ってしばらくすると、急に路肩によって停車した。パトカーに停車を命じられたからのようである。スピード違反かなにかのようである。運転手が拘束されることさへなければ多少の遅れは構わないが、前途多難の船出である。運転手は警官の差し出す書類に次々とサインして握手を交わしていたから、これで一件落着のようである。車に戻った運転手は何の説目をするでもなく、素知らぬ顔でまた走りだした。まあ説明をされても多分私は理解できないだろうが

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その後、車は幹線道路から外れて南下し、プラナの塔を目指す。プラナの塔はシルクロードの往来が盛んであった頃には旅人のよき道しるべになったであろうと思われ、塔のてっぺんに登って四方を見渡すと、千年も昔に戻った気がしてくる。観光客もそこそこ来ており人気スポットのようてある。

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次におとずれるのはアク・ベシムという仏教遺跡である。ガイドブックには現地の人には知られていないと書いてあったが、本当に運転手は知らないという。私のGPS対応地図には載っているのだが、運転手の地図には載ってないようだ。そこで私がナビゲーションしていくことになり、左右に曲がる指示を出しながら進んでいったのだが、運転手も私の指示だけで進むことには不安を感じたのか、通りすがりの人に道を尋ねて、進行方向に目的地があることを確認してから安心して前進を続けた。

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ほどなく遺跡の横に到着したが、発掘現場がそのまま残っているような状態で他には観光客はおろか地元の人もいなかった。仏教と多少なりとも接点のある日本人にとっては玄奘三蔵も訪れた場所ということで馴染み深いものであるが、異教徒にとっては何の感心もない地なのであろう。そういえば以前にパキスタンのガンダーラ遺跡のひとつであるタキシラを訪れた時も、観光客は全くおらず、地元の子供達に付きまとわれたことがあったっけ。

 

その後、日本の道の駅のような所で昼食をとる。エージェントからの料金内訳にはツアー料金は食費込みとなっていたので、ホテルに着いてからの食事となると空腹となるかもしれないと思い、後部座席で早弁をしていたのである。そしてビュッフェスタイルで運転手があれもこれもとすすめるにもかかわらず最小のものしか頼まなかったので、えらく少食の奴だなと思われたかもしれない。

 

車はやがてイシク・クルの湖畔を通るようになり、天山の山並みも遠くに見えるようになる。イシク・クルはあまりにも大きいので海のようである。チョルボン・アタの少し手前で車は左折し、鉄の扉が閉ざされた所で停車する。どうもセキュリティの厳しいプライベートビーチの中に今夜のホテルはあるようだ。一人で来るには場違いの気もしたが、乗りかかった舟だからやむを得ない。
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夕食は「オンザビーチ」と言われるが、海に突き出た所にあるホテルなのでビーチはひとつではない。どこのビーチだかわからないが、一番可能性のありそうなビーチに行ってみる。それにしても、まさか砂浜で車座になって食べるわけではないだろうしと思ったら、砂浜の端にレストランがあったので、多分あそこだろうと思っていくと当たりであった。それならば「砂浜のレストラン」と言ってもらえればわかりやすかったのに
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帰国準備

8月11日
今日は一日フリーなので市内見物を兼ねて帰国に関わる手続きの準備にとりかかった。まずは日本大使館に行って日本国の入国者へのコロナ対応の確認を行うことであった。大使館までは歩いて小一時間の距離なのでタクシーでもただみたいなものであるが、時間の制約はないので、街の様子を知るために歩いていくことにした。
 
大使館へは迷うことなく着いたが、大使館員の対応に一抹の不安がなかったわけではなかった。というのは私が若い頃は大使館員の目はビジネスマンのみを向いており、いわゆるバックパッカーに対しては冷たい態度をとっているということを聞いたこどが
あるからだ。  
 
今回は事前予約もなしに訪れたのだが、対応にあたってくれた若い一等書記官はきわめて親切に応対してくれた(彼の父親と私が同年輩であることも幸いしたかもしれないが)。その結果、日本出国前に確認していた10日 間の強制隔離とその後の4日間の自宅隔離の方針には変更がなく、ワクチン接種完了者に対する特例措置も特に取られていないことが判明した。最大の収穫は陰性証明の取得に際して、日本国が作成している書式に書いてもらえれば、日本入国時にスムーズに手続きが進むことが判明したことである。 

 

その後は、大使館近くの日本料理店で特上の寿司を食することにした。日本人オーナーが経営する店だけにまがい物ではなく本物の味を堪能することができた。写真の内容にデザートまでついて日本円で約2500円というお値打ち価格である。手持ちのソムはあるのだが、試しに昨日キャッシングしようとしてPINコードではねられたクレジットカードでの支払いに挑戦してみた。カードリーダーに暗証番号を入力して無事に決済は完了した。PINコードと暗証番号は違うのであろうか。疑問は解決しないままであった。  

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その後は、さらに歩きでビシュケク最大のマーケットであるオシュバザールに出かける。大使館の人からもスリには十分気をつけるように言われていたが、重要な物は胸のところで抱えるようにして首からぶら下げており、仮に背中のサブザックに切り付けられて中身を盗まれても実害はほとんどない状態だったので、安心して通ることができた(サブザックを切り付けられても予備はあるし)。バザールは広範囲にわたっており、食料品のエリアと衣料品のエリアに分かれている。今日は時間がなかったので通過しただけだったが、帰国着前に再度訪れて後者のエリアで土産物を見ていくことにしよう。また前者のエリアではベースキャンプではかなわなかった馬乳酒も買い求めてみたい。

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最後はPCR検査をしてもらう医療機関で検査の予約をすることであった。ホテルから医療機関までの地図はもらっていたのだが、途中からその地図に入ることは難しく、かなり長時間歩いていて熱中症のリスクもあるため、一度ホテルに戻ってしばらく休んでから出直すことにした。

 

仕切り直しでホテルから医療機関を目指すと、たいして迷わずに5分くらいで辿り着けた。今日は単なる予約だからすぐに終わるかと思いきや医療機関でのやり取りに30分以上の時間を要してしまった。一つには先方はロシア語、こちらは日本語以外は
堪能でないので、両言語間の翻訳ソフトを使って意思疎通を行うのだが、ソフトの不備から意思疎通がうまくいかない時は英語を補助的に使うというややこしさがあるほかに、先方は私の出国日時と日本国の検査対象時間(出国前72時間以内の献体採取) にについて確認したがっていることが、だんだんわかってきた。

 

とりあえず予約だけは済ませたので、ホテルへの帰り道にあるお店でビールとチーズ、ソーセージを買って、昨日の残りのウィスキーを併せたもので、今夜の夕食代わりとすることにした。今日のお昼は現地の感覚からすれば豪華の部に入るかもしれないが、夕食代はなんとその一割程度で済ませることになってしまった、。

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2021年8月11日 (水)

ビシュケクにもどる

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8月10日
本日はビシュケクに戻るだけで一日を使ってしまい、ちょっ近くともったいない気もしたので、当初は陸路で絶景を楽しみながらいくことも検討した。ただ乗合自動車だと乗客が集まってからの出発となるため、ビシュケクに着くのは深夜になるようだし、長時間密になると感染リスクも高まるので、小一時間でひとっ飛びできるフライトを選択することにした。その時はたかがフライトでこんなに苦労するとは思いもしなかった。

 

午後のフライトでお昼頃にホテルを出ればいいため午前中は時間が空くので、オシュ最大の観光地と言える大シルクロード博物館に行ってくることにした。その前にパミールのBC~ABCへの馬代の支払い等で現地通貨のソムの手持ちがわずかになったので、ホテルの近くにあった銀行でユーロを両替することにした。ユーロの小額紙幣の合計が45ユーロあったので両替しようとしたら、小額の両替は両替屋でやってくれというので、最低の両替はいくらからかと聞いたら、たった5ユーロしか違わない50ユーロからだというので、50ユーロ紙幣を取り出して両替をしてもらう。

 

銀行から出て大シルクロード博物館まで小一時間を歩いていくつもりだったが、タクシーが何台も止まっている。日本の感覚からすると、二千円くらいかなと思われるが、ここはキルギスなんだから500円以下ならいいかなと思って、いくらで行ってくれるかとメモ帳に書いてもらう。そしたらなんと100ソム、日本円で約80円という信じられない値段である。ただ、こちらの人の1という字の書き方は縦棒だけてなく、縦棒の頭から斜め棒線が左下にも伸びるというものである。以前カザフで世界遺産を訪れるために車を一日チャーターした際に、いざ支払いとなってからその字をめぐって100ドルか200ドルかで揉めて喧嘩になり、150ドルて決着したことがあったが、今回は100ソムだろうが、200ソムだろうがどうでもいいことである。

 

地図で示した地点について支払いをする時は100ソムて問題なく終わった。ただ降りた地点にはモスクはあるが、中はがらんどうで博物館ではないようだ。近くを通りかかったアベックにガイドブックの写真を見せると、もう少し先の方だという。そこで行ってみると果たして博物館はあった。ただ展示内容は石器や土器といった古代の生活用具の展示だけで何が文明の交流を表すシルクロードなのかという気がして看板に偽りありという気がしないでもなかったが、スレイマー山という神秘な岩山とセットになっている博物館ということで許してあげよう。

 

博物館から道路に降り立った所にバス停がありベンチもあったので休んでいると、たまたまバスがやってきたので乗り込んでしまう。方角的にはホテルの近くまで行くのは間違いないと思われるが、料金がいくらかということはわからなかった。ただ他の乗客に小銭を見せれば教えてくれるだろうと思って乗り込んだら、が車内に10ソムと書いてあった。ただ乗り込んだ瞬間にバスが動いたのでバランスを崩したのが、他人から見るとよろめいたように見えたのかも知れず、目の前に座っていたどう見ても私より高齢のおばあさんから席を譲られそうになった。さすがにそれはないだろうと思ったら、少し離れた座席の若者が席を譲ろうとしてくれたので、そちらに座らせてもらうことにした。そんなに私は老人に見えるのかと心外ではあった。

 

バスはホテルの少し先で止まり、そこからホテルに戻って、しばらくして空港までの送迎サービスを利用してチェックインを済ませてからゆっくり昼食を摂ろうという思惑は空港に着いてみて、脆くも崩れた。なんとエージェントからもらったEチケットに記載されているフライトが電光掲示板には載ってないのである。職員に聞いてもらったりしても、あちこちをたらい回しされるだけで解決にはむすびつかなった。

 

エージェントに電話して善後策を検討するのが最良だとは思ったのだが、なにしろヒアリングが苦手なこともあり、たまたま空港内ではフリーwifeが通じていたので、状況を報告して対応をお願いすることがベストであると考えた。ただ状況をそれほど悲観的には捉えていなかった。なぜならば夕方から夜にかけてビシュケク行きが五本あるためエージェントが動いてくれればどれかの便に潜り込ませてもらえるだろうと思ったからである。それに最悪の場合は、翌朝発の陸路という手もあるし・・・ 

 

エージェントからの返信メールがなかなか来ないのは対応に当たってくれていて、その解決に時間を要しているからだろうと勝手に考えていて、夕方のフライトまではしばらく時間があるので、自分で新たにチケットを購入しなければならなくなった時に備えて、普段やったことのないキャッシングの練習もしておこうと空港内のATMで試したところ、PINコードが違っているのか、なかなかうまくいかなかった。ちょうど私と前後してATMで手続きをしていた欧米人の旅行者が片言日本語で手伝いを申し込んできたが、正しいPINコードがわからない以上は対応不能と思われるので申し出は断わざるを得なかった。

 

ところが、その旅行者がしばらくして戻ってきて、私にカードのことをいろいろと尋ねてくる。どうもキャッシングの後にカード返却手続きをせすにATMを離れてしまったためにカードが行方不明となってしまったが、私が彼のカードを不正取得しているかもしれないと疑っているようであった。とんだ濡れ衣であるが、身の潔白を証明するために手持ちのカードを全て見せることによって、疑いを晴らすことはできたようである。

 

なんだかんだしているうちに夕方のビシュケク行きのフライトされなかっ時刻が迫ってくるし、エージェントの事務所の電話も5時を過ぎると通じなくなるかもしれないと意を決して電話してみる。担当者に通じたので、拙い英語で私のメールを読んでくれたかを聞いてみると、まだ読んでないという。そこで、読んでから返信メールを送ってもらうように頼んだ。しばらくすると返信メールがあり、20分後くらいのフライトに乗るようにとのことである。そんな短時間で手続きができるかどうか半信半疑だったが、やってみると嘘のようにスムーズに事が運び、無事に機内の人となるかとができた。

 

何故eチケットに記載されているフライトが電光掲示板には表示されなかったかについては不明なままだったが(通常なら欠航等の表示がでるであろうに)、済んだことは詮索せず「終わりよければ全てよし」でいくことにした。ツアーならばありえないことだが、自由旅行ならばトラブルは日常茶飯事だし、それだからエキサイティングな自由旅行はやめられないとも言える。

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2021年8月10日 (火)

オシュにもどる

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8月9日
前日に取り損ねた朝焼けのレーニンの写真を撮ろうと入念に準備してなんとか撮ることができた。これで心残りなく、ベースキャンプを去ることができると思ったら、実際にベースキャンプを出発したのはなんと3時だった。その代わりにトイレ休憩はとらずに4時間で飛ばしてオシュの街におりたった。朝晩はまだ真冬の気候の世界から真夏の世界に一気に移ることになった。 

 

オシュのホテルでは二週間以上の分のメールをチェックするのに1時間以上かかったし、同じくらいの期間浴びることができなかったシャワーを浴びてサツパリすることができた。その後は近くの中華料理店で中華料理を肴にビールで一人乾杯をした。

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2021年7月24日 (土)

オシュに移動

今日はパミール山脈の玄関口となるキルギス第二の都市であるオシュ(とぃっても私の住んでいる杉並区の半分ほどの人口しかないが)に移動する。乗合タクシーだと丸1日近くかかるが、飛行機だと小一時間の移動で済んでしまう。標高はビシュケクをやや上回る程度なのでやはり暑い。ビシュケクがキルギス族主体なのに対して同じモンゴル系ではあるが、ウズベク族主体であり、両者は争いが絶えないらしい。それならばウズベキスタンに編入されてしまえばいいように思うが、そうもいかない事情もあるに違いない。

 

ホテルに荷物を置いて昼食に出かける。地元の人がそこそこ大勢入っている店があったので、うまい店に違いないと入ってみる。ところがメニューがロシア語のキリル文字でしか書いてないので、さっぱりわからない。弱ってしまったが、しばらくして名案が浮かんだ。スマホに入っている翻訳ソフトがカメラで取り込んだ文字の翻訳もしてくれることを思い出した。英語の外、いくつかの言語はオフラインでも使えるが、ロシア語もその中に入っているのはラッキーだった。

 

さっそく使ってみると、ラグマンと翻訳される料理があった。中国シルクロードの新疆ウィグルと呼ばれる地方を旅行したときに良く食べた料理である。焼きウドンのような感じで日本人の口に合い、どこの店でも食べられたので、「困ったときのラグマン」と名付けていた。ここオシュは中国シルクロードとの国境線も近いだけに料理にもその影響があるのだろう。

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昼食後に少し寄り道して、オシュゲストハウスに行ってみる。キルギスを訪問するバックパッカーが必ずお世話になる所で、去年レーニン峰を計画した時には、登山終了後にそこに荷物を置いて、隣国タジキスタンにも足を伸ばすつもりだったが、コロナ禍の今は国境越えはハードルが高いので、今回は断念した所である。ところが、その標識までは辿りつけたのだか、公団住宅のような建物には入口が四つあり、どこがゲストハウスの入り口なのかはわからず仕舞いであった。帰りは路地裏を通ってきたが、お店にはシルクロードらしく果物が満載である。スイカのように見えるのは瓜だそうである。街中からはオシュの景観として名高いスレイマー山も見えるが、この暑さでは登る気も起きない。

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夕食には昨日行き損ねた中華料理店に入る。麻婆豆腐を注文したが、出来ないというのでチンジャオロースに変えたものの、物凄い量で食べきらずに残してしまった。

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前回のブログでドバイに入国せずに済むので、帰国後の隔離が緩和されるかもしれないと書いたが、これは間違いで、キルギス自体がデルタ株流行地に指定されていて、しかもドバイよりも重い十日間の施設隔離(及びその後の四日間の自宅隔離)となっていることが判明した。マスクをしている人が少ないために感染が抑えられているかのように錯覚してしまいがちであるが、キルギス全体でも東京都の人口の半分以下であるにもかかわらず、東京都とほぼ同じ人数の感染者数があるのはたしかにすごいことである。ワクチン接種済みの自分の感染リスクはほとんどないと思われるが、用心をこしたことにはない。もっとも十日間の施設隔離はそんなこともおるうかと、仕事用のノートパソコンまで持参してきているので全く影響はない。強いて云えば、その間は酒が買えないのが痛いだけであるが、キルギスで購入して荷物の一部として運んでくる方法はある。二週間の登山期間中は高山病予防のために禁酒となるので飲酒の習慣はなくなってしまうかもしれないが

明日からはネット環境はないようなので、2週間程度は投稿はできなくなる見込みです。

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